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中国美術展(16)「中国国宝展」鑑賞記Part2

1 概要

 平成17年1月18日から3月27日の会期で、国立国際美術館(大阪・中之島)において「中国国宝展」が開催されました。
 平成17年1月29日(土)の「中国考古学の新発見」という記念講演会、2月11日の関西オフ会のレポを兼ねてご報告します・・・・・の第2部。


2 考古学の新発見 一 新石器時代後期〜戦国時代

 
展示会全体は、「考古学の新発見」と「仏教美術」という2コーナーに分かれている。

 それでは、目についたものを適宜紹介する。


(26) 兕觥 西周・BC11〜BC10世紀

 河南省鹿邑県長子口墓出土。
 兕觥(じこう)とは、青銅器ゼミの資料では、「盛酒器」、つまり酒の容れものとされている。
 簡単にいうと、高級なカレー屋でルーをいれている容器に動物型の蓋がついたものである。身の部分は、というと同じく青銅器ゼミの資料では「水器」とされている「匜」(い)に似ている。

 蓋の鈕(ちゅう)のところに龍がとぐろを巻いた蟠龍文が施されている。全体に装飾はあっさり目。
 顔も、きのこ形の角もなかなかかわいい。

(28) 方尊・杓 西周・BC11〜BC10世紀

 同じく長子口墓出土。
 とは酒を蓄えておく器である。詳細は青銅器ゼミ資料参照。

  胴部には大きく饕餮文(とうてつもん。詳細はゼミ資料参照)が施され、口近くには虁龍文らしきもの、また、地文として雷文で埋められている。
 肩部には四隅に象、各辺中央には角のある犠首。

 汲み出す杓が尊の中に置かれていたそうだ。
 杓の容れもの部分も方形。柄の先端に欠き取りがあり、そこを尊の口のところに引っ掛けたのではないかと考えているらしい。
 ぐんままさん曰く「ラーメン丼の縁に引っ掛けられるようになってるレンゲみたいなもんやね」。・・・・・おっしゃるとおりでございます。
 宣和堂さんもおっしゃっていたが、容れもの部分の底に柄が直角にくっついており、かなりすくいにくかったものと思われる。

(谷課長の講演より)
 本墓が長子口墓と呼ばれるのは、出土品の多くに「長子口」という銘があるから。
 (前述の)54号墓の出土品には「亜長」の銘があり「長」一族の墓と考えられるから、その子孫とも考えられる。

 長子口墓は、西周初期に造営されたものと考えられるが、埋葬されていたのは人骨から判定すると60歳前後の男性。

(1) 身分の高い人の墓からしか出土しない兕觥が出土している、
(2) 16名もの殉葬者がいた、
(3) 商の支配層の墓に特徴的な方斝・方尊などが出土している、
ということから、周が商を滅ぼした時期に関連のある商の貴族の一人ではないかと考えられる。

 『史記』には、商の紂王には異腹の兄微子がおり、周の武王が紂王を倒し、微子を宋国の王に任じたとある。
 長子口墓は、ちょうど宋国の位置にある。
 また、「長子口」は「微子開(啓)」と字形や発音が近い。もし、この長子口墓が微子の墓だとすると、中国の歴史書の登場人物で墓の実態が明らかになった最古の事例ということになる。



(29) こつ盉(逨盉) 西周・BC8世紀

 陝西省宝鶏市眉県楊家村出土。

 ここで出土した青銅器の作者を示す字は、これまで(らい)と呼ばれてきた。私が以前聞いた松井先生の講演でもそうだったが、今回の展示では中国側論文に基づき「こつ」(漢字は「十」を三つ重ねて「大」をつけて・・・・・とにかくややこしくて、表示できない)と呼ぶらしい。よって、「こつ」と「逨」は別字ですが併記しますのでお間違えのないように。

 (か)は、酒を(温め)注ぐ容器で、急須、薬罐に似た形のもの。春秋以降は提梁(やかんのツル)が付くタイプが増えるが、これは後部に把手が付く古いタイプ。(ゼミ資料参照)

  本器は扁壷のような形(ゼミ資料参照。『図録』解説では、「小太鼓を立てたような形)をしており、胴部中央には、龍がとぐろを巻く蟠龍文。それを重環文のような文様が囲み、さらにそれを、「円文眼文)を中心にして、両側に三角形にデザインされた竊曲文」が囲む。これは、私が青銅器ゼミで担当した竊曲文簋の圏足部分のデザインと同じである。(各種文様については、ゼミ資料参照)
 前回のレポで紹介した商代の觚にも使われていたデザインである。

 蓋は鳥。注ぎ口や把手、そして把手と蓋を結ぶ部分も神獣のような造形になっている。

 注ぎ口先端は最初からそうなのか、出土後磨いたのかわからないが、鋳造当時の色なのか、新品の10円玉(又はタバスコで磨いた10円玉)みたいな色を残している。うそ臭く感じられるほど鮮やかな色である。

  チラシ表面参照。
 



(30) 四十二年こつ(逨)鼎 西周・BC8世紀

 楊家村出土。

 この鼎も色が非常にきれいである。『図録』の解説では「穴倉が崩れずに保たれ、土に埋まることがなかったためか、錆が少ない。錆びる前の青銅器の本来の色をよく残している貴重な資料」とある。

 2003年1月19日、楊家村で農民が鍬をふるっていると、土がぼかっと崩れて穴倉が現れた。中にはたくさんの青銅器があったが、その農民は正直に役所に届け出て、本格的に発掘調査が始まり・・・・・というのがこれら楊家村青銅器。

 『図録』では、「身は平たく、やや下膨れであり、胴部には波形を主体とする文様」が西周後期の青銅器の特徴だとしている。
 足は上部に饕餮がついた獣足で、これも西周後半以降の特徴である。

 銘に「四十二年」という年代が入っているが、これは、その当時の王(宣王)の在位四十二年目ということで、『史記』の記述によればBC785年となり、製作年次が明らかな青銅器としては最古の部類となるとのことである。

 公式サイトのミニギャラリー参照。

 

(31) こつ(逨)盤 西周・BC8世紀

 楊家村出土。

 盤の内底に約370字の銘文があり、中華人民共和国成立(1949年)後出土した商周時代の銘文としては最も長文とのことである。
 『図録』では、さらに伝世品を加えると最も長文は約480字であるとしている。なお、その器は毛公鼎と呼ばれるもので、台北の故宮博物院に所蔵されている。

 銘文については、『図録』の内底の写真に写っている。
 右端からいくと、こつ(逨)曰、丕顕朕皇高祖単公、「走+亘」(かん)々克明哲厥徳、夾召文王・武王、撻殷、膺受天魯命、敷有四方。・・・・・などと読めるようだ。
 1行目の真ん中あたりの「高祖単公」はわかりやすい。また、オフ会の時も、2行目上の方の「文王・武王」のところは「読める!読める!」と評判だった。あと、2行目最後の辺、横棒4本(四)と「方」も読みやすいだろう。

 で、このこつ(逨)盤の銘文の重要な点は、冒頭にもあったように、この青銅器を作らせたこつ(逨)が、自分の先祖がどの王に仕えたか、系図のように延々と著述しているところである。
 なお、その関係は、以前の松井先生の講演録で表にしたので省略する。 



(32) 叔五父匜 西周・BC8世紀

 楊家村出土。

 (い)とは水を注ぐための器(ゼミ資料参照)で、しばしば盤とセットで出土する。
 銘文の「叔五父」が誰かは不明だが、こつ(逨)盤とセットで出土したので、同一人物である可能性も高い。

 把手も足も龍を象っている。



(34) 単五父壷(ぜんごほこ) 西周・BC8世紀

 楊家村出土。

 酒の容れものであるで、横断面が隅丸長方形のタイプ。

 口部近くに二段にわたり小刻みな波形の文様。胴部上半分には大振りな波形。
 首部には頭をもたげた龍を象った把手が一対付き、それぞれ遊鐶がさがる。
 胴部下半分には、大きな龍がダイナミックに身体を絡み合わせるリズミカルな文様が施されている。

 単叔鬲(ぜんしゅくれき)とは大阪会場では展示されていなかった。
 銘文の単五父や単叔も、こつ(逨)の異称ではないかと考えられている。

  音声ガイドの4番目。

 



 西周代の途中だが、ここでいったん切ることにする。

 

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