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中国美術展(15)「中国国宝展」鑑賞記Part1

1 概要

 平成17年1月18日から3月27日の会期で、国立国際美術館(大阪・中之島)において「中国国宝展」が開催されました。
 平成17年1月29日(土)の午後2時から東京国立博物館 列品課長 谷豊信氏による「中国考古学の新発見」という記念講演会もあったので、その内容も含めてレポートいたします。
 また、2月11日に、関西オフ会で、宣和堂さん、さとうさん、kayさん、永一さん、ぐんままさん、師走さんとともに鑑賞しましたので、そのレポを兼ねてご報告します・・・・・の第1部。


2 考古学の新発見 一 新石器時代後期〜戦国時代

 
展示会全体は、「考古学の新発見」と「仏教美術」という2コーナーに分かれている。

 前回の「中国国宝展」(大阪では開催されなかった)は、1995年までに発見されたもので構成されていた。
 今回は、95年以降、最近までの「新発見」で構成されているそうである。

 それでは、目についたものを適宜紹介する。


(1) 玉人 新石器・BC3500年頃 

 安徽省含山県凌家灘(りょうかたん)遺跡にて出土。
 (私は借りていないが)音声ガイド対象No1。また、文物名の前の番号は出品目録(図録)の作品番号。(以下同じ)

(谷課長の講演より)

 「玉」は、軟玉(角閃石族の鉱物)と硬玉(ヒスイの類。輝石)に分かれる。中国人が古来愛好してきたのは軟玉で、17〜18世紀にビルマから硬玉が入ってきて以来、硬玉が珍重されるようになった。
 「玉」とは、「美しい石」をさすと2000年ほど前の辞書に書かれている。
(←石野注 この辞書とは、『説文解字』のことをさしているのではないか)

 会場展示でも図録写真でも載っていないが、講演会場でのパワーポイントファイルでは、裏側の写真も紹介されていた。
 裏は平面で、両側から細い穴をあけ真ん中でそれをつなげ、小さなトンネルのようになっていた。要するに、ブレザーなどの飾りボタンの裏にあるような、糸を通す穴の平面タイプである。
 よって、この玉人は首から提げたりするのではなく、衣服に縫い付けていたのではないかとのことであった。

 それと谷氏講演では、日本の縄文時代では「土偶」が大量に出土しているが、中国の新石器時代では動物を形どったものは多いけれど、「人間形」のものが非常に少ないのが特徴だ、とのことだった。



(3) 玉鳥 新石器・BC3500年頃

 上記玉人と同じ墓から出土した。
 羽根を広げた鷹のような鳥であるが、翼の先端は豚の顔のような形になっている。(谷課長の講演では、当時、その辺では豚を崇めていた「ふし」があるとのことであった。もっとも確証はないらしい)
 中央に小さな円があり、その周りに8個の三角形が放射状に並んで星形をつくっており、さらにそれを円が囲む。

 鳥と太陽はセットになっている場合が多いそうだ。今回の「星形」を太陽にみると、(太陽を抱えた)鳥が飛ぶことで太陽の運行を象徴していることになる。
 
 これも胸の中央や、翼の先端各2箇所、そして鳥の眼の部分と合計6箇所も穴があけられており、衣服等に縫い付けられていたように思われる。
 チラシ裏面参照。公式サイトに画像あり。

 なお、展示番号4の玉板も、風車のようなマークが刻まれているのだが、宣和堂さんの「子供が落書きした仮面ライダーベルトのバックルみてえだなあ」という意見が正鵠を射ていると思う。

 公式サイトのミニギャラリー参照。

 



(9) 柱形玉器 新石器・BC3300〜BC2200年頃

 浙江省余杭県反山12号墓出土。

 中央に3つの文様があり、真ん中が一番詳細で、上下はその簡略化したもの。
 会場の説明では、真ん中の模様の拡大図が掲示されていた。
  よく目をこらしても、真ん中の模様は髪型(図録には「大きな髪飾り」とある)の外枠と、おなかの大きな輪ッかぐらいしか確認できない。

 谷課長の講演では、浮彫りと線刻で、写真ではなかなか確認できないほど細かい文様が刻まれているのだが、新石器時代、すなわち金属器がない時代にどうやって刻んだのか、がわからない。
 石英、サメの歯、ダイヤモンドなど諸説あるが、実際に再現、実証した者はいない。いずれにせよ、拡大鏡などがない時代に、このような細かい細工をやってのけたのは「心眼」によるものと言うしかない、とのことだった。 


(10) 玉j 新石器・BC3300〜BC2200年頃

 上記玉器と同じ反山12号墓から出土した。
 本器の文様は、上記(3)の中心部の文様を簡略化したものだそうである。

 「j」(そう)とは、「四角柱に丸い孔を縦方向に穿った玉器」である。
 私は、以前NHK「故宮」で、方形は地、円が天を象徴するものと説明していたことしか知らないのだが、いわば「花瓶」の役割という説もあるそうだ。



(14)  商・BC16〜BC15世紀

 湖北省武漢市盤龍城李家嘴1号墓出土。

 觚(こ)は、一応「飲酒器」という分類になっている。しかし、図録にあるように、口をつけて飲むのに適した形とは言いにくい。
 オフ会での宣和堂さんなどの感想では、正式な結盟のおりに回し飲みするなら、こんな形もありかな?とのことであった。

 胴体下部が透かし彫りになっているし、厚みも薄めで、確かに軽快な感じがする。底面近くの三角形を組み合わせたようなデザインの竊曲文(雲気文と言ってもいいかもしれない)は、私が青銅器ゼミで受け持った西周時代の簋(き)に共通するもので、私は簋の感想で「現代的なデザイン」などと評価していたのだが、「何だ、商(殷)の時代からあるんだ」と思った。



(16)  商・BC13世紀

 河南省安陽市殷墟花園荘54号墓出土。

 鼎(てい)は、3人での対談を鼎談というように「3本足」を特徴とする器である。(もっとも、展示番号12などの「方鼎」は、四角くて、4本足である)
 分類としては「調理器」、つまり肉などを煮炊きする鍋と考えられている。

 展示12の方鼎は、饕餮文と百乳文が施されている。かなり造形的には粗いものだが、本器の饕餮文は地文として雷文が施されるなど、かなり凝りはじめている。また、饕餮文の上部には蝉文が横方向に施されている。
 断面はきれいな円形ではなく、「かたばみ」形というか「三つ葉のクローバー」みたいな形だと思う。(真上から観たわけではないので、多分)

 谷課長の講演では、殷墟の航空写真を見せてもらった。殷墟一帯に川がアーチ状に流れている。画面左上、川の北側(方位が合ってるとして)、西北部分が王陵区、そして川に囲まれたような部分の東側に宮殿区や、後述の卜骨や卜甲の出土地、そして本54号墓などがあるそうだ。
 54号墓は、深さ6.2m、底部は6×4mと大きなもので、被葬者の男性のほか、6名殉葬されていたそうだ。
 



(17) 方斝 商・BC13世紀

 花園荘54号墓(←何かアパートの一室みたい)出土。
 斝(か)は、「爵」などと同様に「温酒器」と考えられている。3本足で、把手がついていて、上部に2本の柱が立つところは同じだが、口の形状が違う。「爵」は、片方が注ぎ口で、もう一方も強く尖った形をしているが、「斝」は、全体に外に開いた円形の断面である。(詳しくは、青銅器ゼミ資料編参照)

 ところが、本器のように、方形、4本足の斝、「方斝」もある。
 方鼎にも共通するように思うが、方斝も大型のものが多いそうで、本器も高さ67cm。

 内面に「亜長」と刻されている。「長」族の用いたものと考えられている。
 なお、展示番号18(大阪会場では展示なし)の爵の把手の下に「長」の字、また、展示番号20の「鉞」(えつ)の上部には大きく「亜長」と刻されている。

 音声ガイドの2番。



(21)  商・BC13世紀

 54号墓出土。谷課長の講演では、「今回の展示会の目玉の一つ」とのこと。(←「目玉」の「手」?)
 何と名づけるか悩んだそうだが、結局、「手」しかないか・・・となったそうだ。用途は不明。手首の所は空洞で、木材の痕跡があったということだから、いかにも木製の柄に取り付けて「孫の手」のように使ったと思われる。
 「でも、指が揃ってないでしょ。背中を掻くなら指が揃っている方がいいと思うんです」とは、谷課長のご意見。埋葬時に、手が欠損していた遺体を完全な状態にするために用いられた義手ではないか、という説もあったそうだが、それにしては小さすぎる。

 また、谷課長は「図録の解説に『子供の手を表わしたかのような、かわいらしい青銅器』と書いたんですが、すごく不評でした」 と笑っておられたが、たしかに、何も解説がなければ、ミイラの手にしか見えないだろう。
 しかも、甲に入墨のあるミイラである。

 音声ガイドの3番。

 公式サイトのミニギャラリー参照。




(24) 卜甲 商・BC13〜BC11世紀

 いわゆる甲骨文の「甲」の方。亀の甲羅(主に、腹の方)を薄く削り、裏面(いわば内臓側)に焼けた火箸などをあてて、表面にできたひび割れで占ったもの。
 おもしろかったのは、鏡を使って、裏面も見える展示方法をしていたところ。
 四角いくぼみが並んでいて、いわば、「根性焼き」の痕跡を見てるような感じで、「ああ、押し当てられた火箸の断面て、四角かったんだなあ」と妙なところに感心した。

 公式サイトのミニギャラリー参照。

 甲「骨」の方も展示あり。




 以上が、新石器時代から商(殷)時代のもの。
 ここで、いったん区切ります。

 

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