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青銅器(3)「上海博物館展」記念講演会「青銅器からみる中国古代史」その3

1 記念講演会について

 大阪歴史博物館で開催されている上海博物館展を記念した講演会の最終回、「青銅器からみる中国古代史」に参加しました。
 とにかくめちゃくちゃおもしろかったので、取り急ぎ内容をご紹介します・・・・・の3回目。いよいよラストです。


2 講演内容

 それでは、小克鼎の年代はいつ頃なのか、という問題に移ります。
 これは、この上海博物館や大阪歴史博物館にとっては不幸なことになるかもしれません。
 しかし、あえて言います。この図録では、小克鼎の年代について、周の康王、西周中期とされています。
 今から、それが誤りであることを証明します!

(注 先生が壇上でそう宣言した時、会場がどよめいた。私も思わず拍手をした。)


(1) 型式学的研究による年代決定

 青銅器の年代決定については三つほどのアプローチがあるので、順に説明します。

 一つ目は林巳奈夫氏が『殷周時代青銅器の研究』(1984年)で展開した「側視形」による判別である。
 一研究者が世界に散在する青銅器の全てを実際に目にしたり、手に取ったりできるものではない。
 可能なのは、結局写真で見ること。その場合、一番多いのは当然横から撮った写真であるのだから、横から見た形で判別していこうというものである。

 林氏によると、
小克鼎→西周IIIB、大克鼎→西周IIIB、膳夫克盨→西周IIIB、克鐘→西周III
ということです。
 IIIというのは西周末期、IIIBというのは末期の中でも後半という意味です。

(注)
 時間が「押して」いたせいか、側視形による判別方法について、先生からのコメントはなかった。
 しかし、冒頭で、二里頭文化期の鼎の足は尖っており、殷墟期の鼎の足は柱状。西周中期以降の鼎の足は「獣足」、「蹄足」になったとあった。
 よって、写真で、例えば鼎の足の形状によって時代を判別することは可能であるが、なぜ尖った足の鼎は二里頭期で、柱状なら殷墟(商王朝後期)、獣足なら西周中期といえるのかを論証しないと説得力はないと思う。

 


(2) 暦譜復元による年代決定

 克鐘には「隹十又六年九月初吉庚寅」
 膳夫克盨には「隹十又八年十又二月初吉庚寅」
 小克鼎には「隹王廿又三年九月」
・・・とある。
 いわば、16年から23年までのわずか7年間のカレンダーを確定すれば、自ずから小克鼎の年代も明確になる。
 そう考えて暦譜復元に挑んだ人が過去からたくさんいました。しかし、その試みはすべて無駄でした。
 その無駄であるという理由を順に説明します。

(ア) 月相
 先ほども説明したとおり、「月相」というものの内容が確定していません。(前回の講演録参照)

(イ) うるう月
 さらに「うるう月」という問題があります。
 現在は、太陽暦を採用していますが、「うるう日」を採用しています。4年に1回、2月に1日プラスして29日としています。
 数年前には「うるう秒」というのもありました。

 太陰暦における「うるう月」については、紀元前にギリシャのメトンという学者が提唱した「19年に7回、うるう月を入れる」で正しい結果が得られるとされています。
 しかしながら、そのうるう月の入れ方については定説がありません。
 例えば、3月の段階で1ヶ月ずれてしまったら、その段階でもう一度「3月」を繰り返すという方法でもいいし、1年間がまんして「13月」を加えるという方法でもいいのです。実際、金文の中には「13月」という表現も見られます。

 結局、「19年に7回」どこで入れるかは、カレンダー作成者の自由といってよいので統一した暦譜ができる筈がないのです。

(ウ) 在位年
(注 紀年の最初の項目は、在位年といって、「周王が在位して何年目のこと」という表現ですが、)
 周王の在位年数についても、どの王が何年に即位して、何年在位していたか確定しているわけではありません

(エ) 銘文自体の信憑性
 もちろん、暦譜を再現しようとする者は金文、つまり青銅器に鋳込まれた紀年の表記をもとにしています。
 しかしながら、この表記が100%信用できるか、というといささか怪しいのです。

 というのは、特に後半の青銅器などでは「正月 初吉 丁亥」という表記がやたら多くなるのです。
 いくら何でも、こんな「正月 初吉 丁亥」にばかり青銅器を造るはずはないだろう。そう思わせるほど、日付が集中している。
 ということは、結婚式の案内がすべて「○月吉日」と具体的な日付を書いていないのと同じように、具体的な製作日とは無関係に、「正月 初吉 丁亥」という表記をシンボルとして表記しているのではないかと考えられます。 

 


(3) 群別研究法による年代決定

 最後に残された方法が、群別研究法と呼ばれるものです。
 青銅器の銘文には、人名、地名、施設名等、たくさんの固有名詞が含まれています。

 こうした固有名詞の中で共通するものを選び出してグループ分けし、時代を探っていこうという手法です。

 例えば、伊簋(いき)と呼ばれる青銅器の銘文には「申季」という人名がありますが、大克鼎にも「申季」という単語が残されています。
 また、「えん」盤という青銅器の銘文には王が周の「康穆宮」にいたという表現がありますが、膳夫克盨にも同様の表現があります。

 宮殿名もそうですが、とりわけ人名が共通するとなれば、その両者はそれほど大きく時代は隔たっていないであろうことが推測されます。こうした検証を積み重ねていって、その青銅器が属する時代を推定しようというのですが、決定的な資料が不足していた時代は、なかなかこの方法は有力なものとはなりえませんでした。
 ですから、上海博物館の研究者が小克鼎の時代を「西周中期」としたのも、ある時点までは、決定的な誤りとは判断できなかったのです。

 それが2003年1月19日午後5時30分をもって、一変しました。

★ 陝西宝鶏眉県青銅器窖蔵(逨関係器群)の発見・・・「盛世吉金」(2003年1月19日午後5時30分)

(注 「盛世吉金」というのは、その発見された青銅器について書かれた本のタイトルということであった。
 何でも、発見された27基の青銅器全てが国宝(先生は「国宝」とおっしゃったが、要するに国家一級文物のことだろう)に指定されたということである。
 「2003年の1月19日に、この青銅器が出土したんです。その時の話がすごくおもしろいんですが・・・・・・省略します」とのことであった。
 おもしろい話が省略されたのは残念であったが、この時点で予定時間を30分近く超過していたのでやむを得なかっただろう。)

 その窖蔵からは、四十二年逨鼎(高さ51、281字)、四十三年逨鼎、逨盤(らいばん。高さ20.4、373字)などと呼ばれる青銅器が出土しました。

 そして、こうした逨関係器群の金文の分析により、そこに書かれた作成者と周王との関係が正確に再現することができたのです。 

製作者 周王
皇高祖単公 文王・武王
皇高祖公叔 成王
皇高祖新室仲 康王
皇高祖恵仲盠父 昭王・穆王
皇高祖零伯 共王・懿王
皇亜祖懿仲 孝王・夷王
皇考共叔 脂、
宣王

 四十二年逨鼎、四十三年逨鼎に共通する「史淢」(しよく)という人名がえん盤(鼎)に共通します。
 同じく四十二年逨鼎、四十三年逨鼎に共通する「周康穆宮」という施設名がえん盤(鼎)、膳夫克盨、伊簋(「周康宮」、「穆大室」)に、
 また、両鼎に共通する「尹氏」という人名が大克鼎、膳夫克盨に共通します。

 このほか、逨盤に「脂、」 とありますが、克鐘には「周康視{」とあります。

 えん盤(鼎)は、「周康穆宮」という単語で膳夫克盨と、伊簋は「申季」という単語で大克鼎と共通しています。また、伊簋は、「周康穆宮」(「周康宮」、「穆大室」)という単語で膳夫克盨、えん盤(鼎)と共通しています。
 「友だちの友だちは友だちだ」の原則により、(注 先生はこのような表現はしなかったと思う)「逨」関係の青銅器と「克」関係の青銅器は、同じ時代に属すると考えられる。
 
 「四十二年」逨鼎は、逨が仕えていた宣王の在位42年を示すのであろうということは否定できません。
 そうすると、「克」関係の青銅器、すなわち、小克鼎なども西周中期の康王ではなく、西周後期の宣王の時代であろうと考えられるのです。

 この宣王(紀元前827〜782年)というのは、西周が紀元前771年に滅亡する2代前の王で、西周王朝中興の祖といわれている王です。 


 「前回の講演も時間を超過したと歴史博物館の職員さんから聞きましたので、私はそんなことのないようにしますと言ったのですが、すっかり超過してしまいました。どうも申し訳ありませんでした」とおっしゃって、ばたばたと講演は終わった。
 もっと時間をかけてじっくり聞かせていただきたいな、と思った。

 前にも書いたが、最初のうちは意識が飛んでた時間があるし、録音していたわけではないので、聞き誤りも多いと思う。その辺の責任や、私が感じた「おもしろさ」を十分伝えきれない責任はすべて私にありますので、そこのところよろしくお願いします。

 

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