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陶磁器ゼミ(20) 「中国官窯の青瓷 官窯制度の起源と青瓷の系譜」
上海博物館展記念講演会


はじめに

 大阪歴史博物館で開催された上海博物館展を記念して開催された標記講演のメモです。
 開催日は04年4月4日と4づくし。講師は大阪市立東洋陶磁美術館学芸課長の出川哲郎先生です。


(注 先生のレジュメの内容を緑地の箱書きにして、あと講演内容や私が調べた内容を随時補足していくこととする) 

○ 磁器と瓷器  磁器は磁州の器  青磁は磁器か  青磁と青瓷

 わが国で「じき」というともっぱら「磁」器と書きますが、中国では、この講演会のタイトルでも使っている「瓷」という漢字を使います。
 本来、磁器とは磁州で造られた器という意味なのです。

 陶磁器という時の「磁器」とは、陶器より高温で焼かれた硬質のものを指しますが、そうすると「青磁」とよばれるやきものは、「磁器」に該当しないのです。
 ということで、今回の講演では、中国で使われているような「青瓷」という用語で統一させていただきます。

 なお、日本では、古来、国産の緑釉陶器を「あおし」と呼んでいました。

(注 この辺、私はギャラリートーク用に勉強したところなので、この程度の説明でも理解できたが、初めて聞く方にはややこしかったことと思う。

 要は、日本(及び欧米)では「やきもの」を、その性状から土器、陶器、b器(せっき)、磁器に四分類するが、中国では「陶」と「瓷」の二分類しかしない。
 日本でいわゆる「青磁」といわれている「やきもの」は、性状からいくと「磁器」ではなくて「b器」に分類されるものだから、青磁(青い「磁」器)よりは、青瓷(「瓷」の概念はb器も含む)の方が相応しい・・・・・ということ。
 詳しくは、陶磁ゼミ(15)の「青磁の定義」、「やきものの定義」をご参照ください。
 また、磁州窯については、陶磁ゼミ(6)の「2.磁州窯」をご参照ください)

○ 原始青瓷 灰釉陶  後漢の青瓷  浙江省北部越窯

(注 いわゆる灰釉陶(かいゆうとう)のことを中国では原始青瓷と呼んだりします。詳しくは陶磁ゼミ(3)の「3.商・周・戦国時代の陶磁器」注4をご参照ください。
 同じく、後漢時代の青瓷、日本ではこれを特に「古越磁」と呼んだりします。詳しくは陶磁ゼミ(3)の「4.戦国・漢時代の陶磁器」注8及び注9をご参照ください) 

○ 青瓷  celadon

 青瓷のことをceladonといいます。これは、1610年頃に流行った、ある小説のヒロインの恋人、彼の名がceladonというのですが、この小説を舞台で上演した時、彼の青い服の色が評判となりました。
 青瓷は、この服の色に似ているということでceladonと呼ばれるようになりました。

(注 確か先生は講演の中でこのようにおっしゃったと思うのだが、celadonでgoogleってみても、小説の名前とかは捜せなかった。
 古代インドのサンスクリット語でsila(石)、dhala(緑)で「緑の石」という言葉に由来するとか、カリフを表わす「サラディン」から転化したという説は検索できたのだが・・・・・)

○ 秘色瓷  越州焼進、為共奉之物。臣庶不得用。故云秘色。(『陶説』)

(注 「秘色」については、陶磁ゼミ(4)の「4.唐・五代の陶磁器」注4参照)

○ 『茶経』 越瓷は氷、玉に類す(陸羽)。九秋風露越窯開、奪得千峰翠色来(陸亀蒙)

(注 東洋文庫所収の『茶経』:「四之器」の盌(わん。茶碗)では、「盌は越州が上品。〜或いは邢州(けいしゅう)を越州の上に処(お)くが、決してそうではない。もし邢州の磁器が銀に似ているとすれば、越州の磁器は玉に似ている。〜もし邢州の磁器が雪に似ているとするならば、越州の磁器は氷に似ている。〜邢州の磁器は白いので、茶の色は丹(あか)く見える。越州の磁器は青いので、茶の色は緑に見える」とある。

 『天野景治の陶談』では、陸亀蒙の詩の大意を「暑い夏もやっと終わった。もう九月、そろそろ秋風が吹き、草にも露をおく季節になった。夏中閉じていた越州の窯も開いて窯焚きが始まるころだな。ここの青磁は深い山々の樹々の緑をそっくり頂だいしたように美しい」としている)

○ 呉越王銭氏の貢磁(晩唐期から貢窯の存在)。北宋へは金銀飾陶器の秘色瓷

(注 呉越国銭氏の庇護については、陶磁ゼミ(4)の「4.唐・五代の陶磁器」注3参照)

○ 貢磁制度の確立  官窯制度への過渡期

 

法門寺出土秘色青瓷
873年4月8日、長安で舎利を盛大に供養。咸通15年(874)正月4日、地宮に埋納

(注 『地球の歩き方 西安とシルクロード』によると、法門寺は、インドのアショカ王が仏法をひろめるため各地に送った仏舎利(釈迦の遺骨)を安置している寺で、創建当初は阿育王寺(アショカ王寺)と呼ばれていたそうだ。
 1987年に地下宮殿を調査したところ、指の仏舎利や秘宝が発見されたという。 その文物の中に秘色青瓷が含まれていたとのことである。
 「法門寺」とか「秘色青磁」でgoogleすれば、旅行記などでいろいろ紹介されている。
 一例として、「さわらび通信」というHPで、現地の博物館の看板や青瓷が紹介されているページは、ここから)

「官」の銘のある瓷器  越窯、定窯、耀州窯、南宋の官窯

 

○ 汝官窯(宝豊県清涼寺窯)、鈞官窯(禹県鈞台窯)、郊壇(下)官窯(杭州市烏亀山)

 汝窯はブルーが特徴で古来、天青とか粉青と呼ばれます。胎土は香灰色をしています。
 この天青は、月白(げっぱく)や天藍(てんらん)などに分化していきます。
 汝窯の釉薬は一層がけですが、南宋官窯の釉薬は複層がけとなっています。

(注 『故宮』(NHK出版)第3巻には「1987年、河南省考古研究所は汝官窯跡の発掘に成功したと発表した。〜現場は、河南省宝豊県の〜清涼寺村」とある。

 また、「河南考古」というHPでは、1986年、農民がたまたま見つけた2個の筆洗をきっかけに、1000年以上謎とされていた汝官窯のありかが判明した・・・というようなことが書いてある。そのページは、ここから。(ただし、中国語) 

 『鈞窯瓷』(著:趙青雲・趙文斌。二玄社)によると、「考古発掘の結果、宋、徽宗代に官窯が置かれもっぱら宮廷に向けて御用瓷器が焼造されたことが明らかになり、宋鈞官窯と名づけられた」とある。)

○ 北宋官窯(汝州市張公巷)、修内司官窯(杭州市 鳳凰山老虎洞窯付近 白胎と黒胎)、初期南宋官窯(慈渓市寺龍口窯)

 張公巷は、2004年1月にようやく発掘調査が始まった。中国では、21世紀初頭における大発見だと注目をあびている。
 張公巷から出土した陶磁器はやや緑色がかっている。
 地元では朱文立という人が個人的に陳列室をつくっていた。
 汝窯とくらべ、胎土の質は緻密で、色が薄い。
 張公巷は、南宋の官窯ではないだろうか?これまでの伝世品にはみられない釉色をしている。

(注 HP「河南考古」では、2004年2月に試掘が開始された・・・と書いてあるように思う。何でも今年の5月20日に汝州に専門家が集まって研究集会をするとのことなので、新しい見解が示されるかもしれない。そのページはここから。

 また、朱文立氏は、前掲の『故宮』において、汝州市で20年もの間汝官窯青瓷の復元に取り組んできた人物として紹介されていた)

○ 哥窯(杭州市老虎洞元代窯)

 黒胎、貫入が特徴

○ 北宋の5大名窯  汝窯  官窯  哥窯  鈞窯  定窯

 今回の上海博物館展では、こうした5大名窯の作品が、1点ずつですが、一堂のもとに展示されています。
 こうした機会はめったにありませんので、ぜひ会場でご覧ください。

(注 私の上海博物館展鑑賞記で、陶磁器関係はここから。)

○ 「清波雑誌」(南宋 周W) 汝窯は宮中の禁焼なり

(注 レジュメには雑「誌」とあったが、雑「誌」ではgoogleっても「陳清波のゴルフ雑誌」ばかりヒットしてしまう。
 一方、『清波雑志』はセンター試験などにも出ているようだ)

○ 「老学庵筆記」(南宋 陸游) 定器は禁中にはいらず。汝器を用う。

(注 『中国陶磁の八千年』(著:矢部良明。平凡社)によれば、「時代が降って南宋になると、文人達はしきりに汝州窯が御器を焼く窯であったことを記し、葉ゥ(しょうしん)は『坦斎筆衡』のなかで『本朝は定州の白磁芒ありて用うるに堪えざるをもって、遂に汝州に命じて青窯器をつくらしむ〜』と述べている」とある。)

○ 「坦斎筆衡」(南宋 葉ゥ) 宣政の間、京師みずから窯をおきて焼造す。官窯という。故京の遺制をついで、窯を修内司に置き、青器を作り、内窯と名つく。のちに、郊壇下に別に新窯を立つ。旧窯に比すれば大いに等しからず。

 

○ 「紫口鉄足」 黒胎青瓷と白胎青瓷

 鉄分を含んだ黒胎。畳付部分は黒い。

(注 しこうてっそく。『陶磁用語辞典』(著:野村泰三。保育社カラーブックス)によると、「青磁の特徴である、器の口縁が褐色、無釉の底足が黒褐色をしているのをいう」とある)

○ 龍泉窯の黒胎青瓷(南宋中期)

 

○ 鈞窯の問題。哥窯の問題

 鈞窯は元代に活躍した窯である。本展覧会の図録解説でも、鈞窯は宋代ではなく元代以降・・・と書こうかとも考えましたが、まだ定説には至っていないので、「編年については異説もある」と書くにとどめました。

(注 『鈞窯瓷』(著:趙青雲・趙文斌。二玄社)によると、「哥窯の年代に関しては多くの議論がある」と書いているが、鈞窯については結論を下しているようである。
 一応、鈞窯の時代については三つ説があげられている。

 第一説は、「金代(1115〜1234)説」。
 鈞窯瓷器を「北方にあって金人の統治の時代から元代におよぶ百余年間の産物」とする。本説の根拠は、窯の名称と地名との関連。
 すなわち、鈞窯は「鈞州」という地名が生まれた、金の統治期間に始まる、要するに「鈞窯は金、大定24年(1184)に鈞州という行政区画が置かれた後に起こった」とする説。

 第二説は、「元代(1206〜1367)説」。
 本説は、墓葬や遺跡の発掘結果を根拠としている。
 「中国で大量に発見されている宋代の墓葬や遺跡から鈞窯の出土が見られず、むしろ多くの報告が元代のものであることから、欧米の研究者の一部には『宋代に鈞瓷無し』、つまり鈞窯の焼造は元代であるとの説が提唱されるようになった。」

 しかし、「現在広く行われているのが、3)北宋(960〜1126)説であり、多くの研究者の認めるところともなっている」とある。

  その根拠としては
(1) 「奉華」の刻銘
 伝世品に「『奉華』の刻銘をもつ鈞窯の作例があるが、その書体は、貢納品とされる汝窯瓷の底部の刻銘と全く同一であり、そのうえ『奉華』の名は高宗の妃(皇后に次ぐ嬪御)の一人が住まった宮殿の名称で、金代にはその宮殿名は見られない」(←『鈞窯瓷』)

(2) 「宣和元宝」の陶笵
 1974〜75年に「禹州市(もと禹県)県城の〜古鈞台窯跡〜鋳銭用の陶笵(陶製の鋳型)の発見は重要な意味をもっていた。〜『宣和元宝』の陶笵で、”宣和”は北宋徽宗代の年号(1119〜25)である」。)

○ 「格古要論」(1388) 明代宮廷の瓷器(元以前のもの)



○ 越窯→耀州窯→(柴窯)→汝窯→北宋官窯→南宋官窯そして景徳鎮御器廠へ


 柴窯とは、五代の柴栄がひらかせた窯で、「雨過天青」で有名です。

(注 『鈞窯瓷』(著:趙青雲・趙文斌。二玄社)には「後周の世宗柴栄(さいえい)が鄭州付近に設けたとされる宮廷の御窯、のちに”柴窯”と称される窯の言い伝えがある。後世の人は柴窯の釉色の美しさを『雨過天青』(うかてんせい)と形容して賛嘆し、その特徴を『青きこと天の如く、明らかなること鏡の如く、薄きこと紙の如く、聲は磬(けい。古代の楽器)の如し』と言い表し〜諸窯に冠たる名品と崇められ、『片柴(柴瓷の一片)値千金』とまで言われるようになった」とある。) 



 う〜ん、読み返すと何のことかもひとつわからないとこばかり。聞いた本人がそうなのだから、読んでる人は余計だろう。まことに申し訳ない。
 パワーポイントで会場では大きく表示されるのだが、それはその場限り。
 きっちりメモも取っていなかったし、受講後時間がたってしまうと、中身をほとんど覚えていないことに気が付いた。
 鉄は熱いうちに打たなければいけないのだなあ、と痛感したことであった。

 

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