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陶磁器ゼミ(3) 美術史ゼミナール「中国の陶磁器」その3(新石器時代〜漢)

1 はじめに

 1回目(7月12日)の講義録のPart2。今回も先生の講義に適宜私の自習した内容を加えていく。



第1回講義「中国原始・古代の陶磁器」

2.新石器時代の諸相


(1) 土器の発生

 液体(水等)・粒体(穀類、豆等)の貯蔵容器、煮沸器から発生(※注1

→砂粒が多く含まれる(※注2紅陶灰陶(※注3)が原初的形態

注1 新石器時代の最も大きな特徴は、農耕の始まりである。狩猟・採集生活から穀物栽培・家畜飼育生活へ移行していく中で、調理(煮沸)が本格化した。

注2 先生によると、煮沸に適した土器は、適度に砂粒が混じった粗めのものが望ましい。砂粒が少ない緊密なもの(例としては植木鉢等)は、こわれやすいそうだ。

注3 「中国では土器という用語はない。〜その素地肌が赤く焦げていれば紅陶であり、灰色をおびると灰陶(かいとう)」(『中国陶磁の八千年』著:矢部良明。平凡社。以下『八千年』と略記)


長江流域 江西省仙人洞遺跡(※注4)出土品(9000〜10000年BP※注5)、
浙江省河姆渡(かぼと)遺跡(※注6)出土品(7000年BP)
黄河流域 河南省裴李崗(はいりこう)遺跡(※注7)出土品(9000〜10000年BP)、
河北省磁山遺跡出土品(8000年BP)

 

注4 仙人洞遺跡の場所は、「なん中華」(14)「稲作」編概略図中「1」参照

注5 BP:現代から見て何年前にあたるか

注6 河姆渡遺跡の場所は、「なん中華」(14)「稲作」編概略図中「8」参照

注7 裴李崗遺跡の場所は、「なん中華」(14)「稲作」編概略図中「B」参照



(2) 代表的な中国の土器

項目 内容 備考
彩陶
(※注1
焼成前に赤(酸化鉄・マンガン等)や黒(酸化鉄)の顔料を筆で描き(※注2)、1000度前後で焼成 青海、甘粛、中原、江蘇
黒陶
(※注3
横穴式の窯で燻製還元炎焼成 大汶口(※注4)、龍山(※注5
白陶
(※注6
カオリン質の高い粘土を用いて、横穴式の窯で還元炎焼成 大汶口


注1 「素地肌に絵具をもって加彩した土器は、日本では彩文土器となるが、中国では彩陶という」(上記『八千年』P2)

※ 1921年、J・アンダーソン博士が河南省澠池(べんち)県仰韶(ぎょうしょう)村で彩陶を発見したので、彩陶をアンダーソン壷(土器)と愛称することがある。

※ 仰韶文化半坡(はんぱ)遺跡の場所は、「なん中華」(12)中国古代文明概略図中「6」参照

注2 「仰韶文化期に先行する老官台文化や、裴李崗文化期の紅陶や灰陶は箆(へら)や縄目を主役にして、ごくごく簡略な刻みつけの文様を器表にあらわしていたのに比較して」約2000年の時間を経た「筆彩文様の出現は、筆を使って顔料を賦彩するという装飾法の一大革新がなしとげられたことを意味している」(『八千年』P10)

※ 仰韶文化は、西方から伝播してきたという説もあったが、「1957年に中国が甘粛省臨洮(りんとう)県馬家窯(ばかよう)〜遺跡の調査をおこなって、仰韶文化層の上に〜馬家窯文化層が発見されたことにより、仰韶文化は〜中原の地において発祥し、むしろ西方の甘粛へと流入していったことが」証明された(『八千年』P11)

※ 仰韶文化半坡彩陶、馬家窯文化彩陶は、図版編中図表1参照

注3 「黒陶は灰陶の一種とみてよいもので、赤や灰色の素地に黒色の泥土をぬって、表面を黒化粧した土器であり、強力な還元焔の焼成をおこなう
〜黒色の化粧土は、酸化鉄や酸化マンガンをおもな呈色剤とする粘土質の鉱物」(『八千年』P18)

※ 「卵の殻のように薄く、精巧に轆轤挽きされ〜た漆黒色の土器〜大汶口文化の後期から龍山文化期にかけて、黒陶はまことに颯爽と登場し」た(『八千年』P20、25)

※ 龍山文化黒陶高足杯は、図版編中図表2参照

注4 「山東省から江蘇省にかけての地方に、大汶口(だいぶんこう)文化〜が新石器時代に形成されていた〜紀元前4500年〜前3500年におよぶ農耕文化」(『八千年』P17)
「1962年〜大汶口文化が龍山文化の先行文化であったことが判明」(『八千年』P19)

※ 大汶口文化の場所は、「なん中華」(12)中国古代文明概略図中「4」参照

※ 大汶口文化筒型土器(透かし彫り)は、図版編図表2参照

注5 「1928年〜山東省歴城県龍山鎮城崖子遺跡が発掘され、龍山文化の存在が知られた
〜龍山文化期は〜紀元前2400〜前2000年」(『八千年』P20)

※ 龍山文化城崖子遺跡の場所は、「なん中華」(12)中国古代文明概略図中「6」参照

※ 龍山文化鬹は、図版編中図表2参照。

注6 「白陶は、磁土を使い、充分に水簸(すいひ)するという一工程が加わって、1200〜1400度ほどの高温で窯の中で焼き、硬い素地肌を得る。カオリン質の高い白色粘土を選び出し、黒煙を出さない還元焔によって高火度のもとで焼成する。
〜一部には轆轤(ろくろ)をつかった革新的な成形技法が加わった」(『八千年』P18)
※ 「水簸とは、粘土と珪石などが混ざったものに水を加え、粒子の沈降速度の違いを用いて粒子をふるい分けること」(『釉薬応用ノート』著:津坂和秀。双葉社)

 




3 商・周・春秋時代の陶磁器

項目 内容 備考
商代陶器の発生 周・春秋期は、商代陶器の展開  
灰陶の発生 砂粒の少ない均一な粘土を用いる 祭祀的性格を帯びる
白陶の発生 きわめて精製したカオリン質の高い粘土を用いる 祭祀具、彜器(いき。注1)の発生
灰釉注2)の発生 人工施釉(注3)が始まる 原始青磁(安定した釉調にならない)※注4
青銅器(注5)の模倣としての陶磁器が始まる 壷、豆(高杯=たかつき)、鼎、鬲、尊、盉、鐘、于  


注1 「中国の青銅器の特色は彜器である。これは食物を煮るための(てい)・(れき)、穀物をむすための(げん)、むした穀物を盛る(き)、酒器には、杯にあたる(こ)、酒を入れておく(らい)、(ゆう)などの種類がある。〜表面に饕餮(とうてつ)とよぶ怪獣などの文様がついており〜原型はすべて当時の土器に求めることができるが、土器が日常一般に使用されたのにたいして、青銅器は、祭祀などの特殊な重要な場合に使用された」(『中国文明の歴史 1』編:水野清一P256)

※ 白陶饕餮文管耳壷は、図版編中図表3参照

注2 「燃料の灰が窯のなかで舞いあがり、焼成中の器物に降りかかって胎土のケイ酸を熔かし、ガラスをつくる。この作用が自然釉となる」(『八千年』P31) 

注3 「鄭州二里崗出土の灰釉広口壷は肩にいちめん灰釉が薄く施されて、人為的な施釉の跡を物語っている
〜灰が素地をとかして釉をつくるためには、カオリナイトとよばれるケイ酸とアルミニウムを含む粘土を選択しなければならない。俗にいうカオリン(高嶺)である
〜自然降灰の、いわゆる自然釉が偶発的に生まれ、つづいてそれに着目して、人工的に灰とカオリンをまぜた釉を施しておき、焼成して施釉陶をつくる技術をあみだした」(『八千年』P31)

※ 鄭州二里崗遺跡の場所は、「なん中華」(13)「夏墟」編概略図中「4」参照

注4 「灰釉陶(中国では原始青磁〜とよぶ)
〜中国の研究者が〜なぜ青磁というか
〜理由としては第一に磁器には必須のカオリンや長石、石英から胎土が構成されていること、
つぎに1200度以上の高温で焼き締められていること、
高火度のガラス質の釉が施されていること、
胎土の吸水性はきわめて少なく、叩いて金属質の清脆(せいぜい)な妙音を発すること、
胎質が半透明か透明の性質をもつ」(『八千年』P31、33)

注5 「青銅器が出現するのは殷時代の中期、河南省鄭州市に都がおかれていた時期
〜青銅器が出現するまでのおよそ4500年ほどの間、工芸界の王座に位置していた焼物は、ここで青銅器に王座をあけわたし、造形の面でも、製陶技術の面でも成果のとぼしい冬の時代を迎える」(『八千年』P29、37) 


 



4 戦国・漢時代の陶磁器

項目 内容 備考
灰釉陶器 薄く均一な釉調になる 漢代→浙江省周辺の灰釉陶器(※注1)、福建・広東の灰釉陶器
灰陶加彩陶器の発生※注2 実用器ではない=副葬品(明器)  
俑の発生 ひとの形を土・木・竹等でうつす(※注3
→動物や建造物も製作
→土偶
兵馬俑※注4
鉛釉陶器の発生
注5
褐釉陶器(戦国)※注6
褐釉陶器(前漢末)、緑釉陶器(前漢末)
緑釉陶器(後漢時代、★)
前漢末以降の作品は副葬品※注7
ソーダ釉の緑釉陶器
 
青磁の発生 後漢末、浙江省越州窯で発生
注8、★
古越磁(※注9)の始まり

 

注1 「春秋戦国時代になると、中原から灰釉陶の消息がほとんど聞こえなくなってしまい、わずかではあるが、江南でその伝統が息づいていた
〜(浙江省)紹興県や蕭山県には合わせて20数ヶ所に春秋戦国時代の灰釉陶窯がすでに確認されている」(『八千年』P39)

「春秋時代の灰釉陶は越州窯の先駆けといってよい
〜越州窯が後漢時代まで〜どのような発展をしたのかが皆目わかっていない
〜江蘇、江西、浙江、湖南といった江南の地、福建のいわゆる閩(びん)の地方、そして広東の嶺南の地から、戦国時代の造形物に手本を見ることのない灰釉陶が出土している」(『八千年』P66)

注2 「彩文土器が加彩ののちに表面を磨きあげ、素地に密着させて、使用した場合にも剥落をふせぐ工夫がこらされていたのに対して、戦国時代に始まる加彩法は、ふつうの絵具にも用いられる胡粉やベンガラを単に灰陶胎に上絵付しただけなので、手でこするだけで簡単に落ちてしまう。ということは、この加彩灰陶は実用の器皿ではあり得ない
実際、出土するのは墓葬の副葬品」(『八千年』P50。なお本書には「加彩灰釉」とあるが誤植とおもわれる)

注3 「殷の時代には生きたまま人や馬が埋められた」が「秦の時代になると〜土で作った埴輪」を埋めるようになった。(『故宮 1』陳舜臣ほか。P152)


注4 「加彩灰陶の流行を象徴するのは〜秦の始皇帝陵から出土した〜兵馬俑であろう。
〜すべての像には白地に緑、赤、紫、黄、黒の絵具で加彩されていたことを知ると、原姿は驚くべきほどの華麗さであったことはまちがいない」(『八千年』P52、54)

※ 兵馬俑(加彩)は、図版編中図表3参照

 秦の兵馬俑は実物大だが、前漢景帝陵から出土した兵馬俑は「60センチ前後」(『故宮 1』P280)

注5 「灰釉が、窯中の降灰ガラス化現象という自然釉に着想を得て、人為的改良による、いわば発見にもとづく進化であったのに対して、鉛釉は、鉛という金属が低火度熔媒性をもつという化学的特徴をとらえて発明しなければ、創始できない」(『八千年』P55)

「この鉛釉の発明は〜漢民族がみずから創案した技術とする説と〜紀元前後にローマ帝国の領内〜から技術が導入されたとする説との二説があ」る。

「前説の拠り所としては」「戦国時代の墳墓から出土したといわれている」「ネルソン・ギャラリー所蔵の緑釉蟠螭(ばんち)文壷〜また、戦国時代の古墓から、トンボ玉とよばれる鉛ガラスの装身具が出土する」ことがあげられる。

※ 緑釉蟠螭文壷は、図版編中図表4参照

「西アジアでは紀元前後に〜青緑色の釉が厚く施された鉛釉陶が焼かれており〜前漢時代(前202〜後8)とおよそ時代的に一致するため〜ローマ帝国の鉛釉陶を祖としていたとする、外来技術導入説が唱えられた」が、

「鉛ガラスの創始が西周時代まで遡ることが、考古学的に確かめられはじめた」ことにより「鉛ガラス東漸説は完全に覆され〜ソーダ・ガラスをもってはじまった古代エジプトのガラスに対して」「中国では紀元前11世紀の段階で鉛ガラスを発明して」おり、鉛釉陶は中国独自で創始されたと考えられている。

ただし、現在でも戦国期の鉛釉陶の実例は、ネルソン・ギャラリー壷しか見つかっていない(『八千年』P56〜)

★ 東京国立博物館HP 彩釉壷(春秋戦国)

注6 「鉛釉は〜戦国時代には誕生していた」

「鉛釉陶は前漢時代になって〜開花する
〜酸化銅が緑の呈色剤として多用されることはいうまでもないが、酸化鉄を呈色剤につかった褐釉が出現した」(『八千年』P59)

注7 「低火度の鉛釉はその宿命として堅緻な焼物をつくれない。が、その鮮明で印象ぶかい釉色は〜観る者の眼にしみわたるような華麗な表情をつけることを可能にした。
実用性よりも装飾性のつよい鉛釉陶は、明器にはぴったりの属性
をもっていた」

「明器造りの風潮にのって〜漢時代になって、鉛釉陶も〜大きく作域を切り開いていった。
青銅器を手本とした器種としては、鐘(しょう)とよばれる壷、鼎、匲(れん)、盤、壷、円盒(ごう)、長方盒、博山炉とよばれる香炉、魁斗とよばれる杓、耳杯とよぶ楕円の耳付碗、そして多種多様の燭台、灯盞(とうさん)などがあり、彫塑的な模器としては楼閣を筆頭にして、倉、井戸、竃(かまど)〜各種の動物や人物像など〜枚挙にいとまがない」(『八千年』P60)

※ 緑釉博山炉、緑釉楼閣は、図版編中図表4参照


★ 大阪市立東洋陶磁美術館HP  緑釉楼閣 (後漢) 
★  大阪市立東洋陶磁美術館HP  緑釉壺 (後漢) ※いわゆる「鐘」(しょう) 

注8 「浙江省北部の海岸沿いに位置する寧波市、上虞県一帯に後漢時代の青磁と黒釉磁が発見された〜後漢時代になって青磁がこの地域で焼造されはじめたことが判明
〜この方面が戦国時代の越の国にあたるところから越州窯と称され」た(『八千年』P77)

★ 大阪市立東洋陶磁美術館HP 青磁印文四耳壺 (後漢 越州窯) 

注9 「後漢・三国・西晋・南北朝時代の越州窯は、のちの唐・五代・北宋時代の越州窯の母胎をなす窯ではあるが、作陶内容が大きく異なることから、日本では古越州窯ともよばれ、その製品は俗に古越磁と称される
〜中国ではもっぱら越窯とよび、その製品もすべて越磁と称して区別をつけていない」(『八千年』P77) 

 

 



5.おわりに


精霊崇拝→祖先崇拝→宗廟の祭祀(彜器)
→死後世界の思想・神仙思想(※注1)→厚葬の発生(注2。道教的世界との関わり)

注1 「暮らしが豊かになり生活が満ち足りてくると、人はそのままの生活が永遠に続くことを望むようになる。それがかなわぬのなら、せめて死後の世界は生前と同じであってほしいと願う。漢の時代、不老長寿や神仙の思想が流行し、人びとは死後の世界への関心を高めた」(『故宮 1』P273)

注2 「実生活の器皿というよりも、厚葬の風習によってゆたかな作陶が繰りひろげられた漢時代の施釉陶器や加彩陶〜8世紀の盛唐時代まで、中国陶磁史のすばらしい展開は、ひとえに厚葬願望が最重要の原動力の役割を果たしていた」(『八千年』P82)





 それでは、次回のゼミ受講録まで、ごきげんよう♪ 


 

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