注1
「春秋戦国時代になると、中原から灰釉陶の消息がほとんど聞こえなくなってしまい、わずかではあるが、江南でその伝統が息づいていた
〜(浙江省)紹興県や蕭山県には合わせて20数ヶ所に春秋戦国時代の灰釉陶窯がすでに確認されている」(『八千年』P39)
「春秋時代の灰釉陶は越州窯の先駆けといってよい
〜越州窯が後漢時代まで〜どのような発展をしたのかが皆目わかっていない
〜江蘇、江西、浙江、湖南といった江南の地、福建のいわゆる閩(びん)の地方、そして広東の嶺南の地から、戦国時代の造形物に手本を見ることのない灰釉陶が出土している」(『八千年』P66)
注2 「彩文土器が加彩ののちに表面を磨きあげ、素地に密着させて、使用した場合にも剥落をふせぐ工夫がこらされていたのに対して、戦国時代に始まる加彩法は、ふつうの絵具にも用いられる胡粉やベンガラを単に灰陶胎に上絵付しただけなので、手でこするだけで簡単に落ちてしまう。ということは、この加彩灰陶は実用の器皿ではあり得ない。
実際、出土するのは墓葬の副葬品」(『八千年』P50。なお本書には「加彩灰釉」とあるが誤植とおもわれる)
注3 「殷の時代には生きたまま人や馬が埋められた」が「秦の時代になると〜土で作った埴輪」を埋めるようになった。(『故宮 1』陳舜臣ほか。P152)
注4 「加彩灰陶の流行を象徴するのは〜秦の始皇帝陵から出土した〜兵馬俑であろう。
〜すべての像には白地に緑、赤、紫、黄、黒の絵具で加彩されていたことを知ると、原姿は驚くべきほどの華麗さであったことはまちがいない」(『八千年』P52、54)
※ 兵馬俑(加彩)は、図版編中図表3参照
秦の兵馬俑は実物大だが、前漢景帝陵から出土した兵馬俑は「60センチ前後」(『故宮 1』P280)
注5 「灰釉が、窯中の降灰ガラス化現象という自然釉に着想を得て、人為的改良による、いわば発見にもとづく進化であったのに対して、鉛釉は、鉛という金属が低火度熔媒性をもつという化学的特徴をとらえて発明しなければ、創始できない」(『八千年』P55)
「この鉛釉の発明は〜漢民族がみずから創案した技術とする説と〜紀元前後にローマ帝国の領内〜から技術が導入されたとする説との二説があ」る。
「前説の拠り所としては」「戦国時代の墳墓から出土したといわれている」「ネルソン・ギャラリー所蔵の緑釉蟠螭(ばんち)文壷〜また、戦国時代の古墓から、トンボ玉とよばれる鉛ガラスの装身具が出土する」ことがあげられる。
※ 緑釉蟠螭文壷は、図版編中図表4参照
「西アジアでは紀元前後に〜青緑色の釉が厚く施された鉛釉陶が焼かれており〜前漢時代(前202〜後8)とおよそ時代的に一致するため〜ローマ帝国の鉛釉陶を祖としていたとする、外来技術導入説が唱えられた」が、
「鉛ガラスの創始が西周時代まで遡ることが、考古学的に確かめられはじめた」ことにより「鉛ガラス東漸説は完全に覆され〜ソーダ・ガラスをもってはじまった古代エジプトのガラスに対して」「中国では紀元前11世紀の段階で鉛ガラスを発明して」おり、鉛釉陶は中国独自で創始されたと考えられている。
ただし、現在でも戦国期の鉛釉陶の実例は、ネルソン・ギャラリー壷しか見つかっていない(『八千年』P56〜)
★ 東京国立博物館HP 彩釉壷(春秋戦国)
注6 「鉛釉は〜戦国時代には誕生していた」
「鉛釉陶は前漢時代になって〜開花する
〜酸化銅が緑の呈色剤として多用されることはいうまでもないが、酸化鉄を呈色剤につかった褐釉が出現した」(『八千年』P59)
注7 「低火度の鉛釉はその宿命として堅緻な焼物をつくれない。が、その鮮明で印象ぶかい釉色は〜観る者の眼にしみわたるような華麗な表情をつけることを可能にした。
実用性よりも装飾性のつよい鉛釉陶は、明器にはぴったりの属性をもっていた」
「明器造りの風潮にのって〜漢時代になって、鉛釉陶も〜大きく作域を切り開いていった。
青銅器を手本とした器種としては、鐘(しょう)とよばれる壷、鼎、匲(れん)、盤、壷、円盒(ごう)、長方盒、博山炉とよばれる香炉、魁斗とよばれる杓、耳杯とよぶ楕円の耳付碗、そして多種多様の燭台、灯盞(とうさん)などがあり、彫塑的な模器としては楼閣を筆頭にして、倉、井戸、竃(かまど)〜各種の動物や人物像など〜枚挙にいとまがない」(『八千年』P60)
※ 緑釉博山炉、緑釉楼閣は、図版編中図表4参照
★ 大阪市立東洋陶磁美術館HP
緑釉楼閣 (後漢)
★ 大阪市立東洋陶磁美術館HP
緑釉壺 (後漢) ※いわゆる「鐘」(しょう)
注8 「浙江省北部の海岸沿いに位置する寧波市、上虞県一帯に後漢時代の青磁と黒釉磁が発見された〜後漢時代になって青磁がこの地域で焼造されはじめたことが判明
〜この方面が戦国時代の越の国にあたるところから越州窯と称され」た(『八千年』P77)
★ 大阪市立東洋陶磁美術館HP 青磁印文四耳壺 (後漢 越州窯)
注9 「後漢・三国・西晋・南北朝時代の越州窯は、のちの唐・五代・北宋時代の越州窯の母胎をなす窯ではあるが、作陶内容が大きく異なることから、日本では古越州窯ともよばれ、その製品は俗に古越磁と称される
〜中国ではもっぱら越窯とよび、その製品もすべて越磁と称して区別をつけていない」(『八千年』P77)
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