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(No76) 正倉院学術シンポジウム2006 その3 「統一新羅と奈良時代の仏像」 聴講記 

 2006年10月29日(日)に開催された正倉院学術シンポジウム2006は、春日大社「感謝・共生の館」にて午前9時より、梶谷亮治奈良国立博物館学芸課長の司会進行により、湯山賢一奈良国立博物館長及び葉室頼昭春日大社宮司の挨拶を経て開会された。

 3番目の講演は、韓国・弘益大学校教授:金理那氏(通訳:大阪東洋陶磁美術館:片山まび氏)による「統一新羅と奈良時代の仏像」である。

 金教授のレジュメの内容は白枠内に示す。

 金教授は女性だった。金教授はソール大学とハーバード大学で学んだそうだ。
 冒頭、流暢な日本語で挨拶されたのには驚いた。最後、「述べさせていただきます」を「述べていただきます」と言って締められたのはご愛嬌というものだろう。

 通訳の方も大変お上手だし、レジュメも丁寧であった。



 
 統一新羅は668年に百済と高句麗を統合して朝鮮半島に統一国家を成立させ、中国・唐と密接な交流を維持しながら仏教文化の全盛時代を築き上げた。

 百済を通じて仏教文化を受容した日本では、7世紀後半から唐との直接的な交流を通じて、飛鳥様式に新たに唐様式を受容して、白鳳様式が形成されていった。

 7世紀末頃から8世紀の統一新羅と日本の奈良時代では、唐を中心とする国際的性格をもった仏教美術が流行し、仏教図像や様式的な面で、多くの共通点を見出すことができる。
 ただ、一般的に日本の奈良時代の仏像には金銅、乾漆、または木造像が多いが、統一新羅には木造像がほとんど残っておらず、金銅像と石造像が多く、特に岩壁に浮彫で表現された丸彫りの石造仏が数多く残っている。

 7世紀、8世紀というと、日本では奈良時代にあたります。
 日本と韓国には、実に共通点が多いのです。




 統一新羅初期の仏像としては、慶尚北道、軍威の八公山の阿弥陀三尊像を挙げることができる。
 この三尊仏像の本尊は7世紀後半に現れる降魔触地印の図像であるが、脇侍菩薩の宝冠に化仏と浄瓶があることから、脇時菩薩は観音菩薩像と勢至菩薩像であり、これによって本尊が阿弥陀像であることがわかる。

 慶州に残る7世紀後半頃の仏像は、そのほとんどが三国統一を遂げた文武大王(在位661〜680)と関連してつくられたものである。
 唐を斥けるために法会を開き、679年に完成された四天王寺址出土の緑釉の四天王塼、文武大王没後の火葬址であることが判明した陵只塔遺跡の塑造四方仏像破片、また崩御後に国を守護する「護国大龍」となることを望んだ文武大王のために建てられた感恩寺双塔出土の舎利函、これらはすべて文武大王の時期に王室によって発願され、7世紀後半の仏教美術を代表するものである。

 また、慶州・雁鴨池で発見された板仏像は同じ時期の日本の押出仏や、法隆寺壁画の阿弥陀浄土変相図と比較が可能で、当時の東アジアで流行していた説法印の仏坐像との国際的な図像と様式の共通点が認められる。

  軍威、八公山の阿弥陀三尊像は横の脇侍の宝冠に阿弥陀如来の化仏がついていること、及び脇侍が浄瓶を持っていることで阿弥陀如来だと判断されます。
 この阿弥陀如来は、降魔触地印という印を結んでいます。

(※ 石野注)
 軍威三尊石窟というのがHP慶尚北道旅遊に記載されている。多分ここのことだと思う。このHPの下の方にも写真あり。

 阿弥陀如来の簡単な説明は、私のサイトの阿弥陀如来 (3)脇侍で。

 降魔触地印については、私のサイトの基本知識 第5 印相で。




 降魔触地印を結ぶ仏像というのは中国では7世紀後半から見られますが、韓国ではこれが最初の例です。

 このほか、統一新羅の金銅倚座仏や法隆寺献納宝物第148号などにも降魔触地印がみられます。 


(※ 石野注)
 倚座(いざ)については、私のサイトの基本知識 第3 仏像の姿勢にて。



 次に慶州四天王寺址から出土した緑遊四天王塼(りょくゆうしてんのうせん)を観てみましょう。
 文武大王は朝鮮半島を唐の力を借りて統一しました。その後、唐に攻められ、四天王寺を建立します。
 四天王寺というのは日本でも同じですが、鎮護国家の思想によるものです。文武大王は、唐の外圧から統一新羅を四天王の力を借りて守ろうとして四天王寺の建設を始め、679年に完成しました。

 この塼はおよそ縦・横それぞれ70cmくらいです。時代としては7世紀後半。この四天王は邪鬼を台にしていたり、剣や弓を執るなど、一般的な様相をしています。
 また、この四天王は足の筋肉の表現や邪鬼の表情にみられるように、写実的な表現をしているといえます。


(※ 石野注)
 文武大王については、慶州ナビで。
 四天王寺址についてはここで。
 なお、中西章氏の「『三国遺事』の記事を中心としてみた朝鮮新羅寺院の創建縁起の変化」という論文によると唐の恩に報いるため建立された望徳寺という寺院もあるそうだ。これは唐の介入に対抗する四天王寺の存在を唐の使臣の目からごまかすために創建されたらしい。
  外交というのは難しい。



 これは感恩寺址の双塔の全景です。
 文武大王は、護国大龍になることを遺言しました。つまり、死後も龍に姿を変え、新羅を護り続けると遺言したのです。

 感恩寺址に残る西塔からは1960年代に美麗な舎利函が出土しました。また、東西塔から1969年にも舎利函が発見されました。
 舎利函の各面にも武装した姿の四天王が描かれています。


(※ 石野注)
 感恩寺についてはここ(慶州旅行ガイド)や慶州ナビで。
 舎利函についてはここで。また、HP国立慶州博物館 考古館<金属工芸室>に両方の写真が掲載されている。
 また感恩寺東塔舎利具としてHP国立中央博物館にて。


 これは慶州の隆只塔です。ここは文武大王の埋葬場所とされています。
 この塔の内部、東西南北より塑造の四方仏像が出土しています。7世紀の仏像として貴重です。

(※ 石野注)
 陵只塔についてはここで。



 これは慶州の雁鴨池(がんこうち)です。ここは王室の宮殿跡で正倉院ほどではありませんが、金工品など多くの宝物が出土しています。
 ここからは680年代と思われる板仏が出土しています。三尊仏が二体、合掌した単独の仏が八体発見されていますが、全体で2セットになっていたのではないか、と考えられています。

 日本では法隆寺に押出仏と呼ばれる板状の仏像が残っています。また、雁鴨池板仏と法隆寺壁画に描かれた阿弥陀仏は「説法印」を結んでいる点や衣文のしわなどが一致しています。


(※ 石野注)
 雁鴨池についてはHP慶州ナビで。
 雁鴨池で発見された板仏像についてはここで。(HP画面の下の方に宝物が並んでいるが、上から2番目に出ているもの)。またはHP国立慶州博物館 雁鴨池館<仏像>にて。

 法隆寺押出仏についてはHP「塼仏・押出仏・漆箔・切金」にて。




 説法印といえば、これは華厳寺という寺の西塔で出土した仏像鋳型です。これはつまみのついた7cm四方くらいの型で、裏面にはくぼみがついています。ここに溶かした金属などを流し込んで仏像を量産したのでしょう。この型の仏像が説法印を結んでいます。

(※ 石野注)
  華厳寺鋳型はここから。
 なお、「説法印」については先ほどと同じところで。


 



 


 統一新羅の仏教美術の全盛期である8世紀の仏像の代表的な例は、慶州・皇福寺跡塔から出土した舎利函中から発見された純金製の仏立像と坐像である。
 舎利函の銘文から、これらの像は神文王が692年に塔を建てた時と、聖徳王が706年に舎利函を追加した時に納入されたことが推定されている。

 8世紀前半の代表的な新羅仏像としては、甘山寺址で発見された石造阿弥陀像と弥勒菩薩像を挙げることができる。719年と720年に彫刻された作例である。
 新たな衣文形式をもった新羅仏像は、菩薩像の優雅な姿態とともに唐の菩薩像との類似性をもち、日本の法隆寺・橘夫人厨子の門扉に描かれた菩薩像と比較も可能で、国際的な図像と様式との共通性を見ることができる。
 また、甘山寺仏像の新羅的な展開については、日本の唐招提寺講堂の木造仏像とも比較できる。

 慶州の皇福寺の塔は692年に、文武大王の死後すぐに建立されたようです。また舎利函は函の裏に銘文があります。これで舎利函は息子が706年に追加したものとわかります。
 この銘文からは阿弥陀仏もまつったことがわかります。その際、陀羅尼経も納めたようですが、腐朽して現在残っていません。
 舎利函から発見された二体の純金仏像では、坐像の方が舎利函の銘文に記載されたものと考えられています。そして立像の方は、坐像と比べると様式などから考えて、やや時代が古いのではないか、唐代とか、この塔が建立された頃のものではないかと考えられています。

 また、この坐像は龍門石窟万仏洞の仏像と様式が似ています。


(※ 石野注)
 皇福寺の石塔についてはここで(上から4つ目の写真)。
 皇福寺出土の純金製如来立像については、奈良国立博物館HPの図5にて。この立像の製作時期は、このHPでも690年頃とされている。

 龍門石窟万仏洞については、ここなどで。万仏洞は680年に完成した。  



 甘山寺址からの石造仏としては、右手を曲げているものと左手を曲げているものの二種があります。
 左手を曲げた方は、例えば唐8世紀頃の中国仏像の最盛期を示す大理石製の菩薩立像(ロックフェラー美術館所蔵)と作風がよく似ています。それは例えば身体の流れるようなラインや、写実的な装飾品の部分に現れています。
 また、日本の橘夫人念持仏厨子門扉裏絵の線刻画に描かれた仏像にも作風が似ています。
 衣が身体に張り付いたようになっている点は中国的ですが、表情は韓国化していると言えます。

 このほか、右手を曲げた方は奈良国立博物館所蔵の統一新羅金銅仏や雁鴨池出土の金銅仏(9世紀)に作風が似ています。

 唐招提寺講堂の一木造りの木造仏や元興寺木造薬師仏と雁鴨池の仏像は作風が似ています。つまり中日韓で同一図像といってよいのです。


(※ 石野注)
 甘山寺址三層石塔についてはここで。
 甘山寺出土阿弥陀像・弥勒像についてはHP国立中央博物館にて。またはここでも。ここも。ここには4種類も写真がある。
 ここも。(ハングルなんで何が書かれているか、さっぱりわからないが)

 橘夫人厨子についてはここなどで紹介されているが、扉絵まではわからない。


 




 新羅時代の石造仏像群の中で、慶州・掘佛寺址の四面石仏に彫刻された仏像群は、8世紀、新羅で製作された仏像に多様な図像があったことを示唆し、また石造を取り扱う新羅人たちが優れた彫刻技術を持っていたことを物語っている。

 特に北面に線刻された十一面八臂の観音菩薩像は、新羅で受容された密教系像の初期例である。
 これ以外に、慶州・南山に彫刻された70余躯の石仏、吐含山頂上にある石窟庵の仏像群は、統一新羅における仏像表現の絶頂期を代表する。

 さらに、石窟庵像中の八部衆像、四天王像、十一面観音像と、日本の法隆寺、興福寺、東大寺に伝わる仏像との関連性からは、韓国と日本という二つの国の、8世紀仏教美術における国際的な共通性が見出される。
 日本の作例が時代的に早い場合もあるにせよ、当時の中国・唐、韓国・統一新羅、そして日本の奈良時代が共有した仏教文化の国際的性格が歴然とあらわれている。

 韓国では石仏が多いのですが、慶州掘佛寺址の四面石仏は西面が阿弥陀如来、東面が薬師如来、そして北面に線刻で十一面六臂の観音菩薩立像が刻まれています。
 日本では十一面観音や千手観音など多面多臂の観音菩薩像が数多く残っていますが、韓国ではこの例ぐらいです。


(※ 石野注)
 掘仏寺についてはHP慶尚北道旅遊で。またHP掘仏寺址(慶州)でも。
 なお、ここでは11面「6」臂とある。私のメモでも通訳の方は「六臂」と言ったように書いてある。パンフのレジュメでは「八臂」だが。

 南山七仏庵磨崖石仏についてはここのHPの下の方で。
 茸長寺についてはここで。またはここでも。またはHP慶州旅行ガイドでも。


 石窟庵は、前室と円形の主室から成っています。
 前室には天部や仁王、八部衆が刻まれています。主室の中央には大きな本尊が安置され、主室の壁には上段に菩薩、下段に仏弟子の像があります。

 石窟庵の迦楼羅像(かるらぞう)は、法隆寺五重塔内の塑像や興福寺乾漆八部像と作風が似ています。
 なお、八部衆というと陳田寺址三層石塔の下段に彫刻された八部衆があります。韓国では、この石塔のように基壇部の四面に二体ずつ刻む例が多いのです。

 石窟庵の四天王は邪鬼を踏まえ、剣を取ったり多宝塔を掌に乗せたりしています。
 また、石窟庵の梵天、帝釈天は五鈷杵を持っています。法隆寺食堂に伝来する塑造の梵天、帝釈天に様式が似ています。
 また、興福寺に元々あったと伝えられ、現在はサンフランシスコのアジアン・アート・ミュージアム所蔵の梵天・帝釈天とも様式が似ています。
 なお、8世紀の中国には梵天・帝釈天の仏像は残っていません。

 石窟庵の十大弟子像は、インド人や胡人など表情は多様です。

 石窟庵の文殊菩薩や普賢菩薩を観てみましょう。衣文が下にのびている点、瓔珞がやや横にずれている点など、動きを表現しているといえます。
 また、十一面観音像は瓔珞を実に細かく表現している点に特徴があります。

 唐檀木九面観音像や法隆寺金堂壁画の十一面観音像などとの関係にも注意が必要です。

 石窟庵主室の上部壁面の仏龕諸像の中に維摩居士と文殊菩薩が向かい合った像があります。これは法隆寺五重塔北面の維摩文殊対談像と様式が共通しています。 

 石窟庵の本尊は清涼寺石仏坐像と様式が似ています。


(※ 石野注)
 石窟庵については慶州旅行ガイドで。HP慶州ナビでは平面図あり。
 陳田寺石塔についてはここで。
 清涼寺石仏坐像についてはここのHP韓国の石仏と石塔で。

 

 


 但し、8世紀の韓日仏教美術において注意すべき点は、新羅では降魔触地印の仏坐像が大きく流行したのに比べ、日本の奈良時代ではこの降魔触地印の仏坐像が単独像としては製作されなかったことである。

 また、新羅では密教美術が特に流行することがなかったが、日本では平安時代から真言宗の密教美術が大いに流行し、降魔触地印の仏像は五仏のひとつに含まれたのであった。

 7世紀後半から8世紀の韓国と日本の仏教彫刻は、唐の先進文化を基に図像と様式の面において互いに密接な関係を保ちながらも各々の美的・造形的レベルを高め、9世紀から独自の発展を遂げていくうえで、その土台となった。

 このように韓国では降魔触地印の仏像が非常に多いのに比して、日本では降魔触地印の仏像が非常に少ないことが特徴です。

 また、慶州仏国寺金銅毘盧舎那仏や石南寺石造毘盧舎那仏(776年)などに見られるように韓国では智拳印を結ぶ毘盧舎那仏は必ず単独仏として表れ、日本の仏像のように五智如来の一つとしては現れないのが特徴です。

 到彼岸寺の鍛造毘盧舎那仏(863年)、東京国立博物館所蔵の金銅毘盧遮那仏(9世紀)もご覧下さい。

 韓国の仏像の特徴としては、一つ目には降魔触地印の仏像が多いこと、二つ目には智拳印を結ぶ仏像も密教ではなく、華厳経の流行を示すものとして表れていることです。

 統一新羅様の仏像のまとめとして、7世紀後半から8世紀にかけて中国の影響を韓国も日本も受けてきたのですが、9世紀からそれぞれ独自の発展を遂げていったと要約することができると思われます。

 どうもありがとうございました。

 
(※ 石野注)
 仏国寺についてはHP慶州ナビにて。またHP吐含山仏国寺にて。
 石南寺についてはここで。
 到彼岸寺毘盧舎那仏はここで。

 智拳印については私のサイトの基本知識 印相にて。
 また、五智如来もここで。
  

 

 




 どうもお疲れ様でした。

 
  

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