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(No77) 正倉院学術シンポジウム2006 その4 「聖武天皇 〜その出家への道」 聴講記 その1 

 2006年10月29日(日)に開催された正倉院学術シンポジウム2006は、春日大社「感謝・共生の館」にて午前9時より、梶谷亮治奈良国立博物館学芸課長の司会進行により、湯山賢一奈良国立博物館長及び葉室頼昭春日大社宮司の挨拶を経て開会された。

 4番目の講演は、華厳宗管長・東大寺別当:森本公誠氏による「聖武天皇 〜その出家への道」である。

 6Pに及ぶレジュメが配られたが、全部書き写すのも大変なので、関連のあるところだけ白枠内に示す。



 I 経史を学ぶ

1.文武天皇「博く経史に渉(わた)り、尤も射芸を善くしたまふ」(『続日本紀』(1)−3)。
[註] 「経史」とは中国の儒教の経典と歴史書のこと。具体的には前者はとくに易経・書経・詩経・礼記・春秋の五経を指し、史書は史記・漢書・後漢書の三史を指す。

2.「舎人王子、広く内典を学び、兼ては経史を遊覧し、仏法を敬信し、人民を慈愛す」(唐僧思託『大和上鑑真伝』。

3.大宝2年(702)、遣唐執節使粟田朝臣真人「好く経史を読み、属文を解し、容止温雅なり」(『旧唐書』東夷、日本国)。

4.神亀2年(752)12月、聖武天皇詔「死せる者(ひと)は生くべからず、刑(ぎょう)せらるる者(ひと)は息(いこ)ふべからず。此れ先典の重(たっと)ぶる所なり」(『続日本紀』(2)−165「死者不可生、刑者不可息・・・」/『史記』孝文本紀第10、『漢書』刑法志第3、「夫死者不可復生、刑者不可復属、」「・・・終身不息」)。

5.天平6年(734)7月、詔「・・・良に朕が訓導(おしえ)の明らかならぬに由りて、民多く罪に入れり。責めは予(われ)一人に在り。兆庶に関(あず)かるに非ず。・・・」『漢書』 元帝紀第9、「・・・百姓有過、在予一人、其赦天下」)。

 今回の正倉院展は聖武天皇1250年遠忌にちなんで袈裟が展示されております。この袈裟は遠山形式のもので、これは管長になるまで着ることを許されない、格式の高い袈裟です。

 聖武天皇が実際に袈裟を身に付けていたかどうかは疑問です。一説では、この袈裟はインドの高僧金剛智の袈裟が伝来したものだとも言われています。もし、それが事実なら大変なことですが。

(※ 石野注)
 七条刺納樹皮色袈裟の画像については、正倉院HPのここで。
 また、管長は確か「えんざん形式」とか何とかおっしゃったと思うのだが、よくわからない。

 さて、単なる帰依と出家とは全く次元が違います。この点、聖武天皇は評価が分かれています。今日は皆さんそれぞれ聖武天皇になったつもりでお聴きください。

 聖武天皇は、最初から天皇になると確定していたわけではありません。14歳の時に初めて皇太子となりました。
 それ以後、10年間徹底した帝王学を受けました。教官の責任者は東宮府の藤原武智麻呂
(ふじわらのむちまろ)です。彼は藤原不比等の嫡男です。

 武智麻呂は四書を吟詠したと伝えられております。聖武天皇21歳の時には教育係が16人いたと言われております。
 即位されるまで何を学んだか、ということですが経史(けいし)を学んだと伝えられております。この経史とは五経三史をいいます。

 文武天皇は聖武天皇の父親ですが、『続日本紀』に「尤も射芸を善くしたまう」という記述が残っています。射芸とは弓のことで、こうしたたしなみを六種あげて六芸
(りくげい)と言います。

 
(※ 石野注)
 「六芸」(りくげい)とはWikipediaによると、礼・楽・射(弓)・御(馬術)・書・数の六つを指すようだ。

 なお、以前仏画ゼミで、「試芸」といって、出家前の釈迦が武芸争いをしている場面を描いたものを紹介したが、これも六「芸」と関係があると思う。



 聖武天皇は25歳の時、死刑は更生の余地がないので罪一等を減ぜよという詔を出しました。実はこれには原典があり、『史記』孝文本紀文帝の条にほとんど同じ内容の文章があります。
 漢の文帝は、ある娘の嘆願書を容れて、肉刑を廃止したのです。もっとも、次々代の武帝の世にはすっかり復活しており、司馬遷自身も腐刑、つまり男性のシンボルを切られる刑に処せられております。

 
(※ 石野注)
 『史記 I 』本紀(著:司馬遷。訳:小竹文夫・小竹武夫。ちくま学芸文庫)P315には、斉の太倉令(租税を収納する倉庫の長官)淳于公(じゅんうこう)の娘緹縈(ていえい)が「肉刑廃止」を上書したとある。



 聖武天皇は、経史は自らの治世の範にできると考えていました。即位10年目に「責めは予一人に在り」という詔を出していますが、これもまた漢の文帝に先例があります。

 元明天皇(祖母)が亡くなった時、元正天皇に対し反乱を考える者がおりました。ある貴族が元正天皇を批判したと密告する者がいました。これは本来斬罪に値するのですが「伊豆・佐渡への流罪」に減刑されたと伝えられております。 


(※ 石野注)
 責任は自分にあるという詔及び文帝における先例というのは上掲レジュメ5に出ているが、後段の元明天皇云々のところは何のことかさっぱりわからない。

 何せお昼ご飯(以前、鑑賞記(62)で紹介したオフィシャルフードの神米粥)を食べた後の昼一番の講演だったものでかなり睡魔に誘惑されていた。メモ違いも多いと思う。

 『仏教発見!』(著:西山厚。講談社現代新書)P34には、聖武天皇の祖母にあたる元明天皇は、聖武天皇21歳の時に亡くなったが、その際、生あるものは必ず死ぬ。これは天地の理(ことわり)で悲しむ必要はないとして、葬儀をしないよう言い残したとあった。

 同書には「政変、旱魃(かんばつ)、飢饉、地震、病気。子どもを亡くした聖武天皇に、次から次へ、毎年のように苦難が襲いかかった。天平6年(734)、聖武天皇は言った。「責めは予(われ)一人に在り」。自分の政治に問題があるからこのような天変地異が起きるのだ。責任は私一人にある」ともあった。

 後段の元正天皇に対する謀反云々はよくわからない。元正天皇は、草壁皇子と元明天皇との間の子で、聖武天皇の父である文武天皇の姉。








 II 祥瑞・災異思想の呪縛

1. 和銅8年(715)8月、左京の役人、霊亀献上、「長さ七寸、巾六寸、左目白く、右目赤し。頸には北極星を守る三つ星、背には北斗七星を背負い・・・・・」=治武省式「大瑞」の神亀。

 4日後の翌9月2日、元明天皇譲位の詔。同日氷高内親王、大極殿にて即位。 

 元正天皇詔「・・・・・左京職の奉る瑞亀を得た。即位に臨んで天が嘉瑞を表した。〜和銅8年を改めて霊亀元年とする」(『続日本紀』1−233、2−3)

2.養老7年(723)10月、元正天皇詔「今年9月7日、左京の人紀家が献上の白亀につき、治部省が奏上して云うには、『孝経援神契』に「天子孝あるときは天竜降り、地亀出ず」〜とある、と。この天地が示した霊貺(れいきょう)は国家の大瑞であると知った。〜」(『続日本紀』2−135〜137)

 この3ヵ月余後の翌年2月4日、元正天皇譲位。

詔「・・・私(元正)が皇位を継いでいると、去年9月、天地の貺(たま)える大瑞(白亀)が現れた。これは〜皇位を継承する聖武天皇の治世の名を記そうと応え現れたものであると思うので、神亀の2文字をもって、養老8年を神亀元年と改め、吾が子聖武天皇に皇位を授け譲ろうと思う」。(『続日本紀』2−141)

3.養老5年(721)2月、元正天皇詔「世の諺に『歳申に在る年は、常に事故(こと)あり』と云う。〜去りぬる庚申の年(養老4年)には咎徴屡見(きゅうちょうしばしばあらわ)れて〜旧典に聞くに、『王者の政令は事に便あらずは、天地譴(とが)め責めて咎徴を示す』と。〜」(『続日本紀』2−89〜91)

4.神亀4年(727)2月、聖武天皇詔「比者(このころ)、咎徴荐(しきり)に臻(いた)りて災気(わざわいのき)止まず。如聞(きくな)らく、『時の政(まつりごと)違ひ乖きて、民の情(こころ)愁へ怨めり。天地譴(とがめ)を告げて鬼神異を見(あらは)す』と。朕、徳を施すこと明かならず、仍(なほ)、懈(おこた)り缼くること有るか〜」(『続日本紀』2−179)


 董仲舒は前漢時代の人物ですが、陰陽五行説に基づき天人相関説を提唱しました。これは天変地異は王の責任であるとする考え方です。

 和銅8年には霊亀が献上されたという記述が残っています。
 天皇をやめるきっかけも亀の出現です。

 レジュメの2には白亀が出現したことが書かれています。

 レジュメの3には申の年は不運が多いとあります。また、天変地異も自分に責任があるとする天人相関説の影響が出ていることがわかります。

 レジュメの4では「懈り缼くることあるか」と直属の部下に問うております。 

 
(※ 石野注)
 相変わらず眠気もピーク。ノートを見ると「常にアキは森島」なんて字が書いてある。セレッソ大阪の西澤明訓と森島とのフォーメーションでも考えていたのだろうか。

 講義のメモはほとんど取れていないのだが、「天皇をやめるきっかけも亀」とある。で、レジュメを見ると確かにめでたい亀が出てきたといやあ、年号を改めてみたり、皇位を譲ったりしている。

 ちなみにレジュメ2で下線を引いた部分だが、「吾が子聖武天皇」とある。元正天皇は独身で、当然聖武天皇は自分の子ではなく、弟文武天皇の子だ。「吾が子」というのは、それで合っているんだろうか。譲位する段階ではまだ聖武「天皇」ではないだろうし。


 

 



 少し長くなったので、ここでいったん切っておく。


 どうもお疲れ様でした。

 
  

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