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(No148) 正倉院展公開講座 「光明皇后の楽毅論について」聴講記 その2 平成21年11月7日(土)に、上記講座を聴きに行った時のメモの続き(完結編)。
正倉院展公開講座「光明皇后の楽毅論について」
『雑集』には「帰去来 三界擾々 不可居会」という文章があります。 『雑集』全体に流れるのは「無常感」で、「早還林」、早く林に還りたいとか、「無常臨殯序」、もがり(葬礼)に臨み無常を感じるとか、「有生皆死 自古同然 有盛必衰 何人得勉」、生有るものは皆死ぬなどといった文章が並びます。
用紙は、はくま(石野注 白麻?)紙という高級紙がつかわれています。 実は、私は聖武天皇の書は、歴史上最高の書だと思っています。
皆さんは、正倉院展をご覧になる時、聖武天皇の字の下をくぐって入られることになるのです。 よく、聖武天皇の書を指して神経質・・・・とかおっしゃる方がいますが、およそ実物を観れば「弱々しい」とか「女性的」ということはあたらないと思います。
【 『孝経』、『杜家立成』について 】 『孝経』は儒教の重要な書物で、天地人を貫く最高徳目について記された本であると言われています。 また、『杜家立成』は、非常にきれいな紙を継いで書かれているのが特徴です。 「立成」とは「たちどころに成る」といった意味で、この書の内容は杜先生が書いた、手紙の書き方マニュアルというもので、こういう手紙が来たら、こういう返事を出すといったことが書かれています。 手紙は明治に入ってから・・・・・いや、携帯が普及してから重要性がなくなったと言えるかもしれませんが、それまでは「手紙で人生が決まる」といった面もあり、このような手紙の書き方に関する本はたくさん出ていたのです。 本書には「積善 藤家」という印が押されています。 【 『楽毅論』について 】 『楽毅論』の巻物には「紫微中台御書」という紙が貼ってあります。私は、最初、この紙は新しい(後で貼った)ものかと思っていましたが、そうでもないようです。 光明皇后に関する仕事をする役所が皇后宮識というのですが、光明が皇后でなくなったのにこの名前はおかしいだろうということで、天平勝宝元年(749)に紫微中台に改名されました。 『楽毅論』は、夏侯玄(夏侯泰初)作の文章で、王羲之の楷書の代表作と言われています。 王羲之の書を光明皇后が臨書したと言われていますが、どうでしょう。 さて、なぜ『楽毅論』が献納されたのでしょうか?光明皇后は、『楽毅論』の内容に惹かれたのでしょうか? 744年に、ある事件がありました。聖武天皇が光明皇后以外に生ませた男子、安積皇子が17歳で突然死したのです。これにより藤原家の血をひく阿倍内親王(孝謙天皇)の地位が安泰となりました。 それでは、光明皇后は、王羲之の書そのものに惹かれたのでしょうか?これも、さほどでもないと思います。 『楽毅論』が書かれた紙には、いっぱい線が入っているのですが、これは縦簾紙(じゅうれんし)といって、紙の裏からヘラで線をつけています。 王羲之の書に有名な『喪乱帖』という書があります。 ただ、現存している『喪乱帖』は17行なのですが、珍宝帳には、書の行数が書かれているのですが、17行の書の記載はありません。 光明子が縦簾紙に書写したのは、お手本の底本も縦簾紙もそうだったのではないかと思います。 王羲之の『楽毅論』で最上のものが「余清斎帖」と言われるものです。この「余清斎帖」本の王羲之『楽毅論』と、光明皇后の『楽毅論』を比較してみましょう。 一目で分かるのは、王羲之は字と字の間、行間もゆったりとしているのですが、光明はキチキチという点です。
文中に「燕主之」という字句がありますが(上記「王羲之」で黄色四角内)、光明皇后の書では「燕之主」と書かれています。上下書き間違えたのですが、光明は動じません。 冒頭の部分ですが、「世人多以楽毅」という字句がありますが、光明皇后は「世人以楽毅」と書いています(下図「ア」)。「多」を書き落としているのです。 また、文中に「或者其」という字句があるのですが、「或」と「者」は意味の上からくっつけなくてはいけないのに、(上図「イ」)空けて書いています。 また、最後の所で「楽生」(下図「A’」)と書かねばならないのに、「生」を書き漏らして「楽」と書いています。(下図「A」)
(「施」や「長」という字を個別に比較。) 縦の線がクネクネしていたり、線の先が跳ねて踊ったり、どうも気合が入りすぎて全体のバランスが悪いような気がします。 また、光明皇后の書き癖というか「二城」という字句は、どこでも「ニ」の字が小さくて「城」の字にくっついてしまっています。
また、ラスト3行の所で紙を継いで(上図矢印「2」)新しい紙を使い、更に日付・署名の奥付は、また別の紙を継いで(上図矢印「3」)います。 光明皇后は、おそらく『楽毅論』を何回も書いたのでしょう。でも、なぜこれを献納したのでしょう? 整理しますと、私は『雑集』と『孝経』は、内容の素晴らしさで選ばれたと思います。 さて、『楽毅論』などに使われている紙は特別な紙でした。ですから献納された書を選ぶ基準には、光明皇后の紙に対する関心もあったかもしれません。
お疲れ様でした。
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