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(No148) 正倉院展公開講座 「光明皇后の楽毅論について」聴講記 その2

 平成21年11月7日(土)に、上記講座を聴きに行った時のメモの続き(完結編)。

 
 

 


 

正倉院展公開講座「光明皇后の楽毅論について」 

                     奈良国立博物館学芸部長 西山 厚



【 聖武天皇の書について 】

 御書箱に納められた書のうち、元正天皇『孝経』は現存していません。
 光明の『頭陀寺碑文并杜家立成』は、頭陀寺碑文の部分はなくなり、「杜家立成」の部分だけが残っています。
 また、聖武天皇の『雑集』も前半部分は破損がひどいです。結局、完全な形で残っているのは『楽毅論』だけということになります。

 『雑集』には「帰去来 三界擾々 不可居会」という文章があります。
 
「もうヤダ・・・・・・。帰りたい」というような意味です。

 「天平三年九月八日写了」とあります。聖武31歳です。この『雑集』には145編の文章が収められています。
 その中には「盧舎那像讃」一首が含まれています。聖武天皇は31歳の時に既に盧遮那
仏のことを知っていたということが言えます。

 『雑集』全体に流れるのは「無常感」で、「早還林」、早く林に還りたいとか、「無常臨殯序」、もがり(葬礼)に臨み無常を感じるとか、「有生皆死 自古同然 有盛必衰 何人得勉」、生有るものは皆死ぬなどといった文章が並びます。

 『続日本紀』養老五年(721)十月十三日に、元明天皇が亡くなる時に枕元に長屋王藤原房前を召し入れ、「死なないものはないのだから、悲しむことはない」と言ったという記事があります。無常感としては共通していると言えるでしょう。

(石野注)
 『仏教発見!』には、元明は「私は聞いている。《万物の生、死ぬること有らずといふことなし》。これは天地の理(ことわり)である。どうして悲しむ必要があるだろうか」と言ったとある。


 『雑集』の22紙目までは線の上に字が書いてあります。これは珍しいことです。23紙目から、通常通り線と線の間に字が書かれています。

 用紙は、はくま(石野注 白麻?)紙という高級紙がつかわれています。

 実は、私は聖武天皇の書は、歴史上最高の書だと思っています。

 書家は、すぐに聖武天皇の書は褚遂良(ちょすいりょう)を学んだとか言います。しかし、どうでしょうか。私は、聖武天皇の方が、褚遂良より上だと思います。

(石野注)
 「塵」、「者」といった字で、聖武天皇の字と褚遂良の字を並べて表示。

 褚遂良の字は、何かの碑文の拓本のようだった。そのせいかも知れないが、聖武天皇の字に比べると何となくモッタリしてるというか、線にキレがないように見え、確かに、私も「聖武天皇の字の方が好きだな」と思った。


 実を言うと、奈良国立博物館で新館を建てる時、良い字はないか?と言われて「奈良国立博物館」という題字は、聖武天皇の『雑集』から選んできて拡大して使いました。

 皆さんは、正倉院展をご覧になる時、聖武天皇の字の下をくぐって入られることになるのです。

 よく、聖武天皇の書を指して神経質・・・・とかおっしゃる方がいますが、およそ実物を観れば「弱々しい」とか「女性的」ということはあたらないと思います。

 そんなことを言うのは、おそらく現物を知らない、小さな、写真でしか見たことのない人でしょう。

 聖武天皇は確かに身体は弱かったでしょうが、心は強い方だったと思います。

 


【 『孝経』、『杜家立成』について 】

 『孝経』は儒教の重要な書物で、天地人を貫く最高徳目について記された本であると言われています。

 『大宝令』『養老令』では、大学の必修科目とされていました。

 孝謙天皇は天平宝字元年(757)に、「民を治め国を安んずるは必ず孝を以て理む。天下をして家ごとに『孝経』一本を蔵め〜」と、各戸に一冊『孝経』を備えよという布告を出しています。

 『孝経』は、それだけ内容が大事な書であると言えます。

 また、『杜家立成』は、非常にきれいな紙を継いで書かれているのが特徴です。

 「立成」とは「たちどころに成る」といった意味で、この書の内容は杜先生が書いた、手紙の書き方マニュアルというもので、こういう手紙が来たら、こういう返事を出すといったことが書かれています。

 手紙は明治に入ってから・・・・・いや、携帯が普及してから重要性がなくなったと言えるかもしれませんが、それまでは「手紙で人生が決まる」といった面もあり、このような手紙の書き方に関する本はたくさん出ていたのです。

 本書には「積善 藤家」という印が押されています。
 『藤氏家伝』という書には「積善余慶 胎厥哲人」という字句があります。
 「積善 藤家」というのは、藤原家は善行を積み重ねた素晴らしい家というようなことですから、自分でこんな印を堂々と押すというのもどうかと思うのですが、『杜家立成』は、この印から見ても藤原家と深い関係があるのは間違いないでしょう。


【 『楽毅論』について 】

 『楽毅論』の巻物には「紫微中台御書」という紙が貼ってあります。私は、最初、この紙は新しい(後で貼った)ものかと思っていましたが、そうでもないようです。

 光明皇后に関する仕事をする役所が皇后宮識というのですが、光明が皇后でなくなったのにこの名前はおかしいだろうということで、天平勝宝元年(749)に紫微中台に改名されました。
 この紫微中台は、天平宝字二年(758)に、さらに坤宮官に改名されたので、紫微中台御書という紙は、749年から758年の間に貼られたものと考えられます。

 『楽毅論』は、夏侯玄(夏侯泰初)作の文章で、王羲之の楷書の代表作と言われています。

 王羲之の書を光明皇后が臨書したと言われていますが、どうでしょう。

 さて、なぜ『楽毅論』が献納されたのでしょうか?光明皇后は、『楽毅論』の内容に惹かれたのでしょうか?

 『楽毅論』は、燕の将軍楽毅が、斉を攻めた際、七十余りの城を陥落させながら、最後、残る二つの城を攻めなかったことを「敵に内通している」と疑われたことを、魏の夏侯玄が、それには理由があったのだと弁護した文章です。

 744年に、ある事件がありました。聖武天皇が光明皇后以外に生ませた男子、安積皇子が17歳で突然死したのです。これにより藤原家の血をひく阿倍内親王孝謙天皇)の地位が安泰となりました。
 当時、藤原氏による毒殺ではないかと噂されました。光明皇后は、自分と同じように身に覚えのない「冤罪」に陥れられた楽毅に共感したのでは・・・という説もあるのですが、私は疑問だと思います。

 それでは、光明皇后は、王羲之の書そのものに惹かれたのでしょうか?これも、さほどでもないと思います。

 『楽毅論』が書かれた紙には、いっぱい線が入っているのですが、これは縦簾紙(じゅうれんし)といって、紙の裏からヘラで線をつけています。
 細かい線で、1字あたり3本くらいの線にまたがって書かれています。
 特別な紙で、4〜5点くらいしか現存していません。

 王羲之の書に有名な『喪乱帖』という書があります。
 『国家珍宝帳』に「書法廿巻」と王羲之の巻物が20巻あると書かれているのですが、この一つが『喪乱帖』ではないか?と思います。

 ただ、現存している『喪乱帖』は17行なのですが、珍宝帳には、書の行数が書かれているのですが、17行の書の記載はありません。

 光明子が縦簾紙に書写したのは、お手本の底本も縦簾紙もそうだったのではないかと思います。

 王羲之の『楽毅論』で最上のものが「余清斎帖」と言われるものです。この「余清斎帖」本の王羲之『楽毅論』と、光明皇后の『楽毅論』を比較してみましょう。

 一目で分かるのは、王羲之は字と字の間、行間もゆったりとしているのですが、光明はキチキチという点です。

 

王羲之 光明皇后

 文中に「燕主之」という字句がありますが(上記「王羲之」で黄色四角内)、光明皇后の書では「燕之主」と書かれています。上下書き間違えたのですが、光明は動じません。
 良く見ていただくと分かりますが、字の横に「レ」点(返り点)が書かれています。「燕之主」は、「燕主之」ですよという感じです。

 冒頭の部分ですが、「世人多以楽毅」という字句がありますが、光明皇后は「世人以楽毅」と書いています(下図「ア」)。「多」を書き落としているのです。

 また、文中に「或者其」という字句があるのですが、「或」と「者」は意味の上からくっつけなくてはいけないのに、(上図「イ」)空けて書いています。
 空くのはおかしいのです。光明皇后は中身を読んでいないのでは?と思います。

 また、最後の所で「楽生」(下図「A’」)と書かねばならないのに、「生」を書き漏らして「楽」と書いています。(下図「A」)


 日付を見てください。
 天平十六年の「十」という字ですが・・・・・・・これは「六」と書きかけて、上からなぞって強引に「十」にしたと思われます。

  (石野注)
 上図「B」。

 西山先生の「書き間違えて上からなぞった」という話を聴いて、思わず「やった!」と叫びそうになった。

 と言うのも、私もこれを観て、全く同じ感想を持ち、HPの鑑賞記で「『十』六年の『十』は二度書きでもしたかのように線が太いし」と書いたからだ。


 多くの脱字や書き間違いがあるなど、手本を横に置いて忠実に模写した、きちんと臨書したとは言えないのではないか?と感じます。

(「施」や「長」という字を個別に比較。)

 縦の線がクネクネしていたり、線の先が跳ねて踊ったり、どうも気合が入りすぎて全体のバランスが悪いような気がします。

 また、光明皇后の書き癖というか「二城」という字句は、どこでも「ニ」の字が小さくて「城」の字にくっついてしまっています。
 要するに、王羲之の書を学んだのは間違いありませんが、光明皇后は存分に自分の個性を発揮しているということです。

 

 また、ラスト3行の所で紙を継いで(上図矢印「2」)新しい紙を使い、更に日付・署名の奥付は、また別の紙を継いで(上図矢印「3」)います。

 なぜ奥付だけ別の紙なのでしょうか?本文と奥付は別の時代なのだという説もありますが、私はその説には与しません。

 光明皇后は、おそらく『楽毅論』を何回も書いたのでしょう。でも、なぜこれを献納したのでしょう?
 また、『杜家立成』は、手紙の書き方なんてことはどうでいい、中身は大したことのない書です。

 整理しますと、私は『雑集』と『孝経』は、内容の素晴らしさで選ばれたと思います。
 そして『楽毅論』と『杜家立成』は藤原氏との「縁」で献納物として選ばれたのではないかと思います。

 聖武天皇の書が一巻だけなのに、光明自身の書は二巻なんて、ちょっと厚かましいって感じませんか?

 さて、『楽毅論』などに使われている紙は特別な紙でした。ですから献納された書を選ぶ基準には、光明皇后の紙に対する関心もあったかもしれません。 

(石野注)
 講演終了後、司会者が「光明皇后って、どんな人なのか一言で言っていただけませんか?」とリクエストしていた。

 それに答えて曰く、

「強い人でもあり、弱い人でもある。
 有能な政治家でもあり、優しい女でもある。

 そうした二面性や矛盾を内包した女性だったと思います」という回答で締めくくられた。

  

 なお、西山先生のコラムはここ。 

 


 お疲れ様でした。

 いつものことですが、録音などをしておりませんので記録違い、記憶違いはご容赦ください。

 
  

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