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(No149) 正倉院学術シンポジウム2009「皇室と正倉院宝物」 聴講記 その5

 平成21年10月31日(土)に、上記シンポジウムを聴きに行った時のメモの続き。

 
 

 


第2部 パネル・ディスカッション

「皇室と正倉院宝物」 
  パネリスト 清水健・野尻忠・西川明彦・米田雄介
  司会進行 戸田聡(読売新聞大阪本社記者)

 

【戸田】 まず、先ほど発表していただいた皆さんに、時間が限られていたせいで言い残したことがあれば、一言ずつお願いします。まずは清水さんから。

【清水】 何せ時間がなかったので、言い足りないといえば、すべて言い足りないのですが、きっと戸田さん自身もいろいろお話されたいことがあって、その時間が足りないと思うので・・・・・・・・・

(石野注)
  ・・・・・云々と長々しゃべるので、もう補足はしないのか?と思ったら、しゃべり出した。時間がないと言ってるなら、要らん前置きは省略してくれ。


 北前所長が整理されたリストで、宝物を入れた厨子自体の年代は不明です。
 赤漆文欟木御厨子は文武天皇由来のものと言われていますが、中に納められた品々は文武天皇のものではありません。
 厨子は朝鮮半島から来たものです。中の宝物も朝鮮のもの・・・という説もありますが、違います。

 たまたまちょうどいい厨子があったので、そこに詰め込んだ・・・というのが正しいと思います。

 例えば碁盤は厨子に入らないので別にしていますが、碁石は入るので、厨子の中に入れたとか。

 言い残したことというか、私が疑問に思っていること、問題提起をしたいと思います。
 正倉院の宝物は、勅封という要因はあるでしょうが、なぜ、これほど残っているのでしょうか?
 後白河法皇も、倉にいろいろ宝物を集めていたようですが、あっという間に散逸してしまったようですし。

【戸田】 次、野尻さん。

【野尻】 本当に時間がないので1点だけ。
 先ほどの資料で、孝謙天皇の自筆があるのにご紹介するのを忘れていました。史料13の沙金請文の「宜」という字は、天皇が「わかった。認めた」という意味で書くサインですが、これは孝謙の自筆です。

 もう一つ、史料14にも同じ「宜」という字があります。この時代の天皇は淳仁天皇ですが、これも孝謙の字という説もあります。

史料13(沙金請文) 史料14(桂心請文)

 

(石野注)
 見比べると書き癖がだいぶ違うように見えるので、13が孝謙なら14は淳仁でいいのでは?と思った。


【戸田】 西川室長、いかがですか。

【西川】 「模造」という事業の意義を認めない動きがあるんですね。なぜ、そんなことをしなくちゃいけないんだ、と。意義を認めてもらえないと、この事業はあっという間に途絶えてしまう。

 それと、政府は、この頃、一切「随契」(注 随意契約。相手方を指定して契約をすること。相手方と癒着して不正の温床になるとか、競争原理が働かず不経済といった批判がある)を認めないんですね。
 何でも入札でやれ、と言う。でも、
こんな事業、入札で出来るわけがないんです。
 事業を理解してくれる作家を見つけるのが、どれだけ大変か。
 それに、仮に入札して、安い値段で落札したとしても、とんでもない出来だと、何の意味もない。

 
他の事業と一緒にはならないんだ、ということを政府の役人に「通訳」しなければならない。それも私の仕事なんだと思っています。

【戸田】 米田先生、お願いします。

【米田】 先ほど、万葉集とか言いましたが、大伴家持の歌を紹介します。

 
「始春(はつはる)の初子(はつね)の今日の玉箒 手にとるからに 揺らぐ 玉の緒」

 解説書には、「ゆらぐ」とは「音をたてる」という意味で、たまほうきの涼やかな音を聞いて、さわやかな気分になったというようなことが書いてありました。

 箒の先には、ガラス玉がついています。このガラス玉がぶつかり合ってたてる音をさしているという説がありますが、それは間違いだと思います。
 玉の「緒」とは紐のことです。
 箒の持ち手の部分は鹿革を巻き、金糸で縛ってありますが、そこに紐がついていて、その先の玉が音をたてたのではないでしょうか。

【戸田】 それでは、この後は私からご質問させていただきます。

 清水さん、先ほど『国家珍宝帳』の記載順は、北氏は「身の回り」から「遠く」への順としているが、清水さんは、精神性の高いものから・・・という説を提唱されました。精神性と位置関係というのはリンクするのでしょうか?

【清水】 
あまりそういうことを考えたことがないのですが、西山部長が「袈裟で始まり、ベッドで終わる。この順番は素晴らしい」とおっしゃってるんで、その理由を訊いてみたいんですが。

(石野注)
 司会者の質問には答えず、何を訳の分らんことを言い出したんだ?と思った。
 司会の戸田氏も
「西山先生のご意見なら、直接西山先生にお聞きになったらいいんじゃないですか?」と呆れたように答えていたのだが、どうも清水氏は、会場に西山部長が来ているのを目ざとく見つけて、話を振ったようであった。

 戸田氏もそれに気付き、西山部長を指名した。



【西山】 まず言いたいのは、珍宝帳のすべての宝物が、一定の論理に従って整然と整理されているものではないだろうということです。
 そこまで考えていないんじゃないか。ですから、完全なルールを見出そうとすると無理が生じる。

 ただ、袈裟が一番にあげられていることには意味がある。
 袈裟は、師が悟りを開いた弟子に与えたりしますね。仏法の象徴と言ってもいい。
 ですから、この
すべての宝物の中で袈裟が一番重要なものであることは間違いがない。

 それと私が注目したいのは、「御」という字です。

 珍宝帳の宝物の中には、「御」という字が付いているものと付いていないものがある。「御」書とか、「御」大刀とか。
 この「御」がついているのは、聖武天皇のものなんです。

 ですから「御」袈裟というのは、まさに聖武天皇の袈裟ということで、それは、実際に、聖武天皇が身に付けたことがあるのか、どうなのかなんてことは全く関係がない。

 尺八も、厨子に入っているものと、そうでないものは、やはり違いがあるのでしょう。
 そういう意味でいうと、赤漆文欟木「厨子」・・・は「御」という字はついていないんです。
 ですから、大事なものとしたいんでしょうが、
「御」厨子と呼ぶのは間違いだと思います。

・・・・・・・・・いずれにせよ、袈裟で始まり、ベッドで終わる・・・・・素晴らしい順番だと思います。

(石野注)
 昨年買った『正倉院展 六十回のあゆみ』(奈良国立博物館)という記念図録にもはっきり赤漆文欟木「御」厨子と書いてあるのだが、はっきり内部告発とゆうか、喧嘩を売った西山部長であった。

 それと「袈裟で始まりベッドで終る」は、 「今朝」で始まり、ベッド(夜)で終わる・・・・で、「ライオンは おはようからおやすみまで暮らしを見つめます」のパロディなのかな?と思ったのだが、違うのかな。・・・・・・違うんだろな。
 



【戸田】 正倉院の宝物がこれだけ残っている要因としては、勅封と曝涼(ばくりょう)というのは外せないと思いますが、米田先生、少しご説明いただけませんか?

【米田】 勅封は、いつから?という点ですが、奈良時代とも平安時代とも言われています。

 平安時代、藤原道長が「勅封の倉・・・」と言ったという文献が残っています。

 聖武天皇遺愛の品は北倉に納められています。
 この北倉の開閉には、必ず中務省(なかつかさしょう)の監物(けんもつ)という役職の者が立ち会っていました。

 現在のように天皇の勅を受けて封をする、封に天皇が字などを書くようになったのはいつか?という点については、鎌倉時代の後半頃とか、もう少し後?室町時代という説もあります。

 校倉は、北倉だけではありません。中倉は勅封ではありませんでした。

 東大寺の僧侶が封をする坊封というのもありました。
 明治8年に倉の管轄がすべて国へ移管したので、以後は完全な勅封ということになります。

 曝凉については、奈良時代から行われていました。
 延暦6年(788)、奈良時代の末から平安時代初期にかけて4回くらい宝物を点検したようです。

(石野注)
 この資料には、『延暦六年曝凉帳』など正倉院宝物の点検記録のことなどが載っているようである。


 倉庫も、最初の校倉がずっと使われているわけではなく、何度か修理されています。その時には当然、中の宝物は外に出すことになります。
 倉庫修理の時に、宝物に風を通すということは割とひんぱんにやっていたようです。

【戸田】 ちょっと意地の悪い質問なんですが、勅封が破られたことは史上一度もないのですか?

【米田】 ある・・・・・と言えばおもしろいんでしょうが、正式に言うと「ない」・・・・ということになります。

 少なくとも勅封を破って、正面から堂々と入った盗賊はいない。

 泥棒はいましたが、床下から・・・・とか、裏から入っています。

 



(2010年1月24日補足分)

 その後、司会から西川室長に、実際の開封される時の様子が質問された。

 西川室長は「そう来ると思って・・・・・」と貴重な写真を公開しながら手順を説明された。

 その中には、昔の、本当の正倉で開封されている様子も出ており、「正倉院の正門には、こんなゴツイ錠前がかかっているんでね。まあ、直接、それを破るよりは床下とか、横から入る方がよっぽど早いですよね」と、先ほどの米田氏の回答を補足するようなコメントもされた。

 その後、現在の宝物庫での開封の儀式を、「TVのニュースなんかでも、せいぜい門の中に入るところまでですからね」とか、「この背中が見えてるのが私です」とか笑わせながら紹介された。

 勅封の「ちまき」のようにグルグル巻きにされたところを開封するのが難しい。中には、天皇の真筆や、ぐじゃらぐじゃら・・・・・があって、破ってしまうと大変だし。形骸化の極みだから、いっそのこと全部やめてしまったらいいと思ってるんですと、まず会場を沸かせ、その後、周りのパネリストから勅封の意義深さなどを説かれ、最後に「はい!じゃあ、今後とも勅封の儀式を守っていきます!」と宣言して場内は大歓声、大拍手。

 実にツボを心得た見事なしゃべりっぷりだった。

 

 もう少し詳細に紹介したいのだが、残念ながらメモがどっかにいってしまった。

 反古紙の裏をホッチキスでとめた帳面をメモに使ってるんで、ゴミだか何だか分からない状態。アップし終えた分にまぎれて、一緒に棄ててしまったのかもしれない。

 それで、前回アップした内容に今回の分を補足し、正倉院シンポのメモは完結させていただきます。

 竜頭蛇尾というか、最初も龍とはおこがましいんで、蛇頭ミミズ尾というか・・・・・どうもすみませんでした。

 

 


 お疲れ様でした。

 いつものことですが、録音などをしておりませんので記録違い、記憶違いはご容赦ください。

 
  

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