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(No147) 正倉院展公開講座 「光明皇后の楽毅論について」聴講記 その1

 平成21年11月7日(土)に、上記講座を聴きに行った時のメモ。

 
 

 


 

正倉院展公開講座「光明皇后の楽毅論について」 

                     奈良国立博物館学芸部長 西山 厚


【 献納の理由は? 】

(「楽毅論」の画像を表示。なお、上記【】内の見出しは、石野が勝手につけたもの。以下同じ)
 
 「楽毅論」は、魏の夏侯玄の作で、これを王羲之が書写しました。
 書家は、この「楽毅論」が「書」の最高峰であり、この良さが分かるか否かで、書に対する鑑識眼が試される・・・・・・・などと言いがちで、困ったものです。

(正倉院の画像を表示)

 正倉院は北倉、中倉、南倉に分かれますが、聖武天皇の遺愛の品々は北倉に納められました。

(「東大寺献物帳」という紙が貼られた巻物の画像を表示)

 これは東大寺献物帳、いわゆる『国家珍宝帳』です。
 「皇太后御製」とあります。実際にこの字を書いたのは別人ですが、この文章は光明皇后のものです。

 「献盧舎那仏」とあります。遺愛の品は盧舎那仏に献納されました。

 珍宝帳のトップは「御袈裟」とあります。聖武天皇は出家した最初の天皇です。これは、まさに聖武天皇自身の袈裟です。

 こうした聖武天皇遺愛の品々を、なぜ光明皇后は自分の側に保管せず、大仏に献納したのでしょうか?

  そんなことは百も承知だ。早く本質に入れ。そうおっしゃる方がいるかもしれませんが、ここから始めないと話が始まらないのです。

 どんなことにも、理由(わけ)があります。その理由は、光明皇后自身に訊いてみれば良いのです。『国家珍宝帳』の末尾に、その理由が書いてあります。

 「私自身の言葉で表現すれば『どんなことにもわけがある』というのが『縁起』である」という言葉が、西山先生の『仏教発見!』にある。


 そこには
「觸目崩摧」とあります。この品々を目にしてしまうと、泣き崩れ、私の心が砕けてしまう。だから、手元に置かずに献納したのです。
 ここが一番大事なところです。

(軾の画像を表示)

 これは長斑錦御軾(ちょうはん きん の おんしょく)という肘掛け、クッションです。写真ではよく分かりませんが、実物を観るとちょっとつぶれています。

 このつぶれている所を見たら、光明皇后は、そこに体を凭(もた)れさせている最愛の聖武天皇の身体が見えたことでしょう。 

 こうしたことに耐えられないので、献納したのです。




【 なぜ大仏に献納したのか? 】

 では、なぜ、いくらも仏像はあるのに、東大寺の大仏に献納したのでしょうか?

 それには、まず、なぜ東大寺の大仏が造られたのか、その理由を知らねばならない。

 その理由は、これも聖武天皇自身に訊いてみればよいのです。

 これは天平15(743)年10月15日の『大仏造立の詔』に書いてあります。

 「動植 咸(ことごと)く 栄えむとす」、人間だけでなく、生きとし生けるもの全てが幸せになる世界をつくりたい、それが聖武天皇の願いでした。

 聖武天皇は、大仏を造っている途中でも日に三度拝め、心に大仏を造れなどと言っています。
 ちょっと不思議な言葉ですね。

 また、「一枝の草、一把の土を持ちて、像を助け造らむと情(こころ)に願はば恣(ほしいまま)に聴(ゆる)せ」ともあります。

 私には金も力もない。しかし、草一本、土一にぎりを持って、何か大仏造立を手伝いたいという人がいたら、それを許せと言っています。

 聖武天皇は考え方が極端ですね。

 動植物はおろか、人間だけでも、すべての人が争わず幸せに暮らしていける世界を造るなんてことは絶対に無理だと思います。そんなことが出来る訳がない。

 草一本持ってこられて、それが何の役に立つでしょうか。

 でも、聖武天皇は、本当にそういう人々と一緒に大仏が造りたかった。富や権力で造るのは、た易いが、それでは意味がないと考えていたのです。

 聖武天皇は、真剣に、すべての動植物が栄える世界を造りたいと願っていた。そう考えたのには理由がありました。

 聖武天皇が生きていた時代は惨憺たる時代だったのです。

 旱魃飢饉、大地震、病気(天然痘)、内乱・・・・・。聖武天皇は、そうなった全責任は自分にあると考えていました。

 また、聖武天皇は、自分の子も亡くしました。
 某王・・・・・・これは、本当に某という名前の皇子なのではなく、幼すぎて名前が伝わってないのです。

(以前「奈良ドリームランド」があった場所の近くの「某王」の墓地の画像を表示)

 聖武天皇と光明皇后の間には女の子がいましたが、待望の男の子が生まれ、赤ん坊のうちに皇太子に立てられました。そのようなことは前代未聞、空前絶後のことでした。
 ところが、某王は病気になってしまいました。
 病気治癒を祈願して、聖観音仏像を177体も造り、『観音経』を177回も写経しましたが、1歳を迎える前に亡くなってしまったのです。神亀5年(728)9月13日のことでした。

 聖武天皇は悩みに悩み抜いて大仏造立にたどり着きました。聖武天皇の人生のすべてが大仏に捧げられたのです。

 ですから、聖武天皇遺愛の品々を献じるとしたら・・・・・・・・・これは大仏しかないですね。


 

【 『種々薬帳』について 】 

 同じ時期に献納されたのが『種々薬帳』に記載された薬です。
 聖武天皇のために揃えられた薬で、服む人のいなくなった薬を見るのは辛いでしょう。

 約60種の薬がリストアップされており、死蔵するのではなく病気の人がいれば使いなさいとあります。

(石野注)
 「若有縁病苦、可用者、並知僧綱後、聴充用(若し病苦に縁りて用う可き者有らば、並びに僧綱に知らせて後、充て用うることを聴(ゆる)さん)」とある。


 このようなことも書いてあります。「萬病悉除」、どんな病気も治る。「千苦皆救」、どんな苦しみもなくなる。そして「無夭折」、幼いうちに死なない。
 光明皇后がこの文章を書いた時には、きっと某王のことが胸に去来していたことと思います。



【 厨子について 】

 厨子(赤漆文欟木御厨子)は珍宝帳では二番目に掲げられていますが、実は三番目ではないか?と言われています。
 というのは、珍宝帳の紙に継ぎ目があるので、袈裟と厨子の間に何かが書かれていたのが切られて、継ぎ合わされているのではないかと言われているのです。

 この厨子は天武天皇のもので、正倉院宝物の中でも最も古い物の一つです。珍宝帳には厨子を指して「古様作」と書いてあります。奈良時代の人もその厨子を見て
「古くさいなぁ〜」って思ったんですね。おもしろいと思われませんか?

(石野注)
 珍宝帳の継ぎ目に関しては、ここ(「献物帳」の謎)にて。

 厨子に関する記載については、珍宝帳には「厨子壱口 赤漆文欟木、古様作、金銅作ホ具」とある。


 元正天皇『孝経』をはじめ四巻の書が厨子に入っていました。書がそのまま入っていたのではなく、白葛箱、今回の展示では御書箱(おんしょのはこ)と題されていますが、その箱に納められていました。

 厨子は、天武天皇から持統天皇に賜ったと伝えられています。
 天武天皇の後を継ぐべき草壁皇子が亡くなり、草壁の子である軽皇子(後の文武天皇)はまだ小さかったので、天武天皇の後は持統天皇が立ちました。その後、ようやく文武天皇が即位しましたが、25歳で亡くなってしまいました。

(石野注)
 珍宝帳には、先ほどの「厨子〜ホ具」という字句の後に「右件厨子、是飛鳥浄原宮御宇 天皇傳賜藤原宮御宇 太上天皇、天皇傳賜藤原宮御宇 太行天皇、天皇傳賜平城宮御宇〜」などとある。


 文武の子、首皇子(後の聖武天皇)は幼いため前のパターンでいけば文武の皇后が立つべき(石野注 天武が亡くなった後、皇后の持統が即位した)ですが、文武天皇に皇后はおりません。そこで、文武の母が元明天皇、さらに文武の姉が元正天皇として立ってつなぎました。
 なお、この厨子は、天皇代々に引き継がれるのではなく、文武から元明を飛ばして次の元正に継がれたとなっています。
 これは、草壁皇子の妻である元明天皇は天智系なので、それを嫌って渡されなかったと言われています。

 そして厨子は元正から聖武天皇に引き継がれ、それを継いだ孝謙天皇が盧舎那仏に献じたことになります。

 実は、私は天武が持統に厨子を譲ったということはなかったと思っています。

 天武には草壁の他にも沢山皇子がいて、草壁より優秀な皇子もいたのです。
 ただ、持統は、自分の腹を痛めた子以外には皇位を渡したくなかった。そこで優秀な大津皇子を自殺に追い込んだのだと思います。

 文武天皇は(皇太子草壁の子だから)直系ですが、当時は別に皇位継承は直系に限るというようなルールはなく、草壁の兄弟に渡っても特に問題はありませんでした。

 そこで持統が、天武天皇は天皇の中の天皇である。その天武愛用の厨子を譲り受けるということこそが、正統な皇位継承者の証であるというストーリーを考え出し、自分の血を分けた文武、聖武に皇位が引き継がれる根拠づけに利用したと考えられます。

 さらに、持統は、文武、聖武に皇位が引き継ぐために藤原不比等と手を握りました。文武の妻は不比等の娘である宮子であり、光明皇后も不比等の娘です。



【 藤三娘という署名 】

 『楽毅論』は、天平十六(744)年、光明皇后44歳の時の書です。最後に藤三娘という署名がしてあります。これはもちろん藤原家、不比等の三女という意味です。(石野注 不比等の長女宮子が文武の室。次女は長屋王の室)

 藤という字の中の「氺」の部分がいつも特徴あるんですね。(石野注 「糸」みたいな感じで書いてある)
 問題は「藤三娘」という署名が通常使っていたものなのか、異例なのか。何か理由があって、楽毅論に、藤三娘という署名をしたのか、ということなんです。署名はこの一例しか残っていません。

 不比等は、聖武天皇にとって特別な存在でした。何しろ妻(光明皇后)の父であると同時に、母(宮子)の父でもあるのですから。
 養老四(720)年に不比等は没します。興福寺の北円堂は不比等の冥福を祈るために建立されたものです。さらに、天平十七(745)年、光明皇后は不比等の旧邸を法華寺にしました。

 不比等の真筆である屏風を献納する時の『藤原公真跡屏風帳』には、これは私にとって一番の宝物だということが、いわば公文書に明記されています。とにかく、
光明皇后は「パパ大好き!」なんですね。
 ですから、光明は、父不比等の字に倣っているのでは?と私は思うのですが、不比等の書が残っていないので何とも言えません。
 別の書には「皇后藤原氏光明子」という署名が残っています。とにかく、いつでも藤原家!というのを意識しているのです。

(石野注)
 藤三娘という話の時に「署名はこれだけ」と聞いたのだが、後で別の署名の話が出てきたので、「藤三娘」という署名の例が唯一ということなんだろうと思う。

 ここ(「遠藤昌弘著作選」)によると、貴顕は署名することが希なこと、本文は白麻紙だが、署名部分は黄麻紙を継いでいること、皇后即位後15年も経ってまだ「不比等の娘」なんてことを書くか疑問ということで、光明の自筆か疑われていたそうだ。

 また、聞き漏らした別の署名とは、天平十二年(740)写経の願文であるらしい。
 さらに、楽毅論の前年である天平十五年(743)写経の願文に「仏弟子藤三女」とあるようである。

 また、西山先生によると「不比等の書は残っていない」とのことだったので、献物帳自体は残っているが、肝心の不比等真跡の屏風は残っていないのだろう。
(前掲遠藤論文では、「弘仁五年九月一七日(814)に出蔵の記録があり、のち返納されないものである」との記載がある。)

 なお、上記の「藤」という字については、左写真の青四角内を参照。




【 光明皇后の母と施薬院・悲田院 】

 光明の母は県犬養三千代、又は橘三千代といいます。元は美努王に嫁ぎ、葛城王(後の橘諸兄)らを産みますが、なぜか離婚し不比等のもとに再嫁しました。
 養老五(721)年に出家し、天平五(733)年正月11日に没します。
 今の興福寺西金堂跡に三千代の冥福を祈る碑が残っています。今評判の「阿修羅」は三千代のために造られたのです。

 天平元年(729)、光明子は、皇族以外では初めての皇后となりました。さらに、天平三年(731)には、不比等の子、藤原四兄弟がすべて参議以上、今で言えば大臣に昇進しました。藤原家として絶頂期ともいえる時代です。

 光明皇后は、天平二年(730)に施薬院・悲田院を開きます。
 光明皇后の仕事をする皇后宮職管轄の封戸2000戸、及び皇后が不比等から相続した2000戸の庸物(税収)が施薬院・悲田院の経費に充てられることになっていました。
 実は、興福寺では養老七年(723)に施薬院・悲田院が開かれていたのです。

 そのほか、孝謙天皇が越前国の千町を施薬院に寄進したという記録も残っています。

 天平九年(737)に流行した天然痘で、藤原四兄弟は全滅します。光明はこの時37歳。「藤原家のために、
私がやらねば・・・」という思いを強くしたと思います。



【 刀について 】

 「黒作懸佩」一口という記事が残っています。
 これは元は草壁皇子の刀で、不比等に賜りました。不比等は、これを文武にいったん返したのですが、文武から再び賜りました。その後、不比等はこれを首皇子(聖武天皇)に返したとのことです。

 今回展示されている「横刀」一口は、不比等の家の新築祝いの宴で皇太子(聖武天皇)が舞を舞って、不比等からもらった刀だそうです。

(石野注)
 草壁、文武、聖武と三代にわたり、「黒作懸佩」太刀(くろつくり かけはき の たち)は不比等との間でキャッチボールされたわけである。

 厨子も天武直系の権威付けを演出する小道具に使われたのでは?という話があったが、これも不比等を介しての持統の戦略なのだろう。
 草壁死後に持統が不比等に託した刀を文武に献上する。そして聖武との間でもそれが繰り返される。
 献上というより、「免許皆伝」でというか、お墨付きでも渡して皇位継承を不比等が認証しているかのようである。

 また、横刀の方も、祝宴の余興のご褒美として不比等から「賜った」ものとは・・・。


 


 お疲れ様でした。次回に続きます。

 いつものことですが、録音などをしておりませんので記録違い、記憶違いはご容赦ください。

 
  

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