移動メニューにジャンプ

(No158) 京都国立博物館 法然上人特別展覧会「法然 〜生涯と美術〜」鑑賞記 その2


 平成23年4月22日(金)に行った時の鑑賞メモ・・・・の続き。

 

 


 I 法然の生涯と思想

(3) 帰依した人々

23 国宝 法然上人絵伝 四十八巻のうち巻十  鎌倉時代(14世紀) 京都・知恩院

 高倉天皇後白河法皇が出てくる。

 展示されていたのは後鳥羽院に授戒する場のようなのだが、どれが後鳥羽院なのか、法然なのかよく分からなかった。

 屋敷の門外では門番に追い立てられている人がいたり、かなり動きのある構図。


26 国宝 法然上人絵伝 四十八巻のうち巻十一  鎌倉時代(14世紀) 京都・知恩院

 展示されていたのは法然九条兼実の屋敷を訪れた場。橋を渡ってきているのが多分法然なのだろう。

 屋敷周りの石段の所で裸足で出迎えに出ている兼実。

 展示の解説文に「大納言僧都が実名を名乗った」とある。兼実と法然の間で立っている人物が多分その僧都なのだろうが、それがどういう意味なのかよく分からない。

 

28 重文 選択本願念仏集  鎌倉時代(12〜13世紀) 奈良・當麻寺奥院

 『選択本願念仏集』(せんちゃく又はせんじゃくほんがんねんぶつしゅう)は、一般に『選択集』と略称され、建久9年(1198)、九条兼実の懇請により源空法然)が著した浄土宗の根本聖典。

 奥院本は、金箔押しのページがあった。巻末に元久元年(1204)という書写奥書があり、時期が明らかな最古の写本とされる。

 画像(ただし、前期展示の京都・盧山寺本。法然自筆と伝わる)はここで。京博HPでリンク切れになるまではここで。


31 粟生光明寺縁起  三巻のうち巻上 江戸時代(17世紀) 京都・光明寺

 粟生光明寺は、熊谷直実が創建した念仏三昧院の後身。

 絵巻物は、
(1) 首実検の場で平敦盛の首を持参し、悔いている直実。
(2) 法然に後生を問い、諭されて袖で涙を拭っている直実。
(3) 我欲を張った争いに憤激して、立ったまま自らの髻(もとどり)を斬り落としている直実。
(4) 激情にまかせた行為を法然からたしなめられている直実。
(5) 法然のもとで剃髪出家している直実・・・・などが描かれている。

 

32 重文 迎接曼荼羅図  南北朝時代(14世紀) 京都・清涼寺

 上品上生の来迎の場を往還来迎の形式で描く。

 迎接曼荼羅図(ごうしょうまんだらず)とは来迎図(らいごうず)のことであり、浄土教の根本教義である極楽浄土に往生する際の阿弥陀如来のお迎えの姿を描いた絵画である。

 以前、日本の仏教絵画ゼミナールで浄土教絵画について触れた。
 そこで、来迎の際人間は、上品、中品、下品の3ランク、そして、さらに上生、中生、下生の3ランク、都合、上品上生(じょうぼんじょうしょう)をトップに下品下生(げぼんげしょう)まで計9ランクに分類され、そのランクに応じてお迎えにくるメンバーなどが違う・・・・と書いた。

 熊谷直実は、ひたすら最上ランクの上品上生での往生を渇望した。『往生要集』を著した恵心僧都源信や、法然は下品の往生を望んだといわれる。
 あまりそうしたランキングに拘らないというか、謙虚な両名に比して、やはり武士出身の直実は愚直で一途な熱情にあふれ、また俗っぽいところがあるといえる。

 来迎図も当初は、大人しい正面向きのものであったが、次第にスピード感が追求されるようになった。山を越えてやって来る山越えの来迎図や、斜め上から急流や滝の流れに乗って逆落としにやって来るような早来迎が描かれる。
 甚だしきは、帰り来迎といって、お迎えにやって来るところを描くのではなく、既にお迎えは終わり、蓮台に載せて極楽浄土へ帰っていくさまを描く。

 本図は、「上品上生」で、かつ往還来迎だから、もともとフルセットメンバーの上、行きと帰りで人数が倍である。ともかく、登場人物がやたら多い。

 しかし、こうした滑稽なまでのこだわりは、それほど早く極楽浄土に往生したかったのか、現世はそれほど苦しかったのか・・・・と思うと笑っていられなくなる。

 

34 重文  熊谷直実自筆誓願状  鎌倉時代(13世紀) 京都・清涼寺 

35 重文  迎接曼荼羅由来 鎌倉時代(13世紀) 京都・清涼寺

 32は、私が会場(後期)で観たのは南北朝時代の副本であるが、正本は鎌倉時代(13世紀)のもの。この34と35も、前期に展示されていた「33 重文 源空証空自筆消息 鎌倉時代(13世紀) 京都・清涼寺」も互いに関連している。

 34と35は、巻物の布も同じものが使われていた。観てないので分からないが、33も同じかもしれない。


 


I−(4) 念仏信仰の広がり

37 重文 法然上人絵伝 四十八巻のうち巻十四  室町時代(15世紀) 奈良・當麻寺奥院

 勝林院での法談(大原談義)が描かれているが、私には、どれが法然で、誰が招いた顕真なのか分からない。

 面白かったのは、堂内を行列して行法している中に毘沙門天が現れた場。びっくりするやろな。急にあんな派手な人がまじってきたら。

 

38 国宝 法然上人絵伝 四十八巻のうち巻三十  鎌倉時代(14世紀) 京都・知恩院

 鹿が描いてあるんで奈良なのかな、マスク姿の僧兵みたいな人が多いなと思った。

 

40 重文 観経十六観変相図  鎌倉時代(13世紀) 京都・長香寺

 イメージトレーニング用の絵画。極楽浄土に往生するため、『観経』に説く16通りの極楽の情景を思い浮かべる修業をするのである。
 本図は重源が中国南宋から請来したと言われている。重源は東大寺再興の勧進職をつとめた人で「入唐三度」を自称した。この辺のことは、以前の鑑賞記であるここここここをご参照願いたい。

 なお、以前に勉強した内容では、當麻曼荼羅の向かって右側、定善義に描かれた日想観から雑想観まで13種の観想で修業する・・・と思っていたのだが。



43 重文 阿弥陀如来立像  快慶作 鎌倉時代(12〜13世紀) 大阪・八葉蓮華寺

 三尺ほど(約83cm)の立像で安阿弥様(あんなみよう)と呼ばれる様式。最近の調査で「巧匠安阿弥陀仏」という墨書が発見され、快慶作と判った。

 

44 国宝 法然上人絵伝 四十八巻のうち巻十六  鎌倉時代(14世紀) 京都・知恩院

 明遍という僧は『選択集』を批判したが、法然が病者に粥を与える夢をみて改心したらしい。法然が粥を与えている場が描かれていたが、その場所は四天王寺の西門だったようだ。展示現場で観た時には、場所までは分からなかった。

 別の段(第三段)では明遍が法然を訪ねて問答をする場。奥のふくよかな僧が法然で、手前の若そうな僧が妙遍なんだろう。庭先に座り込んでる僧は明遍の連れなんだろうか?

 

45 重文  阿弥陀如来立像  鎌倉時代(12〜13世紀) 奈良・興善寺

 43に比べ、顔の保存状態がよく、きれいなお肌。

 45の中に納入されていたのが
46 重文  源空証空等自筆消息  鎌倉時代(13世紀) 奈良・興善寺

 で、うち源空消息の画像はここで。

48  二河白道図  鎌倉時代(13世紀) 京都・清涼寺

 二河白道図とは、唐・善導『観経疏』に典故をもち、法然『選択集』で取り上げた。南北に流れる大河が、大地を東西の岸に分ける。
 現世は東の岸。西岸は極楽浄土。
 大河は炎と大水に満たされているが、その真ん中に一本の細い白い道があり、それを渡りきって西岸に行けば極楽往生できる・・・・という教義を示したもの。

 本図は褪色していて見にくいが、「南北に流れる」というが河は左上から右下へ斜めに流れている。
 向かって左が現世(東岸)のようだ。右上にはたくさん仏様がいるから、あちらが極楽浄土。ということは、現在の地図と異なり、上が南ということになる。

 大河の左上は紅蓮の炎で埋め尽くされ、右下の方は大波が描かれている。河の真ん中には細い丸木橋のような白い道。
 道の手前、現世側には僧衣の人がおり、道の向こうには、阿弥陀如来なんだろうか、仏様が立っている。

 現世側には猛獣や賊が描かれている。

 よく分からないが現世側の林の中にテーブルのようなものが置かれてあり、その上に経典のような巻物が置いてある。
 解説によると、この経典は『法華経』で、自力の善行で往生しようとする他宗を批判する意味があるそうだが、このような点が後の迫害を招いたようだ。


49  重文 二河白道図  鎌倉時代(13世紀) 京都・光明寺

 48と違い、大河は真横に描かれ左半分が大火、右半分が大水、手前が現世(東)で、向こう(画面上側)が極楽浄土(西)。

 道の手前には送り出す釈迦如来、道の向こうには出迎える阿弥陀如来が描かれる。

 上部の極楽の様子は手前に池があったり、両側に宝樹があったり、當麻曼荼羅の構成が参照されているようである。

 画像はここで。

 

50  重文 二河白道図  鎌倉時代(13世紀) 香雪美術館

 構図としては、48ではなく、49に似た様式的構成。

 特筆すべきは、道を渡ろうとする人の行列を見守っている釈迦の脇に座り込んでいる韋提希夫人(いだいげぶにん)が描かれている点。

 當麻曼荼羅の向かって左側、序分義では『阿闍世王物語』が描かれる。そこでは韋提希夫人に釈尊が成仏の方法を教えるまでが描かれている。(ここを参照)
 それで夫人が特に描かれているのだとされる。

 


 お疲れ様でした。

 
 
  

inserted by FC2 system