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(No35) 奈良国立博物館 特別展「大勧進 重源」鑑賞記

 
  平成18年4月15日(土)から5月28日(日)まで、奈良国立博物館で御遠忌800年記念特別展「大勧進 重源」が開催されている。

 また、公開講座として5月20日(土)には、「重源の生涯とその事蹟」という講演があったので、それを聴きに行きがてら、観に行ったのであった。

 


1.南都炎上

 最初のコーナー、入ってすぐ目に付くのは、

7 愛染明王坐像 重文 奈良国立博物館 鎌倉時代 建長8年(1256) 快成作 木造 26.2cm

 小さめの像だが、保存はいい。

 廻りこんだところで目に付くのは色鮮やかな、


1 東大寺大仏縁起 下巻 重文 奈良・東大寺 室町時代 天文5年(1536) 

 平氏に攻められ、炎上する東大寺を描く。二階の回廊でべそをかいている僧侶や、大仏横の四天王に踏まれている天邪鬼の上目遣いの表情などがやたらマンガチックなのが印象的。
 白黒だし、小さいが、画像は奈良国立博物館だより第57号参照。

 



 



2.入唐三度聖人

 お一人で鎮座ましまし、われらを迎えてくださるのが、

9 重源上人坐像 国宝 奈良・東大寺 鎌倉時代(13世紀) 木造 81.8cm

 横に他寺の重源上人坐像も展示されているが、モノが違うという感じがする。
 画像は、特別展チラシ又は奈良国立博物館だより第57号参照。

 重源の最晩年を極めて写実的に描いたもので、没後間もなくの作品では?と言われている。作者については、快慶定慶運慶など諸説ある。

 重源上人の事蹟をたどる際の基本史料が、

14 南無阿弥陀仏作善集(なむあみだぶつさぜんしゅう) 東京大学史料編纂所 鎌倉時代 建仁3年(1203)

 南無阿弥陀仏とは重源の自称であり、作善とは造寺・造仏や社会事業などの善行を積むことで、いわば極楽浄土へ行くための功績調書といったところか。

 画像は奈良国立博物館だより第57号参照。

 他寺の上人坐像の前に展示されていたのが、

13 銅梵鐘 重文 和歌山・泉福寺 安元2年(1176) 高さ78.7 口径46.2

 鐘に「勧進入唐三度聖人」という銘文が鋳込んである。重源が高野山延寿院におさめたと伝えられるもの。
 画像は、奈良国立博物館だより第57号参照。

 重源は、栄西とも交流があったようだ。

20 栄西禅師坐像 神奈川・寿福寺 鎌倉時代(13世紀末〜14世紀初) 木造 60.6

 しかしデカイ頭だなあ。実際に栄西はあんな頭だったのだろうか。こめかみ辺りから上に行くほどどんどん頭の「直径」が大きくなっていく。そして、頭頂部が見事なくらいにまっ平ら。

 栄西は臨済宗の祖で、備中出身。建永元年(1206)に重源が示寂すると東大寺大勧進職を継承した。

 





3.東大寺復興

 
またも色鮮やかに、重源が東大寺再建のため遠方(周防=すおうの杣=そま)で大木を切り出し、海までおろして(その助けをするのが龍神)、船で奈良へ向け回送する(その時、木材を狙う海賊を退治するのが増長天)さまなどを描くのが、

46 東大寺大仏縁起 下巻 奈良・東大寺 室町時代(16世紀)

 のぞきケースに展示されているのが、

50 紺紙金字華厳経 重文 奈良・東大寺

 画像は、奈良国立博物館だより第57号参照。

 絵巻の前に二体並べて展示されているのが、

51 四天王立像 重文 和歌山・金剛峯寺

 向かって左が広目天。右が多聞天。背中側から観ると、多聞天の方が腰のひねりがきつい(体の「くの字」カーブがきつい)ことがよくわかる。

 なお、銘文などから広目天の作者は快慶と考えられている。

 少し会場が移って、奥まった一角に展示されているのが、

64 僧形八幡神坐像 国宝 奈良・東大寺 鎌倉時代 建仁元年(1201) 木造 87.1

 これほど彩色が鮮やかに残っているのが信じられないほど。作者は快慶と伝えられる。
 画像は、奈良国立博物館だより第57号参照。
 

 

 


4.行基への尊崇

 行基といえば、近鉄奈良駅の駅前広場で噴水の真ん中に立っているのが行基の像。聖武天皇時代、初代の大仏建立に功があったのが行基。

 二代目大仏建立の功労者が重源で、重源は行基を尊崇し、常に意識していたようである。

72 行基菩薩行状絵伝 重文 大阪・家原寺 鎌倉時代 正和5年(1316) 

 

 

 



5.別所の経営

 重源は、東大寺造営資金の調達と信仰の拠点として、7箇所の別所を設けた。

 でかい!金ぴか!なのが、

104 如来坐像 重文 三重・新大仏寺 鎌倉時代(13世紀) 木造 293

 何せ後補が金きらきんなもので、歴史の重みや有り難味が・・・・。
  画像は、奈良国立博物館だより第57号参照。 

 また、別所間の仏像の移動を思わせる史料が、

105 阿弥陀仏手 アメリカ・ハーバード大学サックラー美術館

 画像は同じく、奈良国立博物館だより第57号参照。かつての新大仏寺の阿弥陀如来像の左手である可能性が高い。快慶の作と思われる。

 少し会場を移る。

78 孔雀明王坐像 重文 和歌山・金剛峯寺 鎌倉時代 正治2年(1200)頃 木造 玉眼 78.8

 よく写真集などでは見るが、このような名宝を実際に間近で観ることができてラッキーであった。孔雀の目がかわいい。快慶の作と伝えられる。

80 深沙大将立像(じんじゃたいしょうりゅうぞう) 和歌山・金剛峯寺 鎌倉時代(12〜13世紀) 木造 玉眼 84.5

 ネックレスの髑髏、腹の人面、左腕に巻きつく蛇、ニーパットの象面。極太の腸詰ソーセージを貼り付けたような強烈な外腹斜筋の描写。「思いっきり」な造形である。これも快慶の作。

88 阿弥陀如来立像 重文 奈良・東大寺俊乗堂 鎌倉時代(13世紀) 木造 98.7 

 さほど大きくはないのだが、近くでよく見ると精巧な截金文様(きりがねもんよう)に感心する。白黒だが、画像は、奈良国立博物館だより第57号参照。

 重源の臨終仏と伝えられる。快慶の作。 

 また、少し会場を移る。でかくて目立つのが

89 鉄宝塔 国宝 山口・阿弥陀寺 鎌倉時代 建久8年(1197) 鋳鉄製 総高301.3

 ぱっと見は、赤さびていて、でかいな、くらいの感想しかなかったのだが。

89 水晶三角五輪塔 国宝 山口・阿弥陀寺 鎌倉時代 建久8年(1197) 水晶製 13.9

 これも非常に大きい。(他の水晶塔はせいぜい5cm程度)。上記鉄塔の中に安置されていたもの。89の画像は、奈良国立博物館だより第57号参照。
 

 あと、
96 菩薩面 重文 兵庫・浄土寺 鎌倉時代 建仁元年(1201) 木造 18.9〜20.8

 迎講(来迎会)に用いられた仮面。

や、

109 東大寺大仏殿銘軒平瓦 奈良・東大寺 鎌倉時代(12世紀末〜13世紀初)

などもあったが、さっと通り過ぎてしまった。画像は、いずれも奈良国立博物館だより第57号参照。

 



6.重源と舎利信仰

 舎利(しゃり)とは、簡単に言えば釈迦の遺骨のことである。

 重源が舎利容器に用いたのが五輪塔。

120 金銅三角五輪塔 重文 兵庫・浄土寺 鎌倉時代(12世紀) 鋳銅製 38.5

 画像は、特別展チラシ又は奈良国立博物館だより第57号参照。

 普通、五輪塔というと、五層から成る塔。古代インドで宇宙の構成要素と考えられた地・水・火・風・空をそれぞれ四角、球、三角、半円、宝珠の形で象徴させて組み上げる。
 すなわち、最下段の地輪は四角でだいたい立方体。その上に球形が乗り(水輪)、その上が火輪。で、なぜ重源由来の五輪塔が「三角」五輪塔と呼ばれるかというと、通常は火輪はピラミッドのような形。つまり、底面は正方形なのだが、重源の五輪塔はそこが正四面体。正三角形が四つ集まった形(今はほとんど見かけないが、昔は牛乳も正四面体のテトラパック入りというのが流行った)で、真上から見ると三角形なのである。

117 舎利寄進状 重文 滋賀・胡宮神社 鎌倉時代 建久9年(1198)

 いずれも白黒だが、画像は、特別展チラシ又は奈良国立博物館だより第57号参照。空海請来の東寺舎利1粒を水晶玉に籠め、五輪塔内に安置したとある。
 

 

 




7.重源と阿弥号・同行衆

 『作善集』の記述によれば、寿永2年(1183)から重源は、自らを南無阿弥陀仏と称し、自分を信奉する弟子達に、「阿弥陀仏」の上に一字付けて呼んだ(例えば「聖」阿弥陀仏とか、「空」阿弥陀仏など)そうである。
 有名なところでは仏師快慶は「アン」(梵字)阿弥陀仏という名前(阿弥号)をもらった。

 つまり
「青春アミーゴ」ならぬ、「重源阿弥号」(ちょーげんあみごう)。

125 一行一筆般若心経・阿弥陀経 大阪・一心寺 鎌倉時代(13世紀)

 これは一人が一行ずつ経文を書いて、全体を完成させるもの。一行、経文を書いたら、その下には書いた者の名前を署名する。何か同じような署名が多いなと思っていたら、これは「重源阿弥号」のせいであった。

 つまり、「僧任慶」とか「厳真」、「沙門明通」といった署名に混じって、法阿弥陀仏、聖阿弥陀仏、如阿弥陀仏といった頭の一字しか変わらない署名が続くので、そんな印象を受けたのである。
 よく見ると、えらく行の右端に片寄った位置に南無阿弥陀仏という署名もあった。とすると、その行は重源が書いたのだな、とわかる。
 もっとも、仏子源空(法然)のパートで釈迦牟尼仏の「牟」という字を脱落させていたり、他に残っている手跡と異なっているなど、必ずしも実際に署名と同じ人が経文を書いたかは不明。

 それにしても、自分を南無阿弥陀仏と称し、弟子達に○阿弥陀仏という名前を与えるなんて、ちょっと傲慢では?と思ってたら、やはり昔からそう思う人はいてたらしい。

132 愚管抄 巻第六 宮内庁書陵部 江戸時代(17世紀)

 慈円(1155〜1225)も、「仏法の破滅か」と批判していたそうだ。

 

 



8.宋代美術の移植

 先ほどの梵鐘の銘に「入唐三度聖人」とあったように、重源は三度、宋に渡ったと自称している(入「唐」というのは、唐王朝という意味でなく、中国全体をさす名称。重源の時代の王朝は宋)。

 そのせいか、重源はいろいろ宋代の仏教美術を請来したと伝えられている。

135 五劫思惟阿弥陀如来坐像(ごこうしゆいあみだにょらいざぞう) 重文 奈良・五劫院 鎌倉時代(12世紀末〜13世紀初) 木造 124.2

136 五劫思惟阿弥陀如来坐像 重文 奈良・東大寺 鎌倉時代(12世紀末〜13世紀初) 木造 106

 特に136は、よく写真集などにも出てくる仏像。阿弥陀如来となるべく修行中、瞑想中の法蔵菩薩の像で、顔が童子形。頭のパンチパーマが「アフロ」状態まで爆発しているのだが、これは五劫という長い間瞑想にふけっていたため、髪の毛が伸びたさまを表わしている。135が宋風で、136は和風・・・というがどちらがどうとも言えない感じがする。

142 阿弥陀浄土図 重文 京都・知恩院 中国・南宋時代 淳熙10年(1183) 

 いわゆる「逆手来迎印」(さかてらいごういん)の阿弥陀如来。「逆手」と言われる所以は、日本古来の阿弥陀仏の姿と異なり、右手を下に伸ばしている点である。

 白黒だが、同じく逆手来迎印の138 阿弥陀三尊像 愛知・西方寺 の画像は、奈良国立博物館だより第57号参照。 

 私が観たのは141 観経十六観変相図 重文 奈良・阿弥陀寺 鎌倉時代(13世紀)であったが、

140 観経十六観変相図 重文 京都・長香寺 鎌倉時代(13世紀)の画像は奈良国立博物館だより第57号参照。
 なお、こうした十六観変相図の十三観に出てくる来迎時の阿弥陀は逆手だそうである。
 

 また、白黒だが、143 浄土五祖図 重文 京都・二尊院 の画像は、チラシの裏面で。

 

 


 どうもお疲れ様でした。

 
  

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