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(No40) 特別講座 「重源」

 
  先日、長男の学校の保護者会親睦行事で、奈良国立博物館に行ったのだが、そのおり特別企画として、奈良国立博物館西山厚教育室長からご講演いただくことになった。

 参考資料(平成18年5月19日付け朝日新聞夕刊への西山先生の寄稿記事)はあったが、パワーポイント中心の講演で、レジュメなどは配られなかった。

 よって、お噺の順番などは記憶頼りなので、新聞記事の内容なども織り交ぜつつ適当に再現していく。 

 


1.講演内容概要


 先生は、重源の坐像の写真をパワーポイントで大きくステージに上映された。

「この写真を観て、何か気付かれることはないですか?
 どなたもいらっしゃりませんか?こないだ小学生の子供達にお話をした時は、みんな競って手を上げたのですが・・・」


 私も気付いたことはあったが、先に先生がおっしゃった。

「そう、目ですね。左の目なのですが、ほとんどふさがっていますね。当時、重源上人は目を患っておられたのでしょう。ほとんど見えていなかったのかもしれません。
 この坐像は、そういったところまでリアルに表現されています。

 この写真は横から観たところです。首をぐっと突き出して、いかにも老人という雰囲気を出しています。
 しかし、身体はなかなかがっしりとした感じです。これは特に背中側から観ると、そう感じます。

 これは右から見た写真。次にこれは左から見た写真です。ずいぶん感じが違いますね。やはり、目が違うからですね。左から見た写真は、やはり老人という感じですが、右からの写真はどうですか。
 いかにも、頑固そうな、言い出したら聞かないといった雰囲気だと思われませんか」

 私も、先生がおっしゃる通り、左右でずいぶん雰囲気が違うものだな、と感じた。しかし、不思議なことに、この講演が終わった後、会場であらためて重源上人坐像の顔をじっくりと眺めたのだが、極端に右目と左目が違う、つまり左目だけがふさがっているようには見えなかった。ライティングの加減なのだろうか。



 家に帰って図録を観てみた。この写真が、先生が会場で上映していた写真だろう。それを観ると、やはりはっきりと左右が違う。(右写真 参照)

 しかし、会場ではその違いが私には、はっきりわからなかったのも事実なのだ。なぜなんだろう。

「治承4年(1180)、東大寺は、興福寺などと共に平氏の焼き討ちを受け、そのほとんどは焼失しました。興福寺衆などが反平氏の動きに呼応しようとしたのに怒った平清盛が、子の平重衡に南都を攻めさせたのです。

 これは、その炎上のさまを描いた絵巻です。
東大寺大仏縁起 下巻)
 大仏殿が炎上した際、軍兵を避けていた足弱な老僧や女子供たち1000人余りが焼け死んだといいます。大仏殿は1000人もの人が命を落とした場所でもあるのです。

 大仏は、その火勢に首が落ち、身体も熔けてしまったといわれています。

 そのような惨状でしたが、やはり、大仏は信仰のシンボルであり、復興すべきだという考えはありました。しかし、そこには様々なハードルがあったのです。

 何より、時の権力者である平氏に焼き討ちを受けたのです。公的な支援が受けられよう筈がありません。

 また、東大寺はほとんどすべての伽藍が焼失しました。僧たちが住む場所もなくなったうえ、寺領も没収され、生活の術(すべ)を失った僧たちは次々に東大寺を去ったのです。

 それでも、朝廷は復興のため藤原行隆を責任者に任じたのですが、彼が鋳物師(いもじ)、つまり鋳物職人達を連れ下見に訪れたところ、職人達は口々に『人力の及ぶところにあらず』、とても技術的に不可能だと匙を投げてしまいました。


 そうした八方ふさがりの状況の中で、突如現われ、『私がやりましょうか』とかってでたのが重源上人なのです。
 その時、重源上人は初めて歴史上に登場したといってよいのですが、既に60歳を超えていました。それから、重源上人は20年以上も活躍しました。今でこそ医学が発達し、寿命も延びていますが、当時の60歳、80歳というと相当な高齢です。 
 『人生に余生なし』と、言います。余りものの人生などない。私は重源上人の生き方をみていると、そのことを強く感じます」

「大仏復興に、重源上人は勧進(かんじん)という手法をとりました。つまり、政府や、特定の者の支援を受けるのではなく、広く大衆に寄進を募るという手法です。

 これは初代の大仏を建立した聖武天皇や行基らがとった手法でもありました。

(スライドで 鉦鼓(しょうこ)・鉦架撞木(しゅもく)を上映。図録28)

 これは重源上人が実際に使っていた鉦鼓です。寄付を募るのも黙って全国を廻るんじゃないんですね。鉦架をこう組み合わせて、首から掛けて、それに鉦を吊るして、撞木で叩きながらにぎやかに廻ったんですね。
(スライドで、鉦鼓を鳴らしている勧進衆たちの絵を上映。出典は不明)

 こうして全国に寄付を募って、大仏の建立費用については比較的短期間に集めることができたんです。
 ところが大仏殿を建立することが、大仏そのものを建立するより何倍も大変だったんですね。
 費用ももちろんですが、あのように大きな大仏殿を建設するための木材などを調達することが大変だったわけです。


(スライドで 七別所を上映)

 別所というのは、いわば、信仰のための前線基地のようなものと考えてください。重源は各地にそうした前線基地をいくつも設けたのです。

 その中でも重要なのが、周防別所です。重源は周防国司、いわば山口県知事になりました。そして、そこから得た収入を大仏再興にまわしたのです。

 また、大仏殿再興のための木材は周防国の山奥、杣(そま)で調達しました。ここで切り出した木材を、奈良まで運んだというのですが、それには測り知れないほどの苦労があっただろうと思われます。

 実は私は以前、この杣へ行ってみたことがあります。

 このように川といっても、それほど大きな川ではないのです。
(写真の上映)
 山から切り出した木材は川まで運び、それから海まで川伝いに流して、船で近畿まで運んだというのですが、川の側まで運ぶのも大変だったと思われますが、川も、大仏殿造営に使うような巨木が運べるような川ではない。

 どうしたのか、というと関水(せきみず)という手法を用いました。
 これは、つまり石積みで川をせきとめダムをこしらえて、水がたまったところに木材を浮かべ、そのダムを壊す。そして、そのたまった水が一気に流れる勢いを利用して巨木を下流に流す。そして、流れ着いたところにもダムをこしらえて、またその下流へ・・・ということを繰り返したのです。
 重源はこのダムを100箇所以上もこしらえました。今も1箇所だけ現存しているのですが、これがそこの写真です。
(写真の上映)
  これに限らず、現地に足を運ぶというのはとても大切だと思います。この関水のように当時の施設が残っていればそれに越したことはありませんが、別に残っていなくてもいいのです。
 現地へ行ってみる。できれば、重源がたどった道を自分も歩いてみる。そうしたことをすると、しないとでは、その人に対する思いというものが全く違ってくるように思います。

 これは、下流の写真です。
(写真の上映) この辺まで来ると、十分川幅も広く、水量も多いため、あとは河口まで流し、船で瀬戸内海を通って大阪まで運び、木津まで川をさかのぼって、そこから奈良へ運んだようです。

 これは展示されている東大寺大仏縁起
(図録 46)です。山の中に描かれているのは大蛇。龍神かもしれませんが、この大蛇が奇蹟を起こし、山を崩し、川を海につけて材木を流し下ろせるようにしたという場面です。

 重源にしたら、『えっ?大蛇じゃないよ。苦労してやり遂げたのは全部私だよ』と言いたかったかもしれません。まあ、神験とまで言われたことは名誉なことですが」。
 

「重源上人は目的のためには手段を選ばないというところがありました。
 もっとも、重源上人は、もし批判されたら、お前が代わってやれるならやってみろと言うと思います。

 そういう重源上人だからこそ、あの大変な大仏再建を成し遂げることができたのだと言えます。

 重源上人は狭山池も改修しました。(写真の上映)
 この池は、私も現地に行ってみましたが、大きな池です。これもやはり現地に行ってわかることですね。狭山池は、最初、行基が天平3年(731)に農業用水のために開発した池です。

 しかし、年数を経るに従い池は荒れ、重源がいた頃には水は一滴もない状態になっていました。それを重源が改修したのです。

 この改修碑(重源狭山池改修碑 図録76)は、最近、ダム化の改修のため水を抜いたところ、池の底から発見されたものです。

 この碑には、2月7日に起工し、4月7日に水を導く石樋の設置を開始し、24日に完成したとあります。わずか2週間と少しで、石樋の設置が終わっているのです。余りにも早すぎると思われませんか。
 実はこれには早くできた理由があるのです。

 私はよく言うのですが、『どんなことにもわけがある』。では、そのわけをお話しましょう。
 この石樋、実は古墳の石棺なのです。棺はいわば箱ですから、この両側を削って、つなげていけば立派に『水路』となるのです。

 重源は、このために付近の古墳をいくつもあばいて、石棺を掘り出したのです。普通しませんよね、そこまでは。

 当時の付近の住民が重源のことを、尊敬すべきだが、恐ろしい人でもあると評したそうです」。


 私は、先生が目的のためには手段を選ばないというのは、阿弥号のことをさしているのか、と思っていたが、もっとエグイねたがあったのですね。

「大変な苦労を重ねて、やがて大仏殿も再興されました。私は今でも大仏殿を遠くから眺めると、なぜか涙ぐんでしまうことがあります。

 大仏殿が再興された後、次はどこを再建しようか、という話になりました。
 東大寺の僧達は、食堂をつくってくれ、いや、講堂だ、という意見が強かったのですが、重源の考えは違いました。
 重源は、次は塔をつくろうと言ったのです。食堂や講堂は、東大寺に住む僧のためのものです。塔はそうではありません。こういうところに、重源がもともと東大寺の僧ではない、ということが象徴的にあらわれていると思います。

 重源が書いた勧進状が残っています。(重源上人勧進状 図録61)そこには、塔が完成したら、塔の前で千人の童子に法華経を読ませたいと書かれています。
 いわば、それは重源最後の夢だったわけですが、残念なことに重源は、建永元年(1206)塔の完成をみずに86歳で世を去りました。

 いま、重源の800年忌を記念して、この特別展が開催されています。このように大規模な展覧会は、今後少なくとも50年は開催されないでしょう。ということは、次回の重源展でお話しするのは、絶対に私ではないということです。

 どうぞごゆっくりご観覧ください。ありがとうございました」。


 どうも長い接続コードの調子が悪いとかで、会場最前列中央にすえられたビデオプロジェクターのすぐ側にパソコンを持ち出しての講演だった。壇上から見下ろしての講演ではなく、私達と同じ目線での講演でよけい親しみやすく感じた。

 質問の時間はなかったので、お疲れのところ申し訳ないなと思いつつ、こそこそっと近付いていって、1点だけ聞いてみた。

「重源上人坐像については、最近、作者は運慶ではないかという説があります。実は私もそう思います。先生のお立場では、確証がないとなかなかご意見も難しいとは思いますが、個人的なお考えとしてはどうでしょう?」

 すると、先生は、ごくあっさりとこうおっしゃった。
「私も運慶だと思っています。何も、証拠とか根拠はない、単なる個人的意見ですが」

 非常に有意義な講演だった。西山先生の『仏教発見!』(講談社現代新書)の紹介記事があったので、後日さっそく買ってみた。この本もオススメである。

 

 


 どうもお疲れ様でした。

 
  

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