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仏画(5)平成17年度美術史ゼミナール「日本の仏教絵画」第2回その3

1 はじめに

 平成17年度美術史ゼミナール「日本の仏教絵画」という講座の、備忘録程度の受
講録。で、第2回ゼミの受講録その3。より具体的には「浄土教絵画」。


2 本日のテーマ

 今日のテーマは「仏教絵画の分類」。

 下表が先生にいただいたレジュメ。

仏教絵画の分類
(1) 密教絵画

・ 空海による真言密教(しんごんみっきょう)移入後に花開いた分野
  両界曼荼羅(りょうがいまんだら)=金剛界(こんごうかい)・胎蔵界(たいぞうかい)はじめ、各種の曼荼羅
  不動明王や十二天など、密教ならではの尊像
  個別の密教尊像を主尊とした別尊曼荼羅(べっそんまんだら)
・ 変化観音(へんげかんのん。十一面、千手ほか)など雑密(ぞうみつ)関係の絵画 

(2) 顕教絵画

・ 密教に対して、それ以前から日本に伝わっていた分野の絵画
【1】 釈迦関係の絵画(釈迦三尊、仏伝図、涅槃図=ねはんず、釈迦十大弟子等)
【2】 華厳経(けごんきょう)関係の絵画(毘盧遮那仏=びるしゃなぶつ。文殊菩薩、大仏蓮弁線刻画等)
【3】 法華経(ほっけきょう)関係(法華経絵、法華曼荼羅、普賢菩薩等)
【4】 法相(ほっそう)、倶舎(くしゃ)、律など南都六宗(なんとりくしゅう)に関わる絵画
【5】 羅漢像その他
(3) 浄土教絵画
・ 浄土経典(浄土三部経)に基づく絵画
  極楽浄土の教主、阿弥陀に関わる絵画
  当麻曼荼羅(たいままんだら)をはじめとする各種の来迎図

・ その他(観音、弥勒など)の浄土図、来迎図等
・ 浄土に対する地獄図
  冥界の主、閻魔王など十王像や、地獄からの救済者である地蔵菩薩像
(4) 垂迹絵画
・ 神仏習合に関する絵画
  春日、熊野、日吉山王、八幡、吉野など全国各地の神社の社頭図、境内図
  本地仏(ほんじぶつ)、垂迹神(すいじゃくしん)等を描いた垂迹曼荼羅

(5) 祖師像、縁起絵その他
・ 各宗派の祖師(そし)、高僧の肖像画、絵伝
・ 各寺院の縁起絵、本尊の霊験記(れいげんき)
・ 道教と仏教の習合に基づく絵画(宿星関係など)




3 講座内容の概要

3−2.浄土教絵画

(1) 浄土とは

 仏教でいう浄土とは、仏・菩薩の住む欲望や苦悩のない清らかな国土をいう。

主尊 名称
阿弥陀仏 西方極楽浄土
薬師仏 東方瑠璃光世界
弥勒菩薩 兜率天(とそつてん)
観音菩薩 補陀落山(ふだらくせん)



(2) 浄土教とは

 浄土教とは、阿弥陀の本願を信じて極楽浄土に往生し、そこで悟りを得ようとする教えと実践を浄土教と称する。

 浄土三部経=浄土教の根本経典。『無量寿経』(大経)・『阿弥陀経』(小経)・『観無量寿経』(観経)。

(3) 当麻曼荼羅

 阿弥陀仏の浄土の景観を中心に、『観無量寿経』の教説を図絵したもので、正確には観無量寿経変相図(かんむりょうじゅきょうへんそうず)と呼ぶべきもの。

 中将姫伝説(※注1)に彩られる奈良の当麻寺に、奈良後期に織成された大幅の原本が伝わり、その後多数の写本、縮尺本が作られ、これらを当麻曼荼羅(たいままんだら)と総称している。

 両界曼荼羅が密教絵画の中心といえるように、当麻曼荼羅は浄土教絵画の中心といえる。

※注1 「この曼荼羅は、横佩(よこはぎ)の大臣(おとど)藤原豊成(とよなり。704〜765)の娘中将姫が、淳仁天皇の世に、いわゆる蓮糸を用いて一夜にして織りあげたという伝説にもとづく」(『曼荼羅』P138)


(4) 当麻曼荼羅の構造

 当麻曼荼羅の構成は、善導(613〜81)の『観経疏』(観経の注釈書)を典拠とする。
 画面の大部分を占める内陣を玄義分といい、阿弥陀を中心とする極楽浄土のさまを図示する。
 向かって左側(右縁)を序分義といい、観経六縁(阿闍世王物語=あじゃせおうものがたり)を表す。(※注1)
 向かって右側(左縁)を定善義(じょうぜんぎ)といい、十六観(釈迦が韋提希夫人(いだいけぶにん)に極楽浄土のさまを観ずる方法を示したもの)のうち日想観から雑想観(ぞうそうかん)までの十三観を表す。(※注2)
 下縁を散善義といい、上品上生から下品下生まで九品に分けた極楽往生のさまを、向かって右から左へ表す。(※注3) なお、中央は織成の由来を示す銘文帯を設ける。

 

 

 

 



 

玄    義    分 日想観

 

 

 

 



虚  空  段 水想観
宝  楼  段 宝地観
11 宝樹観
10   華  座  段   宝池観


  三  尊  段  

宝楼観
華座観
樹下会 樹下会 形像観
      真身観
    宝池段     観音観
        勢至観
父子相迎会 舞楽会

宝     地     段
父子相迎会
        雑想観
下品下生 下品中生 下品上生 中品下生 中品
中生
銘 文 中品
上生
上品下生 上品中生 上品上生
← 散    善    義

※注1 阿闍世王物語とは、インドのマガダ国の王子で、父王を幽閉して死に至らしめ、後にこれを悔いて深く仏教に帰依した阿闍世王に関する物語である。
 序分義は、11の区画に分けられる。一番上に(1)釈尊説法の場面を描くが、次に最下段に(2)デーヴァダッタが、阿闍世王に父王を幽閉するよう唆す場面を描く。そして、その後は順次上に向かって、(3)父王幽閉の場面、(4)父王の后、韋提希夫人が食物を運ぶ場面、(5)釈迦の弟子、目連富楼那による説法の場面、(6)阿闍世王が、門番から、韋提希夫人が父王を救おうとしていることを聞く場面、(7)阿闍世王が夫人を殺そうと決意するが止められる場面、(8)夫人を助けるため、釈迦が弟子(目連と阿難)をさしむける場面、(9)夫人が釈迦に泣きつく場面、(10)釈迦が眉間より光を放ち浄土の世界を出現させる場面、(11)釈尊が夫人に、成仏する方法を教える場面を描く。(『曼荼羅』P135)

※注2 定善義は13の区画に分けられる。序分義の最後で描かれた成仏するためのトレーニング方法を示す。
 一番上は(1)日想観で、日没をみつめ、極楽浄土を想う。その下が(2)水想観で、水と氷の美しい感覚を感じる。次に(3)宝地観(『曼荼羅』P137では「地想観」)で、極楽の大地を想う。(4)宝樹観で、高さ八千由旬(ゆじゅん。一由旬は約7〜8マイル)で七宝の花、葉をつける宝樹を想う。(5)宝池観で、極楽にある8か所の池を想う。(6)宝楼観で、500億もある楼閣を想う。(7)華座観(『曼荼羅』P137では「花座観」)で、仏(阿弥陀)の蓮華座を観想する。(8)形像観(『曼荼羅』では、「像想観」)で、阿弥陀三尊を観想する。(9)真身観で、仏が内蔵している心と光の中にはいる。(10)観音観で、仏の脇侍の観音を想う。(11)勢至観で、仏の脇侍の勢至を想う。(12)普往生観で、世界全体を想う。(13)雑想観で、観想した世界の、さらに中央に丈六の阿弥陀の坐像を配置すべく観想する。(『曼荼羅』P134)

※注3 散善義は、中央の銘文帯をはさんで、右側4、左側5の計9区画に分けられる。阿弥陀が往生者を迎えに来るときの様子を、右端の上品上生から左端の下品下生までに分類して描く。
 右端の上品上生は阿弥陀ほか諸尊もフルメンバーだが、左に行くにつれ阿弥陀自身は現れないなど簡略化されていく。

 「仏教では人間をその能力や信仰の程度によって〜まず上品(じょうぼん)・中品(ちゅうぼん)・下品(げぼん)に分け、この三つをさらに上生(じょうしょう)・中生(ちゅうしょう)・下生(げしょう)に分類する。
〜阿弥陀如来はこれから亡くなる人がどの段階の人か見極め、その人にふさわしい印をあらわすといわれている」(『わかる』P45)

 要するに、阿弥陀は往生者を迎えに来る時に、9つにランキングして、「はぁ〜い あなたは第2レベルですよ〜ん」・・・・・とは言わないだろうが、ともかく指のサインでそのランキングを明示するというのだ。

 で、その9つのランキングなのだが、手の位置が3要素、指の形が3要素。そして、その組み合わせで9種類が決まる。詳細はまた、「仏像」の阿弥陀如来のところで書くこととするが、その決め方に2種類の説があり、先生に質問したところ、両方、江戸時代にできた俗説ですと一蹴された。本来は、この散善義で描かれたような来迎時のメンバーなどで判別すべきだとおっしゃるのである。  

(石野 注)
 当麻曼荼羅の画像については、
当麻曼荼羅図
(「当麻寺」HP)、
当麻曼荼羅
「当麻寺」HP→「当麻曼荼羅」)、
当麻曼荼羅
(「長保寺」HP)など。


(5) 阿弥陀来迎図

 
『無量寿経』に説く阿弥陀仏の48の誓願のうち、第19願に往生者の前に阿弥陀が現れるとある。(※注1)
 また、『観無量寿経』に依る当麻曼荼羅の下縁に九品来迎図が描かれていた。

 恵心僧都源信は、『往生要集』で厭離穢土欣求浄土(おんりえどごんぐじょうど)を説き、二十五三昧会といった迎講を催した。『後拾遺往生伝』では、日本での迎接曼荼羅(ごうしょうまんだら=来迎図)の流布は源信をもって始まると記される。

 平安中後期の阿弥陀堂に祀られる阿弥陀如来は、定印(じょういん)を結ぶ(※注2)坐像が中心で彫像の遺品は平等院鳳凰堂像をはじめ多いが、絵画遺品は稀である。 

 
その後、来迎印を結ぶ(※注3)阿弥陀像が流布していく。

 一般に、阿弥陀仏(と諸尊)が正面向きに来迎する姿のものと、斜め向きに描かれるものに大別され、鎌倉期に入ると、諸尊が立像に表され、来迎のスピード感が強調される。(※注4)

 鎌倉期以降、諸尊は皆金色で表され、先頭で観音は蓮台を捧げ持ち、勢至菩薩は合掌するという形(※注5)が定型化する。

 一方、阿弥陀の立像一尊のみの来迎図も、鎌倉後期以降多くみられる。(※注6) 

※注1 『(大)無量寿経』では阿弥陀如来の経歴が記されている。あるインドの王が出家して法蔵と名乗り、48の誓願を立て、大願成就して阿弥陀如来となった。19番目の誓願は、「固く仏教を信じ、もろもろの善い行いをした人の臨終に際し、私が弟子を連れてその人を迎えにいくことができなければ、私は仏となることをやめよう」というもの。(『わかる』P84〜)

※注2 「平安時代から鎌倉時代にかけては、座禅のときの手の組み方のような定印(じょういん)のものが多い」(『わかる』P89)

※注3 「来迎印は阿弥陀如来に独特な印である。これは慰安印とも呼ばれ〜右手は施無畏印のように上に上げ、左手は与願印のように下に向けているが、両手とも親指と人差指を結んで輪を作っているのが特徴である」(『わかる』P89)

※注4 「鎌倉時代になると、山を越えて迎えに来る『山越(やまごえ)阿弥陀図』というのも描かれ〜一刻も早く迎えに来て欲しいという往生者の願いに応じて〜飛雲を伴って飛来する様子を描いたもの〜は『早(はや)来迎』と呼ばれ〜来迎のスピードはさらに増し、『帰り来迎』というものまで描かれるようになった。これは往生者を蓮台に乗せて浄土に帰っていく様子を描いたもの」(『わかる』P92)

※注5 「阿弥陀如来の脇侍は、観音菩薩と勢至菩薩で〜『観無量寿経』といわれる経典に基づ」く。「むかしから『左観音、右勢至』といわれ、左側に観音菩薩、右側に勢至菩薩が置かれる」(『わかる』P90)

 なお、この「左」とは阿弥陀の左側であるから、向かって右側である。

※注6 「平安浄土教に対し、鎌倉時代になり浄土教の革新運動が行なわれる。〜浄土に行く方法として定善、散善のめんどうくさい方法は捨てられ、もっぱら、南無阿弥陀仏を唱うれば、極楽往生は疑いなしという〜極楽浄土行きのだれにも手に入る入場券を法然は発行したのである。
〜法然のこの思想を徹底させたものが親鸞で〜現世で弥勒と等しい大歓喜を得るという信仰となる。このことは、像においては、阿弥陀一尊で十分であり〜観音は、往生人を蓮台に乗せる役をするはずであるが、臨終待つに及ばずとなれば、彼の役はなくなる」(『仏像 心とかたち』P114。著:梅原猛ほか。NHKブックス)

(石野 注)
 来迎図の画像としては、
山越阿弥陀図
(鎌倉時代 国宝。「京都国立博物館」HP)、
「阿弥陀二十五菩薩来迎図(早来迎)」
(鎌倉時代 京都知恩院 国宝。「京都国立博物館」HP)など。


(6) 地蔵菩薩像

 地蔵菩薩は、釈迦入滅後の濁世にあって、六道ことに地獄で苦しむ衆生の救済者として、浄土信仰の高まりとともに篤い信仰を集めた。

 特別な地蔵としては、鎌倉時代の偽経『仏説延命地蔵菩薩経』に説かれた延命地蔵がある。この地蔵は、右膝を立て、右手を頬に当て、左足を踏み下げる特異な姿をとる。(こうした姿勢をとらない延命地蔵も数多く存在する)
 延命地蔵は、両脇に掌善(しょうぜん)童子と掌悪(しょうあく)童子を従えることが多い。
 このニ童子は、向かって左が、赤い身体で性悪の掌悪童子であり、不動明王が従える制迦(せいたか)童子と等しいと考えられている。また、向かって右が、白い身体で性善の掌善童子であって、同じく不動明王に従う矜羯羅(こんがら)童子と同体と考えられている。
 ここから地蔵信仰(浄土信仰)と不動信仰(真言密教)の融合が窺える。
 

(石野 注)
 地蔵菩薩の画像としては、
醍醐寺 地蔵菩薩像
(鎌倉時代 重文。「醍醐寺の国宝・重文」HP)、
地蔵菩薩像
(鎌倉時代 重文。「奈良国立博物館」HP)、


(7) その他、浄土経典・絵巻ほか

(石野 注) 
 阿弥陀以外の浄土図、来迎図の画像として、弥勒の浄土である兜率天曼荼羅(鎌倉時代 大阪延命寺 重文。「大阪市立美術館」常設展示 案内)など。

 浄土に対するものとして、地獄図や閻魔ほか十王図などの画像として、
十王図
(中国南宋 重文。「奈良国立博物館」HP)、
十王図
(中国南宋 「知恩院」HP)、

地獄草紙
(平安時代 東京国立博物館 国宝「e−国宝」HP)、
地獄草紙
(平安〜鎌倉時代 国宝。「奈良国立博物館」HP)、

餓鬼草紙
(平安時代 国宝 東京国立博物館 国宝。「e−国宝」HP)、
餓鬼草紙
(平安時代 京都国立博物館 国宝。「e−国宝」HP)など。 





  かなり長くなったので、この辺でいったん切ります。


 それでは、皆さんごきげんよう♪ 


 

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