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(No87) 講演「京都御所の障壁画について 〜御常御殿をめぐって〜」聴講記 その2 

 2007年1月27日(土)に冷泉為人氏による「京都御所障壁画について 〜御常御殿をめぐって〜」という講演会があった・・・・・の続き。
 
 


 

三.御学問所と御常御殿
1.御学問所
 御学問所は、徳川家康によって、慶長17年(1611)に新しく建てられた御殿である。
 その名のごとく純粋に書斎、学問修行の場のみではなかった。
 書院造りの様式を色濃く伝えた殿舎で、講書始や月次の歌会が行われている。
 また、公家たちとの式日御礼の対面の御殿にもなった。

2.御常御殿
 御常御殿は、その名のとおり、天皇が日常を過ごされた内向きの御殿である。
 平安京の内裏以来、天皇の日常御殿といえば清涼殿であった。
 しかし、それが天正17年(1589)、豊臣秀吉が紫宸殿などの修復工事などに伴い、独立した御殿として新造されたのが今日に伝わる御常御殿である。


  御学問所でいいますと、中国の絵は上段、中段、下段それぞれの間の絵が漢画で、それ以外の部屋の絵は和風の題材です。

 御学問所の絵は上段の間のみが狩野派の画家が描いたものです。
 また、中段の間と下段の間については描いたのは町絵師ですが、画題は中国のものが選ばれており、やはりハレとケの区別がなされています。

 
【 御学問所(おがくもんじょ) 】

上段の間 
22 十八学士登瀛州図(じゅうはちがくしとうえいしゅうず) 狩野永岳

23 和歌ノ意図 土佐光清

中段の間
24 蘭亭の図 岸岱(がんたい) 

下段の間
25 岳陽楼図 原在照

 御常御殿では、剣璽の間は中国の画題が選ばれています。
 また、上段から下段の間は狩野派が描いています。

 今回の展示室のトップを飾る「桃柳図」も狩野永岳が描いています。

 
【 御常御殿 】

「剣」=剣璽の間
1 桐竹鳳凰図 狩野永岳

上段の間
2 尭任賢図治図(ぎょうにんけんとちず) 狩野永岳

中段の間
3 大禹戒酒防微図 鶴沢探真

下段の間
4 高宗夢賚良弼図(こうそうむらいりょうひつず) 座田重就(さいだしげなり) 

「一」=一の間
13 朗詠の意(桃柳図) 狩野永岳 

 今回展示されている障子は、和歌障子ではありません。
 小御所や清涼殿の障子は、障子の上に色紙が貼られ和歌が書いてあります。こういうのを和歌障子といいます。

 どのような和歌を書くか選ぶ役職を和歌奉行といい、冷泉為たかと飛鳥井まさのりが選ばれました。その当時の日記が残っています。
 紺青引
(こんじょうびき)といって、絵全体に青を塗る技法があります。群青というのは絵具が大変高価なのですが、画家がこうした絵具の使用について相談に来たことが日記に書かれていたりします。

(※ 石野注)
 「レイゼイタメタカ」と「アスカイマサノリ」が、どんな字で、いつの和歌奉行かはわからない。

 「群青」が高価な岩絵具であるというのは聞いたことがある。
 また、『ギャラリーフェイク』(細野不二彦。小学館文庫)第1巻「孤高の青」という作品では、日本画で使う岩群青という顔料は、藍銅鉱(アズライト)が原料で最も高価、とある。


  そういう視点で絵を観るとおもしろいのではないでしょうか。
 狩野派や土佐派は、やはりいい絵具を使っています。優遇されているのでいい絵具が使えるのですね。これも、内緒の話ですよ。

 狩野永岳の絵はいい色を出しています。住吉弘貫の絵具もいいです。
 町絵師の絵は少し落ちますね。鶴沢丹真もいい絵具を使っています。


(※ 石野注)
 確かにそういう観点で絵を眺めたことはなかった。
 今回の展示では、上掲御常御殿配置図でいくと御三間中段の間 19 「賀茂祭群参図」(駒井孝礼)の御所車の御簾の「緑」が、何か少し変だなと思ったくらい。




 

四.結論
 安政2年(1855)制作の京都御所障壁画

 格式、伝統を保持した絵画。文化の継承。日本人のこころの表現(identity)。日本を象徴する記念物、建造物。

 安政2年に障壁画が制作された。その年は、幕末も末も末で、13年後には新しい時代、明治時代(1868)がはじまる。
 激動、変革の時代に、このような内裏が造営されたことの意味は大きい。つまり、伝統、文化の継承以外の何ものでもない。
 ここには日本人のこころ、心性が大きく働いている。
 ややもすれば、日本人は何でも許容するので、理念がないとしばしば指摘されるが、それを積極的に認めるとすれば、日本人の優しい心、柔らかき魂が認められるのではないだろうか。  


 安政期というのはどういう時代かというと、フランスが下田へ、イギリスが函館へ、そしてロシアのプーチャチンもやって来た時期です。

 安政3年には、アメリカのハリスが下田へやって来ました。
 安政の大獄は1858年です。そして、文久3年には禁門の変が起こり、慶応2年には孝明天皇が崩御なされます。
 そして、鳥羽伏見の戦い、大政奉還と続く、まさに幕末です。

(※ 石野注)
 この辺の記述は、私のメモ誤りも多いと思う。
 外国人の名前だからいろいろあると思うが「プチャーチン」とこれまで信じこんできたから「プーチャチン」には若干抵抗あり。
 それと、少なくとも大政奉還、鳥羽伏見の順番だよね。



 さて、よく日本人には理念がないと外国の方に言われたりしますが、そんな時、私はこう返すんです。「日本人は理念のないのが理念なんだ」、と。まあ、レトリックですが。論理を超える豊かなものがあるといえないでしょうか。

 伝統を継承することで権力を維持するという側面があります。
 権力の象徴というか、どこか他力本願というか。さて、会場の皆さんの中で「私は誰にも頼らない」という人、いますか?(と、挙手を求める)

 大きい傘の下でゆっくりしたいというのが日本人を象徴している部分があると思います。
 つまり、そんな激動の時代に御所が再建された理由は?というと、日本人は何か頼るものが欲しいということではないか、と。

 権力の象徴といえば、公式文書は漢文、私的文書はかなという使い分けにも少し関連するかもしれません。
 紫宸殿にしても、清涼殿にしても伝統や格式を継承しないと存在そのものが認められないという、外国人にはちょっと理解しがたい感覚が存在するのではないでしょうか。

 それでは、時間も超過していますが、急いでいくつかスライドを紹介します。

 これは、紫宸殿の左近の桜です。
 これが、賢聖障子。一間に4人聖人が描かれ、上には漢文が書かれています。8枚あるので計32人。
 清涼殿には、呉竹(くれたけ)と漢竹(あやたけ)が植えられています。
 これが、小御所の和歌障子。


(※ 石野注)
 「左近の桜」については記述。対になっているのが「右近の橘」。

 これは、7月の「きっこうてん」の様子を描いたものです。7月は旧暦でいうと、秋の行事です。
 これは雁の絵です。
 これは菊の間です。数えてみると20種以上の菊が描かれているそうです。

 これは上段の間から下段の間です。このように実際に段差があるのです。
 これは高御座(たかみくら)です。

(※ 石野注)
 「きっこうてん」というのは、「乞巧奠」と書き、七夕の行事らしい。何やら足つきのお膳が描かれていた。
 それらしい画像が「風俗博物館」というHPに。

 これは禹戒酒の絵ですね。酒を造ったのが・・・・・・・・・ちょっと名前は忘れてしまいました。
 これは御寝の間。天皇がおやすみになられる部屋です。孝明天皇在世中は、鶏の絵が描かれていました。
 明治天皇のために模様替えで虎の絵にしたのです。

 この鶏の屏風が冷泉家に伝来しております。2面のみなんですが。

 私は冷泉家に養子に入ったんですが、冷泉家の皆さんは、鶏の絵なので皆、若冲や若冲やって言っておりました。私は、「若冲で、あんな絵はない」とゆうてたんですが。まあ、小下絵の資料で御所の屏風やとゆうことがわかったんです。冷泉家に下賜されたんですね。
 ここですが、塞いであるのですが、下は屏風の引き手の跡なんです。
 あと、14面がどこに行ったかは不明です。

 これは奈良八景、鶴沢探真の絵です。

 だいぶ時間も超過いたしました。どうもありがとうございました。
(※ 石野注)
 この絵(鶏の屏風)については「冷泉家住宅、探訪」というHPで写真が掲載されている。





 いろいろ文句を言ったようだが、興味深い話が聞けた。冷泉為人先生、ありがとうございました。

 どうもお疲れ様でした。

 
  

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