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(No86) 講演「京都御所の障壁画について 〜御常御殿をめぐって〜」聴講記 その1
2007年1月6日(土)から2月18日(日)まで「京都御所障壁画」展が開催されているのだが、その関連行事で1月27日(土)に冷泉為人氏による「京都御所障壁画について 〜御常御殿をめぐって〜」という講演会があった。
その簡単な聴講記を。なお、冷泉為人氏は冷泉家25代目当主で、各大学の教授などを歴任されているそうである。
いつものように、先生のセリフ(録音してないので正確な再現でなく、メモに頼って勝手に再構成したもの)は太字で、また、先生のレジュメは白枠内に示す。
皆さん、本展示会の第1室と第2室をご覧いただけましたでしょうか?まず桃の絵。その向かいに岳陽楼の絵。いずれも漢画です。
ここに京都博物館の意図があらわれております。
次の展示室には四季の花鳥の絵が展示されておりました。これで御所というものがご理解いただけましたでしょうか?
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(※ 石野注)
いきなり、「ご理解いただけましたでしょうか?」と、会場の聴衆を見渡す。
ハア?という感じ。たったこれだけの説明で、いきなり何ゆうとんねん?言葉は悪いがそんな感じだった。 |
御常御殿で飾られている中国の画題はハレとケでいえばハレ。公的な儀式などをを表しております。
それでは、お手元のレジュメに従って、まず現在の御所についてお話いたします。
一.現在の京都御所(禁裏<内裏> 御所、仙洞御所、大宮御所
1.安政2年(1855)に造営。
これを普通、「安政度造営」という。
嘉永の大火(嘉永7年、1854)後、新造営。ただ、この時、仙洞御所は造営されなかった。
また、小御所は、昭和29年(1954)8月16日に焼失し、昭和33年に再建された。
2.安政度造営は、前の寛政度造営を踏襲して再建。寛政度造営は、裏松固禅の研究により、平安朝の古制を用いて造営がされた。 |
安政期の御所は、仙洞御所がございませんでした。これは上皇がいらっしゃらなかったということを示しております。
小御所は昭和29年に焼失いたしました。これは花火の火が原因です。再建の際には京大の○○氏や、猪熊○○、京都工芸大学の○○など、また菊池渓月(?)門下の○○などが尽力しました。
小御所には54面の障壁画と10面の杉戸がございます。
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(※ 石野注)
早口で言われたのでさっぱりメモできず。レジュメにも記載のない固有名詞を早口で言われると、ちょっといらつく。 |
私は「公家町の火災と再建」が研究テーマです。
別紙資料にもあるとおり、3番目から8番目までの建替えの理由はいずれも出火です。
言い換えると3回目以降は、火事で焼失しない限り建替えることができなかったということで、これは徳川家の力の衰えを象徴するものといってよいと思います。
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(※ 石野注)
別紙レジュメに「江戸時代の禁裏御所御造営とその要因一覧」という資料がついていた。
詳述は省略するが、江戸時代の内裏は8回造営されたが、最初の2回(慶長、寛永)は旧殿を取り壊して内裏を新造した。しかし、それ以後の6回(承応、寛文、延宝、宝永、寛政、安政)はすべて火災による消失で内裏を新造しているとのこと。 |
1788年に京都全土が焼失しました。
松平定信が惣奉行で、裏松固禅の考証資料を参照しました。
儀礼風といいながら、実際は平安風ではなく、大工の中井家に任せていたようです。できるだけ、 過去の遺構を活かすことにしました。
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(※ 石野注)
図録の解説「京都御所と19世紀の京画壇」(佐々木丞平氏)によると、天明8年(1788)正月30日のいわゆる「天明の大火」で内裏もほぼ全焼した。
御所修築の惣奉行に命じられた松平定信は、これを機会に「平安朝の古制を復興させることにも意を注」ぎ、「昌平黌教官柴野栗山に命じて古典から大内裏の古制を調べさせ、また、当時既に『大内裏図考証』数十巻を著していた裏松固禅にも尽力させ〜紫宸殿、清涼殿、飛香舎(ひぎょうしゃ)等に平安時代の様式の復興が見られる」とある。 |
儀式用の殿舎としては、紫宸殿や清涼殿がありますが、こうした殿舎は古式を復活させやすいようです。
御所では、殿舎が雁行しながら南から北へ並んでいます。一番奥には、皇后が住みます。いつの世も奥の院は女性なんですね。ここだけの話ですが。
紫宸殿では、「左近の桜」が有名です。
冷泉家の先祖は藤原定家なのですが、定家は後鳥羽上皇と論争をしました。後鳥羽上皇が自賛した歌を定家はいいと思わなかったようです。苦労したでしょうね。
桜は「とうえもんさん」がお世話をしています。
近衛さんの家には枝垂桜が有名で花見客でにぎわいます。
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(※ 石野注)
紫宸殿前には「左近の桜。右近の橘」があるそうだ。「左近の桜」については、たとえば京都人ブログというところにに写真がある。
藤原定家と後鳥羽上皇との関係はよくわからない。定家は後鳥羽上皇に命ぜられて新古今和歌集を撰したが、上皇と意見が合わなかったらしい。その辺のことを言っているのだろうか。
「とうえもんさん」というのが誰で、「左近の桜」を世話してるのか、「枝垂桜」を世話しているのかもよくわからない。「そら、あなたは御所とかに出入りしてる人とも知り合いなんだろうけど・・・・」と思った。
「近衛さんの家」というのは、現在京都御苑中の「近衛邸跡」のことだろう。
枝垂桜については、ここで。 |
資料として「宝永5年(1708)の公家町」という古地図をつけさせていただきました。
京都については、豊臣秀吉が近世のまちづくりをしました。平安京から現代に通じる町並みにしたのは秀吉の功績です。宝永5年に現在の形ができました。
御所に面する北の大通りが今出川通り、西が烏丸通り、南が丸太町通り、東が寺町通りで、一周すると約4kmです。
内裏、大宮御所、仙洞御所などが描かれていますが、今出川御門を出て左のところに冷泉殿という記載があります。
冷泉家は1606年からここに住んでいます。同志社より古いのです。同大の関係者に「うちはあんたとこより古い」と自慢するのですが、実際は見下ろされています。
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(※ 石野注)
「ももちゃ京都写真館」というHPに冷泉家の屋敷の一般公開の様子が紹介されており、同志社大学の校舎から見下ろされている写真も載っている。 |
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【 京都御苑 案内図 】
緑色外枠=京都御苑
北側=「入」:今出川入り口、「今」:今出川御門、
西側=「乾」:乾御門、「中」:中立賣御門、「蛤」:蛤御門、「下」:下立賣御門、
南側=「堺」:堺町御門、
東側=「寺」:寺町御門
水色外枠=京都御所
北側=「朔」:朔平門、
西側=「皇」:皇后門、「清」:清所門、「宜」:宜秋門、
南側=「建」:建礼門、
東側=「春」:建春門
御所内=「紫」:紫宸殿、「車」:新御車寄、「涼」:清涼殿、「小」:小御所、「学」:学問所、「学」:御学問所、「常」:御常御殿、「参」:参内殿、「后」:皇后宮御殿 |
二.京都御所、障壁画の特色
1.障壁画総数は約1800面。画家は92名(一説に97名)。そのほとんどが京都画壇の画家である。
ただ、紫宸殿の賢聖障子と御三間などの一部は、江戸の狩野家や住吉家の画家が担当している。
前者賢聖障子は、嘉永の大火では焼失を免れたので、前寛政度造営時制作の、狩野栄川院典信と住吉広行、弘貫が描いたものが、安政度造営時に用いられたのである。
(1) 禁裏御用絵師
ア 土佐派・・・・・光清・光文・光武
イ 狩野派・・・・・京狩野派、鶴沢家、勝山家、木村家、他に座田家
(2) 町絵師、写生画系
ア 円山派、イ 四条派、ウ 岸派、エ 原派、オ 望月派、カ 森派(大坂画壇)など |
障壁画は全部で1800面ありますが、今回、小下絵も展示されています。
安政度造営の際は京都画壇が中心となりました。
当時の日本の画壇のトップは江戸の狩野派とか土佐派でした。
当時の江戸狩野派は、京都に来るのを渋ったという文献もあります。
御所の賢聖障子は画檀の長が担当する習わしがありました。寛政度造営の際は、狩野派の画家が小下絵だけを描きました。それが残っていたので安政期に再使用したのです。京都に来るのにメリットがないと判断されたようです。それで京狩野が中心になって担当しました。
住吉弘貫(すみよしひろつら)は御三間(おみま。御常御殿の一角)を担当しました。徳川幕府関係の絵画を担当していたのが住吉派です。
丹入(?聞き違い?)ら京狩野が御所障壁画の中心となりました。
狩野派というのは室町から400年続いた流派ですが、京狩野と江戸狩野の二派があります。
狩野探幽が京から江戸に行って江戸狩野をつくり、幕府と結びついて隆盛しました。
一方、狩野山楽の家系は京都に残り京狩野となりました。
四天王の一人に鶴沢たん山という画家がおり、別名「へたのたん山」と言われています。
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(※ 石野注)
前掲図録解説を参照する。
「従来、御所の障壁画は狩野派が大挙して描くのが通例〜寛永度、承応度、寛文度いずれも狩野探幽が中心となり〜江戸狩野集団が大挙して京都に移動し、御所の障壁画制作を行っている。
〜寛政度造営に際して〜大きな変化が生まれた。その一つは。古制の見直しという流れを受けて、「和」の主題を描く大和絵が重用されるようになったこと。二つには、従って大和絵を得意とする土佐派の絵師が多く加わるが、一方江戸狩野派は〜栄川院典信が〜紫宸殿の賢聖障子を担当したのみであること。三つには〜京画壇の絵師が大挙して制作に参加したこと〜町絵師系の画家が数多く参加することが認められたのは画期的なことであった」。
また、「鶴沢たん山」とは、狩野探幽門下で久隅守景(くすみもりかげ゙)・桃田柳栄(りゅうえい)・神足常雲(こうたりじょううん?)とともに四天王の一人と称された鶴沢探山であろう。「へたの探山」というのが「下手」なのか何なのかはわからない。 |
このほか、町絵師、写生画派の流派の力が大きいといえます。
こうした町絵師が後の京都画壇をつくり、京都芸大の流れになりました。
二.京都御所、障壁画の特色(続き)
2.襖絵には落款がない。これは禁裏(内裏)御所の障壁画の特色。天皇や皇后をはじめ、上皇(法皇)、皇太后などに、親王や内親王などが住まいされる殿舎に画家の名前を記すことは不敬。
3.障壁画は総じて謹厳な画風である。金地に極彩色の金碧画。水墨画であっても金泥引を施す。そして自由奔放な絵画ではない。
現代的に一言でいうと、刺激の少ない面白味の少ない画風。普通一般的な華麗な美しい絵画。格式、伝統を保持した絵画。 |
御所障壁画の特徴としては落款がないということがあげられます。自分の名前を表示するのは不敬にあたるのです。
私も天皇に何回かお会いしたことがありますが、質問された時だけ答えることになっております。
ご下問に答えるのはよいが、こちらからしゃべると不敬と言われるのです。
・・・・・・・ここだけの話にしてくださいよ。
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(※ 石野注)
意味ありげな顔をして会場を見回し「ここだけの話にしてくださいよ」とおっしゃるので、続いて、何か天皇のお話に関わる逸話が紹介されるのかと思ったが、結局、話はそれっきりとなった。
自分からしゃべってはいけないということが、外にもらしてはいけない秘密ということなのか?まあ、その程度のことはよく聞く話のようにも思えるのだが。 |
二.京都御所、障壁画の特色(続き)
4.格式、伝統の保持、継承。
画題は、
(1) 漢画の中国的な鑑戒画、吉祥画と、
(2) やまと絵の日本的な四季絵、月次絵、年中行事絵、名所絵などである。
そして儀式を行う「ハレ」の空間、すなわち「公的」、「表向き」の部屋、場所にはその漢画の中国的な画題が描写される。
これに対して「ケ」の空間、つまり「私的」、「内向き」な部屋、場所にはやまと絵の日本的な画題が絵画化されたのである。
ア 『古今和歌集』(延喜5年=905)「真名序(漢字)と仮名序」
イ 『土佐日記』(紀貫之。承平5年=935頃)「をとこもすなる日記といふものを、を無なもしてみむとてするなり」という冒頭の一文から日記ははじまる。「漢字(公的・男性)と仮名(私的・女性)」
ウ 『和漢朗詠集』(寛仁3年=1018)、王朝のアンソロジー(詞華選)。平安朝の優雅なこころをうつし出したことばの珠玉を集約した、ことばの「宝石箱」。
「花のいろに染めしたもとの惜しければころも更へうきけふにもあるかな」(夏の部の一番初め「更衣」)
エ 『心の文』(村田珠光)、「此道(茶道)の一大事は、和漢之さかいをまきらかす事、肝要ゝようしんあるへき事也」 |
次に、「格式、伝統の保持」というお話に移ります。
漢画はハレ・ケでいえば「ハレ」ということになります。
・・・・・ご理解いただけましたでしょうか?
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(※ 石野注)
またも意味ありげに会場を眺め回し、ねばっこい口調で「ご理解いただけましたでしょうか」と押し込む。
今こうしてあらためてレジュメと対比しながら、また、冒頭の説明などと考え合わせると、御所における空間の性格(儀式空間と日常生活空間)と選択される画題との関係、そして、それを模した今回の京博における展示手法などのことを言っていたのかな?と想像できるのだが、ほんま、会場で聞いてる時は「何をどう理解せえとゆうてんねん?もったいぶらんとズバッ!とゆえや!」とええかげん癇に障って仕方なかった。
これも後で思ったことだが、NHKの「ためしてガッテン」で立川志の輔が「ガッテンしていただけましたでしょうか」と尋ねる時の口調に少し似ていた。 |
日本人の「心性」といいますか、資質に格式、伝統の継承というのがあるのではないでしょうか。
905年の『古今集』には真名序と仮名序がございます。
古今集の仮名序には「やまとうたは人の心を種にして〜あめつちを動かし〜」という歌の働きを詠んだ一節がございます。
真名序と仮名序があるということの裏には、漢字と仮名の区別があります。
また、『土佐日記』には、「漢字→公式・男、仮名→私的・女性」という認識がうかがえます。
また、『和漢朗詠集』というのはいわば、「言葉の宝石箱」です。
『心の文』という村田珠光の書も和漢の別を説いています。
・・・・・皆さんもそういう観点でご覧いただいたらよろしいのではないでしょうか?
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(※ 石野注)
「『和漢朗詠集』は、言葉の宝石箱やあぁ〜」って、「ひこまろ」か!とタカアンドトシのようにつっこみたくなった。 |
どうもお疲れ様でした。少し長くなったので、いったん切ります。
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