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(No51) 京都国立博物館 土曜講座 「明服の輸入と利用をめぐって」 聴講記 その2

  表題の講座を聴いてきました・・・・・の2回目。

 


  3 秀吉と明服

 誥命(こうみょう)とは皇帝からの正式文書のことですが、万暦23年(1595)付け、これは文禄元年(※ 石野注 文禄元年は1592年なので、私の聞き違いだと思う)にあたりますが、「豊臣平秀吉日本国王錫之」という文面の誥命が残っています。

 いわゆる豊臣秀吉の朝鮮侵攻、文禄の役で明は停戦調停に乗り出しました。秀吉の講和条件は、南朝鮮の割譲、日明貿易の再開、中国皇帝の一族が日本の天皇家に降嫁することの3点でしたが、いずれも明にはとてものめない条件でした。

 日本の使節は密かに、せめて日明貿易の再開だけはのんでくれと明の使節と交渉したようです。日本と明の使節はお互いに実態を本国に伝えずに交渉を続けました。
 明側の萬暦二十三年正月二十一日付けの文書は、秀吉を日本国王に冊封し、金印と明服を頒賜するというものでした。

 このやり取りの日本側の記録は残っていません。明側の記録では自らの望む条件が何一つ容れられていないことを知った秀吉が怒りのあまり書面を叩きつけたという記録が残っているそうです。
 当然のことながら、停戦交渉は決裂し、その後の慶長の役につながりました。
(参考資料)

万暦帝勅諭
(宮内庁書陵部 蔵)


(※ 石野注)

 この辺のことは、『モンゴルと大明帝国』(著:愛宕松男・寺田隆信。講談社学術文庫)にコンパクトにまとめられているので引用する。

「日明両国の間には、小西行長(こにしゆきなが)と沈惟敬(しんいけい)を中心に和平交渉が続けられたが、両者の立場は根本的に食いちがっていた。秀吉が戦勝国の立場で条約を結ぼうとしたのに対し、明廷は日本を夷狄(いてき)の一国と考え、秀吉を日本国王に封じ、朝貢を認めることによって局面をまとめようとしたからである。そのうえ、小西と沈は、この食いちがいをごまかし、和議をまとめることを急いだため、両人の努力も、1596年6月、秀吉が大坂城で明廷の冊封使を引見するに及んで水泡に帰した」。


 この時秀吉に渡されたとされる金印については全く所在がわかっていません。それでは、明服はどうなったのでしょうか。
 現在のここ、京都国立博物館の南には豊臣秀吉を神として祀る豊国神社がありました。秀吉にまつわる明服は神宝として豊国神社に祀られていたのですが、その後、徳川家康は豊国神社を潰そうとしました。
 高台院(ねね)の懇願で廃棄こそ免れたのですが、何ら援助が得られないため神社はすっかり荒廃し、見かねて、京都大仏のあった縁で方広寺が豊国神社の神宝を預かったのです。
 その後、方広寺も寂れたため、方広寺の管理者である妙法院が神宝を預かりました。妙法院はそれほど豊臣秀吉と深い関係があったわけではないのですが、転々とした秀吉の明服は、こうして妙法院の管理するところとなったのです。
図録『特別展 美のかけはし』(京都国立博物館)より

23 常服

豊臣秀吉所用

京都・妙法院

1 麒麟文円領

 

 妙法院では、その後、出開帳(でがいちょう)といって、観覧料を取って特別宝物展示会のようなものを開いたことがあり、その時のいわば図録が残っています。そこでは「朝鮮服」といった記載がなされているのですが、実は朝鮮服ではなく中国服なのです。

 その後、明服の所在は明らかでなかったのですが、最近、京都国立博物館で妙法院の宝物を調査させていただいたところ発見されまして、その後も妙法院に保管されていたことがわかったのです。
(麒麟文の補子部分の拡大)

 秀吉はこの明服を着て使節を迎えたという記録も残っています。なお、貼裏(ちょうり)というのは、下着のことで、貼裏を着て、その上に円領を着ます。
図録『特別展 美のかけはし』(京都国立博物館)より

23 常服

豊臣秀吉所用

京都・妙法院

2 貼裏

(※ 石野注)
 この辺のことは、図録『特別展 美のかけはし』(京都国立博物館)の作品解説に詳しいので引用してみる。

「明の万暦帝の書状に添えて下賜されたのが、金印(現存せず)と現在妙法院に伝えられる明の宮廷服である。
 幸いにも、これらの下賜品を記す万暦帝の勅諭(宮内庁書陵部蔵)が残されており、その記述との照合から、このニ領は、常服を構成する「大紅織金胸背麒麟円領 一件」「緑貼裏 一件」に当たると考えられる。〜円領は、紅に染めた羅(ら)の単(ひとえ)仕立てで、胸と背に麒麟を織り出した金襴の補子を付す。

〜これらの秀吉ゆかりの品は、慶長3年(1598)の秀吉没後、彼を祭神とする豊国社に神宝として納められた。しかし、大坂夏の陣での豊臣家の滅亡後、豊国社は荒廃。神宝は方広寺大仏殿へ移管となったが、さらに諸事情が重なり、最終的には大仏殿を管理していた妙法院に受け継がれた。江戸時代に一度開帳された後、これらの宮廷服は長らく所在不明とされていたが、平成8年、当館の妙法院調査の折に再発見された」。
 なお、この解説文は山川先生の執筆。

 既述の「出開帳」とは、別の解説によれば、方広寺大仏殿は寛政10年(1798)に落雷で焼亡。再建費用の勧進で、妙法院が天保3年(1831)に秀吉遺品を展示公開したことを指すようだ。
 また、その折の目録が、今回の特別展「美のかけはし」でも出展されていた「豊公遺宝図略」である。

 こうした明服は秀吉だけでなく、徳川家康小西行長上杉景勝らにも下賜されました。箚付(※ 石野注 先生の資料では「箚」は「答+リ」という字)とは中国上級官庁の命令書であり、上杉景勝を任命する文書が残っています。
 また、上杉家には斗牛常服(とぎゅうじょうふく)というのが残っているのですが、上杉景勝へのものか疑問です。

 斗牛は折れ曲がった角を持ち、龍に似るが龍でない神獣とされています。あと、斗牛のように「龍に似るが龍でない」でないものに蟒(もう。ウワバミのこと)や飛魚があります。
 龍は皇帝の象徴だから臣下には与えられませんが、「龍に似た」斗牛、蟒、飛魚などの服を与えられるというのは大変な栄誉の象徴なので、上杉景勝になぜ与えられたのかがよくわかりません。

(参考資料)

箚符

(上杉神社蔵)

(※ 石野注)
 蟒、斗牛、飛魚については、京都国立博物館HP「皇帝の龍」で画像付きで完璧な解説が載ってるんで、ぜひそちらをご覧いただきたい。


 
秀吉は明の使節とは決裂しましたが、唐冠(中国風の冠)については非常に気に入ったと言われています。今回展示されている秀吉の画像でも唐冠を被っています。

図録『特別展 美のかけはし』(京都国立博物館)より

16 豊臣秀吉像 

重文 玄圃霊三(げんぼれいさん)・惟杏永哲(いぎょうえいてつ)賛。縦110.6 横51.0 桃山時代 慶長5年(1600) 滋賀・西教寺

 秀吉が被っている冠の両横に展角(てんかく)と呼ばれる翼のようなものが生えていますが、これが唐冠の特色です。
 先ほどの万暦帝の勅諭にも「紗帽 一頂 展角〜」という記述があります。

(※ 石野注)
 これも中国で買った『京劇人物』という本に載っていた「群英会」における魯粛
 前回に麒麟の補子付きの衣装の写真を載せたが、今回はそのイラスト版。
 今回は補子ではなく、冠の「翼」というか「羽根」に注目していただきたい。

 唐冠(とうかむり)をかぶった秀吉の姿は、いわば秀吉の肖像画のスタンダードとなっています。
 しかし、この冠もよく見るとおかしい点があるのです。後頭部の部分に尻尾のような帯が垂れていますが、これは「えい」といって日本の冠に特有のもので、唐冠には付いていないものなのです。

図録『特別展 美のかけはし』(京都国立博物館)より

60 源頼朝像

国宝 縦143.0 横112.8 鎌倉時代(13世紀) 京都・神護寺

 

(※ 石野注)
 なお、右上写真は、図録表紙のものなのでバックに京都国立博物館のイラストが入っている。
 この冠の後ろに下がっているのが「えい」だと思うのだが、漢字が分からない。

 秀吉は、日本と中国の折衷のような冠をかぶっていると言えます。新日吉神社(いまひえじんじゃ)に伝わる秀吉の肖像画では、後ろに「えい」のない、いわば正しい唐冠をかぶった姿で描かれています。

(※ 石野注) 
 左写真は、小さくて何がなんだかわからないかもしれないが、蓮華王院所蔵の豊国大明神画像。寺伝では長谷川等伯筆らしい。
 「えい」がないので、これも正しい唐冠の画像といえると思う。以上、9月9日本注加筆。

  

 また、妙法院には秀吉着用と伝えられる獅子常服も残されているのですが、文書は残っていません。

 常服の斗牛とは、四爪で曲がった角が特徴です。
 また、四爪の龍を蟒と言います。
 飛魚も龍に似ていますが、尾は魚の尾びれのようになっており、背中には背びれのような翼のようなものが付いているのが特徴です。



 
4 明服の利用

 こうした明服の生地を、「服」としてではなく、違う形で利用された例をご紹介します。(※ 石野注 以下は山川先生がパワーポイントで画像を紹介された。はっきり言って、よく覚えていない)

 龍袍裂(りゅうぼうぎれ)。生地をそのままで用いたものです。爪は5つです。

 獬豸文様狩衣(かいちもんようかりぎぬ)。先ほどの「大館常興日記」にも「唐船に猿楽の装束に成つへしき物」という記載があります。

 天河大弁財天社飛魚文様唐人相撲装束(てんかわだいべんざいてんしゃ ひぎょもんよう とうじんずもうしょうぞく)(皇帝用)。補子を裏地に使っています。
  「唐人相撲」という狂言は、日本の相撲取りが中国に渡り活躍するのですが、里心がつき、日本に帰国することになりました。最後の相撲を取るのですが中国人が次々に敗れるので、ついに業をにやした皇帝自らが相撲を取るというもので、皇帝の衣装がこれです。

(※ 石野注) 
 天河大弁財天社は、竹生島、厳島とともに日本三大弁財天といわれているらしい。何にでも「三大〜」というのがあるものだ。能にゆかりのある品が数多く奉納されているそうだ。
 また、野村万之丞「唐人相撲」に関するHPは、ここ


 豊国祭礼図屏風(ほうこくさいれいずびょうぶ)。「美のかけはし」でも展示されています。
 こうした祭礼の日は一日晴れ(いちにちばれ)と言って、ハレの日という扱いとなり、決められた服ではなく、好きな格好、目一杯目立つ格好をして良いことになっています。
 この屏風に描かれた武士の中に馬に乗って、背中にゼッケンのような物をつけた武士がいます。これは中国渡来の補子を最先端のファッションとして利用されたのかもしれません。

 黒主山飛魚文様前掛(くろぬしやまひぎょもんようまえかけ)。祇園祭りの山鉾には清代の布が非常に多く使用されていますが、明代のものもあり、これがその例です。

(※ 石野注)
 黒主山についてはここなどで。なお、ここや他のHPでは、元の前掛は「五爪龍文様」となっている。

 龍文様袍(りゅうもんようぼう)。チベット伝来のもの。明服を自国の風習に合わせて、変えて用いています。


 

 

 どうもお疲れ様でした。山川先生、ありがとうございました。

 
  

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