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(No50) 京都国立博物館 土曜講座 「明服の輸入と利用をめぐって」 聴講記 その1

  表題の講座を聴いてきました。
 正直言ってタイトルからはあまり期待していなかったのですが、非常に興味深い内容でした。

 研究員の山川暁さん(女性)、どうもありがとうございました。

 


  1 明服とは

 明服(みんふく)というのは、一般に普及した用語ではありません。
 広く中国服という意味で使われる場合もありますが、今回は一応明代の宮廷服と定義しておきます。

 明服は大きく三つに分かれます。
 一つ目は袞冕服。袞(こん。※)は龍、冕(べん)弁は冠を表し、最礼装の服となります。
 二つ目が皮弁服(ひべんふく)で、これも礼装です。
 三つ目の常服(じょうふく)は、字のとおり、平常時のいわば宮廷における制服のようなものです。


(※ 石野注 なお、先生のレジュメでは、「袞」の字の「口」の部分が「ム」のようになっているので別字かもしれないが、取りあえずこれで表記しておく) 

 なお、明は1368年に開国された漢民族の国であり、日本では桃山時代にあたります。

冕服 皮弁服 常服
一世隴西恭献王 李貞 琉球 尚真王(1465〜1526) 明 太祖洪武帝(1328〜98)


 
服の冠は両脇から垂飾(すいしょく)が下がります。袖は非常に長く垂れています。
(※ 石野注)
 右のイラストはずっと昔に私が描いたもの。上の李貞の絵と比べると垂飾の向きが異なるように見えるが、大体感じは似てると思うので、参考のため載せておく。

 なお、琉球王朝に伝わる皮弁服や玉御冠について、リンク切れまでは九州国立博物館HPで。

 中山王尚真の皮弁服を載せていますが、腰のところには石帯(せきたい)というベルトを付けています。
 石帯というのは、帯に石(※ 石野注 貴石などであろうか)で飾りがついているものです。

 常服にも石帯が付いていることが多いです。また、袞冕服も皮弁服も袖は垂れていますが、常服の袖は広がりません。

 明の太祖洪武帝とは朱元璋のことです。なお、皇帝の肖像画とは、美化というか、理想化されたものです。洪武帝の肖像画では、顔をもっと醜く描いたものも残っています。


(※ 石野注)
 これは有名な話。例えば三田村泰助氏の『明と清』(河出文庫)P29には、「かれの肖像画にはふたとおりのものがあって、ひとつは儒者風の端正な風貌を持ち、もうひとつはウマづらにあばたのある醜悪な人相をしている。おそらく後者のほうが本物だろうとは思われる」とある。
 なお、参考としてここを。そこでは二種類の肖像画が掲載された中国のサイトにリンクもしている。


 この絵でも、また別の永楽帝の絵などでもそうですが、胸には龍の模様があります。龍は皇帝の象徴なので、服の胸には龍を織り出すのです。

 補子(ほし)とは服につけて官位を示すものです。直接刺繍などで織り出すものと、ゼッケンのように別布を胸と背に縫い付けるものの二種があります。
参考資料

明代常服の補子(『三才図絵』所収)

(※ 石野注)
 補子に関して記述されたサイトは、西日本新聞社サイト官員的補服、 百寶箱(ここは冕冠についてもリンクあり)、中国風(ここは王開立氏製作の練雀、麒麟、仙鶴、獅子の補子が掲載されている)など。

 資料の文字は読み取れないと思われるので、上記サイトなども参考にしながら書いておく。

官位 補子 備考
文官一品 仙鶴(せんかく)
二品 錦鶏(きんけい?) 清朝では二品は孔雀だったという資料あり
三品 孔雀(くじゃく)
四品 雲鴈(うんがん?)
五品 白鷴(はっかん)
六品 七品 鸂鶒(けいちょく) 七品に限定する資料あり
八九品併 練雀(れんじゃく) 清朝では九品を練雀に限定する資料あり
六品 七品 鷺?(資料には「糸」ヘンに「系」という字が書いてあるのだが、その字がパソコンで表示できない) 「鷺鷥」という表記の資料あり。
清朝では六品を鷺鷥に限定する資料あり
八九品併 鵪鶉(あんじゅん) 九品に限定する資料あり。
八九品併 黄鸝(おうめい?おうれい?) 八品に限定する資料あり。清朝では八品を鵪鶉に限定する資料あり
文官 風憲衙門(ふうけんがもん) 獬豸(かいち) 文官は一般に鳥の模様なんだが、これは別。風憲衙門は法律職なので獬豸なんだろう。詳しくは私のサイトで「麒麟と獬豸の違い」をご参照下さい。

 こうした鳥の絵は区別が難しい。山川先生も「白鷴と練雀の区別は難しい」とおっしゃっていたが、どれも難しいと思う。

 なお、下の写真は中国で買った『京劇服飾』という本に載っていた、京劇衣装に用いられる補子。
 左が仙鶴で右が孔雀である。           

 文官の補子は鳥ですが、武官は獣で表わします。

 六品、七品の彪は三品、四品の豹と同じヒョウなのですが、「ぶち」のないヒョウです。

 また、下の方の麒麟(きりん)や白澤(はくたく)は官位を示すものではなく、爵位を示すものです。公爵、侯爵、伯爵などですね。
 駙馬(ふば)というのは皇帝の娘婿のことです。


参考資料

明代常服の補子(『三才図絵』所収)

(※ 石野注)
 武官の方も整理しておく。

官位 補子 備考
武一品、二品 獅子(しし) 清朝では一品は麒麟に限定されていたとする資料あり
三品、四品 虎(とら) 清朝では三品は豹に限定されていたとする資料あり
三品、四品 豹(ひょう) 清朝では四品は虎に限定されていたとする資料あり
五品 熊(くま) 「熊羆」と表記する資料あり。絵を見てると麒麟みたいで、とてもクマとは思えない。
六品、七品 彪(ひょう) 「小老虎」と解説する資料あり。清朝では七品は犀牛だったとする資料あり。
八品 犀牛(さいぎゅう)  
九品 海馬(かいば)  
公侯駙馬伯 麒麟(きりん)  
公侯駙馬伯 白澤(はくたく) 白澤って何だろうと思って調べてみた。9個の目を持ち言葉を話す人面の神獣らしい。詳しくはHP「犬山祭」で。

 下の写真は、これも先述の『京劇服飾』所収の写真。
 小さくてわかりにくいかもしれないが、麒麟の補子が付いている。

 なお、この衣装は「群英会」という京劇で魯粛が着るものだそうだ。

 




 
2 明服の輸入

 明服とは、当然のことながら市場で公然と売買されるものではありません。
 当時の貿易は勘合貿易と呼ばれるものです。この貿易は、いわゆる朝貢貿易といわれるものでした。中華思想によって、中国は、他国と対等の立場の交易ではなく、あくまで冊封国からの貢ぎ物に対する返礼という形で物品を与えていたのです。
(参考資料)

勘合符印形

天与清啓『戊子入明記』所収

(※ 石野注 京都国立博物館のサイトに解説あり)

 勘合貿易というのは、明が、正式な朝貢貿易の相手方と認めた者に与えた割符を勘合符といったからです。

 妙智院という寺に天与清啓(てんよせいけい)という禅宗の僧侶が書いた『戊子入明記』(ぼしにゅうみんき)という書物が残っていますが、そこに勘合符を写したものが載っています。
 勘合符は、合わせると「本字壱号」という文字になったそうです。

 資料1(宣徳帝別幅 瑞渓周鳳『善隣國寶記』)をご覧下さい。

 「皇帝頒賜 日本國王」というのは、明の皇帝(宣徳帝)が日本の国王(足利義満)にこれこれのものを賜ったということです。

 そこに紵絲(ちょし?)とか、羅、紗といった文字が見えます。サテンとか、しゅす、りんずとか日本で呼び分けますが、中国では紗・羅はあまり区別しません。

 日本側が勘合貿易で一番欲しがったのは永楽通宝などの銅銭です。あとは、唐糸(からいと)とか、茶の湯で唐物(からもの)と呼ばれるようなものです。
 また、日本からは刀剣、金屏風、蒔絵、硫黄などを持って行きました。
 年代は宣徳8年となっています。

(※ 石野注 宣徳8年は1433年。なお、日本国王で「足利義満」と聞いたように思ったのだが、1433年であれば当時の将軍は足利義教である)



 資料2(『大館常興日記』天文11年(1542)2月12日条)をご覧下さい。
 大館常興(おおだちじょうこう)は足利義晴
(※ 石野注 室町幕府第12代将軍。1511〜1550)に仕えた家臣です。
 彼の日記に「一、今度就渡唐船帰朝、錦一疋羅一疋紗一疋」とあります。これは、この度遣明船が日本に帰ってきたが、その船が持ち帰った錦が一疋、羅が一疋・・・・・といった内容です。
 「一疋」(いっぴき)というのは服に仕立てあがった状態ではなく、反物の状態ということを示します。
 一疋は四十四丈で、一丈は十尺といわれています。明代の一尺が何cmで、一疋で果たしてちゃんと1着の着物が仕立て上げられるのか、まだちゃんと計算していないのですが、これは私の宿題としておきたいと思います。

 日記には「羅一疋 (割注)「紺紋雲織金胸背麒麟」 紗一疋〜」といった記述もあります。羅の生地で、胸と背に麒麟の補子がついた明服となる反物、といった意味でしょうか。

 また、琉球国の中山王尚真あての成化23年(1487)付けの勅諭も残っています。

 こうした明服を下賜する時期ですが、毎回毎回与える訳ではありません。遣明使を出した国の国主
(※ 石野注 日本なら将軍などか?)が代替わりした時期に与えたようです。これから朝貢する時には、この服を着て来なさいというところでしょうか。



 少し長くなったので、ここでいったん切る。

 

 どうもお疲れ様でした。

 
  

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