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(No21) 大阪市立美術館 「ミラノ展」鑑賞記&「ミラノ美術の魅力」聴講記 その1 

 大阪市立美術館では、9月6日(火)〜10月16日(日)まで「ミラノ展」が開催されている。
  関連イベントとして、9月10日(土)に宮下規久朗神戸大学文学部助教授による講演「ミラノ美術の魅力 〜ルネサンスから現代まで」が開催された。
 宮下先生の講演は、ちょうどミラノ展そのものの解説も兼ねることができると思うので、この聴講記にからめて、ミラノ展の鑑賞記を進めたいと思う。 



1.ミラノの歴史

 冒頭に宮下先生から、ミラノの歴史の概略が説明された。

「ミラノは、ロンバルディア州の州都であり、イタリア経済の中心でもあります。また、交通の要所でもあるので、観光客の多くはミラノに立ち寄りますが、そのままローマ、フィレンツェ、ベネチアなどへ移動してしまい、ミラノで美術館に行くという人は少ないのが現状です。
 ミラノはイタリアの北端で、スイス国境にも近く、イタリアにおける”アルプス以北の文化の窓口”といえます。

 ミラノは、BC4世紀頃、ラテン系民族ではなく、北方のガリア人によって建設されました。
 BC196年にローマ帝国領に。ローマに次ぐ第二の都市となりました。
 313年、ローマ帝国はキリスト教を公認することをミラノで宣言しました。これがミラノ勅令です。

 その後ゲルマン民族の大移動の関係で滅亡。5世紀頃にはランゴバルト族(ロンバルディア州の語源)が支配しました。

 1000年頃、自治都市国家(コムーネ)が成立しました。

 コムーネは領主制(シニョーリア)へと代わり、1395年、ヴィスコンティ家によるミラノ公国が成立。

ミラノ展きっぷ


 1386年、ヴィスコンティ家はドゥオーモ(ミラノ大聖堂)建設に着手。(完成は19世紀)

 1450年、ヴィスコンティ家の娘婿で傭兵隊長であったスフォルツァ家が支配するようになりました。ダ・ヴィンチが招かれたのもこの頃です。

 1525年には、スペインの支配を受けました。
 16世紀は、二人のボッロメーオの時代といわれ、ミラノは反宗教改革の中心地となりました。この頃活躍したのが、カラヴァッジョです。

 1706年には、オーストリアの支配を受けました。スカラ座の完成もこの頃。
 1796年にはナポレオンにより公国が解体され、その後再びオーストリアが支配した。

 1870年にはイタリア王国が成立しました。これは、明治維新と同時期です。

 1946年にはイタリア共和国が成立。現在もイタリア経済の中心地となっています。」


第1章 皇帝の時代と中世初期

 展示の構成は、第1章(中世初期)から第2章(ドゥオーモ)、第3章(ダ・ヴィンチ)、第4章(ルネサンス)、第5章(バロック)、第6章(19世紀)第7章(20世紀)までの7部構成。

 一方、宮下先生のレジュメでは、「1.ミラノの歴史」に続き、「2.ミラノ美術の始まり(ルネサンス 16世紀)」、「3.ミラノ美術の黄金時代(マニエリスム〜バロック 16〜17世紀)」、「4.ミラノ美術の衰退期(18〜19世紀)」、「5.ミラノ美術の飛躍(20世紀)」となっている。

 よって、以後は展示構成に合わせ、適宜宮下先生の講演内容を「 」付きで紹介していきたい。



作品5 皇帝妃テオドラの頭部像 (ビザンティン様式の彫刻家 6世紀 スフォルツァ城市立博物館)

 東ローマ帝国ユスティニアヌス1世の王妃の彫像。鼻が削げて、しゃれこーべの鼻の穴みたいになっているので、ちょっと気味が悪い。展示解説には「複雑な髪型が・・・」とあったが、それほど凝った造形でもないし。

 私は知らなかったのだが、このテオドラは、なかなか人気のある女性らしい。
 彼女は、もともと踊り子とも娼婦ともいわれている。どういういきさつがあったのかは不明らしいが、ともかく時の皇帝の甥であるユスティニアヌスが彼女に惚れこんだ。
 当時元老院議員は踊り子と結婚できないと法律で定められていたそうだが、ユスティニアヌスは法律を改正してまでテオドラと結婚。527年、ユスティニアヌスはビザンツ帝国の皇帝に。

 532年、市民の反乱であるニカの乱が起こり、皇帝の座を追われそうになったユスティニアヌス1世は、逃亡を考えたのだがテオドラが叱咤激励し、踏み留めさせたそうである。

 画像は、リンク切れになる前に大阪市立美術館の「主な展示作品」で。
 また、同展チラシその2にて。
 そのほか、モザイク画の「テオドラ」は「友人たちの旅日記」というHPで画像が載せられています。



第2章 ヴィスコンティ家の支配とドゥオーモの建設

(宮下講演)「この時代のサンタンプロージォ聖堂(※ 図録P55)は、どっしりとした建築でいかにもロマネスク様式という感じがいたします。」

作品7 聖母マリアにひざまづき都市ミラノを献ずる聖アンブロシウス(ジョヴァンニ・ディ・バルドゥッチョ・ダ・ピサとロンバルディア地方の工人たち 1330年頃 スフォルツァ城市立博物館)

(宮下)「聖アンブロシウスは4世紀の大司教であり、ミラノの守護聖人です。(※ 図録P52 374年から397年までミラノ司教)。
 この作品は、14世紀にミラノの城門に据えられていたものです。」

 この彫刻をつくらせたのは、アッツォーネ・ヴィスコンティ(1302〜39)。

(宮下)「彼にジョット(1267〜1337)も招かれたのですが、作品は残っていません。」


作品14 玉座の聖母子(ヤコビーノ・ダ・トラダーテ 1425年頃 スフォルツァ城市立博物館)
 
衣文のひだの描写などが写実的である。

 1386年、ジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティの意向でドゥオーモ(ミラノ大聖堂)の建設が始まった。完成したのは1813年である。
(宮下)「ミラノ大聖堂は、サンピエトロ大聖堂に次ぐ大きさです。
 数多くの尖塔をもつ典型的なゴシック建築です。」

 ドゥオーモの写真は、たとえばこのHPから。また、「かぎろひの大和路」というHPで本作の写真が載せられている。



作品17 ヴォゲーラの聖体顕示台(ロンバルディア地方の工房 1456年 スフォルツァ城市立博物館)
 
 画像は、リンク切れになる前に大阪市立美術館の「主な展示作品」で。またはチラシその2にて。



第3章 スフォルツァ家とレオナルド


作品22 フランチェスコ・スフォルツァおよびビアンカ・マリア・ヴィスコンティの没後肖像(ロンバルディア地方の画家 1480年頃 ブレラ美術館)

(宮下)「1400年代のイタリアでは、本作のように肖像画は横向きが標準でした。」

 ビアンカはヴィスコンティ家の最後の男性嫡子であったフィリッポ・マリアの娘。1450年に夫の傭兵隊長フランチェスコ・スフォルツァがミラノ公爵となった。
 この段階で、ミラノの支配者はヴィスコンティ家からスフォルツァ家に移ったことになる。



作品18 聖母子(トリヴルツィオの聖母)(ヴィンチェンツォ・フォッパに帰属 1460年頃 スフォルツァ城市立博物館)
(宮下)「
顔色が緑色っぽいと感じられるでしょうが、肌色をきれいに表現するには、下地に緑色を塗ると良いんですね。皆さんも絵を描かれる場合は試してみてください。
 ですから、この絵も下地の緑色が出ているのですね」




作品19 海神たちの戦い(アンドレア・マンテーニャ 1470〜80頃 ミラノ市立版画コレクション)

  左上の裸の老婆が「嫉妬」の擬人像だそうで、彼女に扇動された海神たちが戦うさまを描いている。この老婆、お乳が垂れ下がっていて、吉本新喜劇で桑原和男演ずるところの乳出し老婆のようである。

(宮下)「マンテーニャはマニトバの宮廷画家。
 最も重要な作品が『死せるキリスト』(※ 図録P34 1500年頃 ブレラ美術館)です。
 この絵では短縮法という技法が用いられており、背が低く見えます。」

 「とおる美術館」というブログでは、「死せるキリスト」の画像を載せておられる。




(宮下)「レオナルドを招いたのは、ルドヴィーコ・イル・モーロです。
 しかし、レオナルドの作品は、ミラノにはほとんど残っていません。
 サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ聖堂はブラマンテが建築しました。
 この聖堂に残っているのが、有名な『最後の晩餐』(※図録P66 1494〜98年 サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ聖堂)です。
 この展示会でも、参考写真を大きなパネルで展示しています。ご覧になった方はお分かりのように、あまり鮮明なものではありません。乾いた壁に絵の具を塗っているので、ひび割れて状態は良くないのですね。

 さて、『最後の晩餐』ですが、12使徒のポーズは3人1組となっており、大きな身振りを示しています。また、テーブル上の食物が非常に詳細に描かれているのも特徴です。

 『ダ・ヴィンチ・コード』という本が全世界でベストセラーになっています。実は、ミラノ展のキャッチフレーズでも『ダ・ヴィンチがやってくる』というのを使っているのですが、このベストセラーにあやかろうと考えてのことです。効果があったか、どうかはわかりませんが。(会場笑い)

 その本では、キリストの右にいるのはヨハネでなく、マグダラのマリアであり、彼女はイエスの妻で、彼の子を懐妊していた・・・としています。私ら美術史をやっている者にしたら、実に荒唐無稽な話なのですが、ベストセラーでファンの方がいらっしゃってもいけませんので、悪口はやめておきます。」

 ルドヴィーコ・イル・モーロ(1452〜76)は、フランチェスコ・スフォルツァの息子で、1494年にミラノ公爵となった。
 イル・モーロは、ダ・ヴィンチ(1452〜1519)を庇護下においた。また、ブラマンテ(1444〜1514)は著名な建築家。

 「早川正洋の世界」というHPでは、「最後の晩餐」の画像を載せておられる。


作品24 キリストの頭部(レオナルド・ダ・ヴィンチ及びロンバルディア地方の画家 1494年頃 ブレラ美術館)
(宮下)「この絵にはひげがありません。『最後の晩餐』のための習作と考えられています。」

 本作は紙にチョークとパステルで描いたとのことだが、近くで観ると、土壁に描いたのか、と思うほど「ぼこぼこ」している。
 確かに「最後の晩餐」のキリストと同じような顔をしている。

 画像は、リンク切れになる前に大阪市立美術館の「主な展示作品」で。またはチラシその2にて。
 


作品25 レダの頭部(レオナルド・ダ・ヴィンチ 1511〜19  スフォルツァ城市立博物館)(宮下)「本体の作品は消失しているのですが、準備素描のみ現存している状態です。
 髪の毛の部分はタッチが濃いので、おそらくは弟子が加筆していると思います。
 ただ、女性の微妙な表情はダ・ヴィンチ独特のものですから、スフマートの部分は本人の真筆と思われます。」

 スフマートとは「ぼかし」技法のこと。

 画像は、リンク切れになる前に大阪市立美術館の「主な展示作品」で。またはチラシその1にて。 



(宮下)「ダ・ヴィンチが板絵としてミラノに残した唯一最高の絵画が『音楽家の肖像』(図録P28 1485年頃 アンブロジアーナ絵画館)です。」

 「COHOHイタリア絵画館」というHPでは、ダ・ヴィンチの作品画像を多数転載されており、「音楽家の肖像」も含まれている。



(宮下)「とにかくダ・ヴィンチは未完成作品が多い人で、高さ7mものブロンズの騎馬像を企画したのですが、粘土像をこしらえた段階で放り出してしまいました。ダ・ヴィンチは、これでは構造的にもたないとわかったのでしょうか。製作を中止したために余った青銅は、後に大砲に転用されたそうです。
 この写真は、つくばデザイン博で田中英堂が試作したものですが、この展示の仕方はすこしもったいないですね」

 スフォルツァ騎馬像は、後にアメリカで馬の部分のみ再現されたそうだ。それと、私のメモでは、「つくばデザイン博」と「たなかえいどう(田中英堂という漢字は、私が勝手に宛てたもの)と書いてあるのだが、調べてもよくわからなかった。どうも名古屋デザイン博で、「幻の騎馬像復元」というプロジェクトがあり、ダ・ヴィンチの残したデータをもとに、3D成型してつくったような感じなのだが・・・。

 

作品29 カナの婚礼 (マルコ・ドッジョーノ 1519〜22年 ブレラ美術館) 
(宮下)「この絵は、婚礼に招かれたイエスが、酒がきれたので、水をワインに変えた、最初の奇跡の場面を描いたものです。」

 ドッジョーノは、ダ・ヴィンチの弟子の一人で、本作には構図や人物のポーズなどに「最後の晩餐」の強い影響がみられる。
 「かぎろひの大和路」というHPに本作の写真あり。

(宮下)「この『カナの婚礼』もそうですが、『最後の晩餐』は様々なバリエーションを生みました。
 ティツィアーノも『最後の晩餐』を描いていますし、プロカッチーニも非常に身振りの激しい『最後の晩餐』を描いています。
 これらの絵は横長の構図ですが、縦長の構図の絵も描かれています。」

 プロカッチーニは後述する三大巨匠の一人。
 また、縦長の構図の「最後の晩餐」としては図録P20にガウデンツィオ・フェッラーリが1544年にミラノのサンタ・マリア・デラ・パッショーネ聖堂で描いた作品が載せられている。
  こうした縦長の「最後の晩餐」という様式は、17世紀になってもチェラーノやダニエーレ・クレスピに受け継がれた。



(宮下)「イル・モーロの愛人であるチェチリア・ガッレラーニを描いた『白貂を抱く貴婦人』という作品があります。
  ダ・ヴィンチの肖像画といえば「モナリザ」・・・といわれますが、私はこの絵は「モナリザ」以上、ダ・ヴィンチの最高傑作と思います。」

 この絵は「Yumeututu」というサイトで白貂を抱く女性にリンクされている。



(宮下)「ダ・ヴィンチは大変筆が遅く、未完作品をフランスに持って行ってしまったので、彼の作品の多くはルーブル美術館蔵となっています。
 『岩窟の聖母』という絵も、そうした作品の一つです。」

 早川さんのHPで「岩窟の聖母」の画像も載せておられる。



作品27 聖母子と子羊 (チェーザレ・ダ・セスト 1515年頃 ポルディ・ペッツォーリ美術館)

(宮下)「ダ・ヴィンチが『聖母子と聖アンナ』において4人で構成した構図をセストは3人で再現しています。女性のポーズは、足の格好などが極めて不自然なのですが、4人目がいないので、そのことが特に目だっています。」

 ダ・ヴィンチ作品は、聖母を聖アンナが膝に乗せ、そして、聖母が、傍らで子羊に足をかけている子供に手を伸ばしている・・・という形になっているので、違和感はほとんどない。しかし、本作は聖アンナが描かれていないので、左膝だけ立てて「体育座り」のように抱え込み、身体を左に捻って・・・というポーズが目立ち、確かに、そう言われると苦しそうだ。
 前述HPで、「聖母子と聖アンナ」の画像あり。
 また、「こっぱんの日記」というブログでは、本作「聖母子と子羊」の画像も載せておられる。上記の「カナの婚礼」などもあるが、粒子が粗いので図録をスキャニングされたのだろうか。
  


作品28 ハムの嘲笑 (ベルナルディーノ・ルイーニ 1520年頃 ブレラ美術館)

(宮下)「ルイーニは、ダ・ヴィンチの弟子の中でも最高だと考えられています。
 特に日本人の感性にあうと言いますか、土田麦遷ら日本の画家は誰よりもルイーニに感嘆したと言われています。
 この絵の右上に描かれているのは箱舟です。酔っぱらって裸で寝てしまった父親ノアを、三男のハムが笑ったところ、彼の一族は呪いをかけられた、という恐ろしい絵です。(場内笑い)
 他の息子達は親父を支えたり、毛布をかけてやったりして、親孝行だということで子孫も栄えたのですね。息子のセムは、いわゆるセム語族の先祖といわれています。」

 私も、少し笑ったくらいで呪うとは何て酷いんだと思ったのだが、絵を観ると納得する。ハムの嘲笑いの憎たらしさったらないのである。

 

(宮下)「ミラノ派とは、ダヴィンチ派のことと同じです。(何点かの写真を提示し)
 絵自体の出来はともかくとして、『ほほえみ』の感じがダ・ヴィンチの『モナリザ』などに似ています。」

作品23 我に触れるなかれ(ノリ・メ・タンゲレ)(ブランマンティーノ 1490年頃 
スフォルツァ城市立博物館)

(宮下)「ミラノ派の中でダ・ヴィンチの影響が小さいのは、ブラマンティーノ(小ブラマンテ。本名バルトロメオ・スアルディ)です。
 小ブラマンテという名が示すとおり、ブラマンテ(サンピエトロ大聖堂を建築。もともとは建築家でなく画家)の弟子です。
 建築家のブラマンテの影響でしょうか、キリストの上半身などは、優美さよりは写実的力強さを感じさせます。」

 マグダラのマリアの見上げる表情が口が半開きでちょっとバカっぽい。聖堂の上の方に掲げられた絵だったそうだから、下から見上げるとまた雰囲気が変わるのだろうか。
 「かぎろひの大和路」で本作の写真を。






 第4章以降は、少し長くなったので次回へ。
 どうも長々とお疲れ様でした。

 
  

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