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(No20) 京都国立博物館「龍馬の翔けた時代」鑑賞記 その4 この「龍馬の翔けた時代」の開催期間は平成17年7月16日から8月28日。
直接的な関連イベントではないのだが、「京都らくご博物館」というイベントがあったので、その日に観に行った。
で、その鑑賞記の最終回。
8章 大政奉還と龍馬の死
110 新政府綱領八策(坂本龍馬 筆。慶応3年)
「八策」と聞いてまず私の頭に浮かぶのは「船中八策」。日本酒の銘柄でもあるからだろうか。
その船中八策、それと大政奉還建白書の中の八か条、そして、この新政府綱領八策がどうもごっちゃになってしまう。
船中八策については、『竜馬がゆく』7巻P386には、こうある。
「やがて土佐藩藩船夕顔丸の右舷燈がかすかにみえてきた。
〜竜馬は、甲板上に躍りこんだ。
『やあ、坂本』
と、後藤が駆け寄ってきた。
『ありがたし。きてくれぬかと思うた』」
竜馬は、四賢侯会議を前に山内容堂からお召しを受けた後藤象二郎から、相談を受けていた。四賢侯とは、薩摩の島津久光、土佐の山内容堂、伊予宇和島の伊達宗城(むねなり)、越前福井の松平春嶽。宇和島と福井は、それほど藩としての力はない。土佐は、勤王、佐幕いずれからも期待される立場であった。
いま、藩としての身の処し方を誤れば、土佐は出遅れた日本の孤児となる。いや、藩そのものが滅ぶ。後藤といえども、京都でこの時流の怒涛を乗り切る智略はない。容堂公のお召しに対し、どのように応えればいいのか。後藤は、龍馬に、ともに京にのぼってくれ、生涯に一度でいいから、藩の危難を救うために働いてくれと必死に頼み込んだのである。
龍馬は、船内で、まず大政奉還策について海援隊文官の長岡謙吉、陸奥陽之助に詳しく話し、二人から後藤によく説明しておけと命じて、ひと寝入りした。
龍馬は目覚めた。同7巻P393では、こう続ける。
「後藤は竜馬をみるなり、
『聞いたぞ、天下の事は成った』
と、膝を打った。
〜『将軍が大政を奉還する。京の朝廷はお受け取りなさる。それだけではなんともなるまい』と、竜馬がいった。
〜『人に時計をくれてやっても、その使い方を教えてやらねばなにもならぬ』
〜『第一策。天下の政権を朝廷に奉還せしめ、政令よろしく朝廷より出づべき事』
〜『第二策。上下議政局を設け、議員を置きて、万機を参賛せしめ、万機よろしく公議に決すべき事』
〜『第三策。有材(うざい)の公卿・諸侯、および天下の人材を顧問に備え、官爵を賜ひ、よろしく従来有名無実の官を除くべき事』
『第四策。外国の交際、広く公議を採り、新たに至当の規約(新条約)を立つべき事』
『第五策。古来の律令を折衷し、新たに無窮の大典を選定すべき事』
『第六策。海軍よろしく拡張すべき事』
『第七策。御親兵を置き、帝都を守衛せしむべき事』
『第八策。金銀物貨、よろしく外国と平均の法を設くべき事』
後藤は、驚嘆した」
後藤は急ぎ京へのぼれという容堂の命令で竜馬とともに兵庫の港へ入り、陸路大坂に着いたが、容堂が病気を口実に、既に国もとに帰ったことを知った。龍馬は、後藤に、君は土佐に帰って容堂公を説け。俺は、京で薩摩を説くといった。
同7巻P407に「後藤は進み出、大政奉還の一件をのべるや、容堂は眉をあげ、ひざをたたき、
『象二郎、よくぞ気づいた。』
と、ほとんど叫ぶようにいった。〜後藤は面目をほどこした。この男はこの巨案が何者によって立案されたかということを、ついに容堂に言上しなかった。容堂は維新後、それを知った。」とある。
いわば、後藤は龍馬のアイデアを盗用し、大きな名誉を得た。龍馬暗殺の黒幕は、このことが露見するのを恐れた後藤ではないか、という説もあるくらいである。
109 大政奉還建白書写(慶応3年10月)
これは、土佐藩が幕閣に提出した建白書の写し。前半の本書は山内容堂名。後半の副書は、家臣の寺村左膳、後藤象二郎(署名は象次郎)、福岡藤次、神山左多衛の連名。
副書には八条の新政体案が記されている。
同8巻P262には「『これが、将軍に奉るわが藩の大政奉還建白書でござる』
と、後藤はいって一書を西郷にみせた。
〜時勢の推移を論じ、大政奉還の妥当なることをのべ、天皇政府確立後、上院下院の議会を設け、庶民にも議院選挙・被選挙権をもたしめ、さらに軍事、外交、学校制度にまで言及したもので、論文としてはこれほどみごとな文章はちょっとないであろう。
が、この原案を竜馬からきかされている西郷にはべつにめずらしい論旨でもなく」とある。
それで、この110に戻る。同8巻P335では、龍馬は岩倉具視に大政奉還後の方針について説いている。
「〜竜馬は例の新官制案を岩倉に提出し、さらに新政府の基本方針ともいうべきものをその場で書いた。
八カ条から成っていた。
『第一義』と竜馬は書き、その下に『天下有名の人材を招致し顧問に供ふ』ともしるした。
第二義 有材の諸侯を撰用し、朝廷の官爵を賜ひ、現今有名無実の官を除く。
第三義 (攘夷論を捨て)外国との交際を議定す。
第四義 律令を撰し、新に無窮の大典(憲法)を定める。
第五義 上下議政所
第六義 海陸軍局
第七義 親兵
第八義 皇国今日の金銀物価を外国と平均す。
『なるほど、これは燦(きら)めくような文字じゃ』
岩倉は感に耐えたように言い、この二通の文書を手文庫に入れた」
やはり、最初の船中八策が基本のような気がする。この三つを少し比較してみよう。
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船中八策 |
大政奉還建白書 |
新政府綱領八策 |
第一 |
大政奉還 |
大政奉還 万機公論(船1、2) |
人材登用(船3) |
第二 |
上下議政局 万機公論 |
上下議政局 選挙(船2) |
人材登用(船3) |
第三 |
人材登用 有名無実の官を除く |
学校 教育制度 |
外国との条約制定(船4) |
第四 |
外国との交際 新条約 |
外国との条約制定(船4) |
憲法制定(船5) |
第五 |
新に無窮の大典を制定(憲法制定) |
海軍・陸軍 親兵(船6、7) |
上下議政局(船2) |
第六 |
海軍拡張 |
旧弊改新 大根基を建てる(船5) |
海陸軍局(船6) |
第七 |
親兵設置 帝都守衛 |
朝廷制度改革 |
親兵(船7) |
第八 |
金銀物貨を外国と平均する |
私心を捨て議論すべき |
通貨レート(船8) |
※ (船2)などの表記は、船中八策の何番目の条項に相当するかを示す。
船中八策と新政府綱領八策は作者がともに龍馬であるし、内容は全く同じといってよい。
『竜馬がゆく』ならびに図録巻末の年表によれば、慶応3年(1867)10月3日に土佐藩は大政奉還建白書を提出している。
慶喜が二条城で諸藩に対し大政奉還を諮問(宣言)したのが10月13日。
龍馬が岩倉を訪ねたのが、10月14日とある。小説のとおりであれば、龍馬は後藤を通じ、13日の夜には慶喜が大政奉還を諸藩に宣言したことを知っているから、14日に岩倉に対し綱領を示す際には大政奉還の条項を入れる必要はない。よって、船中八策の第一の項目を削り、第三の項をいわば二つに水増しして条項数を揃えたような印象を受ける。(何となく「七策」より、やはり「八策」の方がすわりがいいように思うし)
なお、大政奉還が勅許を得て正式に成立したのは10月15日とされる。
建白書は一応後藤らの手に成るものであるから、さすがに龍馬の八策そのままではきまりが悪かったのだろうか。教育制度を入れた点は良いと思うが、あとは、結局八策の文章面をお化粧し、心構え的な条項なども加えて八項目並べたにすぎないように感じる。
112 坂本龍馬三岡八郎会見顛末(由利公正 筆。明治6年(1873)頃)
同8巻P350には「竜馬の資格は、
『土佐藩使者』
というものであった。福井でのしごとの予定は〜竜馬が見込んだあたらしい日本の財務担当官として推挙した三岡八郎を、足かけ5年ごしの禁錮のなかからひき出して京都にのぼらせることであった」とある。
さらに同8巻P355には、「閉門、という受刑中だから〜外部との交通はいっさい法度(はっと)である。
それがこの夜、藩庁から役人が訪れ、一通の差紙をさしだした。
今般、坂本竜馬出福。国家の儀につき三岡八郎へ面会致度趣(いたしたきおもむき)、申出候。諾否如何、御答候様。
というみじかい文章である。三岡はこれをみて叫びをあげたくなった。
〜三岡は明治後由利公正(ゆりきみまさ)と名をあらため、諸官を歴任して子爵になり、明治42年、81で没したが、生涯このときの感動を繰り返して語った。
〜竜馬は、金も兵もない新政府の現実を言うと、三岡はそれに応じてかれの財政策の一端をしゃべった。
竜馬はひざを打ち、
『みな言え』
と、うれしそうに叫んだ。
〜竜馬との会談は、朝の8時から夜9時までつづいた」とある。
本書は後の時代になって、三岡が求めに応じ、龍馬との思い出を記したものであるが、上記部分に該当するようなところを抜き書きしてみる。
「慶応三丁卯年十一月朔日
君福井藩ニ来リ予ニ會センコト
ヲ望ム 藩廰予ニ傳エテ諾否ヲ糺ス
〜予曽テ試ムル処アリ金札ヲ発行
シテ天下ノ財用ヲ補フヘシト
君大ニ之ヲ善シ自ラ任ス 其細目
手段応用事実ニ至迄論シテ漏
サス 語ルコト数刻辰ヨリ子ニ至リ
テ辞ス」
117 刀(銘吉行 坂本龍馬佩用)
同2巻P396には「刀身は青く澄み、陸奥守吉行特有の丁子乱れの刃文が、豪壮に匂ってくる。
『2尺2寸』
普通、身長5尺2、3寸の武士の差料に手ごろな寸法である」とある。
『竜馬がゆく』の設定では、脱藩を準備していた龍馬が、業物の刀を探していた。龍馬の家では最上大業物の「ソボロ助広」が秘蔵されていたが、兄権平が警戒して隠してしまった。
龍馬が困っていると次姉のお栄が、嫁いだ先の柴田義秀が離縁の際に「わが家の家宝である。わしの形身と思ってくれ」といってあずけた陸奥守吉行を譲ってくれた。
脱藩後、藩庁の調べでこのことが発覚し、柴田はじきじきにお栄を責め、その後彼女は自害したとされている。
さて、刃文については、(財)日本美術刀剣保存協会の「刃文の種類」とここ「おさるの日本刀豆知識」というサイトの「日本刀のみどころ」で。
吉行は、同2巻P392には「寛文年間に活躍した刀工で、本国は奥州の人だが大坂で名をなし、のち土佐藩によばれて高知城下に移住した。作品は丁子乱刃で、出来物が多い」とある。
私は刀剣には詳しくないのだが、展示されていた吉行はどう見ても丁子乱れでなく直刃だと思う。
77−3 龍馬書簡(慶応3年6月24日付け。坂本権平宛)には「〜吉行の刀〜此刀を見てしきりにほしがり、私しも兄の賜なりとてホコリ候事ニて御座候」とあり、兄からも吉行を贈られているようである。
119 梅椿図(血染掛軸) (重文。板倉槐堂 筆)
龍馬は慶応3年10〜11月に京都河原町蛸薬師下ルの醤油商近江屋を宿舎としていた。
慶応3年11月15日の夜、二階で中岡慎太郎と談論中、乱入してきた刺客によって斬殺された。
本掛軸はその部屋の床の間に掛けられていたもので、下部に血痕が付着している。
画像は、チラシその2をご参照ください。
120 近江屋旧蔵「書画貼交屏風」(重文)
119の掛軸と同じく近江屋のニ階にあった屏風。江戸時代(18世紀後半頃)に多くの絵や書を貼り交ぜにして屏風としたもの。
左下の猫の絵の下半分あたり、一面に血痕が飛んでいる。
122 海獣葡萄鏡(坂本龍馬使用)
龍馬が近江屋の主人井口新助の妻スミから借りて使用していたと伝えられる青銅製の鏡。
画像は、チラシその2をご参照ください。
130 鳥羽伏見の戦戦災図
多色刷りの瓦版。画像は、チラシその1(又は3)をご参照ください。
9章 近世後期の絵画
137 山陽所持煎茶道具図(田能村竹田 筆)
田能村竹田(1777〜1835)は、頼山陽(1780〜1832)と親しく交わっていたようである。
図録解説によると、天保2年(1831)、京都から豊後に竹田が帰るとき、山陽は別れ難く大坂まで同舟し、舟上で茶を煎じるなどし、最後にはその時用いた煎茶道具を贈った。
翌年9月、山陽は没した。本図には淡彩でその茶道具が写されている。
139 暗香疎影図(重文。田能村竹田 筆)などは、重文でもあるし、幽玄な雰囲気を漂わせた大作なのだが、不思議と小品といってよいような本図に、より心が惹かれる。山陽をしのぶ竹田の想いが伝わってくるように感じるのだ。
151 千山万水図(重文。渡辺崋山 筆)
壮大なスケールの山水画。画像は京都国立博物館HPのここで。又はチラシその2で。
153 (附)市川米庵像画稿(重文。渡辺崋山 筆)
崋山については、例えば「中国歴史小説と幻想的な恋の話」というブログの「真面目すぎる渡辺崋山」で。
また、崋山の代表的な肖像画としては、東京国立博物館HPの鷹見泉石像や佐藤一斎像をご参照ください。
本作は、152 市川米庵像(重文。渡辺崋山 筆)の下書きの一つである。完成作品の152の方は、絹本着色で、実に美しい。だが、一面では整いすぎているような印象も受ける。
その点、本作は、米庵の内面にまで入り込んで、それを素早く活写したような、大変乱暴な言い方なのだが、山藤章二の似顔絵塾の作品といっても違和感がないような、そんな現代的なセンスを感じる。
162 椿美人図(武市半平太 筆)
同4巻P254には、「半平太は絵もうまい。幼年のころ画家になろうかと思ったほどの男である。どういうわけかこの武骨な男にしては美人画をかくのがすきで、さかんに描いたものだが、このほうはあまりうまくない。
その生涯での傑作は、かれが獄中でかいた自画像であった。もはや切腹を覚悟した時期で、写真のないころ(長崎にはすでに渡来していた)だから富子への形見にするつもりだったのであろう。
墨で濃淡に描きわけ、大胆な描線をつかっている(それまでの武市の美人画は描線が臆病で、色彩もよくなかった)。」とある。
本図の正確な製作年代はわからないが、司馬遼太郎のいう「それまでの美人画」に含まれるのは明らかである。
ただ、私はこの絵の描線が臆病とか、色彩が悪いとは思わない。
同4巻P226には「城下では武市の好合夫婦(すきあいみょうと)といわれ、これほど仲のよかった夫婦もめずらしい」とある。
また、同4巻P255には、半平太がその自画像を妻に送る時に添えた手紙の末尾に、「絵の具や印肉、みなみな返します」と書いた。妻富子は、夫の切腹の日が近いとさとり、ととのえておいた新調の衣類を差し入れた。
「半平太は、最後の着衣に頭をなやましていたときだけに富子の配慮をよろこび、
『わが一生の仕合せは富子を得たことであった』
と、にこにこして牢役人にのろけた」とある。
これほど濃やかな慈しみを通い合わせる二人は素晴らしいと思うし、その二人が末永く暮らしていけなかったことをただただ残念に思う。
どうも長々とお疲れ様でした。
落語会の「ついで」のように寄ったのですが、非常におもしろい展示会でした。
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