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(No194) 正倉院学術シンポジウム2011「正倉院宝物のはじまりと国家珍宝帳」聴講記 その1
「国家珍宝帳と除物」 宮内庁正倉院事務所長 杉本一樹
【名称】 天平勝宝八歳(756)六月二十一日献物帳(国家珍宝帳。北倉158二巻の内) 【内容】 聖武帝の七七忌(いわゆる四十九日)にあたり、天皇遺愛の品をはじめとする宝物六百数十点を東大寺毘盧舎那仏に奉献した際の目録。 中間のリストは「1 袈裟」から「2、3 厨子と納物」、「4 楽器」、「5 遊戯具」、「6 武器」、「7 全浅香」、「8 鏡、漆胡瓶」、「9 屏風」を経て、「10 枕、軾、床」に至る。
【書と文章】 「〜奈良朝時代の漢文として代表的な傑作〜書も〜唐の欧陽詢の風格を具え〜当時におけるもっとも正統的な書法〜」(神田喜一郎) 【料紙】 長さ約88cmの上質な料紙。
イ 封箱
「東大寺献物帳と王羲之書法」 神戸大学名誉教授 魚住和晃 1.正倉院収蔵の王羲之書法 「国家珍宝帳」に記載された王羲之書法は20巻だが、詳しくは1〜10巻、51〜56巻、58〜60巻に1巻の扇書を加え、ちょうど20というきれいな数にしている。 珍宝帳にはそれぞれの行数が書いてあり、総計は865行に及ぶ。王羲之の尺牘29通をまとめた「十七帖」でも134行にしかならない。 珍宝帳の王羲之書法の巻数は1〜60巻だが、当初は60巻が完備していたのか(内府に存在していたのか)、41巻分は最初から欠如していたのかは不明。 王羲之模本は「宝物」でなく書法手本としての認識で扱われていたため、このように著しく散逸したと思われる。
2.東大寺献物帳の書法 従来、『東大寺献物帳』のうち、『国家珍宝帳』も『種々薬帳』も同じように王羲之書法で書かれていると理解されてきたが、内容は異なる。 (参考資料はここから。以下の比較表は、石野が聴講メモにより整理したもの)
奈良時代は写経事業が盛んで、優秀な書生が多数存在していたが、彼らの職務はあくまで中国や朝鮮から請来された仏典を忠実に書き写すことであり、王羲之書法とは何か、何をもって書法の正統とするかといった認識はなかった。 3.唐朝における王羲之書法の新派と旧派 一般的に書道史では、楷書の書法は初唐の欧陽詢(557〜641)と虞世南(558〜638)によって完成され、両者は (参考資料はここから。以下の比較表は、石野が聴講メモにより整理したもの)
隋は科挙を行い、書法まで統一しようとした。(これが院体)。 通説の「楷書は唐代に欧陽詢、虞世南が完成した」は誤りで、隋代には既に完成したとみるべき。 甲骨文により殷代の肉筆資料は次々現れている。竹簡資料も多数残っているが、王羲之の書法は、中国書法史にとって極めて重要なテーマであるにも関わらず未だに真相、展開は詳細に判明していない。 『東大寺献物帳』に展開された二つの書法は、唐代に入って類型化し、また俗化していく王羲之書法と、旧態と本質をかたくなに貫く王羲之書法の二つの分化を奇しくも示すものである。 真跡資料の残っていない中国の研究者は、日本の正倉院資料に着目している。
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