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(No194) 正倉院学術シンポジウム2011「正倉院宝物のはじまりと国家珍宝帳」聴講記 その1


 平成23年10月30日(土)に奈良市ならまちセンターで開催されたシンポジウムの聴講記を聴きに行った時のメモ。

 


「国家珍宝帳と除物」 宮内庁正倉院事務所長 杉本一樹


1 国家珍宝帳の書誌と概要

【名称】 天平勝宝八歳(756)六月二十一日献物帳(国家珍宝帳。北倉158二巻の内)

【品質形状等】 紙本墨書、巻子装1軸。縦25.9cm、全長1474cm。
 緑色紙の原褾。
 紙面全体と外題上に「天皇御璽」(方三寸(約8.8cm四方)の朱方印。印肉材は鉛丹と水銀朱を3対1で混合)を捺す。

【内容】 聖武帝の七七忌(いわゆる四十九日)にあたり、天皇遺愛の品をはじめとする宝物六百数十点を東大寺毘盧舎那仏に奉献した際の目録。

 巻首と巻末に願文を置き、中間に宝物のリストを置く。

 中間のリストは「1 袈裟」から「2、3 厨子と納物」、「4 楽器」、「5 遊戯具」、「6 武器」、「7 全浅香」、「8 鏡、漆胡瓶」、「9 屏風」を経て、「10 枕、軾、床」に至る。 


2 資料・調査報告等

【書と文章】 「〜奈良朝時代の漢文として代表的な傑作〜書も〜唐の欧陽詢の風格を具え〜当時におけるもっとも正統的な書法〜」(神田喜一郎)

【料紙】 長さ約88cmの上質な料紙。
 おもて面はマット紙様のしっとりした質感。
 繊維分析の結果、大麻繊維の使用を確認。


3 附箋

 全体に訂正等の文字を記した附箋が貼られており、そのうち「除物」附箋は7か所。

イ 封箱
ロ 犀角奩
ハ 陽宝剣
ニ 陰宝剣
ホ 横刀
ヘ 黒作懸佩刀
ト 桂甲



「東大寺献物帳と王羲之書法」 神戸大学名誉教授 魚住和晃

1.正倉院収蔵の王羲之書法

 「国家珍宝帳」に記載された王羲之書法は20巻だが、詳しくは1〜10巻、51〜56巻、58〜60巻に1巻の扇書を加え、ちょうど20というきれいな数にしている。

 珍宝帳にはそれぞれの行数が書いてあり、総計は865行に及ぶ。王羲之の尺牘29通をまとめた「十七帖」でも134行にしかならない。

 珍宝帳の王羲之書法の巻数は1〜60巻だが、当初は60巻が完備していたのか(内府に存在していたのか)、41巻分は最初から欠如していたのかは不明。
→ しかし、表装が一貫している、延暦3年(784)に行数の合わない巻が借り出されている記録が『双倉北雑物出用帳』に認められる。(石野註 つまり、当初は60巻完備しており、その後、3分の2ほどが散逸してしまった可能性が高い)

 王羲之模本は「宝物」でなく書法手本としての認識で扱われていたため、このように著しく散逸したと思われる。

 

2.東大寺献物帳の書法

 従来、『東大寺献物帳』のうち、『国家珍宝帳』も『種々薬帳』も同じように王羲之書法で書かれていると理解されてきたが、内容は異なる。

(参考資料はここから。以下の比較表は、石野が聴講メモにより整理したもの)

国家珍宝帳 種々薬帳
字体は右上がり 字体は水平ないし右下がり
起筆と終筆はしっかり力が入っている。 特に起筆は筆先で細く入る。
字体は端正で、字間も揃っている。 字体の大きさも不揃いで、特に最後の「仏」などはつぶれ気味。
典型的な院体(中国朝廷の役所字体)で書かれている。 東晋の王羲之からさらに三国魏の鍾繇まで遡る、歴史的に著しく古い書法で書かれている。

 奈良時代は写経事業が盛んで、優秀な書生が多数存在していたが、彼らの職務はあくまで中国や朝鮮から請来された仏典を忠実に書き写すことであり、王羲之書法とは何か、何をもって書法の正統とするかといった認識はなかった。
(石野註 あくまで原本の書法を忠実に模倣することが写経生の仕事であって、鍾繇より王羲之が正統だとか、王羲之の書法が正統だから(鍾繇の書法で書かれた経典であっても)王羲之の書法で書こうといった「価値判断」はなかったということになる)

3.唐朝における王羲之書法の新派と旧派

 一般的に書道史では、楷書の書法は初唐の欧陽詢(557〜641)と虞世南(558〜638)によって完成され、両者は
(1) 王羲之の書法を極めた、
(2) 南朝陳の初めに生まれ、壮年期を隋(581〜619)で過ごし、唐代では既に還暦になろうとしていたなど共通点も多いが、対照的な点も多かった。

(参考資料はここから。以下の比較表は、石野が聴講メモにより整理したもの)

欧陽詢 虞世南
字体は直線的、かっちり、ゆるぎなし 字体はやんわり、角ばらない、大らか
父は幼時に陳朝により処刑された。 代々、陳朝の有名な学者の家系。
隋により陳が滅ぼされたことは、期待の輝き。 隋により陳が滅ぼされたことは、強い怨恨。
隋の南北朝統一後、洛陽に上がり、学者として最高の太常博士に栄達。 隋の南北朝統一後、洛陽に上がり、出仕の要請を受けたが「老いた母親がいる」と拒んだ。
北派(北朝系)とする説があるが、欧陽詢は湖南出身であり、南朝出身者。 南派(南朝系)とされる。浙江出身で、南朝出身者。
欧陽詢の書法は、もともと南朝系であったものを、洛陽であえて北朝系に改めた。
隋が北朝系士族の楊氏が名僕を併合したことによって成る国で、国家の気風が北朝優位であることを配慮した。
北朝の首都であった洛陽で、北朝の書法は鮮卑、夷狄の書法であり、書法本流はあくまで南朝という誇りをかたくなに貫いた。
欧陽詢のめざしたものは南北書法の融合であり、具体的には院体の確立に貢献された。 隋代においては書名は全くなかったが、唐二代太宗の南北融合政策もあり、欧陽詢にも増して虞世南の人品と書法を高く評価した。
『国家珍宝帳』は欧陽詢から唐代の新派につながる書法で書かれる。 『種々薬帳』は虞世南からさらに歴史を大きく遡る、南朝旧派の精神を残した書法で書かれた。


4.結語

 隋は科挙を行い、書法まで統一しようとした。(これが院体)。

 通説の「楷書は唐代に欧陽詢、虞世南が完成した」は誤りで、隋代には既に完成したとみるべき。

 甲骨文により殷代の肉筆資料は次々現れている。竹簡資料も多数残っているが、王羲之の書法は、中国書法史にとって極めて重要なテーマであるにも関わらず未だに真相、展開は詳細に判明していない。

 『東大寺献物帳』に展開された二つの書法は、唐代に入って類型化し、また俗化していく王羲之書法と、旧態と本質をかたくなに貫く王羲之書法の二つの分化を奇しくも示すものである。

 真跡資料の残っていない中国の研究者は、日本の正倉院資料に着目している。

 


 お疲れ様でした。

 
 
  

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