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(No195) 正倉院学術シンポジウム2011「正倉院宝物のはじまりと国家珍宝帳」聴講記 その2
「献物帳とその時代」 奈良文化財研究所都城発掘調査部史料研究室長 渡辺 晃宏
国家珍宝帳をはじめとする5種類の献物帳と出納記録 献物帳は、聖武の遺品の大仏への献納という行為に込められた光明皇后の思いを深く刻み込む資料 藤原光明子 ※ 皇太子死亡の前後に別の后(県犬養広刀自)が男子(安積親王)を産んだ。また、長屋王は、血統も良く(天武天皇の長子である高市皇子の長子)、吉備内親王の間に3人の男子あり。 ※ 権力の中枢にありながら政治の表舞台には登場せず、信仰に生きた(長屋王の陰謀に事実上加担したことへの慙愧があるのでは?) 光明皇后の仏教信仰 <平城京の時代> <天平前半期> <天然痘の流行> <「放浪の5年間」> <元正太上天皇の死(748年)> <大仏開眼(752年4月)> <聖武晩年の政情> 754年 薬師寺の僧大僧都行信の厭魅事件、755年左大臣橘諸兄の舌禍事件(聖武死後を想定した発言)など → 光明皇太后の異父兄橘諸兄と甥藤原仲麻呂が光明を結節点に微妙なバランスを保つ <聖武太上天皇崩御(756年5月2日)> <東大寺に聖武の遺品を献納(756年6月21日七七日忌日)> <政局の転回> <光明皇太后の聖武遺品献納に込められた思い> <橘奈良麻呂の乱(757年)> <献納品の取り下げ>
平城京跡には、正倉院宝物に匹敵するものなどが埋もれている可能性がある
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