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(No195) 正倉院学術シンポジウム2011「正倉院宝物のはじまりと国家珍宝帳」聴講記 その2


 平成23年10月30日(土)に奈良市ならまちセンターで開催されたシンポジウムの聴講記を聴きに行った時のメモ。

 


「献物帳とその時代」 奈良文化財研究所都城発掘調査部史料研究室長 渡辺 晃宏


I 正倉院宝物の原点 聖武天皇と光明皇后の信仰

 国家珍宝帳をはじめとする5種類の献物帳と出納記録
→ 正倉院宝物の戸籍に相当・・・・・宝物の由来を明らかにし、宝物の完璧にする

 献物帳は、聖武の遺品の大仏への献納という行為に込められた光明皇后の思いを深く刻み込む資料
→ 光明の意志が天平文化形成の、そして正倉院宝物を今日に伝える原動力

 藤原光明子
→ 「藤三娘」を名乗る・・・父藤原不比等・母県犬養橘三千代の間に701年誕生(聖武と同年)
→ 716年皇太子首皇子(=聖武)の妃となる
→ 718年阿倍内親王(孝謙・称徳)誕生、724年聖武即位、727年皇子誕生、生後1か月にならぬ間で立太子、728年満1歳にならない内に皇子死去

※ 皇太子死亡の前後に別の后(県犬養広刀自)が男子(安積親王)を産んだ。また、長屋王は、血統も良く(天武天皇の長子である高市皇子の長子)、吉備内親王の間に3人の男子あり。
→ その後、光明子に男児が生まれず、藤原家から天皇を出すことが危うくなってきた。=安積親王は男子であり、有力者長屋王は藤原家の専横に反対していた。

729年の長屋王の変は、武智麻呂あたりが黒幕と考えられる。しかし、光明も「黙認」していたのではないか?
→ 729年立后、749年孝謙即位に伴って皇太后、760年崩御

※ 権力の中枢にありながら政治の表舞台には登場せず、信仰に生きた(長屋王の陰謀に事実上加担したことへの慙愧があるのでは?)

 光明皇后の仏教信仰
→ 母県犬養橘三千代ゆずり
→ 皇子の死(728)と母の死(733)を乗り越えるため「光明皇后願経五月一日経」

 
II 献物帳の時代の政治的背景 光明皇后の信仰のバックボーン

<平城京の時代>
 前半と後半で大きく様相を異にする→政治的安定期と政争の時代

<天平前半期>
 律令国家の到達点→唐に倣った国造りの目標を政治的・経済的にほぼ達成→次のステップへの足がかり

<天然痘の流行>
 735年(天平7)、737(天平9)の二度の大流行(都で3割近くが死亡)
→ 737年、光明の兄藤原武智麻呂・房前・宇合・麻呂の四兄弟が相次いで死去
→ 政局を展開させる契機 → 長屋王の横死と変異を結びつける意識の芽生え
→ 文献にはないが、二条王路木簡の分析から、光明が旧長屋王邸を給付されていたことが判明

<「放浪の5年間」>
 恭仁遷都(〜難波・紫香楽)から平城京還都まで
→ 甥藤原広嗣の挙兵は、藤原仲麻呂の権力強化につながる
→ 745年の還都後、東大寺大仏造立として結実(いったん還都したが、留まらずに難波宮に行幸→安積(あさか)親王が死去(仲麻呂の暗殺という説あり)
 聖武は大仏造立を平城京に戻る条件としたのではないか?

<元正太上天皇の死(748年)>
 聖武の譲位・孝謙の即位につながる→女性皇太子阿倍内親王を正式な皇位継承者として認めない動きもあった。
→ 749年聖武、行基から受戒 → 出家により天皇不在状況を作り出し、阿倍内親王即位の布石とする

<大仏開眼(752年4月)>
 聖武の健康不安から完成前に開眼式を挙行
→ 754年、鑑真来日。聖武・光明・孝謙、鑑真から受戒。同年、聖武の母太皇太后宮子崩御

<聖武晩年の政情>
 天平勝宝年間の『続日本紀』の記事の淡白さ
→ 藤原仲麻呂政権下で編纂された当初の記録が光仁・桓武朝で改定された?(聖武一周忌の757年(天平宝字1年)の記録は橘奈良麻呂の変の年であったためか亡失 ※史書が編纂できないくらいの混乱状態)

754年 薬師寺の僧大僧都行信の厭魅事件、755年左大臣橘諸兄の舌禍事件(聖武死後を想定した発言)など

→ 光明皇太后の異父兄橘諸兄と甥藤原仲麻呂が光明を結節点に微妙なバランスを保つ
→ 当時、孝謙の影は非常に薄かった(皇権の象徴である駅鈴・内印が皇太后宮にあった)

<聖武太上天皇崩御(756年5月2日)>
 初七日から七七日まで忌日斎会を薬師寺、興福寺など諸寺で実施
→ 5月19日に佐保山陵に埋葬

<東大寺に聖武の遺品を献納(756年6月21日七七日忌日)>
 以後、計17か寺に献納

<政局の転回>
 聖武太上天皇の崩御が皇嗣問題を表面化させた
→ 聖武の遺詔により道祖王(新田部親王の子)立太子
→ 大伴古志斐と淡海三船の誹謗事件(※ 大伴家持が歌で一族に自重を求める)

<光明皇太后の聖武遺品献納に込められた思い>
○ 純粋な大仏への信仰
○ 俗世間に遺品を置くことの忌避
○ 争乱回避を祈念

<橘奈良麻呂の乱(757年)>
 藤原仲麻呂に挑発され自爆。光明皇太后がとりなしたが、反仲麻呂派が大量粛正
→ 道祖王廃太子、大炊王立太子
→ 光明の体調が変調→生命をかけた最後の事業として法華寺(金堂)造営、一切経写経

<献納品の取り下げ>
 崩御前年末に大仏献納品を取り下げ、少なくとも陽宝剣・陰宝剣を大仏の足下に埋納

 


III 正倉院と「地下の正倉院」平城京

 
正倉院宝物の元の所在地・・・平城京または法華寺→正倉院に納められたのは、そのほんの一部

平城京跡には、正倉院宝物に匹敵するものなどが埋もれている可能性がある 



 お疲れ様でした。

 
 
  

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