移動メニューにジャンプ

(No175) 大阪市立美術館 没後150年歌川国芳展・記念講演会 聴講記 その3


 平成23年5月14日(土)に大阪市立美術館に「没後150年 歌川国芳展」を観に行った時の記念講演会のメモ。

 

 


「国芳の画想」  岩切友里子(浮世絵研究家/本展監修者)


(画像の表示)
  読本の『椿説弓張月』では、これら三つの場面が描かれています。

 一つ目は、為朝が水俣から出帆しますが海が荒れており、妻が生贄となって海を鎮めるため入水する場。
 二つ目は、妻を失い悲嘆した為朝が切腹しようとするが、讃岐院
(さぬきのいん。崇徳院のこと)が眷属である烏天狗を遣わし、切腹を止める場。
 三つ目は、忠臣が為朝の子を抱いて鰐鮫の背に乗っている場です。なお、この鰐鮫の絵を描いたのは葛飾北斎です。

 これらの3場面を国芳は、1枚の三連大判錦絵に再構成しました。
 


 図録の解説には「文化4〜8年(1807〜11)に刊行された読本、曲亭馬琴作・葛飾北斎『椿説弓張月』(ちんせつゆみはりづき)〜に取材する。
 保元の乱に敗れた鎮西八郎為朝
(ちんぜいはちろうためとも)は〜九州に逃れ、平氏討伐のため〜水俣から出帆するが〜船は難破〜為朝は自決しようとするが、崇徳院の眷属に助けられ〜る。

 本図には、海を鎮めるために身を投じる妻白縫、讃岐院〜の眷属である烏天狗に救われる為朝、為朝の一子舜天丸
(すてまる)を抱いた為朝の忠臣八町礫紀平治(はっちょうつぶてのきへいじ。なお、図録には「紀」平治とあるが、画面上には「喜」平治と書いてある)を背に乗せて琉球に向かう巨大な鰐鮫〜が〜まとめて描かれている」とある。

 右下の丸が白縫姫。左下が為朝。見えにくいが周りで飛んでいる灰色のものが烏天狗。上の丸に子を胸に抱え込んだ家臣が描かれている。

(画像を表示)
 これは森島中良『紅毛雑話』(注 天明7年(1787)序跋)の「鰐之圖」です。カイマンという鰐の剥製を写したものでしょう。

 

(画像を表示)
 これは、国芳の

52 源頼家公鎌倉小壷海遊覧 朝夷義秀雌雄鰐を捕ふ図

 です。水泳自慢の朝比奈義秀が将軍頼家に泳いでみろと言われ、ついでに鰐鮫を二匹捕まえたところを描いたものです。
 この絵に描かれた鰐鮫は、この『紅毛雑話』の「鰐之圖」を参照しているものと思われます。

 
 

 
 朝比奈三郎義秀和田義盛の三男。安房国朝夷(あさいな)郡に生まれた・・・と図録解説にあった。

 『椿説弓張月』や、前に紹介した出雲伊麿などの鰐鮫は、かなり国芳のオリジナリティが入っている。

(画像を表示)

 これは、国芳の

83 大物浦平家の亡霊

 です。船の形などについて『絵本太平記』を参考にしています。

 

 
注 「大物」は「だいもつ」と読む。義経一行の船を襲う平家の亡霊を描くが、画面左、船尾に立っている人物が弁慶。義経は帆柱の右に居る。
 伝統的な構図は、謡曲「船弁慶」に従い、平知盛の亡霊と数珠を揉む弁慶を描くが、上図の弁慶は数珠を持たない。

 

右写真は図録にあった天保9年(1838)刊『厳島図会』巻之五「多賀江念仏の由来」で、船の形はこれを参照している可能性が考えられるとある。

 



(画像を表示)

 これは、国芳が高木虎之助を描いた錦絵です。

 
 冒頭で言ったように今日の資料はイギリスで使用したスライドで英語で解説が書いてある。

 KAPPAとレスリング・・・・なんて書いてあった。

(画像を表示)


 1887年に国芳の弟子の「よしとし」
(注 歌川芳年か?)『水滸伝』の黒旋風李逵(りき)と「ちょうじゅん」との水中の戦いを描いています(注 画像は探せなかった)が、これは国芳の高木虎之助を参考にしていると考えています。

 左図は、国芳の

21 通俗水滸伝豪傑百八人之壱人 短冥次郎阮小吾

 

 
 左図も、国芳の

水滸伝 短冥次郎阮小吾。

 

 


 

 お疲れ様でした。

 
 
  

inserted by FC2 system