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(No174) 大阪市立美術館 没後150年歌川国芳展・記念講演会 聴講記 その2
平成23年5月14日(土)に大阪市立美術館に「没後150年 歌川国芳展」を観に行った時の記念講演会のメモ。
「国芳の画想」 岩切友里子(浮世絵研究家/本展監修者)
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右写真(注 画像なし)は、文化12年(1815)11月に三代目尾上菊五郎が中村座で土蜘蛛と頼光を演じましたが、春亭がそれを芝居絵に描いたものです。
左写真は、国芳の描いた
3 西村屋版武者絵シリーズ 源頼光 です。
土蜘蛛に、僧衣や手が残っています。
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春亭の芝居絵は探せなかった。
国芳の頼光については、図録の解説に、病の床に臥していた頼光を謎の僧が糸で絡め捕ろうとした。頼光が刀(後に「蜘切丸」といわれる)で糸を斬りつけた。
『平家物語』、『太平記』、謡曲「土蜘蛛」で扱われている・・・などとある。 |
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右写真(注 画像なし)は、春亭が描いた横川覚範です。
この覚範の視線は上を向いています。
私は、この絵には続きがあるのではないか?と考えました。
左写真(注 このHPでは右の写真)は、国芳の
91 吉野山合戦 です。
縦に3枚連ねた非常に細長い絵ですが、下の覚範の見上げる視線と、屋根の上の忠信が見下ろす視線とがぴったり合っているので、ゆるぎがない画面となっています。
また、塔の屋根は上ほど角度をつけているので、塔の幅自体は変わっていませんが、ちょうど下から見上げているような立体感のある印象を与えます。
いわゆる吉野山「けぬき」の塔です。
忠信はこんな高い所に上って見下ろしています。
探してみると、やはり、春亭作の、忠信が屋根の上に上がり、覚範を見下ろしている絵が見つかりました。
私の予想は的中したのです。
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先生が最初に表示したのは、黒い僧衣のむくつけき大男が上を見ている絵だった。
覚範という名前を私は全く知らなかった。忠信は少し知っている。
「義経千本桜」にでてくる狐忠信。また、「狐忠信」のパロディ落語である「猫の忠信」。
覚範というのは恩賞目当てで義経一行を付け狙っていた男で、一行を無事逃がすために一人で敵をひきつける役をかってでた佐藤忠信が孤軍奮闘し、みごと、覚範を花矢倉というところから弓で射殺した・・・というようなことがネットで調べると出てきた。
図録の解説では「草双紙の義経一代記ものには、義経一行が吉野山を落ちる時、臣下の佐藤忠信が義経の鎧兜を拝領して身につけ、僧兵横川覚範(よかわのかくはん)がこれを追うが、忠信は塔を蹴り抜いて向かいの谷に飛び渡り逃げ失せたという話を伝えるものが多く、『蹴抜けの塔』とも称される」とある。
歌舞伎関連で私は「毛抜き」の塔かと思っていたのだが、「蹴抜け」のようだ。
図録の解説文もほとんど岩切先生が書いておられるので一致するのも当然なのだが、講演内容と関係する解説文としては、
「〜屋根の描写には上部の仰角と下部の俯角を描き分ける細心な工夫がなされている。
最上部宝輪に拠って立つ忠信と下部で薙刀を構えた覚範の睨み合う視線が〜緊張感を生む。
吉野山合戦を縦長に描いた錦絵としては、文化後期の勝川春亭の大判竪二枚続があり、覚範の姿態に共通するものがあることから、国芳は春亭作に本図の画想を得たものと見られる」とある。 |
2.読本・合巻の流通
曲亭馬琴、山東京伝らの著作による、伝奇的な長編読物の流行。見開きの挿絵の迫力。小説の登場人物から新しい英雄像が生まれ、武者絵として錦絵化される契機となった。
読本:馬琴『椿説弓張月』、『南総里見八犬伝』、京伝『善知鳥安方忠義伝』など |
文化期に「合巻」(ごうかん)というものが出てきました。
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先生は、そう言って「読本」(よみほん)と「合巻」との違いをいくつか列挙された。
だらだら書くのも、も一つなんで先生のおっしゃった内容を表形式で整理してみる。 |
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読本 |
合巻 |
大きさ |
大きい
(感覚的には「やや小さめの単行本」) |
小さい
(感覚的には「やや大きめの文庫本」) |
表紙 |
無地に題名を書いた四角い別紙を貼り付ける=「貼題箋」(はりだいせん) |
題名と美麗な絵が一体となった「摺付け表紙」(表紙全面に錦絵を刷る) |
絵と文 |
絵と文は別ページ。
テキストのみのページがある。 |
全ページに絵と文が同居=テキストだけのページはない。
漫画の「吹き出し」のように、絵の中にセリフが書かれることもある。 |
字 |
漢字 |
かな |
値段 |
高い |
安い |
対象 |
成年男性 |
婦女子 |
現代でたとえると |
ハードカバー |
ペーパーバック |
合巻が扱うのは長編伝奇小説が多かったのです。ショッキングな挿絵なども散りばめられ、架空の人物が大衆のヒーローになったりしました。 (画像の表示)
これは「絵本にとう英雄記」です。宮本武蔵は実在の人物で、現在ではストイックな剣豪として扱われることが多いですが、昔は剣術の修行中にいろいろな妖怪と出くわし、化け物退治をする・・・というストーリーが多いのです。
この絵では化け山伏を退治したところで、現代の漫画のような「効果線」まで描かれています。
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宮本武蔵で「にとう」と言うから「二刀流」かと思ったら、図録の解説文では「享和3年(1803)刊の読本、平賀梅雪作・速水春暁斎画『絵本二島英雄記』」とあった。
なお、画像は探せなかった。 |
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これは国芳が描いた、
27 本朝水滸伝豪傑八百人一個 早川鮎之助 です。
鮎之助とは尼子十勇士、つまり山中鹿之助の家来の十人の勇士の一人です。 鮎之助は釣具や網を用意する金がなかったため、板で川の流れをせき止めて魚を獲っていた。その剛力を見た山中鹿之助が、彼を家来に迎えたそうです。
鮎之助のことは、『絞染五郎強勢談(しぼりそめごろうごう
せいばなし)』でも描かれています。
川の岸辺に立って鮎之助を見ている人物が山中鹿之助であって、この後、家来になるよう声をかけます。
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図録の解説文によると、「板を押す鮎之助の姿は、別に文化5年の合巻『紋染五郎強勢談』(山東京伝作・歌川豊国画)の図に画想を得た」とある。
他の絵では確かにシンプルに、堅い板きれで川の流れを無理やりせき止めているように見えた。
上掲の国芳の絵では、もともと川床が段になっており、その段に沿ったカーブで「むしろ」か何かを押し当てているように見える。 |
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この絵は、国芳の絵の中でも一番有名かもしれません。骸骨の絵です。
63 相馬の古内裏
この絵は、読本の『善知鳥安方忠義伝』が元になっています。
ただ、読本では”たきやしゃ”姫は単独で出てきます。
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注 当日いただいた資料では、左写真のキャプションには、山東京伝作・歌川豊国画『白藤源太談』文化4年(1807)とあった。 |
また、武士は沢山の骸骨の軍と戦っています。
国芳は、姫と武士と骸骨を一つの画面に構成しています。また、数多くの骸骨を一つの巨大な骸骨にまとめて迫力を増しています。
国芳の構成力が感じられます。
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注 同じく先生の資料には、左の絵の説明として山東京伝作・歌川豊国画『善知鳥安方(うとうやすかた)忠義伝』文化3年(1806)とある。
図録解説文では、滝夜刃(たきやしゃ)姫は平将門の遺児。
源頼信の臣大宅太郎光国に謀叛の陰謀をくじかれ自刃した・・・とある。
図録解説には夜叉でなく夜刃とあるが正しいんだろうか?
左図で青で囲った所にいる武士が光国か?赤楕円には境内へ向かい行進している骸骨軍。
下の赤楕円辺りでは骸骨軍同士が戦をしている。 |
お疲れ様でした。
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