移動メニューにジャンプ

(No150) 京都国立博物館 特別展「THE ハプスブルク」関連土曜講座 「明治天皇からの贈り物 画帖と蒔絵と金魚鉢」聴講記 その1

 平成22年1月23日(土)に、上記講座を聴きに行った時のメモ。

 



「明治天皇からの贈り物 画帖と蒔絵と金魚鉢」

                                       講師:永島明子(めいこ)氏 京都国立博物館 学芸部工芸室 主任研究員 

 

1.はじめに

(石野註)

 いつものように、先生からいただいたレジュメを紹介する場合は、別囲みで表示する。

 また、見出しは、整理の便のため、石野が勝手につけたもの。

 京博で漆を担当しております永島と申します。

 京博というのは、京都が都であった時代の文物がメインでございまして、従って、明治の頃は専門外ということになります。

 また、私は、日本から輸出された漆器というのがメインの研究テーマなので、専門外の部分が多いのですが、たまたま、いろいろ調べているうちに発見をしてしまったことがあるので、それをお話させていただきながら、日本の文化外交というようなものに触れていただけたらな、と思っております。

 さて、今回のハプスブルク展開催のきっかけは、日墺国交樹立140周年を記念して・・・・というものでした。

 1869年に、当時はオーストリア・ハンガリー二重帝国といったんですが、日本は国交を樹立しました。と言っても、実は、日本にとっては不平等条約を結んだ年なんですね。でも、そうした関係から、現在の関係に発展したことはとても素晴らしいことだと思います。

 


2.現地調査

 ということで、ハプスブルク展の調査のために、当館の連携協力室長の山下、彼は、近世絵画の担当なんですが、両名でウィーンまで調査に行ってこいという命令が下されました。

 実は、当時私は自分の担当の展覧会を企画しており、ボロボロになって準備をしておりました。ようやく開催にこぎつけて2週間ほどでウィーンに行けということで、2008年11月の初めに、MAK、オーストリア工芸美術館に、まず行ってまいりました。ここに、日本から贈られた蒔絵の書棚が収められているのです。

(蒔絵棚を撮影したり、メモを取っている写真を表示)本来、美術品を調べている時の写真などはないのが普通なんです。忙しいですから。

 ところが、この時は、山下が同行しておりまして、山下は絵画が専門ですから、MAKの漆器の調査の時は手がすいていたので撮ってくれました。せっかくなんで、ご覧いただいてるわけです。

 

 続いてウィーン美術史美術館に参りました。ここは、例えば、フェルメール「芸術のアレゴリー」といった作品が何気なく展示されていたりします(石野註 画像はたとえばここで。) 

(展示室の写真を表示)このように、ふんだんに貴重な絵画が展示されているのですね。例えば、この写真だと、ここのテレサちゃん「白衣の王女マルガリータ・テレサ」と、一つ置いた隣のフェリペくん「皇太子フェリペ・プロスペロ」をお借りしてる訳です。・・・・・・・・・・・・こことここの絵、持って行っちゃって、今、ウィーンの展示室はどうしてるんでしょうね?

 ウィーンは、特に凝った照明による演出などはしておりません。今回、うちと東博とで展示をしているのですが、うちの方がウィーンの雰囲気に近い展示ができたんじゃないかな?と思ってます。

 もっとも、うちの方が東博より建物が古いからなんですが。

 

 これがウィーンの学芸員の部屋です。(写真を表示)きれいでしょ?ゆったりして、天井が高くて、窓も大きくて、こんな休憩スペースもあって・・・・・・・
 ああ、これが学芸員の部屋なんだよなぁ・・・・・・・って羨ましくなりました。ちなみにこれが
(と、横に並べて京博の学芸員の部屋の写真を表示。机の上は資料が山積み)私たちの部屋です。(場内、大爆笑)この部屋に学芸員が4名、事務官が2名、嘱託の方が2名、ひしめいています。

 

 さて、グチはこの辺にしまして、絵画の調査は山下が専門です。私は、横文字が多少山下よりできるものですから・・・・・・目録を調べてみることにしました。(目録の写真を表示)

 1875年の収蔵品目録です。ここで見られる最古の目録です。下に鉛筆書きで「77」と書いてるので77年なのかと迷っちゃいますが、印刷された文字には1875年とあります。

 で、この目録に「ミカド フォン ヤーパン」つまり、日本の「ミカド」からフランツ・ヨーゼフへの贈り物・・・・と書いてあるんです。

 で、黒塗りの箱があって、その中に画帖が納められていたのです。(「書鑑」と書かれた表紙や、黒塗りの箱に、その図帖が納められている様子の写真などが表示される)

 これが、今、会場で展示されている図帖です。会場では広げて展示されていますが、現地では、このように「箱入り」の状態なんですね。向こうでは140年間、ほとんど開いていなかったようで保存状態が素晴らしい。

 会場でご覧になった方はお分かりでしょうが、もちろん、最高の顔料、岩絵具を使っているうえ、保存がいいので、色が非常にきれいです。

 まだご覧になってない方もいらっしゃると思うので、少しご覧いただきます。

 特に美しいのが、服部雪斎の花鳥画なんですが(「ツツジにトンボ」の絵などを表示)、こうした画帖が2冊、絵としては100枚ありました。

 ウィーンでの調査はここまでで、帰国しました。

 

 

 


3.先行研究でお勉強

 

 で、日本に帰ってきたのですが、先ほどの私が担当していた展覧会も、お預かりした展示物をすべてお借りした先へ返すまではとても忙しくて、ハプスブルクのことはすっかり忘れてしまっていました。

 ようやく少し落ち着いたのが2009年の4月頃。

 図録の論文の締切が6月末と言われていたので、これはそろそろ本気で勉強しなくてはいけないと思い、先人が研究されている内容をまず調べてみることにしました。

 最初に読んだのがペーター・パンツァー氏の書いた『日本オーストリア関係史』(訳:竹内精一・芦沢ユリア。創造社)で、とても面白い本でした。

 例えば、日本におけるスキーの発祥はオーストリア人がもたらした・・・・・なんてことが書いてあるんですね。
 日本に来たオーストリア人に大変なスキー好きがいて、日本の雪を見て「こりゃ、滑らない手はないな」と始めたそうです。

 で、そこには1869年10月16日にオーストリア・ハンガリー二重帝国のペッツ男爵が公使として朝見した、とか、10月18日に天皇にフランツ・ヨーゼフ1世からの贈り物を届けた・・・・・なんてことが書いてあるのです。

 そこにはペッツ公使が明治天皇と朝見した時の配席図なども載っています。
 それを見ると朝見の間で、正面に天皇。そして、その向い、一段低い広間にペッツ公使。横には通訳として、アレクサンダー・シーボルト
 このアレクサンダーというのは、幕末の、あの有名なシーボルトの息子です。

 兄弟がいまして、この場にいたのは兄のアレクサンダーで、弟のハインリッヒ・シーボルトも、後にイギリスの外交官となりました。

 父のシーボルトもドイツ人の医師ですがオランダに仕えました。ヨーロッパの方は、このようにいろいろな国に仕えたりします。

(石野註)

 私のメモではそうなっているのだが、WIKIで見てみると、弟のハインリッヒが小シーボルトとも呼ばれたオーストリアの外交官である・・・と書いてある。

 また、兄アレクサンダーは在日イギリス公使館で通訳をしていたようなので、この場に同席していることは不思議ではない。(参考HP

 殴り書きのメモなんで間違いかもしれない。私のメモ誤りの場合はご容赦ください。

 公使の両脇には、日本の外務卿や右大臣三条実美などが控えていたようです。

 資料としてはHPなんかも参考になりますね。もちろんいい加減なものも多いですが、外務省のHPなんかは非常に参考になります。今、外務省では歴史上の外交文書などをネットで公開しています。

 そこには、「1871年5月8日付け全権公使ペッツ派遣の件」と題された、オーストリア=ハンガリー帝国皇帝フランツ・ヨーゼフから天皇あての親書の記録なども載っています。この時の、日本側の対応に対する礼状なんじゃないかと思います。


 画帖に関する先行研究としては、榊原悟氏の「美の架け橋 異国に遣わされた屏風たち 」(サントリー美術館論集5号 1994年)というのがありました。

 さらに、この榊原氏の論文を参考にして書かれた塩谷純氏の「図版解説 ウィーン美術史美術館所蔵画帖」(『美術研究』379号 東京文化財研究所 2003年)というのがありまして、これがまさにドンピシャ。今回展示されている画帖のことを紹介している論文で、いろいろ参考にさせていただきました。

 

 


 お疲れ様でした。もう少し続きます。

 
 
  

inserted by FC2 system