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(No151) 京都国立博物館 特別展「THE ハプスブルク」関連土曜講座 「明治天皇からの贈り物 画帖と蒔絵と金魚鉢」聴講記 その2

 平成22年1月23日(土)に、上記講座を聴きに行った時のメモの続き。

 



「明治天皇からの贈り物 画帖と蒔絵と金魚鉢」

                                       講師:永島明子(めいこ)氏 京都国立博物館 学芸部工芸室 主任研究員 

 

4.オーストリア・ハンガリー二重帝国との贈答

(石野註)

 いつものように、先生からいただいたレジュメを紹介する場合は、別囲みで表示する。

 また、見出しは、整理の便のため、石野が勝手につけたもの。
 さらに、理解を助けるため、先生がしゃべられた順序のとおりではなく若干編集しているので、お聴きになった方は、「先生の話と違う!」とお思いかもしれないがご容赦願いたい。

 現在では外務省の外交文書などもネットで公開されています。
 この資料は明治天皇からフランツ・ヨーゼフ1世夫妻への贈り物のリストです。 

日本外交文書 明治2年10月9日(1869年11月12日) 澤、寺島ヨリ墺洪國使節宛

墺洪國皇帝及皇后ヘノ贈呈品送付ノ件

附記 右贈呈品目録

(略)

墺地利
皇帝陛下ヘ    【←フランツ・ヨーゼフ1世】
一 太刀 壱振
一 古銅香炉 壱個
一 蒔繪書棚
       以上

墺地利
皇后陛下へ    【←皇妃エリザベート】
一 蒔繪書棚 壱個
一 画帖 弐箱
一 大和錦 五巻
         以上

外国事務宰相ヘウス閣下    【←Friedrich Fercinand Beust?】
一 蒔繪書棚 壱個
一 緞子 三巻
        以上

(略)

水師提督兼全権公使バロンペッツ閣下    【←Petz,Anton von】
一 蒔繪文臺硯箱 壱組
一 陶器 弐種
一 太刀 壱振
一 大和錦 弐巻
         以上

(略)

 また、オーストリア皇帝から明治天皇あての贈り物の記録も残っています。

日本外交文書 明治2年9月14日(1869年10月18日) 澤より墺洪國使節宛

勅命ニ依リ墺洪國皇帝ヨリノ贈呈品ニ対スル謝意通達ノ件

附記 右贈呈品目録

(略)

目録
日本
天皇陛下ヘ    【←明治天皇】
一 白石彫刻墺太利
   皇帝像
一 墺太利
   皇帝写真

(略)

      右之通受取申候以上
      九月     外務省(印)

目録
日本
皇后陛下へ    【←昭憲皇太后】
一 墺太利琴 一面
(略)
一 墺太利名産砂糖菓子数品 一箱

右同断   以上
     九月    外務省(印)

 資料に墺太利琴とありますが、これはピアノのことです。

(右写真は、海軍少将アントーン・フォン・ペッツ男爵。先生が『日本オーストリア関係史』から転載したもの)

 ペッツ使節団の随員の一人にピアノが弾ける人がいたようで、御前演奏がなされたそうです。

 これは、恐らく天皇が初めてピアノを聴いた経験だったことでしょう。

 

 当時の太政官公文録などはマイクロフィルム化されていて、誰でも閲覧できます。

 私は文字を追うより図面などの方が好きなので、浜離宮改築の計画図などを見つけました。

 延遼館というのは、幕府海軍伝習所を外国人の接待場所として洋館に改造したものです。

(菊の御紋章のようなデザイン画を表示)

 当時の明治政府には、「どうやら外国では、他国の王室関係の客を迎える時には国旗とは別に、自国の王室の旗を掲げるらしい」ということを聞いてきた人がいたようです。

 それで、日本でも国旗のほかに、王室の旗を決めなくちゃいけないというので、その旗のデザイン図を描いて考えていたようです。

 私は、こうした騒ぎは、きっとオーストリアからの客を迎えるためになされたものなのかと思っていたのですが、どうもそうではないということが分かってきました。

 


5.イギリス王子の来日準備

 実はオーストリア公使よりも先にイギリスの王子が日本を訪れていたんです。

 明治天皇が京都から東京へうつられたのが明治2年3月28日。

 幕末、明治維新の動乱期に、イギリスだけは日本に公使館を開いていました。
 そんな最中の明治2年4月10日、イギリスから王子が来日するという報せが飛び込んできたのです。

 明治政府は必死で王子を迎える準備をしました。何せ、まだ日本中には攘夷主義の人間がごろごろいた時代です。
 王子の身に、万一何かあれば国際問題どころではありません。

 また、充分なもてなしが出来なければ日本は野蛮な国だということで国際社会における日本の面子がつぶれます。

(右写真は、英国エディンバラ公アルフレッド。先生が
Schlossmuseum Gotha,Ein Prinz entdeckt die
Welt より転載したもの)

 ところで、この王子、ヴィクトリア女王の2男坊で、皇太子ではありません。

 この時、世界周遊中でした。要は、観光旅行です。

 少し前にオーストラリアに寄り、病気になったのですが現地の人の手厚い看護で回復しました。

 近くまで来たから、一度、東洋の神秘、日本に寄ってみようと思ったのでしょう。

 つまり、公式訪問ではなかったのです。

 しかし、日本は彼を国賓として迎えることとしました。明治政府が迎える国賓第1号です。

 当時の「英国王子接待の件」という記録を見ていると、彼を迎えるためいろいろ計画を練っていたことが分かります。

 

 5月8日の記事では、舞楽で迎えることを計画したが、あまりに予算がかかるということで却下されたと載っています。

 また、5月12日には浜離宮の改装計画が載っています。

 さらに5月18日の記事で、王子と接見するのに吹上御所の瀧見茶屋を予定したことが分かります。外国人の王子に畳はつらいだろうと、椅子を用意する。その腰掛の設計図面なども載っています。

 ところが、このようにいろいろ準備を進めていたというのに、6月21日、イギリス公使のパークス瀧見茶屋は狭いからイヤだと言って断ってきたようです。

 イギリス王子と明治天皇が朝見した時の「英国王子対面の図」という配席表も残っています。
 上座に、主上と親王、そして王子も上座です。公使パークスは一段低い広間に控えました。

 パークスは、この時「自分も広間ではなく、上段に座らせろ」とクレームをつけたようですが、明治政府は断ったようです。
 こうした調整もしつつ、先ほど申し上げた旗を作ったり、全国の知事にイギリス王子来日中に不祥事のないよう各自しっかり注意せよといった布告を出したりしています。

 パークスは暇だったのか、心配だったのか、この頃接待所の下見に行った記録が残っています。そして、彼の記録には、日本人は大変熱心に準備を整え、あっという間に接待所がきれいに整備されていったので感心した・・・・・・なんてことが書いてあります。

 


6.イギリス王子の接待

 
さて、いよいよイギリス王子エディンバラ公が明治2年7月22日、横浜に到着しました。神社の禰宜が来日を祝賀する祝詞をあげたりしたようです。

 当時、多数の外国人が来日していましたが、総出で礼服に着替えて出迎え、日本に寄港していた外国船も一斉に礼砲をぶっ放したので、大騒動になったそうです。

 厳戒体制の中、浜離宮へ。贈答品のやり取りをした後、いったん宿舎に戻りましたが、すぐに鷹狩り、舞踏会。

 翌日は和歌山藩の藩邸で能狂言。日本料理の大宴会。

 延遼館では相撲の上覧。夜は花火を打ち上げたり、雅楽を演奏したり。

 蹴鞠を見せたり、日本古来の曲芸、そして魚釣り。これは神道の方の行事で、魚を放してから捕まえたり・・・・という行事のようです。

 また、夜には即興で絵を描いてみせたり、これは河鍋暁斎などが得意としているものですが、ともかく盛り沢山なメニューで王子をもてなしたようです。

 


 お疲れ様でした。もう少し続きます。

 
 
  

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