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(No146) 正倉院学術シンポジウム2009「皇室と正倉院宝物」 聴講記 その4

 平成21年10月31日(土)に、上記シンポジウムを聴きに行った時のメモの続き。

 
 

 


第1部 研究発表

「正倉院宝物と宮中の年中行事」 
  元 宮内庁正倉院事務所長  米田 雄介

【 一 正倉院宝物に見える年中行事 】


【 A 】 年月日が特定できるもの
1 正月初子日
(1) 子日手辛鋤 (南倉:「東大寺 子日献 天平宝字二年正月」)
(2) 緑紗几覆 (南倉)
(3) 緑絁帯 (南倉)
(4) 子日目利箒 (南倉)
(5) 緑紗几覆 (南倉)
(6) 紺地浅緑目交臈纈絁間縫帯 (南倉)

2 正月初卯日
(7) 杖五枚のうち椿杖二枚 (南倉)
(8) 三十足几 (中倉:「卯日御杖机 天平宝寺二年正月」)

3 七月十五日
(9) 几褥心麻布 (南倉:「天平神護元年七月十五日自 内裏献大仏盛献物机褥」)

【 B 】 月日が特定できるもの
1 正月七日
(10) 人勝残欠雑張 (北倉)

2 二月二日
(11) 紅牙撥鏤尺 (北倉)
(〃) 緑牙撥鏤尺 (北倉)

3 五月五日
(12) 百索縷軸 (北倉)

4 七月七日
(13) 針(銀・銅・鉄) (南倉)

 

 宮中の年中行事について、気楽に引き受けましたがなかなか再現は難しい。いくら文献と突き合わせても限度があるので、今は後悔しているのですが、何とか分かる範囲で発表します。

 もちろん日本だけではダメであって、東アジア、日本、中国、朝鮮などの資料をひっくり返さねばならないのですが、特に朝鮮の記録が不足しています。

 『荊楚歳時記』『北京年中行事』(岩波文庫)は、文庫ですから皆さんもお読みになれると思います。

 現在、鋤や箒が展示されています。

(画像を表示)
 これは「椿杖」(南倉)で、正月初めの卯の日につくので、卯杖などと呼んだりもします。

 これは「三十足几」。

 これは「人勝残欠残」。

 これは「紅牙撥鏤尺」、「緑牙撥鏤尺」です。

 これは「百索縷軸」です。5月5日に使用するのですが、使い方がよく分かっていません。

 これは「七夕の針」です。裁縫が上手になるよう、祈りをこめたものと思われます。

(石野注)
 「銀、銅、鉄の針」というタイトルで、3本の針の写真が写った。
 どれも付箋というか、紙縒りのようなものが付いている。
 私は、七夕というので、つい「短冊」を連想し、針に「願いを書いた布」か何かを結び付けるのか?と思ってしまった。

 しかし、そこには「銀針 ○月○日」なんて書かれてあったので、ただの識別用タグだったようだ。


 『周礼』には、正月最初の子の日に唐鋤を用いて耕田を行うとあります。さらに『荊楚歳時記』にも6世紀頃、梁に耕田の儀式があったと伝えています。

 同じ正月最初の子の日に日本では養蚕の成功を祈って箒で蚕室を掃き清めます。
 この箒のことは、万葉集に、大伴家持が、子の日の行事後の宴会で歌を詠んだと伝えられています。

ところで、養蚕の儀式は、中国では3月に行うことになっています。

「耕田」の方は、『周礼』『荊楚歳時記』の記載内容と、日本で行事となっている日とが共通して最初の子の日となっています。
 養蚕の方は、日が食い違っている上に、天平宝字2年に初めて行事が執り行われ、それっきり、その年より前にも後ろにも行われていません。

 一方で「卯杖」の方は、『日本書紀』「持統天皇三年紀」や『枕草子』に出てきますので、完全に日本に定着した行事となったと言えるでしょう。

 7月15日には、物を献上する儀式がありました。

 藤原基経が「年中行事御障子文」を著しています。

 正月7日、2月2日にも行事があります。

 『大唐六典』によると、中国では2月2日に皇帝から物差しを賜る行事があり、その後、2月1日の中和節の日に変わりました。

 中和節とは、昼と夜の長さが同じ日で、国家支配の象徴である度量衡の統一になぞらえ、この日に物差しを贈ることになったのでしょう。
 ただ、日本の文献には2月2日と書かれたものは残っていません。

 5月5日の百索縷軸は、使い方が判明していませんが、五色の糸を巻きつけてぶら下げた・・・・というようなことも書かれているようです。

(石野注)
 5月5日と「五色の糸」という点で、私はすっかり屈原の「粽」の故事を連想したのだが、関係ないのだろうか?


【 ニ 宮中の年中行事 】

【 A 】 養老雑令諸節日條

【 B 】 年中行事御障子文(正倉院宝物との関係)
1 正月上卯日   献御杖事
2 正月七日    節会及叙位事
3 五月五日    節会事
4 七月七日
     十四日  盆供事
     十五日  盂蘭盆供事

【 C 】 奈良時代の年中行事に関する調査
1 月旧記
2 月旧記秩文 

 天平宝字元年から2年頃の行事には、その後に引き継がれていないものがあります。
 当時の為政者の中心は藤原仲麻呂でした。彼は中国の文化を取り込むため、行事をいろいろと真似をしました。

 仲麻呂は紫微中台という機関に命令して中国の行事を調べさせ、様々な新政策を打ち出しました。

 皇太子の道祖王(ふなどおう)が廃嫡され、大炊王(おおいおう)が皇太子に立てられました。これは仲麻呂の意向です。大炊王は仲麻呂の屋敷に住まわせてもらっていたという記録もあります。

 仲麻呂は、正丁の年齢を引き上げる・・・・ということもやっています。正丁とは租税を負担する者のことですから、これは一種の減税政策です。
 また、不比等による大宝律令を引き継いだ養老律令は凍結状態となっていましたが、これを仲麻呂が「解凍」しました。

(紫宸殿などを含む京都御所の平面図を表示し、清涼殿の間取りのアップへ。図面右下の廊下の端に「障子」は置かれているようだ)

 清涼殿孫廂南端に置かれているのが年中行事御障子で、片面に正月から六月までの、もう片面には七月以降の年中行事が書かれています。

 これは藤原基経が、光孝天皇に贈った物と言われており、不始末を起こして退位した陽成天皇に代わり、傍系から立った光孝天皇が年中行事に詳しくないので贈ったと言われています。
 ところが、この御障子には子の日のことや、鋤、箒などは出てきません。

 中国では、「耕田」(鋤を入れる)は皇帝がやること、養蚕(蚕室を箒で掃く)は皇后のやることという位置づけがありました。

 孝謙天皇は女帝ですから、当然皇后はいません。

 単独では、皇后が行う養蚕ができないので、耕田と同じ日に行うことにしたのではないでしょうか?

 『万葉集』に箒の話が出てきます。仲麻呂が歌を詠めと命じたとあります。いずれにせよ、子の日の箒の行事は仲麻呂がプロデュースしたのは間違いがなさそうです。

 1回限りでこの行事が後世に伝わらなかったのは、(強引に子の日に挙行した)仲麻呂の勢力がその後弱体化してしまったからではないでしょうか?
 



 お疲れ様でした。

 いつものことですが、録音などをしておりませんので記録違い、記憶違いはご容赦ください。

 
  

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