移動メニューにジャンプ

(No124) 特別展「妙心寺」土曜講座「妙心寺と狩野元信」 聴講記 その2 

 平成21年4月18日(土)に、上記講演会があった・・・・・・・の続き。


 
 
 元信は絵馬も描きました。

 丹波町こもり神社とか、大永3年 丹波町だいこう寺、竹虎の絵馬といった字句がメモが残っているが、漢字とか所在地が確認できない。

 絵馬には小さな傷が無数に残っているが、それらは賽銭が当たった跡だと山本室長はおっしゃっていた。
 先日奈良博の西山部長に教えていただいた清涼寺の仏像の傷の話と同じだな、と感じた。


 狩野松栄が描いた三十六歌仙の絵馬も残っています。
 これは近江浅井家の家臣遠藤直経
(えんどうなおづね)が永禄12年(1569)に武運長久を祈って奉納した絵馬です。
 ただ浅井家は、その翌年信長に滅ぼされますから絵馬の効力はなかったといえます。

 遠藤直経は浅井長政の傅役(もりやく)的存在で、長政の信頼も厚かったようだ。

 直経自身は織田信長を高く評価し、朝倉家を捨て信長につくべきと主張したが容れられなかった。
 元亀元年(1570)、姉川の戦いで浅井家の敗色が濃厚になったとき、信長暗殺を挙行したが、直前で竹中重矩(たけなかしげのり。竹中半兵衛の実弟)に阻止された。

 厳島絵馬鑑(いつくしま えまかがみ)には元信の三十六歌仙絵馬も載っています。

 元信は、大和絵ファンも顧客に取り込んだと言えます。

 



 狩野派が隆盛した三つ目の要因は、弟子の育成です。
 顧客を広げたからには、大量注文に対応できる体制を作らねばなりません。

 それには弟子を育成することですが、教育するためには自分のスタイルが必要です。

 元信は真・行・草という3パターンを確立しました。
 彼の確立した「画体」というのは、雪舟周文とどう違うのでしょうか?

 当時の絵師は、馬遠
(ばえん)夏珪(かけい)、南宋の画家牧谿(もっけい)、画僧玉澗(ぎょっかん)を手本にしていました。
 馬遠と牧谿とでは画風、スタイルが変わるのが普通ですが、元信は真・行・草のスタイルを確立しました。

 「三酸図」という絵で、これは元信の弟、之信(ゆきのぶ)が描いていますが、元信の絵と見分けがつかないくらいそっくりです。
 之信が描いても元信が自分の印を押したら元信の絵となるのです。

 本人自身が描いたのか、弟子が描いて印だけ押したのかは判別し難いので、それは上手いかどうかで区別するしかないのです。

 「三酸図」というのは、儒教の蘇東坡、道教の黄山谷、仏教の仏印禅師の三人が、桃花酸という酢をなめて、宗派を超えて一様に酸っぱいしかめっ面をしているという絵で、三教一致を風刺しているとも言われている。

 出展作(重文「寒山拾得・三酸図屏風」海北友松筆)ではないが、「三酸図」のイメージとしてはここで。

 行体の絵というと、大徳寺大仙院の「四季花鳥図」などに比べると簡略化されたもので、描写密度はやや粗で、色もつけられません。
 モデルは牧谿です。

 草体は、大徳寺つうせんあん(通仙庵?真珠庵通仙院?)の「山水図」などが挙げられます。
 デフォルメがきいており、墨のにじみ、かすれで表現されています。草体としては、様式は水墨画しかありません。モデルは玉澗の水墨画です。

 障壁画で複数のスタイルが混じっていても基本的構成が同じなので違和感がありません。

 繰り返すと、三つ目のポイントは、画体方式を生み出し、弟子を育成したことです。

 主なポイントは以上3点ですが、四つ目には扇屋の経営です。

 元信は、障壁画や屏風が本業ですが、扇にも力を入れています。
 天文8年(1539)には扇座のNo2として幕府に起請文、すなわち陳情書を提出しています。扇商の協同組合の重鎮であったことが分かります。
 狩野派の絵が描かれた高級扇は上流階級の贈答用品としてもてはやされました。
 南禅寺には扇面貼り交ぜ屏風が残っています。240面もの扇絵が貼られています。金箔を用いた絵や、窓絵方式のものなど様々です。

 父正信は、足利幕府の御用絵師として銀閣関係、足利義政のことばかりしていたと思われがちですが、細川政元(1466〜1507)とも関係がありました。

 政元は、応仁の乱で有名な細川勝元の嫡男です。能や書画に興味を持っていました。

 以下、漢字が分からずひらがなでメモしていたが、内容がうまくつながらない。
 後で調べた内容で、一応たどってみるが間違いが多いだろうと思う。

 

 細川政元は、明応2年にクーデター(明応の乱)を起こし、将軍を10代足利義材から11代義澄にすげ替え実権を握った人物。
 しかし、永正4年(1507)、家臣の香西元長らに暗殺(永正の錯乱)される。なお、元長は細川高国細川澄元に攻められ遊初軒の戦いで敗死。

 『蔭涼軒日録』(いんりょうけんにちろく)とは相国寺鹿苑院蔭涼軒の公用日記で、1484〜93年の筆者が亀泉集証(きせんしゅうしょう)。

 岩栖院は管領細川満元(1378〜1426)が入道して建立。
 明応元年(1492)、亀泉集証がそこを訪ねた。当時の住職は政元の弟だった。

 小栗宗湛(おぐりそうたん)は相国寺の画僧。周文に水墨画を学び、足利義政に認められ、周文の次代の御用絵師となった。
 正信は宗湛に師事した。

 小栗宗継は、宗湛の子。

 よく分からないのだが、どうも亀泉が宗継の絵か何かを持っていて自慢したのだが、留守の時に正信が来て散々悪口を言ったらしい。

(メモには「おうせんけいさん」(横川景三。1429〜1493)という名前も書かれているのだが、どうも彼はかなり大物ぽいみたいだ。もっとも宗継も正信にとって師匠の子だから悪口を言えるのか迷うのだが)

 亀泉と宗継はいろいろ関係があったようで、ここに書いてある。

 メモでは漢字が分からないので、それを探し当てるだけでもかなりの時間がかかってしまった。


 『近世に於ける妙心寺と大悲寺』という論文に、いろいろ人名が出てくる。また、京博の売店で買った『古寺を巡る No23 妙心寺』(小学館)やネットで調べた人名も含め、列挙しておく。

南浦紹明(なんぽじょうみょう):鎌倉建長寺。大国師。
宗峰妙超(しゅうほうみょうちょう):大徳寺開山。大国師。
山慧玄(かんざんえげん):妙心寺開山。無相国師。
 この三者で受け継がれた法脈を「応燈関」という。

 妙心寺は、応永6年(1399)、大内義弘の応永の乱に巻き込まれ足利義満の怒りをかい中絶。
 永享4年(1432)、南禅寺からようやく返還され、
日峰宗舜(にっぽうそうしゅん):妙心寺7世が復興に尽力。

義天玄承(ぎてんげんしょう):妙心寺8世
雪江宗深(せっこうそうしん):9世

景川宗隆(けいせんそうりゅう):10世。龍泉派
呉渓宗頓(ごけいそうとん):11世。東海派
特芳禅傑(とくほうぜんけつ):12世。霊雲派
東陽英朝(とうようえいちょう):13世。聖沢派

ケ林宗棟(とうりんそうとう):山名宗全の実子。細川勝元の養子となるが、実子政元が生まれたため廃嫡され仏門に入った。
玉浦宗a(ぎょくほそうみん):妙心寺21世。師の呉渓宗頓亡き後は、利貞尼の寄進を受け東海庵の整備に尽力。
大休宗休(だいきゅうそうきゅう):師の特芳禅傑を霊雲院の開山として自らは2世となった。その後、龍安寺塔頭西源院に移る。

 「鍾呂伝道図」(伝:狩野正信筆。15世紀。京都西源院)は、いわゆる「八仙」の絵で、呂洞賓(りょどうひん)鍾離権(しょうりけん)から教えを授かる場面を描いたものです。
 元信の時代の絵より古様のように思われます。

 八仙については、以前ここで少し解説している。

 先生はその後、
朱買臣の薪の絵を紹介された。朱買臣は前漢の人で貧しかったが、商売物の薪を背負いながら読書をした。先生は「中国の二宮金次郎」と表現した。

 次に蘇東坡の絵も紹介された。南の島に流刑されていた時、雨に降られて農家で蓑笠と下駄を借りて、みっともない格好で笑われながら帰る場面のようだ。

 次に王昭君の絵。

 

 「ケ林宗棟像」(自賛。狩野元信筆。永正18年(1521)。京都龍安寺)は、賛の文章の中に描いたのが元信と明記されている大変珍しい作品です。
 というのは、禅宗は法脈を伝えることに非常に重点を置き、肖像画がその一助とされています。特に禅宗では師の肖像画を「頂相」
(ちんぞう)と呼び、印可状の一部としてとても大切にされます。
 すなわち、「誰を」描いたのかが重要であって、「誰が」描いたのかはどうでも良いことであるため、落款を押したりすることもめったにないのです。


 

  この辺で一度切っておきます。いつものことですが、殴り書きのメモとおぼろげな記憶で再構成してますので間違いはご容赦ください。  

 
 どうもお疲れ様でした。

 
  

inserted by FC2 system