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(No123) 特別展「妙心寺」土曜講座「妙心寺と狩野元信」 聴講記 その1 

 平成21年4月18日(土)に、上記講演会があった。講師は山本英男京都国立博物館美術室長。

 会場はいつもなら平常展示館の講堂なのだが現在建替え工事中のため、京都女子大学J校舎5階にて開催される。

 最初に特別展覧会「開山無相大師650年遠諱記念 妙心寺」を観てから会場にむかった。坂の上だし、けっこう遠かった。


 
 
 いつもこの教室で講義をしているのですが、今日はずいぶん景色が違います
 けっこう遠かったでしょう?私、実は、京博から車で来ました。

 山本室長は京都女子大学で授業を持っているようだ。いつもは若い女子大生を前にして講義しているが、今日は年寄りが多く「景色が違う」と言っている。

 また、坂道がきついので車を使ったということで、つかみの笑いを取ろうとしていた。


 今日は狩野
(永仙)元信のお話をします。
 元信の父は狩野
(祐勢)正信といって、足利義政の御用絵師でした。

 元信は足利将軍家だけでなく御所関連や守護大名、堺や京都の町衆、有力寺社などに得意先を広げ、狩野派隆盛の基礎を築きました。

 私はいつも試験に「狩野元信が狩野派隆盛の基礎を築くことができた要因は?」という問題を出しています。

 ある学生の解答は「商売上手だったから」
 ・・・・・・・・・まあ、これはあながち間違いでもない。確かに元信はいろんな行事にこまめに顔を出したり、扇絵を開発したり、なかなか商売上手な面があったようです。

 また、ある学生の解答は「男前だったから」。・・・・・・・・見てきたのか!?さすがにこれは不正解としました。

 要因はいくつか挙げられますが、一つ目の要因は、万人受けする平明、明快、言い換えれば端正で美しい絵を描いたということです。

 元信は父正信の画風を継承発展させました。
 その典型は大徳寺大仙院の「四季花鳥図」です。
 ぱっと見は、桃山(時代の作品)に近いのでは?と思わせるようなダイナミックな画面です。
 このような襖絵は、つなぎの部分が難しいのですが破綻なく仕上げられており、プロフェッショナルの技を感じます。
 また全体構成もよく考えられていますが、細部にも凝っています。
 松の樹の上に3羽の鳥がとまっているのですが、よく見るとその鳥が足でバッタか何かの虫を押さえ込んでいます。そんな細かい所まで描き込んでいるのです。

 京博HPの「収蔵品」から、「名品紹介」→「絵画」→「中世水墨画」→「四季花鳥図」狩野元信筆まで順にクリックし、一番左端の「A」図を参照していただくと、先生の言っている3羽の鳥が分かる。またはここで。
 HP上ではバッタまでは見えないが、当日会場のパワーポイント資料では、よく見えた。

 これは「禅宗祖師図」です。箒を持った僧が描かれています。箒を持った僧というと、寒山拾得の拾得かと思いますが、そうではなくて、「きょうがん」が悟りを得た時の絵なんですね。
 箒で掃いていて、掃いた石が竹に当たってかん!かん!かん!と音を立てた。その音を聞いて悟りを開いた・・・という場面を描いたものですが、37歳頃の元信が既にこれだけの絵が描けたということです。

 東京国立博物館のここで、祖師図全体が観られる。

 私は「きょうがん」とメモしたのだが、香厳智閑(きょうげんちかん)という僧のようだ。
 悟りを開いた「香厳撃竹」の故事などについては例えばここここで。


 分かりやすい絵というのは、説明的な絵と言い換えることができるかもしれません。元信の絵は、ここにこうゆうものがあってほしい、そうすればよく分かる・・・というものが不足なく描き込まれている点が万人受けする明快さといえるでしょう。


 二つ目の要因ですが、レパートリーの拡大ということが挙げられます。

 彼は水墨画はもちろん、仏画、肖像画などもこなしました。

 四愛図という絵があります。中国の4人の名士がそれぞれ愛したものを描いた絵です。
 周茂叔
(しゅうもしゅく)という人は、蓮の花を愛しました。
 後の3人は、蘭を愛した黄山谷、梅を愛した林和靖、菊を愛した陶淵明です。

 これが周茂叔愛蓮図
(しゅうもしゅくあいれんず)です。

 愛蓮図は良いのだが、どうもこの絵は父正信が描いたようである。
 また、メモには九州国立博物館と書いてあるのだが、ネットでは東博所蔵のように出ている。その後移管されたのだろうか?
 時間がたったこともあり、さっぱり覚えていない。
 ここでも九博とあるから、多分現在は移管されたのだろう。

 また大仙院のところで元信の「四季花鳥図」の下に「相阿弥 瀟湘八景図」とメモがある。 
 大徳寺大仙院にも、そういう絵はあるようだが、妙心寺にも同じ名前の絵があり、今回も出展されている。

 さらには、大徳寺 「釈迦三尊図」として真ん中に釈迦如来、そして白象に乗った普賢菩薩と獅子に乗った文殊菩薩が両脇をかためているところをメモし、元信 ぜんじんじ?禅仁図とかメモしているが、これまた、よく思い出せない。
 大徳寺の「釈迦三尊図」も正信の作品のようである。

 父正信は、足利義尚が近江の六角氏を征伐するため出陣した時の絵を描いています。この絵を発注したのは、母の日野富子といわれています。
 義尚は、銀閣寺で有名な、別名東山殿と呼ばれていた8代将軍足利義政と日野富子との間の次男で、9代将軍となりましたが陣中で病没しました。

 元信も細川澄元出陣絵を描いています。この絵は澄元が上洛した時に描かせたもので元信31歳。実質的なデビュー作といってよいでしょう。

 細川澄元は、細川家の勢力争いの中で細川高国大内義興の連合軍に敗れ、阿波に落ちのびた悲運の武将です。

 元信は正信の後継者として画風を継承しただけでなく、あらたに大和絵の画題等も取り込みました。

 漢画が狩野派の本流であり、大和絵は未知の領域です。これは例えて言えば、寿司屋一本でやってきた老舗がステーキ屋に手を広げるようなもので、大変な冒険です。

 白鶴美術館所蔵の「四季花鳥図屏風」は元信74歳の作品と款にあります(“狩野越前法眼生年七十四年”款)が、これは漢画系の金地着色のもので、興福寺のこうせん(?)の求めで描いたようです。

 また大内義隆は元信に三双の絵と100本の扇絵を注文しています。扇絵の画題はすべて花鳥風月に限定したと言われています。この扇絵は日明勘合貿易の際の贈物に使用したものですから日本趣味に偏らず外国の人にも分かりやすいものとして画題が選ばれたのでしょう。

 元信は絵巻物も手がけました。
 その一つが「釈迦堂縁起絵巻」で元信39歳の作品です。釈迦堂とは京都嵯峨野の清涼寺のことで、そこに仏像が請来された経緯と霊験を描いたものです。
 鳩摩羅縁起
(くまらえんぎ)として仏像を盗む話が描かれていますが、滝などがダイナミックに描かれ大和絵の絵巻の構成とは違うな、と感じさせます。

 読み返すと何のことか分かりにくいのだが、「釈迦堂縁起の画面構成について」という論文があった。

 これを拾い読みして、その他に読んだ本の内容と合わせてみる。

 インドのコーシャンピ国の優填王(うてんおう。ウダヤナ王)が釈迦生存中に親しく教えを聴くことができず病気になってしまった。これを心配した家臣が牛頭山(ごずさん)の栴檀(せんだん)で釈迦の姿を写した像を造った。これがインドにおける仏像の起こりといわれる。

 後に鳩摩羅琰鳩摩羅什の父)が、その瑞像を亀玆国に運ぶ際、昼は鳩摩羅琰が像を背負ったが、夜は像が鳩摩羅琰を背負って道を進めたという場面がこの絵巻に描かれているそうだ。(確か今回の講演会でも、その場面の画像が紹介された)

 永観元年(983)に東大寺の僧「然(ちょうねん)が入宋したおり、台州の開元寺で瑞像を拝し、模像を作成し、日本に持ち帰ろうとした。
 すると、ある夜夢枕に瑞像が立ち、模像と入れ替わって「然とともに日本に渡ることを告げた・・・・・とのことである。 

 元信は「九相図」も描いています。絶世の美女が亡くなって、腐敗ガスがたまって身体が膨れたり、朽ちて身体が崩れたり、犬に食い荒らされ、最後は骨もバラバラになっていくというさまを順に描いた絵ですが、他の作者はグロテスクに描くことが多いところ、元信はややユーモラスに描いています。

 これはグロテスクな部類だろうか?ここで「小野小町九相図」を紹介されておられる。

 また、元信は「京中図屏風」や「洛中洛外図屏風」も描いています。
 洛中洛外図といえば、何といっても狩野永徳の上杉本が有名です。永徳の上杉本と比較すると元信の金泥はあまり光っていませんし、登場する人物の数も半数程度です。
 元信の絵に細川邸が描かれていますが、そこに描かれている人物は細川高国ではないか、と言われています。

 永徳は元信の孫。
 上杉本については、以前の「永徳展」のメモにて。

 元信の「洛中洛外図」とか、そこに描かれている人物に関してはここのブログで。そのブログがリンク切れになっている場合は、ここで。

 

 



  この辺で一度切っておきます。いつものことですが、殴り書きのメモとおぼろげな記憶で再構成してますので間違いはご容赦ください。  

 
 どうもお疲れ様でした。

 
  

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