移動メニューにジャンプ


陶磁器ゼミ(11) 美術史ゼミナール「中国の陶磁器」その8(明(1368〜1644)・清(1644〜1911)時代の陶磁器)Part1<景徳鎮窯総論>

はじめに

 今回は明・清ということで、講義としては最終回。
 いつもどおり、先生の講義内容に、『中国陶磁の八千年』(著:矢部良明。平凡社。以下『八千年』と略記)を中心に注をちょこっと追加します。
 では、さっそくはじまり、はじまり。




1.引江西省景徳鎮市 景徳鎮窯について(総論)

(1) 各時代の特徴

場所 江西省東北部
鄱陽湖(はようこ)に注ぐ昌江中流域の景徳鎮市にある窯業地
(昌南鎮)
発祥 10世紀五代以降の窯址が確認されている。(楊梅亭、白虎湾、湖田)
→支釘を用いて重ね焼きされた越州窯系の青磁及び華北系の白磁
→長江以南で発見された最古の白磁窯址(製品の質は高くない)
北宋時代 青白磁の完成により、中国を代表する窯業地となる。
湖田窯の調査結果 初期 白磁主体
中(後)期 青白磁を完成
薄手に成形。鋭くのびやかな造形。流麗な劃花文、刻花文を駆使し、海外にも輸出
後期 口剥ぎ伏焼の碗皿類も登場
南宋時代 器形は鈍化。
釉調も艶がなくなる。
印花による施文が主
元時代 前期 青白磁から枢府系白磁(純白で、腰が丸く張り、口縁が端反りした鉢が代表的)に主流が移る
後期 青花磁器(白磁の素地にコバルト顔料を用いて文様を描き、透明釉をかけて焼成した陶磁器)の技術・様式を確立
→鋭く力強い描線・濃密な文様構成。大作に優品が多い。
イスラム圏に多く輸出
明時代 御器廠(=官窯)が景徳鎮の珠山に置かれ、民窯・官窯ともに中国の陶磁器生産がほぼ景徳鎮窯に集約される


(2) 御器廠(ぎょきしょう)

定義 明・清時代に江西省景徳鎮の珠山に設置された官窯。
宮廷の需要に応じて御用磁器を生産。
御廠、御窯廠などともいう
設置年代 洪武2年(1369)説
注1
藍浦『景徳鎮陶録』(清嘉慶年間)
洪武35年
(1402)説
注2
王宗休『万暦江西大志』(明嘉靖万暦(1522〜1620)年間)
宣徳元年
(1426)説
永楽・洪熙帝の祭祀における白磁祭器の需要期、
宦官張善の景徳鎮派遣時期(※注3)から類推
珠山の発掘調査結果 洪武・永楽期の官窯磁器と類推される作品が発見されている ※注4
宣徳年間(1426〜1435) 白磁・青花・紅釉磁器に民窯とは異なる様式が確立。
五彩磁器の焼造も確認された。
「大明宣徳年製」の銘が入るようになる
匠役の変遷 当初 年1回課せられる匠役(無償労働) ※注5
成化21年
(1485)
銀納によって匠役が免除されるようになる ※注6
嘉靖41年
(1562)
完全な銀納化に移行 ※注7
部限磁器・欽限磁器
注8
部限磁器 工部の命による、年間一定量の磁器
欽限磁器 皇帝の直接命令による臨時の磁器
明時代の官塔民焼制 当初 欽限磁器の需要が多く、一度に生産量が満たない場合に、臨時に「官塔民焼制」(かんとうみんしょうせい。民窯への委託生産)が行われた
嘉靖期以降 官塔民焼制が恒常化 ※注9
万暦年間後期 莫大な数量の官窯器が焼造(※注10)され、質の低下を招く
明末動乱期 御器廠の活動は停止
清時代の御器廠 順治年間 宮廷窯の磁器焼造が命じられている
康煕年間当初 康煕13年(1674)、三藩の乱により景徳鎮は戦火に見舞われる ※注11
康煕年間初期  康煕19年(1680)、徐廷弼(じょていひつ)・李廷禧(りていき)が景徳鎮に派遣され、宮廷の絶大な支援を受け体制が整備される。
 高度な技術を駆使した精巧な磁器が製造可能となって、御器廠が完全復興 ※注12
康煕・雍正・乾隆年間 三帝期(1662〜1795)が最盛期。
臧応選(ぞうおうせん)・郎廷極(ろうていぎょく)・年希尭(ねんきぎょう)・唐英(とうえい。1682〜1754)らの督造官・監督官による運営がなされた。 ※注13
琺瑯彩  器胎は景徳鎮で焼造。
 精緻で品格の高い絵付けは、宮中に置かれた工房の造辧処(ぞうべんしょ)で宮廷画家(※注14)により施文
尽塔民焼制 清時代初期 民窯の発展を背景に「官塔民焼制」がとられる
乾隆末期 御器廠の焼成部門を廃止し、すべて民窯に委託生産させる「尽塔民焼制」(じんとうみんしょうせい)に移行

 

注1 朱元璋は、建国翌年の洪武2年(1369年)に「朝廷で使う祭器はすべて磁器を用いる」旨の詔勅を発した。(『八千年』P309)

注2 ・珊(せんさん)『重建勅封萬碩師主祐陶碑記』で「洪武の末、初めて御器廠を建て」とある。
 また、万暦年間重修の『江西大志』陶書にも、洪武35年に「始めて窯を開きて焼造す」とある。(『八千年』P310)

注2(その2) 『江西大志』陶書には「正徳の初めに御器廠を置く」ともある。同様の既述が清朝の『浮梁県志』『景徳鎮陶録』にも見られる。(『八千年』P311)

注3 『明史』食貨志「焼造」の条に第五代宣徳帝が、その初年(1426年)に中官(宦官)張善を鎮に派遣して奉先殿の祭器として龍鳳文白磁を焼造させたとある。(『八千年』P310)

注3(その2) 朱元璋が健在であった時に、恒常的な組織ではなかったにせよ、官窯が設けられていた。
〜永楽、宣徳、成化、弘治などの官窯は常設の窯ではなかった
御器廠なる名称も、正徳年間(1506〜21)の初めに定まった
〜正徳以後に官窯は廠として常設の工場が設けられ、産業性が強まっていった(『八千年』P318)

注4 景徳鎮に官窯が開かれたのは永楽年間(1403〜24)であったことが、考古学発掘によってほぼ確定したのは1982年(『八千年』P318)

注5 陶工もほかの手工業者と同じく匠戸(しょうこ)として戸部の戸籍に登録され、1年に3か月都に赴き輪班匠として官営工房で労働する(『八千年』P361)

注6 景泰5年(1454)にすべての上番匠は4年に一度徭役につけばよいことに改められ、成化21年(1485)には輪番匠は銀をおさめることによって上番が免除され、いわゆる班匠銀制の道がひらかれた。(『八千年』P362)

注7 正徳末年に〜官窯はついに匠役制を一部やめて、職人を雇いあげる雇役制を導入しはじめ〜嘉靖41年(1562)に政府は班匠銀制を一律に施行〜匠役制はすっかり崩れてしまう(『八千年』P362) 

注8 中国の研究者たちが唱えている説で部限瓷器がもっぱら賞賜用〜欽限瓷器は宮廷をはじめとする王朝の御用のための御器〜
日本の佐久間重男氏は、部限瓷器は〜必要とする年間磁器類を南京工部に要請し、これより官様磁器の規格を定めて御器廠に焼造を命じるものとし、欽限瓷器とは祭器や御用・賞賜の磁器を含めて宮廷が大量の磁器を必要なとき、宮廷より直接御器廠に焼造が命じられる緊急臨時的なものと解釈(『八千年』P330)

注9 嘉靖25年になると御器の焼造量が飛躍的に増加〜すでにおこなわれていた民窯委託制が〜恒常化していく(『八千年』P364)

注10 『江西大志』陶書には焼造の員数がのっている。嘉靖25年(1546)には1年間の総量が10万個の大台を超えはじめた。
 万暦5年(1577)には再び14万5000個、万暦19年には14万6000個を数え、最大数量となる。(『八千年』P380)

注11 康煕22年(1683)に重修された『饒州府志』には「康煕13年の変乱により、鎮の房舎が半ば以上も焼失し〜窯を業とする者は十に僅かに二、三にとどまる」とある。(『八千年』P425)

注12 『饒州府志』によると、康煕19年9月に御器焼造の命令がくだされて、徐廷弼を中心に、李廷禧臧応選車爾徳の4人が派遣されることになった。(『八千年』P426)

注13 雍正官窯を支配したのは、一人は年希尭(ねんきぎょう)であり、いま一人は唐英である。
 『乾隆浮梁県志』に引用されている唐英の著『陶政示論稿自序』によると、景徳鎮に赴いた雍正6年当時は、陶技について全く無知だったが、陶工と同食すること3年にして、正統の具体的な工程を学んだ。(『八千年』P448)

注14 蔵窯の時期、1680年代は、いわば清朝官窯の黎明期にあたり、御器の文様や様式の創作に活躍した画家〜名は劉源(『八千年』P428) 

注14(その2) 雍正年間に粉彩画をおこなう名手に譚栄(たんえい)、鄒文玉(すうぶんぎょく)をはじめ10名以上が北京におり、景徳鎮から白磁胎に上絵付していた。
 その工房を琺瑯作といい、内務府造辧処に所属していたという。(『八千年』P455) 



 長くなるので、<明代の景徳鎮>、<清代の景徳鎮>、<明・清の地方窯>は、Part2以降で、分けてアップいたします。

 

inserted by FC2 system