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(No82) 正倉院学術シンポジウム2006 その9 「菩提僊那と古密教の美術」 聴講記 

 2006年10月29日(日)に開催された正倉院学術シンポジウム2006は、春日大社「感謝・共生の館」にて午前9時より、梶谷亮治奈良国立博物館学芸課長の司会進行により、湯山賢一奈良国立博物館長及び葉室頼昭春日大社宮司の挨拶を経て開会された。

 8番目の講演は、奈良国立博物館研究員:谷口耕生氏による「菩提僊那と古密教の美術」である。

 レジュメの内容は白枠内に示す。


 

菩提僊那と古密教の美術 

 天平8年(736)におけるインド僧・菩提僊那(ぼだいせんな。704〜760)の来日は、国際色豊かな天平文化に一層の彩りを与える特筆すべき出来事だった。
 インドのバラモン階層の出身だったために婆羅門僧正(ばらもんそうじょう)とも呼ばれた菩提僊那は、天平勝宝4年(752)4月9日の東大寺廬舎那大仏の供養に際して開眼の導師をつとめたことから、後世において聖武天皇および良弁(ろうべん)・行基(ぎょうき)とともに大仏造立に功のあった四聖の一人に数えられた。
 大仏開眼導師という晴れの舞台に立つことになったのも、仏教誕生の聖地であるインドからはるばる来日したという事実が少なからず考慮されたのだろう。
 聖武天皇遺愛の品々を廬舎那大仏に献納する際に作成された『国家珍宝帳』の願文(光明皇后作)にも、「声は天竺に籠めば、菩提僧正は流砂を渉りて遠く至り」とその名を留めている。
 正倉院宝庫には、大仏開眼供養において菩提僊那が実際に使用したといわれる筆が伝存しており、これ以外にも菩提僊那ゆかりの品々が少なからず含まれている可能性がある。

 さて、菩提僊那の没後に弟子によって作られた『南天竺婆羅門僧正碑并序』によれば、菩提僊那は「尤も呪術を善く」し、弟子たちもそれを修学したとされる。
 この「呪術」とは、現世利益を目的として陀羅尼(だらに。呪文)の読誦や祈祷などを行なう密教的な修法を指すものと考えられる。
 曼荼羅(まんだら)を中心とする体系的な密教が未だ伝わっていなかった奈良時代においても、十一面観音や千手観音などの密教尊を本尊とする陀羅尼信仰に基づいた呪法がすでに広く流布していた。
 今日こうした奈良時代に盛行した密教を、平安時代初頭にもたらされた体系的な密教と区別する意味で、古密教あるいは雑密(ぞうみつ。雑部密教)と呼んでいる。
 菩提僊那が善くしたという古密教の具体相は史料の制約もあって不明な点が多いものの、生前に観音信仰に篤く帰依するとともに「如意輪菩薩像」をつくったといわれ、また弟子に如意輪陀羅尼を誦持するものがいたことは奈良時代にひときわ重視された古密教経典である『如意輪陀羅尼経』との関連において極めて興味深い。
 奈良時代における代表的な観音像である石山寺の本尊像や、石山寺像と同じ像容だった東大寺大仏の脇侍観音像は『如意輪陀羅尼経』に基づく造像だった可能性が高く、同経の盛行の様が偲(しの)ばれる。
 そして、その流布に菩提僊那が果たした役割は小さくなかったように思われるのである。
 本発表ではこの『如意輪陀羅尼経』という古密教経典に着目しつつ、菩提僊那の周辺で行なわれた密教的観音像の造像実態に可能な限り迫ってみたい。


菩提僊那と古密教の美術

【 菩提僊那年譜 】
慶雲元年     (704)  誕生
天平5年      (733)  遣唐使多治比真人広足の要請により渡日
天平8年      (736)  5月、道璿(どうせん)・仏哲らとともに大宰府に帰着
  同                8月、摂津の国に着き、行基に迎えられる
  同               10月、道璿らとともに大安寺僧坊に止住
天平14年     (742)  秦大蔵喜達を優婆塞に推薦する
天平勝宝3年   (751)  僧正に任じられる
天平勝宝4年   (752)  東大寺大仏供養において開眼導師をつとめる
天平勝宝6年   (754)  日本に到着した鑑真を慰問する
天平勝宝8年   (756)  聖武天皇の七七忌に『国家珍宝帳』を作製す
天平宝字2年   (758)  孝謙天皇光明皇太后に尊号を奉る
天平宝字4年   (760)  2月、大安寺にて遷化、57歳
  同               3月、登美山(霊山寺)に葬られる
神護景雲4年   (770)  大安寺僧修栄「南天竺婆羅門僧正碑并序」作る   


 菩提僧正こと菩提僊那は、大仏開眼時の導師となりました。
 菩提僊那は760年に没したのですが、没後10年の770年に、弟子による碑文が残っています。

 菩提僊那はインド人ですが、ベトナム人とみられる仏哲、中国人の道璿とともに渡日し、大安寺を中心に活動しました。

 758年には尊号を奉っています。

 開眼時に使用したと伝えられる筆が二つ残っています。
 一つは「天平筆」と呼ばれるもので、後白河院が後に使用しました。
 もう一つは、60cmほどの軸部のみが残っているもので、菩提僊那が使用したのはこちらではないか、と思われます。
(※ 石野注)
 井上靖『天平の甍』には「林邑国(安南)の僧仏哲」とあり、また、同書の注釈では、彼は「南天竺に行き、菩提僊那に学び、彼に伴われて入唐(にっとう)。また彼とともに来日し、大安寺に住して梵語の教授を行い、東大寺大仏の開眼供養に参列した」とある。 

 また、先日の特別展『重源』では、大正4年に、「天平宝物筆」(中倉35)を模造した筆が展示されていた。この天平宝物筆には、軸に「文治元年八月廿八日開眼法皇用之天平筆」と刻されているそうだ。
 文治元年というと1185年であり、後白河院が手ずから執った筆なのであろう。

 碑文には、菩提僊那は「呪術を善くす」とあります。

 いわゆる古密教についてですが、組織的な密教については平安時代に弘法大師空海が持ち帰りました。
 しかし、奈良時代にすでに、陀羅尼などが伝わっていること、十一面観音などいわゆる変化観音が伝えられていること、現世功徳の思想が現れていること、密教的呪術があったことなどから、初期的な密教は伝わっていたものと思われます。

 碑文によると、菩提僊那は、弥陀
(みだ。阿弥陀)を尊重し、観音を篤く信仰したとあります。
【 史料 】

1.『南天竺婆羅門僧正碑并序』(書き下し文)
 「僧正、華厳経を諷誦し、以て心要と為し、尤も呪術を善くす。弟子承習し、今に至り之を伝う」。

2.『南天竺婆羅門僧正碑并序』(書き下し文)
 「臨終に諸弟子に告げて云わく、吾常に〜弥陀を尊重し、観音を景仰す。〜阿弥陀浄土を造り奉るべし。又云く、吾生在之日、普く四恩のために、如意輪菩薩像を造り奉る。而して情に願わくは、更に八大菩薩像を造り、其の像に列せよ。〜弟子等、遺旨を遵し奉り、八像を厳飾す」。

3.如意輪陀羅尼経 破業障品 (大正蔵経第20巻) 

(1) 〜過現造積四重五逆十悪罪障。応堕阿毘地獄之者悉能消滅。
(2) 〜一切疾病。種種災厄魍魎鬼神。由経誦念皆得除滅。
(3) 〜聖観自在夢覚現身。〜或見阿弥陀仏。或見極楽世界。宮殿楼閣荘厳之事。或見極楽世界菩薩会衆。〜或見聖観自在所住補陀落七宝宮殿。〜蓮花化生身相端好。〜

4.如意輪陀羅尼経 壇法品 (大正蔵経第20巻)

「〜秘密如意輪陀羅尼大曼荼羅〜如意輪聖観音菩薩。〜菩薩左手執開蓮華。當其台上画如意宝珠。右手作説法図。〜円満意願明王。〜白衣観世音母菩薩。〜大勢至菩薩。〜多羅菩薩。〜馬頭観世音明王。〜一髻羅刹女。〜四面観世音明王。〜毘倶胝菩薩。是等菩薩〜」

5.如意輪陀羅尼経 誦念法品 (大正蔵経第20巻)

「〜想聖観自在誦如意輪陀羅尼〜聖観自在現身〜執金剛蔵菩薩而自現身。〜一切大持明仙皆自現身〜」。


 菩提僊那の図像としては「四聖御影」
(ししょうのみえ)「先徳図像」があり、彫刻としては上原三千代作の菩提僊那像があります。

(※ 石野注)
 菩提僊那の肖像彫刻は残っていなかったため、東大寺大仏開眼1250年法要の記念行事として2002年に造られたとのことである。
 現在、本像は本坊に安置してある。一度、間近で見せていただいたことがあるが、やはり、有り難さを感じるまでには至らなかった。
 画像は、こちらで。


 古密教に関係の深い仏像としては「如意輪菩薩」、「八大菩薩」などが挙げられ、また、大英博物館所蔵の「千手千眼菩薩図」、また、同じく大英博物館所蔵の「四観音文殊普賢図」などがあります。

 如意輪陀羅尼経は、大阪の松尾寺に伝えられています。これはもと西大寺に伝来したものとも伝えられています。
 如意輪陀羅尼経は罪を滅するとか、病気を消滅するなどの功徳があるとされ、道鏡などがよく唱えたと伝えられます。
(※ 石野注)
 道鏡は、761年(又は762年)に病気になった孝謙上皇を如意輪宿曜秘法を用いて治療し、以来寵愛を得たそうだ。

 菩提僊那は、後に弟子の喜達を優婆塞に推薦しました。

 また、如意輪陀羅尼経の壇法品における如意輪観音の図像は、左手に蓮華を持ち、右手は説法印を結んでいます。
 菩提僊那の本拠地である大安寺に伝わる木彫の仏像群は、忿怒形の観音である馬頭観音や不空羂索菩薩など、密教系のものが多く、碑文でいう八大菩薩、八観音と関連が深いようです。

(※ 石野注)
 『日本の秘仏』(平凡社コロナブックス)によると、大安寺には九体の木彫仏が伝えられているが、いずれも檜の一木造りで天平時代後期と考えられるとのことだった。
 同書には「秘仏・馬頭観音立像(重要文化財)〜一説には千手観音といわれている」とある。
 確かに掲載された写真を見る限り、「馬頭」は付いていない。
 おそらく、「歯を剥きだし、目を吊り上げた忿怒(ふんぬ)の形相」から馬頭観音と考えられたのであろう。

 良弁を開祖とする石山寺に伝わる如意輪観音像は、平安時代のものですが、左足を踏み下げた形をとっています。また、補陀落山を示す岩座の上にあります。

 また、岡寺に伝わる如意輪観音像も同様に二臂です。

 石山寺には本尊の如意輪観音像と、脇侍の金剛蔵王像、執金剛神像が安置されていますが、これらは如意輪陀羅尼経誦念法品にいう聖観自在菩薩、執金剛蔵菩薩、一切大持明仙と一致します。
 一般に、忿怒の形相をし、右足、右手を高く上げた像容の仏像を蔵王権現といいますが、石山寺の金剛蔵王像がその原形ではないかと思われます。 


(※ 石野注)
 Wikipediaによると、石山寺の木造如意輪観音半跏像は重文で、33年に1度しか公開されない秘仏で、平安時代の作。如意輪観音は六臂のものが多いが、本像は二臂で岩の上に直接座す、とある。
 また、『石山寺縁起』によると、聖武天皇の発願で天平19年(747)、良弁が聖徳太子念持仏の如意輪観音をこの地に祀ったのが開山のいわれだそうだ。

 岡寺の如意輪観音像については岡寺ホームページで「ご本尊」のコーナーを。なお、同HPによると、本像のような二臂で左足を踏み下げた形の如意輪観音像は珍しく、類例は石山寺と、東大寺大仏の脇侍菩薩くらいしかないそうだ。


 また、朝護孫子寺に伝わる『信貴山縁起絵巻』の尼公巻には奈良時代の大仏が描かれています。その絵巻の右端の方では、何やら意味ありげに仏像の左足だけがのぞいています。
 その仏像は如意輪菩薩ではないでしょうか。

(※ 石野注)
 信貴山縁起絵巻については、平群町(へぐりちょう)のHPにて。一番下に大仏を描いた場面が載っている。残念ながら、足だけのぞいた部分は載っていない。岡寺HPにいうような、左足を踏み下げた形なのだろうか。

 少し前に大仏殿に行ったのだが、現在の如意輪菩薩の左足がどうだったかは記憶にないし、その時撮った写真を見てもよくわからない。

 





 どうもお疲れ様でした。

 
  

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