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(No83) 正倉院学術シンポジウム2006 その10 全体討論 聴講記 

 2006年10月29日(日)に開催された正倉院学術シンポジウム2006は、春日大社「感謝・共生の館」にて午前9時より、梶谷亮治奈良国立博物館学芸課長の司会進行により、湯山賢一奈良国立博物館長及び葉室頼昭春日大社宮司の挨拶を経て開会された。

 全8本の講演・発表が終わり、最後の全体討論・質疑応答となった。



 本日のプログラムは第一部は連続講演ということで「正倉院宝物の成立」、「唐代文物と正倉院」、「統一新羅と奈良時代の仏教」、そして昼休みをはさんで「聖武天皇〜その出家への道」という4本の講演がそれぞれ50分という持ち時間で行なわれた。

 また、第二部は「研究発表と討論会 テーマ:正倉院ゆかりの人物と奈良時代の仏教文化」ということで「正倉院宝物と鑑真和上」、「国家珍宝帳について」、「奈良国立博物館蔵刺繍釈迦説法図の主題と図像」、「菩提僊那と古密教の美術」という4本の研究発表がそれぞれ25分の持ち時間で行なわれた。

 当初予定では、午後4時から5時まで全体討論ということであった。
 全体で1時間ほど遅れ気味であったが、最後、各講師が列席され、短い時間ではあるが、会場からの質疑応答に答えることとなった。

 


質問第1 「知識寺」というのは、どんな寺であるのか?

回答者 華厳宗管長・東大寺別当 森本公誠 氏 (「聖武天皇〜その出家への道」)

 平安時代までは存在したのですが、廃寺となりました。
 現在は神社になっているようです。
(※ 石野注)
 柏原市タウンガイドというHPに「石(いわ)神社」という場所一帯が、知識寺址と書かれている。

 


質問第2 新羅では、なぜそんな仏(降魔触地印を結ぶ仏像)が流行したのか?

回答者 韓国・弘益大学校教授 金理那 氏 (「統一新羅と奈良時代の仏像」) 

 降魔触地印というのは、菩提樹の下で瞑想していた釈迦が魔物の誘惑を退け悟りを開いた時の印です。
 中国には龍門や敦煌、雲崗などに石窟がありますが、そこで釈迦の一生を表す一場面として降魔触地印の場が描かれることがあります。

(※ 石野注)
 釈迦の一生の各場面というのが「釈迦八相」などといわれるもので、「降魔」の場面は、私のサイト仏画ゼミのここをご参照いただきたい。

 唐代の『大唐西域記』にはブッダガヤの寺で降魔触地印の仏像を拝観したという記述があります。
 また、玄奘の後にインドに行った義浄が金剛座の像を持ち帰りました。

 7世紀末には、次のような伝説が生まれました。華厳経に記されているのですが、釈迦が降魔触地印を結んで、いろいろな場所で説法をしたというものです。

 7世紀末から8世紀初めにかけて、唐では降魔触地印の仏像が流行しました。そうした降魔触地印の釈迦は宝冠をかぶり、臂釧(ひせん)、腕釧をしており、宝冠釈迦と呼ばれます。

 四川省の石窟を早大の○○氏が調査されました。新羅において、華厳経の流行と中国の影響が認められます。
 新羅では広く坐像の一タイプとして流行したので、釈迦以外でも降魔触地印を結ぶ例もあります。


質問第3 シルクロードを通じて天皇家にこうした宝物が渡ったルートは?土産か?天皇が注文したのか?

回答者 神戸女子大学教授・元宮内庁正倉院事務所長 米田雄介 氏(「正倉院宝物の成立」)

 非常に難しい質問です。
 正倉院宝物の中には、遣唐使が持ち帰ったものもあれば、唐・新羅からの贈り物もあると考えられます。

 また、鏡の中には、天皇が発注したものがあるという説もあります。



質問第4 『国家珍宝帳』の「付箋」は、どんな意味を持っているのか?

回答者 同 米田雄介 

 『国家珍宝帳』には「除物」(じょもつ)という付箋が7箇所についています。

 いったん納めたものを後に、光明皇后が取り出したものについて「除物」という付箋が付けられています。
 皇位継承に関わるものか、重要なものか。それとも、特に聖武天皇が愛された思い出深いもので、いったんは納めたものの、やはりどうしても、これだけは手元に置いておきたいと思い返したのかもしれません。

 このほか、特に武具関係では天平宝字年間、藤原仲麻呂恵美押勝)の乱が起きた際、それを鎮圧するため正倉院に保管されていた武具が大量に持ち出されました。



質問第5 親孝行という概念が現れるのは、光明皇后が初めてか?

回答者 奈良国立博物館企画室長 稲本泰生 氏 (「奈良国立博物館蔵刺繍釈迦説法図の主題と図像」)

 親孝行とか報恩といった自然な感情は当然、以前からあったでしょうし、儒教倫理も8世紀には存在していました。
 太子を廃する時には、孝を実践しているか否かが判断基準となったりしました。

 ただ、こうした考え方が「繍仏」とどうリンクするかは、なお研究の余地があります。

 なお、興福寺という名の寺は、中国西安にもあります。また、玄奘三蔵がいたぜんぷく寺は、唐の太宗が母の恩に報いるため建立した寺院です。

(※ 石野注)
 確か、「玄奘三蔵のいたぜんぷく寺」とか、「唐の太宗が母のために・・・」と聞いた気がするのだが、大薦福寺は則天武后が夫高宗のため建立した寺。
 また、『隋唐帝国』(著:布目潮フウ・栗原益男。講談社学術文庫)には、「大慈恩寺は〜高宗が〜母文徳皇后追善のために復興したもので、インドから帰朝した玄奘法師がここの上座となった」とある。
 どうも根本的に聞き違えていた気がする。

  長安にある寺については、私のサイトの「るるぶ・長安」にて。 




質問第6 鑑真は何故唐招提寺に行ったのか?体よく都の中心から遠ざけられたようにも思えるのだが?

回答者 奈良大学教授・前宮内庁正倉院事務所長 三宅久雄 氏 (「正倉院宝物と鑑真和上」)

 唐招提寺が創建されたのは759年。聖武天皇が亡くなり、孝謙天皇が即位したのが758年。

 鑑真は、旧来の仏教と相克関係にありました。鑑真を支えていた聖武天皇が亡くなり、バックボーンを失ったとは言えると思います。

 



質問第7 聖武天皇は、どのように評価されるのか?

回答者 前掲 森本公誠 氏

 聖武天皇の治世は、前半は多難でした。
 災異思想や「予言」という思想は中国では「良くない」として廃れましたが、聖武天皇は、そうした考え方を強く持っていました。

 また、聖武天皇は後半生は病弱だったので、健康であれば考えないことも考えたことと思います。

 しかし、聖武天皇は非常に幸せな生涯だったと思います。また、そのことを光明皇后にも伝えたことでしょう。

 聖武天皇を妻として支え続けた思いが、『国家珍宝帳』の願文に現れていると思います。

 後世においては、出家は末法思想や逃避が原因ですが、聖武天皇の出家は報恩がメインとなったものです。

 聖武天皇は、「大臣を奴にするも、奴を大臣にするも任せる」と言いました。これはすごい発想だと思います。



 どうもお疲れ様でした。

 
  

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