移動メニューにジャンプ

(No81) 正倉院学術シンポジウム2006 その8 「奈良国立博物館蔵刺繍釈迦説法図の主題と図像」 聴講記 

 2006年10月29日(日)に開催された正倉院学術シンポジウム2006は、春日大社「感謝・共生の館」にて午前9時より、梶谷亮治奈良国立博物館学芸課長の司会進行により、湯山賢一奈良国立博物館長及び葉室頼昭春日大社宮司の挨拶を経て開会された。

 7番目の講演は、奈良国立博物館企画室長:稲本泰生氏による「奈良国立博物館蔵刺繍釈迦説法図の主題と図像」である。

 レジュメの内容は白枠内に示す。



奈良国立博物館蔵刺繍釈迦説法図の主題と図像 

 京都・勧修寺に伝来し、今日では奈良国立博物館の所蔵に帰している国宝・刺繍釈迦説法図の製作地を巡っては中国か日本かという議論があり、制作年代についても研究者の一致をみていないが、7〜8世紀の東アジアが生んだ繍仏の最高峰として、仏教美術上きわめて重要な遺品であることは衆目の一致するところであろう。

 本図においては倚坐の如来像と、これに向き合う1人の唐装の貴婦人を中心に、画面が構成されている。
 その主題については諸説があったが、釈迦の「忉利天説法図」である蓋然性が最も高い〜。

 釈迦の母である摩耶夫人は、釈迦を産んでわずか7日後にこの世を去り、忉利天上に転生したと伝えられる。
 釈迦は成人して悟りを開いた後、なき母の恩に報いんがために忉利天に昇って、説法を行ったという。

 地上では長らく釈迦の姿を見ることができず、カウシャーンビーのウダヤナ(優塡王)は如来を慕う余り、病をえた。
 そこで群臣の提案によって天上に工人が派遣され、檀木を刻んで如来の姿が克明に写しとられた。できあがった仏像を拝して王は歓喜し、その病も癒えたという。

 『増一阿含経』などにみえる以上の物語は、仏教教団が「仏像の起源」について信徒たちに示した公式見解(もちろん、史実ではない)として著名であり、7世紀後半の中国では、東都洛陽を中心に、この史上最初の仏像のコピーであることを標榜する「優塡王像」の銘を伴った倚坐形式の釈迦像が大量に造立されていた。
 これと基本的に形式を同じくする如来像はわが国の7世紀後半から8世紀初頭にかけての作例の中にも認められるが、その特徴的な形式は、本繍仏の主尊においても忠実に再現されている。

 この「優塡王像」の図像の典拠となったのは、645年に中国に戻った玄奘三蔵がインドからもたらした、カウシャンビーの現地にまつられていた瑞像を写した檀像であった蓋然性が最も高い(ただし論証は困難であり、他の可能性も想定される)が、ともあれ「優塡王像」は忉利天上の釈迦の姿を写した像と認知されていたのであり、この形式を備えた釈迦像と向き合う同繍仏中の女人を、摩耶夫人その人であると考えることで、同図全体の主題を整合的に解釈することが可能となる訳である。


 聖武天皇の四十九日法要に光明皇后が東大寺に献じた宝物のリストが、本日様々な講演で触れられている『国家珍宝帳』です。

 その光明皇后が、大仏開眼(天平勝宝4年=752)に18年先んじる天平6年(734)、母である橘夫人(たちばなぶにん。橘三千代=たちばなのみちよ)の一周忌に建立したのが興福寺西金堂です。その本尊は丈六釈迦如来で、この本尊のほか八部衆や十大弟子の像などが安置されました。

  『興福寺流記』というのは、平安末期の書物で、奈良時代の資材帳を写した部分などは信用できるのですが、後に写本した時に挿入された内容はあまり信用できません。
 ここにガンダーラ天竺の仏師が「釈迦を造るべき」と言ったというような話が出ているのですが、これについては後に触れます。

 それでは、京都の観修寺に伝来した「刺繍釈迦説法図」についてお話します。

 この図はいわゆる「忉利天説法」(とうりてんせっぽう)を描いたものとする意見が有力です。忉利天説法というのは、レジュメにもあるように、釈迦が悟りを得てから、生母が昇天したとされる忉利天で説法をしたというお話です。


(※ 石野注)
 「刺繍釈迦説法図」の図像としては、ここや、奈良国立博物館HP名品紹介で。

 「忉利天説法」については、レジュメに書かれている通りであるが、私の仏画ゼミ聴講記では、釈迦が忉利天説法を終え、下界におりてくる時の階段、三道宝階を描いた仏画について少し触れているので、ご参照いただきたい。


 この「刺繍釈迦説法図」については、製作地は日本か中国か?とか、制作年代はいつ頃か?という点について昔から議論がありました。
 年代は7世紀から8世紀で、東アジアの繍仏の最高峰であると言えます。親孝行、恩返しがテーマとなっているのですが、この点も後に触れます。

(※ 石野注)
 製作地については、講演の最後の方で「高宗則天武后は官営の刺繍工房を持っていた。この製作技術の高さからみて、こうした7世紀後半頃の中国の(官営)工房ではないか」とおっしゃっていた。



 本図について考える上で、光明皇后ほか藤原氏の仏教信仰にも大きな関連があります。

 また、法隆寺金堂壁画と本繍仏は諸尊の姿が近いと言えます。むしろ同じものを反転したかと思えると言ってよいほど、似ています。
 様式年代や体のライン(肩をはる。腰しぼる)については、670年〜8世紀初め頃までの中国の初唐時代の流れをくむと言ってよいでしょう。
 もう少し詳細に見ると、本繍仏の方が法隆寺より中国的といえます。繍仏の釈迦の背は「六花」といって尖った花弁のような形になっていますが、法隆寺のそれはより日本的で「植物文」で飾られています。

 本図は如来倚坐像と唐装の貴婦人が中心となっています。この女性は誰なのでしょうか?釈迦の母なんでしょうか?
 本図の主題を「忉利天説法」と考えるならば、釈迦と相対する女性といえば釈迦の母と考えるのが自然です。

 「忉利天説法」に関連しては、「優塡王造像説話」があります。これはレジュメにあるように、カラシャーンビーのウダヤナ王(優塡王)が天上で工匠に檀木で釈迦の姿を刻ませたというもので、増壱阿含経に書かれています。
(※ 石野注)
 法隆寺金堂壁画については、東京大学HPのここで。

 こうした優塡王造像の流れをくむ仏像が、650年から680年頃にかけて大量生産されました。
 龍門石窟における倚坐像の特徴として、「偏袒右肩」
(へんたんうけん。僧衣、袈裟を右肩肌脱ぎで着る形。両肩を覆う形は通肩=つうけんという)、また、肩が張り、腰はしぼった姿です。
 また、右足すね部を上衣の裾が斜めに横切る形が特徴です。

 正暦寺伝釈迦如来像や、長谷寺銅板もご参照ください。

(※ 石野注)
 長谷寺銅板法華説相図については、たとえば長谷寺という名のHPに出ている。また、長谷寺公式HPのここでも。 
 しかし、優塡王像と長谷寺銅板との関係は、ノートにメモが残っているので書いたものの、実際に関係があるのかどうかよくわからない。



 この優塡王像の典拠としては、玄奘三蔵が天竺から持ち帰った7体の仏像の中の刻檀仏像であると言われています。この持ち帰った仏像については、『大唐西域記』巻12に記載されています。


(追加資料)
『大唐西域記』巻12

「〜金佛像一軀。通光座高尺有六寸。擬摩掲陀國前正覺山龍窟影像。金佛像一軀。通光座三尺三寸。擬婆羅痆斯國鹿野苑初轉法輪像。刻檀佛像一軀。通光座高尺有五寸。擬憍賞彌國出愛王思慕如来。刻檀冩眞像刻檀佛像一軀。通光座高二尺九寸。擬劫比他國如来自天宮降履寶階像。銀佛像一軀。通光座高四尺。擬摩掲陀國鷲峯山説法花等經像。金佛像一軀。通光座高三尺五寸。擬那掲陀曷國伏毒龍所留影像。刻檀佛像一軀。通光座高尺有三寸。擬吠舎釐國巡城行化像。〜」

 
(※ 石野注)
 「7体」ということなので、会場で配られた資料で仏像に関する所を太字で示した。

 鞏(きょう)県石窟には優塡王像が残っており、衣が足にまとわりつくような姿となっています。
(※ 石野注)
 「足にまとわりつく」感じというのが、上記にあるすねの部分を上衣の裾が斜めに横切るというデザインのことなのであろうか?

 私のノートには、あと「グプタ式背障装飾」という字句がメモってあるが、内容はよく覚えていない。 








奈良国立博物館蔵刺繍釈迦説法図の主題と図像(続き) 

 では、なぜこのような図像が生み出される必要があったのか。以前行なった考察では、その思想的背景について十分な説明に到達することができなかったが、その後の検討から以下のような展望を得るに至った。
 7〜8世紀の中国では「子は父母を拝さねばならない」、「子は父母の拝を受けてはならない」という、儒教倫理にあっては当然の義務を、僧尼に対して課すべきか否かという問題をめぐって盛んに議論が戦わされていた。
 かかる状況下、仏教側は孝道を蔑ろにしていないことをアピールする必要に常に迫られており、その中で「釈迦の母に対する説法」が仏教における孝の実践の最たるものの一つと位置づけられたことが、本図成立の最大の要因となっていると考えられるのである。

 今回の発表では、父母への孝養に対する仏教側の理解に注目することで、7〜8世紀東アジアにおける儒仏交渉史の一断面を示し、本図の歴史的な位置づけを考えてみたい。
 


(追加資料)
3.唐代仏教における儒教倫理との葛藤と「釈迦の父母への孝養」

『梵網経』巻下「出家人法、不向国王礼拝、不向父母礼拝、六親不敬、鬼神不礼」

※ 僧尼の拝君親(のうち拝親)をめぐる動向

詔勅(1)「僧尼は父母の拝を受けてはならない」顕慶2年(657)2月発布→受け入れられる。
詔勅(2)「僧尼は父母を拝さねばならない」貞観5年(631)正月発布→貞観7年(633)に撤回
龍朔2年(662)6月8日付け詔勅発布→大論争を惹起。道宣ら猛反対→やがて撤回

※ 道世『法苑珠林』第50報恩篇
「又仏昇忉利天為父母説法経云〜」、「摩耶夫人聞已乳自流出、若審是我所生悉達多者。当令乳汁直至於口。作此語已両乳直出、猶白蓮華。而便入如来口中。摩耶見喜踊躍怡悦。〜」

※ 善導『観無量寿経仏経疏』序分義
「又仏母摩耶、生仏経七日已即死、生忉利天。仏後成道、至四月十五日、即向忉利天、一夏為母説法。為報十月懐胎之恩。仏尚自収恩孝養父母。何況凡夫而不孝養」

※ 「金棺出現」と「父王(浄飯王)の棺かつぎ」
※ 法琳『辯正論』巻六 内忠孝無違指六
「曁乃母氏降天、剖金棺而演句。父王即世、執宝床而送終。智度論云。浄飯王終、仏自執縄床一脚、至闍維処、示於後世一切衆生報生養之恩也。孝敬表儀、茲亦備矣」

※ 『大唐西域記』巻六 拘尸那掲羅国
「慈母摩耶自天宮降、至双樹間。如来為諸不孝衆生、従金棺起、合掌説法」

 初唐期の礼教においては、「僧尼は親を拝すべきか」ということが儒教との関係で大きな問題となりました。

 かつて、「僧尼は父母の拝を受けてはならない」という詔勅が顕慶2年(657)2月に出され、仏教界では特に問題なく受け入れられました。
 例えば、『梵網経』においては、はっきり「出家人は父母を礼拝せず」と明記されているのです。

 一方、それに先立ち、「僧尼は父母を拝さねばならない」という詔勅が貞観5年(631)正月に発布されたのですが、633年に撤回されました。
 それと同じ内容の詔勅が龍朔2年(662)6月8日付けで出されたのですが、道宣らの猛反対にあい、やはり撤回されることになりました。

 しかし、儒教が支配的になった状況では、仏教が生き残っていくためには、仏教も父母への孝を蔑ろにしていないということをアピールする必要が出てきました。そのため、7世紀後半頃から、釈迦も父母に孝養を尽くしていたということが主張されるようになってきました。

 そこで大いに活用されたのが、釈迦が、悟りを開いた後に、自分を産んでわずか七日でこの世を去った母のため、母が昇天した忉利天におもむき説法をしたという「忉利天説法」なのです。
 道世『法苑珠林』第50・報恩篇や善導『観無量寿経仏経疏』では、釈迦は自分を産んでくれた母の恩に報いるため、忉利天で説法をしたと書かれています。

 また、法琳『辯正論』や『大唐西域記』では、父浄飯王の葬儀の時、釈迦が自ら棺をかついだとか、釈迦入寂の際、忉利天より駆けつけた母摩耶夫人のために大神通力を発揮して棺の中で起き上がり、説法をしたという「金棺出現」について書かれています。 

 「釈迦金棺出現図」というのは平安仏画の最高傑作ですが、だいたい7世紀後半頃から、仏画に「金棺出現」というテーマが描かれるようになったのです。
 例えば、天授3年(692)銘の、大雲寺に則天武后が寄進した仏画があり、現在では山西省博物館に所蔵されていますが、そこにも「金棺出現」の場面が描かれています。
(※ 石野注)
 「釈迦金棺出現図」については、京都国立博物館HPのここで。国宝としてよくHPに取り上げられており、ここここ、ここでなど。

 また、京博の「美のかけはし」という展覧会で実物を観た時の感想は私のサイトのここで。

 則天武后が寄進したというのが仏画か、仏像的なものか、よく覚えていない。(一応、上記では仮に「仏画」と書いたが)


 



奈良国立博物館蔵刺繍釈迦説法図の主題と図像(続き)

 ところで『興福寺流記』西金堂の条には、以下のような記事がみえる。
 ガンダーラ国の王が、生身の十一面観音の姿を写したいとの願いを抱いて祈念していたところ、「生身の十一面観音を拝したいのなら、東海日本国の聖武王后の光明女の姿を写しなさい」という夢告を受けた。
 夢から覚めた王は願を発して巧匠門道師を和国に派遣し、師は天平年中に来朝した。
 その時光明皇后は天皇に「母橘夫人の一周忌にあたり、天竺の巧匠を雇って阿弥陀像を造立したい」と奏し、天皇もこれを認めたが、天竺の巧匠は「釈迦像を造るべきです。釈尊は忉利天に昇って、母の恩に報いられたからです」と言った。
 后は仏師門導師の言葉に感じ、釈迦像を刻彫させた。像が完成すると眉間から光明が放たれたため、白毫を造る必要はなかった。堂を建立し、天平6年正月11日、400名の僧を屈請して供養が行なわれた。
 僧侶たちが身につけた袈裟は、全てガンダーラ国から送遣されたものであった。これが今の西金堂の釈迦像である。(後略)

 この話自体は後世与えられた伝説にすぎず、また奈良博の繍仏を光明皇后の事蹟と結びつけるだけの根拠も全くないと言わねばなるまいが、「忉利天における、母に対する釈迦の説法」というテーマが、日本においても相当の影響力を持っていたことを示す好例として興味深い。

 発表ではこの物語のわが国における受容のあり方についても、若干の考察をめぐらせてみたい。

 
(追加資料)
4.「釈迦の父母に対する孝養」物語の日本における受容をめぐって
※ 草創期興福寺の造営経過

※ 興福寺西金堂の造営経過をめぐる『興福寺流記』所引『宝字記』の文言
『興福寺流記』
「一 西金堂一宇。〜寶字記云。〜
西金堂釋迦。乾陀羅國王。有奉冩生身十一面観音願。致祈念之間。夢云。欲拝生身十一面。可冩東海日本國聖武王后光明女之形云云。王夢覚之後。為遂其志願。造巧匠門道師於和國。天平年中来朝。于時光明皇后奏天皇云。奉為先妣従一位橘氏忌日。雇天竺巧匠。欲造阿弥陀像。天皇聴后奏。天竺巧匠申云。可造釋迦像。登忉利天。殊報母恩故也。后感佛師門導師之詞。刻彫釋迦像。造畢已後。自尊像眉間放光明。仍不鏤眉間。殊即建堂安佛。以天平六年正月十一日。屈四百口僧侶成供養。口別施納(衲?)袈裟一帖。此袈裟。乾陀羅國送遣。〜」

同「〜又寶字記云。〜永言追孝。〜」

※ 興福寺五重塔初層南面の「釈迦浄土変」
『興福寺流記』
「一 五重塔一基。〜安置佛像者。〜寶字記云。〜南方爵釋迦佛土変。釋迦佛像一軀。脇仕(侍)菩薩ニ軀。〜淨飯王像一軀。〜摩耶夫人形一軀。〜」 

※ 興福寺南円堂燈籠羽目板の文章
(第一面)
「銅燈壱臺銘并序
弘仁七載歳次〜」
(第四面)
「〜更昇忉利示以崇親〜」

 
 さて、こうした「釈迦の父母に対する孝養」という概念は、どのようにして日本に入り込んでいったのでしょうか。
 その過程を、草創期における興福寺伽藍の造営経過や本尊の種類で見ていってみましょう。

 興福寺の中金堂は藤原不比等の一周忌である養老5年(721)までに建立されました。本尊は丈六の釈迦如来です。
 一方、東金堂の本尊は薬師如来です。


(※ 石野注)
 以前興福寺で購入したガイドブックによると、東金堂は神亀3年(725)、聖武天皇元正太上天皇の病平癒を祈念して建立したとある。
 病を治すためだから、本尊が「薬師」如来というのは理屈に合っている。



 西金堂は、先ほども述べたように光明皇后が母橘夫人の供養のため建立しました。本尊は、釈迦、薬師・・・と続いたのですから、今回は阿弥陀如来にすればちょうどよいように思われます。
 それなのに、なぜ中金堂の本尊と重複する釈迦如来が本尊として選ばれたのでしょうか?

 そこには、レジュメにあるような説話が背景になっているというのです。
 すなわち、ガンダーラ国王の夢で、光明皇后は観音様の生まれ変わりだとお告げがあった。これは、まあ光明皇后へのお世辞でしょう。
 そして国王に命じられて造仏の名匠が日本に遣わされた。光明皇后は、その名匠に母の供養のため阿弥陀如来を造立してほしいと願ったが、彼は、釈迦は母の恩に報いるため忉利天説法をしたのだから、親孝行なら阿弥陀じゃなくて釈迦であるべきだと言った。それももっともだと感じたので、西金堂の本尊は釈迦如来となったと言う訳です。

 この他にも『興福寺流記』には「永言追孝」といった儒教の言葉が書かれています。

 また、『興福寺流記』には興福寺五重塔の初層南面の安置仏について書かれていますが、本尊としての釈迦如来のほか、浄飯王像と摩耶夫人像の名が見えます。
 釈迦と、その父母の像が入っているというのは珍しいケースです。

 さらに、興福寺南円堂燈籠の羽目板には第一面に弘仁七年(816)とありますが、第四面には忉利天に関する字句が見えます。


(※ 石野注)
 この興福寺南円堂燈籠火袋扉は国宝で、食堂(じきどう)址に建てられた国宝館内に展示してある。



 こうしたいくつかの事例から考えると、藤原氏の中には忉利天説法を通じ親孝行の思想があったと考えられますし、当時の日本人が、この繍仏を眺めた時、これは忉利天説法を描いているのだと理解していたのは間違いないだろうと思われます。

 







 どうもお疲れ様でした。

 
  

inserted by FC2 system