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(No71) 俊乗坊重源(1121〜1206)について 東大寺 筒井寛秀長老 その1 

 表題の講座を聴いてきました。では、そのレポートを。
 

 
(左写真で、右端の背の低い方が筒井長老)

  本講座は、重源上人800年御遠忌法要関連事業の一環。

 場所は東大寺南大門横の金鐘会館。

 以前にレポートした「大仏様」の講演に続いてのものである。


 さて、講師の筒井長老は司会の紹介の後、演壇にあがられたが、しばらく口をモゴモゴさせるばかりで言葉が発せられない。

 失礼ながら、「大丈夫かな?」といささか心配になったところで、やおら講演は始まった。



 昨年は公慶上人の遠忌法要でしたが、今年は重源上人の800年御遠忌です。
 重源上人は治承四年に焼失した東大寺を再興されました。その前半生はよくわかっていません。
(※ 石野注 筒井長老のレジュメによると、東大寺が炎上したのは平安時代末で、大仏開眼から428年目。
 重源が東大寺復興造営の朝命を受けた時、彼は61歳)

 彼の伝記は『南無阿弥陀仏作善集』
(なむあみだぶつさぜんしゅう)という書物です。
 彼は自分のことを南無阿弥陀仏と呼んでいました。また、弟子たちにも阿弥陀仏号という別名をつけました。

(※ 石野注 これが私が鑑賞記でいったところの「青春アミーゴならぬ重源阿弥号」である)

 このほか、重源上人に関する史料としては、没後100年のちに書かれた『元亨釈書』(げんこうしゃくしょ)『播磨浄土寺開祖伝』があります。

 彼は藤原末期の保安二年(1121)、武官の家に生まれました。俗名を刑部左衛門尉重貞
(ぎょうぶさえもんのじょうしげさだ)といいます。

 13歳の時、京都醍醐寺で出家しました。17歳の頃は四国の真言霊場で修行し、19歳の頃は大峰、熊野、葛木、白山、立山など各地の霊峰を巡ったようです。


 仁安二年(1167)、後白河上皇の頃、入宋しました。
 高野山延寿院の鐘銘には「入唐三度上人重源」と刻まれています。
 また、九条兼定が書いた『玉葉』という日記には、本人が渡唐三か度と自称したとの記述があります。
 ところが、栄西と一度宋に渡ったのは記録も残っているのですが、あと二回については、詳細がよくわかっていません。もっと言えば、実際に渡ったのかどうかも含めて不明です。

 栄西は備中一宮吉備津宮に生まれました。重源と仲が良く、重源の臨終にも立会い、鐘楼の勧進職を引き継ぎました。

 重源はもともと東大寺とは何の関係も持っておりませんでした。
 『黒谷源空上人伝』
(くろだにげんくうしょうにんでん。浄土宗関係の記録)『源平盛衰記』(げんぺいせいすいき)などには、東大寺復興の責任者に後白河院法然を指名したが、法然は、自分は念仏の勧進であり、造寺造仏の勧進はできないと辞退した。そして、代わりに重源を推挙したとあります。

 知恵第一の法然、支度第一の重源という言葉がありますが、当時から重源は有能な実務家として知られていたようです。
 これが重源が「結縁勧請の聖」
(けちえんかんじょうのひじり)と呼ばれる所以です。

 なお、『東大寺造立供養記』には、異説が残っています。
 そこでは、重源が治承五年(1181)2月、霊夢により東大寺に参詣し、自分で東大寺復興の勧進職に立候補するためにやって来て、造東大寺長官藤原行隆にアピールしたと書かれています。

 ともあれ、養和元年(1181)、重源は東大寺造営の宣旨を賜り、勧進上人になりました。


 1181年、東大寺は螺髪(らほつ)から再現されることになりました。
 当時の日本人、とりわけ、当時の日本の鋳物師
(いもじ)にこれだけの巨大仏を再現することができるのかを尋ねたところ、鋳物師自身からは悲観的な回答しか得られませんでした。

 そこで重源はたまたま日本に来ていた宋の鋳物師陳和卿
(ちんなけい)を登用したのです。
 寿永二年(1183)2月11日には右手が、同年4月19日には頭部の鋳造が完成しました。

 文治元年(1185)4月頃、大仏尊像の修造が完成しました。
 同年8月28日、後白河院の行幸を得て開眼式が執り行われました。
 本来開眼するのは、東大寺別当の職にある者が執り行うべきです。しかし、式当日、当時の別当はいつまでたっても、会場に姿を現しません。
 しびれを切らせて後白河院が待ちかねて、自ら大筆を執り、大仏に開眼したと伝えられています。思うに、これは後白河院が開眼をしたがっていることを察した別当が、気を利かせてわざと遅刻したんでしょうな。


 当時の大仏は顔にしか金箔を貼っておりませんでした。金といえば奥州の砂金、当時は藤原秀衡の時代です。
 文治二年(1186)2月又は4月、重源上人は伊勢神宮を参拝し、大仏造営の祈願をしたおり、西行法師を訪ねました。
 これは、西行法師に、奥州から砂金を奉納してもらうよう頼んだのではないか、と考えられています。
 西行は源頼朝を訪ねてから奥州へ旅したと言われています。
 頼朝は、西行に銀でできた猫を与えたが、西行はそれをすぐ、その辺で遊んでいた子供にあげてしまったという話が『吾妻鏡』という書物に出ています。

(※ 石野注 西行法師が頼朝にもらった「銀の猫」をあげてしまったという話は、私が小学生の頃読んだ本にも載っていた記憶がある)

 後に砂金450両の奉納を受け、全身に金箔を張ることができたのですが、奈良時代、聖武天皇が発願した初代の大仏も全部鍍金しない内に開眼したと伝えられています。
 鎌倉時代に再興された大仏も、顔のみ鍍金して開眼を迎えたということになります。





 重源は、大仏はともかく、大仏殿が完成するか、を非常に心配していたようです。
 材木を調達することがまず大変なんですね。奈良吉野山の桧を探しましたが、良いものはありません。次に伊勢神宮遷宮に備えて良い木を用意していないか調べましたが、駄目でした。
 話は変わりますが、東大寺の管長は、管長になると伊勢神宮に公式参拝することになっています。

 同年3月23日、大仏殿造営のため周防国(山口県)を造営料として与えられ、重源は国司に任命されました。
 同年4月18日には杣
(そま)始めの式を行い、徳地町の「なめら」から切り出しました。
(※ 石野注 「なめら」って聞こえたんだが、地名なんだろうか?徳地町には滑川という川があるらしいので「なめら」とかの地名があっても不思議じゃない気がする)

 徳地町、現在は合併で山口市に編入されているのですが、今日は徳地町と呼ばせていただきます。
 柱の長さは27〜30m、短くても20〜24mが必要で、直径も1.6mくらい必要となります。
 直径18cmの縄で縛って70人がかりで引っ張って運びました。
 100本切っても使い物になる良材は10本程度しかありません。重源は良い木材を得るため、米一石の賞金を出しました。
 木材を運ぶには「さな?川」で流しました。「木津」という地名がありますが、これは奈良時代、木材を集めたことに由来します。
(※ 石野注 何せ聞き取りのメモのみなので、地名など不確かで申し訳ない。旧徳地町HPを観ると、総面積の98%が山林で、中央部を佐波川が流れ防府市を経て瀬戸内海に注ぐ・・・とあったので、多分この「佐波川」のことだと思う。
 それと、木津町のHPでも平安時代から材木の港(津)であったので木津と呼ばれるようになったとある)

 合格した木材には鉄の刻印を打ち込んで目印にしました。その刻印は阿弥陀寺に残っています。
(※ 石野注 この刻印は先日の「重源」展で展示されていた。山口県・阿弥陀寺所蔵で重文。
 撥(ばち)のような形をした鉄製のヘッドで「東大寺」という字が浮き彫りになっている。そして、そのヘッドには木製の柄が通してある。
 
最初、この刻印はちょうど金づちで釘を打つみたいに直接木を叩くのかと思っていたが、それではうまく刻めないだろう。柄を持って刻印面を木に押し当て、別の金づちでその刻印面の背を叩いて、木に「東大寺」という文字を刻み込んだものと思われる)

 佐波川は水かさが少なかったので、大きな木材を運ぶのにどうしたかと言うと水をせき止め、118ものダムを造りました。魚通しという3〜4mの導水路をうまく活用したのです。
(※ このダムを造っての水運の話は、以前の西山厚先生の講演でも聴いていた。魚通しの話はよくわからない。聞き間違いかもしれない)

 この川には「りんげ王」?水難の地という場所があり、川底に3本の木が刺さっているそうです。日照りになって水量が減ると、その木が見えたとも言います。今でも「この先に木が沈んでいる」という石碑が残っています。
(※ 石野注 ここの内容もよくわからない)




 少し長くなってきたので、ここでいったん分ける。

 どうもお疲れ様でした。

 
  

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