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(No72) 俊乗坊重源(1121〜1206)について 東大寺 筒井寛秀長老 その2 

 表題の講座を聴いてきました。では、そのレポートを・・・・・の続き。
 





 重源は材木を切り出す人たちの健康のため石風呂を作りました。石を焼いて濡れむしろ、薬草などをかぶせ、浴衣に着替えて入るものです。
 私も入ってみましたが、焼き立ての石を入れると熱くて3分と入っていられません。岸見という所のの石風呂は特に大きくて、中に10人くらい入ることができます。神経痛、打ち身、くじきなどに効きました。

 文治三年には130本ほど切り出しました。最長のものでは39mの木を切り出し、これは大仏殿の棟木に使用しました。
 国司に任命されても守護がイケズしまんねんね
(※ 「イケズしまんねんね」というのは、「意地悪するんですよね」という感じの柔らかい関西弁。真面目な口調で講演なさっていた長老が、突然関西弁を混ぜられたのが印象的)

 地頭が重源の米を盗んだりもしたようです。重源もこれには困りました。
 重源は、文治五年(1189)年に九条兼実を訪ね、「150本も切り出したが、まだ10本くらいしか届かない。こんなことでは勧進職を続けていくことはできないので、辞退させてもらいたい」と申し入れたが兼実が慰留しました。
 周防の阿弥陀寺では当時の山門や仁王、湯船が残っています。

 建久元年(1190)7月、大仏殿母屋柱二本立柱したという記録が残っています。同年10月19日には後白河法皇の臨幸により大仏殿の上棟式が行なわれました。

 建久四年(1193)3月には、東大寺造営のため、高尾の文覚上人
(もんがくしょうにん)が播磨国奉行となりました。
 また、同年4月10日には備前国、現在の岡山県を東大寺造営料として賜り、重源は国司に任命されました。
 『南無阿弥陀仏作善集』を読んでも備前時代のことはよくわかりません。現地では、大湯屋跡の池が残っている。地名でいうと、湯迫(ゆば)という地に蒸し風呂をつくったようです。少し前までは草ぼうぼうの荒地だったのですが、最近行ってみると、現在では石碑や温泉ができていました。
 瓦が出土・・・
・・・・・・・・・・時間がなくなっちゃった・・・・・。
(※ 石野注 ちょっと下を向いてメモを取っていたら、長老の声がしない。おかしいな?と思って顔を上げると、長老が衣の袖をめくって腕時計を見つめ、困ったような表情をしている。こっちもハラハラして見つめていると、ぼそっとつぶやいたのが「時間がなくなっちゃった」という言葉。私の隣に座っていた女性がおもわず「カワイイ〜」ともらしていた)



 気を取り直して、再び話し始めた長老。

 瀬戸町の万富という所に13箇所もの東大寺瓦窯址が見つかっています。瓦には「東大寺大仏殿」の刻印が施されています。
 平瓦に文字を入れる例は奈良時代からあるのですが、軒瓦に文字を入れたのは重源が最初です。
 渥美半島の伊良湖でも3箇所の東大寺瓦窯址が見つかっています。伊良湖で焼かれた瓦の刻印は「東」と「大仏殿」の二種があります。

 万富で焼いた瓦は吉井川で運搬しました。伊良湖からどう運んだかはよくわかっていません。紀伊半島をぐるっと廻ったとはちょっと考えられませんが、どうやって運んだのでしょうか。
 また、どういう風にして瓦を焼いたかもよくわかりません。

 なお、この「万富」のことは『南無阿弥陀仏作善集』にも載っていません。

 東大寺の造営のため重源は各地に、東大寺別所、高野新別所、渡辺別所、播磨別所、備中別所、周防波阿弥陀仏(周防別所)、伊賀別所という七別所を設けました。
 別所には丈六阿弥陀如来像を本尊とし、浄土堂、湯屋、鐘を備えました。別所とは、重源が諸国に派遣した勧進聖(かんじんひじり)の専修念仏の道場でもあったのです。

 建久六年(1195)3月12日、大仏殿落慶供養が営まれました。
 重源には復興造営の功によって「大和上」(だいわじょう)の位が授けられました。

 その後、重源が失踪してしまうという事件が起きました。そこであわてて、源頼朝が八方手を尽くして行方を捜索させました。高野山に行っていたことが判明し、頼朝は藤原ちかよし?という人物を出迎えの勅使として派遣しました。結局20日間ほど後に帰還したそうです。

(※ 石野注 いわゆる「燃え尽きシンドローム」だったのだろうか?)

 如意輪観音、虚空蔵菩薩という大仏の両脇侍は71日間で完成したと言われています。
 また、四天王は運慶快慶をリーダーとして106日間で完成させたと言われています。

 正治元年(1200)、南大門が上棟しました。また、回廊なども完成しました。
 建仁三年(1203)7月、南大門の金剛力士像が完成しました。金剛力士像は平成5年に大修理が行なわれ、いろいろなことが分かりました。わずか69日間で完成させたと言われていたのですが、バラしてみると30くらいの部品を組み合わせて出来ていたことが分かりました。それが驚くべき早さで完成した秘訣なのでしょう。
(※ 石野注 この辺が、私が何度も引用している柴門ふみ氏の『ぶつぞう入門』にいう「大勢の分業であっという間(69日間)に8m40もの巨像を二体作ったわけである。〜運慶と快慶とその弟子十数名を引きつれてゆけば、サグラダファミリアなんてあっという間に完成してしまうのではないか」というところ)

 同年11月30日、東大寺総供養が営まれました。この辺のことは、『明月記』などにも書かれています。

 建永元年(1206)6月5日、俊乗房重源は83歳で亡くなりましたが、61歳から22年間、東大寺復興に捧げました。

 あるアンケートで、4人に1人は定年後の人生に意義を感じないと回答したそうです。しかし、重源はいわば現代においても定年にあたる61歳から、これだけの偉業を成し遂げたのです。

 
(時間がないので、お話を)だいぶはしょりましたが、重源の61歳から83歳までのエネルギーを感じ取っていただけたら、と思います。

 どうもありがとうございました。


(※ 石野注 私のメモでは「83歳」とあるし、「61歳から83歳までの22年間」と計算も合っているので何ら違和感はなかったのだが、長老のレジュメには86歳で入寂とあった。
 ただ、長老のレジュメには「重源は、東大寺の再建に22年という長い年月を費やされた」ともある。61歳からなら25年間ではないのだろうか。総供養の年までで22年間ということなのだろうか?)

 




 長老に対して非常に失礼な言い方だが、隣に座っておられた女性の台詞ではないが、実に「可愛い」方であった。

 どうもお疲れ様でした。

 
  

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