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(No70) 「大仏様」の検証

 以前、ある講演会で「大仏様」(※ 石野注 つい「だいぶつさま」と読んでしまいそうだが、「だいぶつよう」と読む)という用語を知った。

 重源上人が東大寺を再興する際に採用した建築様式のことで、東大寺でも特に南大門に色濃く残っている。
 特徴的な用語としては「挿肘木」、「一軒」、「鼻隠板」、「遊離尾垂木」、「隅扇垂木」、「通肘木」など。

 今回、東大寺を再訪したので、東大寺に残る大仏様を検証してみたい。

 



1.転害門にみる大仏様

 東大寺の西のはずれにあるのが転害門。大仏建立の際に八幡大神の「災害を転じて福を与える」という神託があったそうで、それにちなんだ名前らしい。なお「てんがいもん」ではなく「てがいもん」と呼ぶ。

 後代の修復はあるもののほぼ東大寺創建時の天平建築を伝える唯一の遺構とのことで、国宝。

 しかし、結構遠かった。以前戒檀院の辺から西に抜け、かなり旧そうな門の遺跡を通ったことがあった。あれが「転害門」なのかな?と思ったのだが、どうも違ったようだ。で、一度探してみることにした。
 今日は興福寺の東金堂に寄った後、一の鳥居の辺から北上していった。地下道のある大きな交差点を抜け、さらに北上。
 ええ加減北に上がったんで、もうそろそろ・・・と思って東に入ると、何のことはない、前回通った門の跡に出てしまった。一瞬自分が(觔斗雲=きんと雲でいやほど飛んでも結局お釈迦様の掌から抜け出せなかった)孫悟空にでもなった気になった。東大寺恐るべし。

 
 左写真が転害門。

 さて、大仏様とは、平氏に焼き討ちされた東大寺の伽藍を再興する際、重源が宋の建築様式を参考にしたものといわれている。
 今になって思うのだが、それじゃ、天平期の転害門に大仏様があってはおかしいのだろうか?

 左写真は門の正面。

 軒下を写したもの。大仏様の特徴としては、「一軒」(ひとのき)ということがあげられる。

 これは屋根を支える垂木が、軒先まで一本になっていることをいう。

 これに対し、伝統的な和様(わよう)では「二軒」(ふたのき)といって、建物寄りの地垂木(ぢたるき)と軒先の「飛檐垂木」(ひえんたるき)の二種を用いることが多い。

 それで上の写真を観ると垂木が二段になっているので、大仏様の「一軒」ではなく、和様の「二軒」であるとわかる。
 右写真は、門の向かって右側面。

 同じく大仏様の特徴として「挿肘木」と「繰形」という用語がある。

 「挿肘木」(さしひじき)とは柱に枘穴(ほぞあな)をあけ、そこに肘木を挿して組物を構成する技法。

 よって組物が横に広がらず前へ前へと出てくる特徴がある。上写真は、どうもその「挿肘木」っぽく観える。

 また、「繰形」(くりがた)とは、そうした肘木の先端部で一方は水平で、他方を円弧を組み合わせた、いわば丸みを帯びた階段状に彫刻する技法をいう。

 上写真にもそうした繰形が何箇所かに観られる。

 どうも転害門には大仏様が見え隠れするのだが、それで良いのだろうか?これに対する答えは2通り考えられると思う。

(1) 転害門様式を大仏様が模倣したと考える説

 平氏の焼き討ちで東大寺の伽藍のほとんどは灰燼に帰したが、幸い転害門は焼け残ったようだ。おそらく興福寺や大仏殿から遠く離れていたからだろう。

 重源は東大寺を再興するに当たり大仏様と呼ばれる建築様式を採り入れたが、焼ける前のオリジナルとは似ても似つかない、全く別の建物にしたとは考えにくい。
 当然元の建築物のイメージは大事にしたであろうし、それには単なる記憶だけではなく、現物の転害門などは大いに参考にしたであろうと想像される。

 よって、転害門の側面に観られる挿肘木や繰形は創建時(天平)のものか、少なくともその後の補修で、重源が東大寺再興に取り組むよりも以前に加えられていたものであった。

 それを重源が再興の際大仏様として本格的に展開したのである。よって、南大門より古い転害門に挿肘木や繰形があってもおかしくはない・・・と考えるもの。

 ただ、『重源展』の図録では「繰形」を「大仏様独自の意匠」と書いてあったのと矛盾するのだが。 
 

(2) 転害門を、後代に大仏様で修復したと考える説

 詳しい内容はわからないのだが、この転害門、どうも鎌倉時代にかなりの規模で修復されたようである。その際に、大仏様の手法、すなわち挿肘木や繰形が用いられたのではないだろうか。
 先ほどネット検索していたら、『伝統的木造建築を読み解く』(著:村田健一。学芸出版社)という本があるようで、目次の中に「鎌倉期の建築ラッシュ 東大寺転害門修理に見る中世の幕開け」なんて章もある。

 まだ、その本の内容は知らないのだが、取り合えず(2)説をとっておきたい。詳しい内容をご存知の方は、掲示板などに書き込んでいただけるとありがたい。



2.南大門にみる大仏様

 さて、転害門から東に進むと奈良市立鼓阪小学校という学校があった。
 校門のところに「開けっ放しにすると鹿が入ってきて花壇の花を食べてしまうから、必ず閉めましょう」という内容の看板があって、 こんな注意書き、ここしかないやろなと思って笑ってしまった。

 さらに東に進むと正倉院だが、そこに侵入すると捕まってしまうから右折して南へ。
 左写真は大仏池西側から大仏殿を観たもの。

 枯れススキ(周りの木も葉を落としている)越しに水面にうつる大仏殿をお楽しみいただきたい。

 さて、大仏殿には入らず南大門へ。そう言えば、大仏殿前の中門、向かって右には兜跋毘沙門天が立っていた。今までは全く意識していなかったのだが。
 右写真は南大門。

 実は前回の講演会聴講記に添えた写真とほとんど変わらない。

 青色の囲みが「挿肘木」で最上部以外は横への広がりをもたない組物。

 黄緑色の囲みが、そうした左右に広がらない組物の横ぶれを防止する「通肘木」。

 黄色の囲みが垂木の断面を隠す「鼻隠板」。

 

 赤色の囲みは、組物とは別の場所にある「遊離尾垂木」。
 
 右写真は軒先を下から撮ったもの。

 垂木の先端にうたれているのが全体写真では黄色で囲んでいた「鼻隠板」である。

 右下写真は、全体写真では赤色で囲んでいた「遊離尾垂木」。
 同じ赤色で囲んだ方がよかったかもしれないが、右写真で黄色く囲んだのが遊離尾垂木のアップ。

 前回聴講記で説明が不十分だったのが、「隅扇垂木」と「藁座」。
 左写真は、南大門の軒下の隅部分を下から撮ったもの。

 特に黄色で囲んだ所にご注目いただきたい。

 ちょうど扇の要(かなめ)の部分のように、放射状に垂木が配されているのがお分かりだろうか?
 左写真は、ここに来る前に撮った興福寺東金堂の軒下の隅っこを下から撮ったもの。

 こうやって並べてみると自分でも違いがよく分かった。

 興福寺東金堂は典型的な和様だ。「二軒」で垂木が二段になっているのはともかく、その垂木は最後まで平行に配され、違う側面の垂木とは直角に交わるような形となっている。

 続いて「藁座」について。
 左写真は南大門の内部。

 水平方向の茶色い柱の左右にみえるのが藁座。

 扉の軸を納めるのが「藁座」である。

 右下写真は「藁座」のアップ。
 もちろん現在の南大門では扉そのものは残っていない。

 また、藁座が残っているのも上部の分のみである。

 


3.三月堂(・開山堂)にみる大仏様

 その日は、もともと執金剛神像特別開扉のため三月堂(法華堂)を訪れるのがメインテーマだった。

 三月堂は奈良時代の建物と鎌倉時代の建物が複合しているそうだ。
 左写真は、鎌倉時代の部分の軒下。

 二軒となっている点は大仏様ではない。
 しかし、組物が前にせり出す感じ、及び肘木先端部の繰形は大仏様。

 おもしろい物が見つかった。
 右写真は、三月堂の鎌倉時代の部分(入り口に近い、いわゆる礼堂部分)の扉。

 現役の「藁座」である。
 扉の軸が納まっている。

 南大門も元は桟唐戸(縦横に枠を組みその中に板をはめた扉)が用いられていたというから、上掲写真のでかいやつが藁座に軸をはめて据え付けられ、観音開きとなっていたのであろう。
 左写真は開山堂。

 この建物も国宝。

 一見すると、特にどうと言うこともない感じの建物だが、中に入ってみると内部の組物が前に出てきたり、繰形などもあり、大仏様?と感じた。
 あとでチラシを読むと重源が正治2年(1200)、全面的に改築したと書いてあった。

 


4.鐘楼にみる大仏様

 鐘楼における大仏様の現われ方も特徴がある。
 右写真は鐘楼の軒下の隅部分。

 軒先の強い反りは禅宗様を感じさせる。

 垂木が「二軒」となっており、扇垂木となっていない点は和様を感じさせる。

 しかし、大仏様も強く現われている。
 左写真は同じく鐘楼を撮ったもの。

 鼻隠板が打たれている点は大仏様。

 しかも、いやというほど大きな繰形。

 いやあ、こうして勉強してみると、なかなかおもしろいもんだなあと感じた。こんな折衷様式とは知らなかった。

 




 

 どうもお疲れ様でした。

 
  

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