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(No135) 李秉昌博士記念公開講座 「高麗”翡色”(ひしょく)の秘密をさぐる」聴講記 その1

 平成21年1月31日(土)に、標記講座を聴講しました。場所は大阪弁護士会館。主催は大阪市立東洋陶磁美術館です。

 前回、東洋陶磁美術館に行った時、高麗「翡色」青磁という言葉を知ったのですが、既知の「秘色」青磁とどう違うのだろう?と疑問に思ってました。

 すると、たまたまネットでこの講座のことを知りました。アンテナ張ってると何となく向こうから引っかかってくれるものですねぇ。


講演1.「狻貎(さんげい)出香と高麗翡色」 崔健(チェ・ゴン) 氏(朝鮮官窯博物館 館長)

1.天下第一 高麗秘色 

 大阪市立東洋陶磁美術館から高麗翡色についての講演依頼があった時、非常に嬉しく思いました。
 韓国では高麗翡色という言葉はよく知られているのですが、翡色の実態を探求する努力は不足していると感じていたからです。

 本日は最近確認された高さ33cmの獅子形香炉を中心に考察していきます。

 海外の方の講演でよく感じるのだが、通訳の人を信頼していないという訳ではないが、どうも講演者本人が言われたことをきちんと受けとめられているか全幅の自信が持てない。
 え?本当にそう言ってるの?逆に、こう言ってるんじゃないの?聞き間違い、言い間違いじゃないの?・・・・というような雑念が混じりがちである。

 よって、これ以降、本日のレジュメを中心に紹介し、私が書きとめたメモを適宜足していくこととする。
 従って、記述内容は、本日崔先生が話された順番とはやや異なる。

 『袖中錦』の「高麗秘色天下第一」という意味は、高麗青磁の造形美とともに釉胎の色がきわめて個性的で美しく、中国青磁の水準を超えているということである。

 『袖中錦』の作者太平老人は、12世紀前半に、中国最良の鑑識眼で天下の第一級品を選び出そうとした。そこで白磁については定瓷(定窯の白磁)を最高とし、青磁については龍泉窯ほか数々の中国の名窯を差し置いて、高麗秘色青磁を第一と評価したものである。

 徐兢『宣和奉使 高麗図経』(石野注 本『高麗図経』は1123年中国の使臣として高麗に来た徐兢が、約1ヵ月間今の開城に滞在中見聞したことを帰国後著述したもの。図については作成後まもなく戦乱で失われた)では、最上品の青磁を高麗人は「翡色」と呼んでいると書かれている。

 『袖中錦』も『高麗図経』も12世紀前半の著述であることを考えると、太平老人のいう高麗「秘色」と徐兢のいう高麗「翡色」は、いずれも当時の高麗青磁の同じ色を指している可能性が高い。すなわち、当時の最上品の高麗青磁の色の中国的表現が「秘色」であり、高麗的表現が「翡色」と考えられる。


2.高麗の秘色と翡色

 翡色の「翡」とはカワセミの雄を指す言葉である。

(1) カワセミの羽のような緑青色だから「翡」色と言ったのか?

(2) 「青磁は玉に類する」という伝統的理解から、緑色の「翡翠」の玉を連想して翡色と言ったのか?

 そのいずれなのかは、現在では知り難い。

 高麗側の文献には『高麗史』の「蓋以青瓷」(1157年)、李奎報『東国李相国集』の「緑瓷盃、緑瓷硯滴子、緑瓷枕」(1210年前後)という記述はあるが、「翡色」と書かれた例はない。

 中国人の徐兢が「高麗人は翡色と呼んでいる」とはっきり記録しているのに、当の高麗人の著作の中に「翡色」という単語が見られないことには以下の二つの理由が考えられる。

(1) 最上品である「翡色」青磁は、臣下や庶民をはじめほとんどの高麗人は触れることも難しく、記録を全く残せなかった。

(2) 『高麗図経』の時代以降、翡色青磁が断絶してしまった。

 文章と書画にすぐれ高い鑑識眼を備えた李奎報が一貫して緑色と表現しているということは、1210年頃に彼が接した青磁が翡色ではなく緑色であった可能性が高い。

 

 当時の最高級品である王陵の出土品で、
(1) 仁宗の長陵(1146年)出土の青磁4点は「淡い緑褐色を帯びた灰青色」

(2) 明宗の智陵(1202年)出土の青磁12点のうち10点は「緑色を帯びた灰色」

(3) 熙宗の碩陵(1237年)出土の青磁は「淡い緑色を帯びた灰色」

(4) 13世紀後半は「淡い青色を帯びた灰色」に変わっていく。

 李奎報が表現した緑色は、明宗智陵の「緑色を帯びた灰色」と似ていることが想像される。

 また、徐兢が見た翡色は1123年(徐兢奉使の年)前後のもので、11世紀の青磁の「灰青色」から、仁宗長陵の「淡い緑褐色を帯びた灰青色」の間にあることが推察される。

 


3.翡色の狻貎出香

 狻貎出香も、『高麗図経』で世の中に知られるようになった。

 徐兢は瓜形酒尊と並び、狻貎出香を「最も優れている(最精絶)」と評価している。

 徐兢は『高麗図経』序文で「中国と同じものは捨て、異なったものを取る」として、越州の古秘色に似ていたり、定器(定窯?定瓷?)を模倣したり汝州新窯に類似しているものは記録しなかった。

 一方で、翡色の最上級品と評価した狻貎出香は「上にはうずくまった獣がおり、下には仰向いた蓮の花があって、それを受けとめている」という具体的説明を加えている。
(石野注 冒頭にも書いたが、徐兢はスケッチも描いたようだが、現存していない)

 もし現存する青磁獅子香炉のなかに徐兢の説明と一致する香炉が確認できれば、翡色の実態にさらに一歩近づけるだろう。

 近頃確認された青磁獅子香炉(個人所蔵。右写真。高:33.0)は、現時点で、徐兢の説明に合う唯一の香炉と思われる。

 

 この個人所蔵の青磁獅子香炉が、徐兢がわざわざ絵を描いて説明をつけ、中国に持ち帰った香炉であると立証できれば、北宋の官窯である清涼寺汝窯址で出土した同形の仰蓮炉身及び南宋の官窯址で出土した同形と推測される仰蓮弁片と関連し、翡色の解明が進むことになる。

蓮弁形香炉 高麗 12世紀 高:15.2 径:10.5
韓国 国立中央博物館
蓮弁形香炉 北宋 12世紀 (汝窯) 河南省宝豊県清涼寺出土 高:13.6 径:15.0 高台16.0
中国 河南省文物考古研究所

 

  レジュメに書かれた内容は大体以上のとおり。

 以降は、崔先生が当日言われた内容、特に実際の青磁の作品などを例に出して考察された内容を石野のメモに従い、構成していきたい。

 「秘色」として注目されているのが法門寺地宮(874年)から出た青磁12点です。(石野注 参考HP「法門寺地下宮殿の秘宝展」

 8世紀中葉の陸羽の『茶経』に、青磁と玉が関連付けて書かれています。

 また、陸亀蒙の「秘色越器」という899年頃の詩には「九秋風露越窯開、奪得千峰翠色来」とあります。中国では、秘色を高麗のような「翡」色ではなく、翠色と表現していることになります。

 秘色は、越窯青磁は臣下、庶民ではなく特権階級に限定されたものだから、そう書かれたのかも知れません。

 古越磁はオリーブグリーンです。これはカワセミの羽根の色とはいえません。

 北宋末の清涼寺から出土した仰蓮形の香炉の炉身(石野注 上掲写真の右側の蓮弁形香炉のことか?)と獅子形香炉(石野注 上掲の個人所蔵青磁獅子香炉のことか?)とは意匠が似ています。
 なお、この清涼寺の汝窯址から出土した香炉は窯址から出土したものですから、廃棄品です。ですから質的には高いものではありません。

 高麗にもこれによく似た香炉の炉身が確認されています。
(石野注 上掲写真の左側の蓮弁形香炉のことか?イメージ的には、蓮弁形香炉は「炉身」のみだから、その上に「獅子」のついた蓋が乗っかる。上掲獅子香炉は蓋も炉身もそろった完品ということか?)
 この高麗の香炉は中間部分に龍の頭の形をした飾りが出っ張っています。蓮弁のついた脚台について、よく似たものが南宋時代の陶片で出土しています。


 徐兢は、高麗に使節として派遣された時、高麗の外国賓客をもてなすところで翡色の瓜形瓶を初めて見たにちがいありません。(石野注 上記「3.翡色の狻貎出香」で書いた、徐兢が『高麗図経』の中で狻貎出香と並び高く評価した「瓜形酒尊」のことか?) 

 高麗の王陵、1146年に没した仁宗の長陵から出土した瓜形瓶があります。これは薄い緑色がかった灰青色で、光沢はあまり強くなく、貫入(かんにゅう。釉薬のひび割れ)は全くありません。 

 これとよく似た瓜形瓶が景徳鎮窯の青白磁で確認されています。これは個人所蔵です。

 仁宗長陵出土の瓜形瓶と景徳鎮窯の瓜形瓶を比較すると、
(1) 景徳鎮窯の瓜形瓶は、
ア 透明度が落ちる。
イ 釉層が薄い。
ウ 釉をよく観察するとムラがある。
エ 口が広い。
オ 肩が張っている。
カ 高台が堂々としている、といった特徴があります。

 これに比較すると、
(2) 仁宗長陵の瓜形瓶は、
ア 全体的に器形がほっそりしている。
イ 高台も高い。
ウ 全体的にスマートで洗練度が高い、という特徴があります。

 韓国国立中央博物館に右写真のような青磁瓜形瓶が展示されているようである。

 説明がないので、どんな時代のものかよく分からない。
 大阪市立東洋陶磁美術館でも、青磁瓜形瓶が展示されている。

 両者は非常によく似ている。これが翡色なのだろうか?

 獅子飾蓋香炉を考察してみます。

 聴いている時は、この獅子香炉が、狻貎出香の獅子香炉とどう違うのか、どこの香炉なのかがよく分からなかった。

 上記の瓜形瓶をネット検索している時に青磁獅子蓋香炉が出ており、「あっ!これやん」と思ったのであった。

 これは翡色を代表するものともいえます。
 獅子と獣足の部分は最高級の土が用いられていますが、胴体の部分は粗悪な土が使われています。 土の質が違うということは、別の工人がつくったと考えられます。獅子や獣足という象形的な部分は高い技術を持った工人が良質の土で作成し、轆轤でできる部分は粗悪な土で一般的な工人が作ったのでしょうか。

 また、後ろから見ると獅子が真ん中からずれてしまっています。(石野注 真後ろから写した写真が示された。確かに獅子は蓋の中心からずいぶんずれていた)
 獅子を乗せる作業をした人は、誠実ではなかったといえます。

 どこのものかは分からなかったが、麒麟の蓋の香炉も紹介された。

 この麒麟香炉も、麒麟と獣足は良い土で、轆轤部分は粗悪な土らしい。

 鴛鴦や鴨が蓋になった香炉もあります。大阪市立東洋陶磁美術館所蔵の鴛鴦蓋香炉は、全てが良い土が使われています。

 今度は、崔先生は、左から
(1) 景徳鎮窯瓜形瓶(個人所蔵)
(2) 仁宗長陵瓜形瓶
(3) 獅子香炉(個人所蔵)
(4) 獅子香炉(韓国国立中央博物館)
(5) 鴛鴦蓋香炉(大阪市立東洋陶磁美術館)
を並べた写真を表示された。

 サイズの比較も目的の一つ。
 (3)の個人所蔵獅子香炉が高さ33cmなので一番大きい。他は21〜23cmくらい。


 釉色としては、個人蔵の瓜形瓶と、個人蔵の獅子香炉は似ています。
 韓国国立中央博物館の獅子香炉は12世紀後半か12世紀末と思われますが、緑色がかって澄んだ釉色をしています。

 瓜形瓶については、景徳鎮窯のものは「強い」、「ボリュームがある」と表現され、仁宗長陵のものは「美しい」とか「スマート」と表現されます。 

 獅子香炉については、国立博物館のものは緊張感がゆるみ、力が抜けた感じがします。
 一方、個人蔵の獅子香炉は、
(1) 貫入がほとんど見られない。
(石野注 後で部分ごとのアップ画像での解説があったが、右後ろ足の辺に若干の貫入があるそうである)
(2) 釉薬は薄い。
(3) 力強い造形である。韓国では力強いものを「中国的」と表現する傾向があり、本品も「非常に中国的である」と評する人がいます。
(4) 別に作った獅子を釉薬でくっつけたのではなく、全体を彫刻して作っている。
(石野注 ということは、国立博物館のものと違い、全体が優良な土で作られているのであろう)
(5) ほぼ完品である。
(石野注 右上の牙1本だけが破損して後補だそうだ)
(6) 法門寺からほぼ同形の金銅製の香炉が確認されている。ただし、この法門寺金銅製香炉は胴の中央部分側面に龍の頭の形をした飾りが付いている。
(石野注 この個人蔵獅子香炉には龍の頭の出っ張りがないが、上掲国立博物館蔵の蓮弁形香炉炉身には法門寺香炉のような飾りがある。よく見ると清涼寺出土の炉身にも出っ張りらしきものがある) 

 

 約1時間ほどの講演が終った。
 パワーポイントの資料の調子が悪かったみたいで、気の毒だった。

 崔先生は、講座のチラシには肩書きが「朝鮮官窯博物館・館長」とある。HPの講座案内にもそうある。

 しかし当日配付されたレジュメ・・・というか立派な報告書には「京畿陶磁博物館・館長」と書かれているし、出川館長もそう紹介されたような気がする。多分京畿〜の方が正解なのだろう。

 非常にご多忙らしく、昨日の深夜に来日し、今日の午後には帰韓されるそうである。

 最後、質問コーナーがあった。
 「個人蔵の獅子香炉は最近確認されたということですが、どのような経緯で発見されたのですか?」と質問した。個人蔵なので非常に難しい。あくまで「噂」なんですが、北朝鮮から入手したものらしいとのことであった。


  


 どうもお疲れ様でした。

 
  

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