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(No136) 李秉昌博士記念公開講座 「高麗”翡色”(ひしょく)の秘密をさぐる」聴講記 その2
平成21年1月31日(土)に、標記講座を聴講しました・・・・・の続き。
実は、別の講演と重なってしまい、後半部分を聴けていない。それで、前回の崔先生の講演のように、レジュメ中心で構成させていただく。
講演2.「秘色と唐、五代の越窯青磁」 出川哲朗(大阪市立東洋陶磁美術館 館長)
1.秘色という言葉
越窯とか越磁については、二期に大別されます。
(1) 越磁−1 呉〜隋 いわゆる「古越磁」
(2) 越磁−2 中晩唐〜北宋
この両者の間には断絶があります。
日本ではこれまでよく越州窯という用語が使われていました。
しかし、唐、五代の頃、明州、現在の浙江省慈渓市上林湖窯址が確認されています。ですから越州窯よりはむしろ明州窯と呼ぶべきなので当館では最近は越州窯という用語は使用していません。
北宋は960年に中国を統一したといわれていますが、呉越国はその後も数十年存続しました。
日本では「秘色」という言葉はどのように使われていたのでしょうか?
(1) 『李部王記』
「天暦五年(951)六月九日御膳沈香折敷四枚瓶用秘色」という表現があります。
宮中で秘色が使われていたことがわかります。
中国では秘色という用語が9世紀半ば頃から使われましたが、日本では呉越国との通商が始まる10世紀半ば頃から「ひそく(秘色)」という言葉が登場します。
呉越国から高麗や日本へ越窯青磁が輸出されていましたが、これらがひそく(秘色)という言葉とともに受容されたことが文献から窺えます。
(2) 『宇津保物語』(10世紀後半に成立)
大宰府の帥の滋野真菅の屋敷での食事の場で「主のもの〜秘色の杯ども〜女ども〜かねの杯〜男ども〜かなまり〜」とあります。
大宰府任官中に財をなした真菅(ますげ)が食事に用いているのが秘色です。杯は「つき」と読み、皿と盤の中間というか、鉢と皿の間のような食器です。
他の者が使っている金属製の食器よりも、秘色の方が最上級の器としてみなされていることが分かります。呉越からの貿易で大宰府に来たのでしょうか。
(3) 『源氏物語』「末摘花」(11世紀初めに成立)
食事の場面で「〜御だい、ひそく(秘色)やうのもろこし(唐土)のものなれど〜」という文章があります。食事の品数も少なく貧しげな感じですが、食器は秘色を使っています。
末摘花の父常陸宮は唐物好きでした。今は没落していますが、昔は秘色を手に入れられる身分だったという過去の栄華がしのばれます。
作者の紫式部の夫、藤原宣孝は筑前守だったので、秘色と呼ばれた越窯青磁について具体的に知っていたかもしれません。
(4) 『河海抄』(14世紀の『源氏物語』の注釈書)
「あんずるに、秘色は磁器なり、越州より奉るものなり、その色翠青にして、殊にすぐれたり、かつてこれを秘蔵して尋常に用いざる故に秘色と号す」とあります。
呉越王は貢瓷として秘色を焼成していたので、家臣や庶民が一般に使用するのを禁じていたため「秘」色と呼ぶとしています。これは『高斎漫録』(著:曾慥)などの宋代の文献に基づく記述です。
福岡市の鴻臚館(こうろかん。古代の迎賓館)跡や大宰府政庁跡から様々な釉色の膨大な量の越窯青磁が出土しています。
これらすべてが秘色と呼ばれたのではなく、10世紀半ば頃に呉越国から博多にもたらされた青磁のうち、宮中に納入された釉色の優れたものだけが秘色と呼ばれたのでしょう。
五代の呉越王は秘色を貢瓷として制作し、家臣や庶民には使用を禁じたので単なる貿易陶磁ではなかったと思われます。
伝統的な色名としての秘色は青磁から連想されるもので、
(1) 浅い緑がかった青色
(2) 水浅葱(あさぎ)色
(3) 浅いトルコ石のような青色、などとされています。
晩唐時代の秘色は、法門寺地宮出土品に見られるようにもっと緑がかったもので、
(4) 萌葱(もえぎ)色(spring green)
(5) 碧玉色(石野注 エメラルド色か?)
(6) 翡翠色(jade green)、のような薄い青緑色です。
日本で秘色色(ひそくいろ)として色の名前として使用される場合、
(7) 瑠璃色
(8) 襲(かさね)の色目で使われる青色をさす場合があります。
また、「秘」は「香草」を示す「黍必」に通じるため、秘色は香草色を示すという説もあります。
日本で翡翠というとまず宝石のヒスイを連想しますが、翡翠はもともとカワセミのことで、鉱物という意味はありません。カワセミに似た色の宝石で翡翠と呼ばれるようになったのです。
カワセミの色というと昔から色が変わっていないので具体的にイメージしやすいですが、単に青色というだけでは具体的な「色」はイメージしにくいものです。
陶磁器の世界でも青磁の「青」と青花の「青」では全く色合いが違います。
秘色の「秘」という字には色のイメージがありません。
日本で秘色というと秘色をした磁器自体をさす場合と秘色青磁の「色」をさす場合とがあります。
青磁を英語やフランス語ではセラドン(celadon)と呼びます。このセラドンはやきものとしての青磁という意味と、色の名前としての青磁色という意味の二つがあるのとよく似ています。
セラドンという言葉そのものには、青い陶磁器という意味はありません。
語源としてはある小説の主人公セラドンが着ていた服の色だという説が有力です。最近映画にもなったそうです。
また、『イーディアス』(?)に出てくるセラドン川の色が語源だという説もあります。
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小説とか映画とあるが、映画「我が至上の愛 アステレとセラドン」という映画のようだ。(例えばここで)
「タイセラドン」とや「セラドンとは」というHPでは、セラドンは古代インドのサンスクリット語で緑の石』(“sila”=『石』、“dhara”=『緑』)という意味で青磁を表すようになったとある。ほんまかいな? |
唐時代の8世紀の初め頃までは、越窯の生産はあまり大規模ではなかったようです。
しかし、安史の乱以後、経済の比重が江南に移り、それまでの古越磁の作風から一転して新たな青磁が焼成されるようになりました。
王仁祐の『開元天宝遺事』(742年頃)には「内庫有青瓷酒盃、紋如乱糸、其薄如紙(内庫には青磁の酒杯があり、乱糸のような貫入がある。その薄いことは紙のようである)」とあり、宮中で青磁の杯が用いられていたことが分かります。
朱琰(しゅえん)の『陶説』(1774年)には唐時代の詩句がいくつか紹介されています。
例えば顧況(こきょう)の「茶賦」(757年頃)には「越泥似玉之甌(越泥は玉に似た碗である)」とあります。
また、陸羽の『茶経』(760年頃)では「盌、越州上、鼎州次〜越磁類玉〜越磁類冰〜越磁青而茶色緑(碗は越州が上で、次が鼎州・・・越磁は玉に似ている・・・越磁は氷に似ている・・・越磁は青いので茶の色は緑に見える)」と高く評価されています。
ただ、この『茶経』の記述は疑問視されることが多いのです。というのも、『茶経』が成立したとされる頃にそんな素晴らしい越磁があったのかということが疑問だからです。「越磁は青いので〜」とありますが、8世紀頃にはまだ、青いやきものはありません。
ですから、この部分は、越磁の評判が高くなった宋代になってから追記されたのではないか、という説が有力です。
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『中国の茶書』(編訳:布目潮渢・中村喬。平凡社東洋文庫)のP73(『茶経』)には「或いは邢州(けいしゅう)を越州の上に処(お)くが、決してそうではない。
もし邢州の磁器が銀に似ているとするならば、越州の磁器は玉に似ている。邢州のものが越州に及ばない第一の点である。
もし邢州の磁器が雪に似ているとするならば、越州の磁器は氷に似ている。邢州のものが越州におよばない第二の点である。
邢州の磁器は白いので、茶の色は丹(あか)く見える。越州の磁器は青いので、茶の色は緑に見える。邢州のものが越州に及ばない第三の点である」とある。
同書P86に「茶の色は緗(そう。淡黄色)」とある。白磁の碗に入れて赤く見えるかどうかは別として、青い碗に黄色い茶を入れると緑に見える・・・というのは理屈に合っていると思う。
布目潮渢(ぬのめちょうふう)氏は同書P14で「『茶経』草稿の完成は上元元年(石野注 760年)としておく。しかし晩年の増補加筆があったことは、もちろん認めてよいであろう」としている。
これは上元二年(761)に書かれた「陸文学自伝」に既に『茶経』のことが書かれているため、最低でも760年には一応完成していた筈・・・という内容であり、それ以後に陸羽自身が増補加筆した可能性はあるとしたものである。全くの別人が宋代に加筆した可能性には言及していない。 |
玉璧高台の碗は8世紀後半頃に確立し、9世紀半ばまで続いている様式です。この様式が終焉する頃に封閉された法門寺地宮からも白磁の玉璧高台の碗が1点出土しています。
秘色という言葉は9世紀半ばになって登場するので、ちょうど玉璧高台の碗が終焉する時期と秘色瓷の出現時期がほぼ一致しています。
秘色瓷という言葉が使われだした晩唐の徐夤(じょいん)の詩「貢余秘色茶盌」や陸亀蒙の詩「秘色越器」<「九秋風露越窯開、奪得千峰翠色来」(九秋の風露、越窯を開く、千峰の翠色を奪い得て来る)>などに「秘色」という言葉が見られます。
このほか、9世紀には皮日休、鄭谷、韓偓(かんあく)などの詩に越甌という字句が出ています。
もっとも浙江省博物館の李剛先生などは、陸亀蒙が秘色の青磁を見ている筈がないという意見です。貢瓷、すなわち宮廷用の瓷器を見ることができたとは考えられないとおっしゃっています。
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布目潮渢氏は前掲『中国の茶書』P74で「越州窯については、陸羽の記述のほかに、陸亀蒙・施肩吾・孟郊・鄭谷・韓偓・徐夤・皮日休・顧況らの詩にその天下に冠たることが詠ぜられている」としている。 |
2.法門寺地宮出土の秘色瓷
陝西省西安市西郊の張叔尊墓(咸通12年=871年)から出土した青磁八稜長頸瓶とほとんど同形の瓶が、法門寺地宮(咸通15年=874年最終封閉)から出土しています。
また、同様の青磁片が浙江省滋渓市上林湖窯址で採集されています。
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法門寺地宮出土の瓶の解説については、例えばここで。
以前法門寺関係の講演会を聴いたのだが、それほど参考にならなかった。
左下写真は、本会の研究報告書所収の写真。
右下写真は、中国法門寺地下宮殿の秘宝展HPから。同瓶のカラー版。
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青磁八稜形長形瓶
陝西省扶風県法門寺出土 唐 咸通15年 高:21.5 |
法門寺地宮の「監送眞身使随眞身供養道具及恩賜金銀宝物衣物帳碑」(右写真は拓本)には地宮に納められた品々の名称や数量が詳しく記されています。
6行目(石野注 右写真では中央くらい)に「〜瓷秘色椀七口内二口銀稜瓷秘色盤子畳子共六枚〜」とあります。
碗が七口、盤が六枚となっていますが、瓶はこのリストに入っていません。
よって、この八稜瓶は秘色ではないと主張する人もいます。
一方、この瓶は仏具として、仏舎利送迎の儀式に使われていた。埋納品ではないのでリスト外でも当然・・・という説もあります。
法門寺からは瓶のほか、青磁の碗が7件、青磁盤が6件、白磁が2件出土しています。
青磁碗7件のうち、3件は口縁部が水平に折り曲げられた碗、2件は五花形の碗で輪高台がつき、器壁が薄く、女性を描いた版画の包装紙の痕跡が碗に転写されています。 |
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この碗が汚れているように見えるのは、この転写のためです。中国側の資料では「紙」とありますが、絹などの布だと思います。
現在では、この包んでいた布の模様自体が貴重な資料といえます。
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先生は当日口では「紙ではなく、布だ」とおっしゃったが、配布された報告書には「版画の包装紙」とあったので、併記すると矛盾した内容になってしまった。 |
あとの2件は金銀平脱の碗で、外側に黒漆が施され、団花文が配置されています。口縁部及び高台には銀覆輪が嵌められています。碗の内側には黄色がかった青磁釉が施され、器形は五花形です。この2件も瓷秘色に含まれていますが、ほかの青磁とは釉色が異なっており、秘色にもある程度幅があると考えられます。
この衣物帳には「秘」色と記されていますが、本来、「秘」は「祕」という字の俗字体です。
「祕」という字は『説文解字』(石野注 後漢の許慎(きょしん)の作で和帝のとき(紀元100年/永元12)に成立した最古の部首別漢字字典)によると、「神」とされています。したがって、秘色とは神秘的な、特別な色という意味があったと考えられます。
また、「秘」と「碧」は古音が同じpiです。そこから碧玉を秘玉と表記する例もあります。そこで、碧色と書く代わりに洒落て「秘色」と表記した可能性もあります。
よって、唐代には「秘色」は「神秘的な碧色」として使われていたと考えられるのです。
秘色瓷をあらわすのに、単に翠青色とか碧色としなかったのは、越窯の青磁の中でも釉色が特別の輝きをもっていたからでしょう。
五代の呉越王銭氏が国王となると、越窯は貢瓷の焼成をするようになり庶民はおろか家臣にも秘色瓷の使用を禁じたので「秘」色という名称ができたと、宋代の『侯鯖録』(著:趙令畤。字は徳麟)や同じく宋代の『高斎漫録』(著:曾慥)に紹介されています。
陸游(1125〜1209)の『老学庵筆記』に「耀州出青瓷器、謂之越器、似以其類余姚県秘色也」という記述があります。
これは、当時、越磁を秘色と呼び、耀州でその秘色を目指して青磁を焼成したことを意味します。五代の耀州窯からは、明らかに越窯の影響がみられ、天青色の青磁も発見されています。
越窯の秘色の釉色が後の官窯青磁の理念を作り出したといっても過言ではありません。
北宋の宣和5年(1123)、高麗では仁宗元年、徐兢は使者として高麗に1ヶ月間滞在し、開京(開城)での見聞録である『高麗図経』を著しました。
この中で、徐兢は、高麗青磁を高麗人が秘色と呼んでいることと、「その余は越州の古秘色、汝州の新窰器に、あらまし似通っている」ことを記しています。
北宋時代に越州古秘色というとき、この五代呉越王銭氏の貢瓷である越窯の秘色をさしていると考えられます。
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古秘色は、越州といっても、いわゆる古越磁まで遡ることはないという意味か? |
10世紀になると、呉越王から秘色を朝貢した記録が多数みられます。
(1) 「寶大元年(924)貢(後)唐〜秘色瓷器」(『十国春秋』「呉越武粛王世家」)
(2) 「清泰二年(935)貢(後)唐〜金稜秘色瓷器二百事」(『十国春秋』「呉越文穆王世家」)
こうした記載にみられる秘色瓷は、浙江省臨安呉越康陵から五代・天福四年(939)に出土した秘色瓷の青磁方形套盒(右写真)や、
呉越王銭元瓘墓から天福七年(924)に出土した龍文壺のような釉色であったと思われます。 |
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960年に(北)宋が誕生し、975年に宋が南唐を攻撃するにあたって、呉越も南唐の攻撃に参加し、南唐は滅亡しました。
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Wiki によると、呉越国(908〜978)は、「中国・五代十国時代に現在の杭州を中心に浙江省と福建省の一部を支配した国」とある。
始祖・銭鏐(せんりゅう)は杭州の出身で、唐末の黄巣の乱の時に勢力をもち、杭州刺史となり、後に両浙地方(浙江省の東部と西部のこと)の節度使となった。
後梁を建てた朱全忠に臣従して呉越王とされた。
銭鏐の死後、五男の銭元瓘(せんげんかん)が後を継ぐ。
その後を銭元瓘の六男・銭弘佐が継ぎ、死後は、弟の銭弘倧(せんこうそう)が後を継ぐ。銭弘倧は軍人たちの掌握に失敗して、退位させられて弟の銭弘俶(せんこうしゅく)が後を継ぐ。
銭弘俶の時代には最強の敵である南唐が後周の攻撃を受けて、領土を奪われて弱体化したことで呉越は平穏となる。
その後、宋の大軍の前に南唐が滅ぶと、宋と直接国境を接するようになった呉越はどうしようもなくなり、978年に銭弘俶は宋へ国を献じて自ら終わりを告げた。 |
『宋会要』(石野注 宋代の諸制度の沿革を整理・集大成した書。全200巻)「蕃夷」には「太平興国二年(977)俶進〜金釦越器二百事」とあります。
呉越王銭俶が宋の太宗に瓷器を朝貢し、翌年には「太平興国三年(太平戊寅978年)俶進〜瓷器五萬事〜金釦越器百五十事」とあります。大量の貢瓷とともに呉越国は終焉を迎えました。
宋代になっても越窯の秘色瓷の生産は続きました。(右写真 青磁薫炉 浙江省黄岩市霊石寺出土北宋 咸平元年(998) 通高19.5)
『宋会要』「食貨」には「熙寧元年(1068)十二月、尚書戸部上諸道貢物〜越州〜秘色瓷器五十事」とあり、1068年までは秘色瓷器を焼成していたことがわかります。
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結論として、秘色は9世紀半ばから11世紀半ばまで越窯で生産された特別な釉色の青磁、貢瓷としての青磁を指していたといえます。
どうもお疲れ様でした。
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