移動メニューにジャンプ

(No128) 大阪市立美術館 「国宝三井寺展」記念講座 「桃山の華 勧学院障壁画と狩野光信」 聴講記 その1

 平成20年11月29日(土)に、大阪市立美術館に「国宝三井寺展」を観に行って、ついでに標記講演を聴いてきた。
 


「桃山の華 勧学院障壁画と狩野光信」 石田佳也(サントリー美術館学芸部長)



 私は今や時代遅れなのですがスライドを数万枚所持しておりまして、今日もたくさん紹介させていただきます。

 暗くなる前に狩野光信のことを簡単に紹介いたしたいと思います。

 狩野光信というのは、昨年京都国立博物館で狩野永徳の展覧会がありましたが、その永徳の長男です。・・・・・・これで説明が半分済みました。

 1590年に父永徳が没しました。祖父が松栄です。
 光信は信長が建造した安土城障壁画を手伝ったと言われています。

 1565年生まれというのが有力ですが、1561年説もあります。

 『本朝画史』は永楽の弟子山楽の娘婿山雪の文章を山雪の子永納がまとめたものです。そこに光信のことを「画様父意に如かざる故家法を伝えず」とあります。
 山楽、山雪派の文章なので光信を軽視していたといえるかもしれません。

 ただ、そこでも「倭
(やまと)絵の風情、軽柔愛す可(べ)し」とあるのは評価すべきと思います。

 図録の解説によれば、『本朝画印』という書では光信画を「ヤハラカニウルホヒ有テ風情アリ」と評しているそうだ。



 簡単にいうと永徳は豪快、華麗。光信は秋草、優美といえるでしょう。これは光信は、秀吉が既に天下を統一し太閤になってから仕えたということも影響しているでしょう。

 勧学院は大正年間頃まではあまり一般には知られていませんでした。豊臣秀頼毛利輝元を奉行として建造させたものです。
 資料としては『園城寺古記』『義演准后日記』などがあります。

 図録の解説によれば、文禄4年(1595)に三井寺は秀吉から闕所(けっしょ)を命じられ、寺領を没収された。その後、照高院道澄が秀吉に闕所を解くよう働きかけた。
 勧学院は慶長5年(1600)に、秀頼が毛利輝元を奉行として建立したことが、大正14年に発見された「寛政11年(1799)墨書修理銘」により判明した。

 これは鞘の間にある杉戸絵です。あれ?反転してますね。

 どうやら大きなスライド映写機にセットしたスライドが全部左右が入れ替わってたぽくて、バックヤードで大慌てで直していた。

 光信の唐獅子は、永徳のそれより頭が小さいのが特徴です。

 時の権力者の望む画風を察知して、それに合わせきるというのは大変なことと思います。

 これは豊臣秀吉像画稿(逸翁美術館)です。(ここのブログに画像あり) 

 これは千葉県佐倉市の国立歴史民俗博物館所蔵の醍醐花見図屏風です。(ここのブログに画像がある)
 アップにするとシワだらけですね。両側から手を引かれて花見する晩年の秀吉の姿です。


 

 もちろん秀吉には甲冑姿の勇ましい画像も残っています。そこで秀吉がかぶっているのは、払子
(ほっす)なり兜と呼ばれるものです。

   画像は、ここで。又は、ここで。

 銀箔を押された兜であることが分かります。秀吉が奇抜で珍しい素材を好んだことが分かります。

 永徳の唐獅子屏風は、毛利への講和のため贈った屏風と言われています。
 毛利家の陣屋屏風として対面の座に置かれていました。権威を誇示する場に相応しいものです。

 これは大徳寺聚光院襖絵です。梅があれほど巨木になるでしょうか?刀か槍を構える武者のイメージですね。

   大徳寺聚光院襖絵はここで。

 これは檜図屏風です。八条宮智仁親王邸に残されたもので1590年没年に近い、最晩年の画風といえます。

 この檜の姿は龍がのたうっているようですね。

 狩野宗秀
(1551〜1601)は、永徳(1543〜1590)の弟です。永徳に近い荒々しい画風を持っています。

 光信は花などもリアルで、ほぼ実物大となっています。


 1592年に肥前名護屋城が落成しました。この内装は光信が担当しています。

   「肥前名護屋城図屏風」ここで。

 3歳で夭折した秀吉の長男鶴松の菩提を弔うため京都に建造された祥雲寺の障壁画は長谷川等伯らが担当しました。

 狩野派の画史である『丹青若木集』によると光信の秀吉は手が小さいことが特徴であると書かれています。キリギリスの手、というような表現もされています。

 秀吉の背後には草山水(そうさんすい)が描かれています。

 秀吉は玉澗(ぎょっかん。宋末元初の画僧)の草山水を好んだと言われています。
 草山水は別名溌墨山水とも呼ばれ、墨が淡いのが特徴です。

 狩野法眼永真(・・・・とメモにあるが、どのような場面で紹介されたのかさっぱり思い出せない)

 これは1600年の関が原の合戦の絵巻屏風です。
 ここは大谷吉継が切腹しているシーンですが、何だかほんわかした雰囲気になっています。

 ここは小早川秀秋の陣です。微妙ですね。

 次々に紹介されたスライドの中で、腹をくつろげて切腹しようとしている大谷吉継主従の絵があった。

 先生が紹介された絵巻そのものは探し出せなかったが、関が原の屏風は、

関ヶ原合戦図屏風(鳥取市渡辺美術館) (〃)

関ヶ原合戦図屏風(岐阜市歴史博物館)

関ヶ原合戦図屏風(関ヶ原町歴史民俗資料館)

そのほかいろいろとここで。

 智積院には長谷川等伯の国宝「楓図」長谷川久蔵作の国宝「桜図」が残されています。

 智積院のHPはここから。

 長谷川久蔵は、等伯の長男。26歳で夭折した。

 「楓図」はここここで。
 「桜図」はここここで。両方セットはここで。

 



  


 この後、三井寺展で展示していた勧学院一之間、ニ之間の障壁画について解説しているが、ここでいったん切る。

 どうもお疲れ様でした。

 
  

inserted by FC2 system