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(No129) 大阪市立美術館 「国宝三井寺展」記念講座 「桃山の華 勧学院障壁画と狩野光信」 聴講記 その2

 平成20年11月29日(土)に、大阪市立美術館に「国宝三井寺展」を観に行って、標記講演を聴きに行った・・・・・・の続き。
 


「桃山の華 勧学院障壁画と狩野光信」 石田佳也(サントリー美術館学芸部長)



224 重文 勧学院客殿障壁画 「四季花木図」
 勧学院一之間の障壁画は、金箔地に濃密な色彩で描かれています。

224 重文 勧学院客殿障壁画「花鳥図」
 一方、ニ之間の障壁画は、素地に淡彩で描かれ、金箔は使われていません。

 また、一之間では鳥が全く描かれていないのが特徴です。
 一般に障壁画では、幹はブラウンで描かれ、牡丹や松が配されるのが通常です。
 しかし、観学院障壁画では松は少ししか描かれておらず、牡丹が描かれていないのが特徴です。
 その代わり、自生しているような草花が描かれています。

 手前に杉、向こうに檜が描かれています。
 根元は優美な感じで描かれています。
 また、奥の木々は扇を持って舞うような樹勢に描かれています。

 杉は玉澗を思わせる筆致で炎が燃え上がるような姿に描かれています。

 奥行きの表現に優れ、深山に誘われるかのようです。
 鉾杉の背後に山桜、檜は八重桜に続く。石楠花が描かれ、風にそよぐ感じが表現されています。

 画面全体で金箔の閉める割合が大で、白い花が多いのも特徴です。

 

 ニ之間の障壁画は、松が描かれています。松は子孫繁栄を象徴するめでたい木です。
 また、遠近感が表現され、水禽が描かれています。

 金箔は使われていません。そのせいか、いささか間が抜けて見えます。
 二之間の障壁画は細部のタッチが一之間と少々違っており、別の画家が描いたのでは?という説もあります。

 ただ、鴛鴦の描き方などをみると、リアルに鳥の羽根を描こうとしており、光信と共通するような所もあります。
 岩の描き方は一之間と同じです。

 二之間の作者は、弟の狩野孝信(1571〜1618)ではないか、という説があります。

 図録解説によると、寛政11年(1799)墨書修理銘には勧学院南側二室の筆者が狩野光信と記されている。

「実際に一之間『四季花木図』と二之間『花鳥図』を比較すると金地濃彩、素地着色という技法の違い以外にも細部の筆致に違いがあり、二之間は別の画家とする見解もある。〜二之間は一之間に比較して余白が多くとられ、空間構成としては奥行きに乏しく散漫な印象も免れない〜しかし、藤の絡まる松の描写や、山鳥の羽根の精緻な表現など、一之間に準じて日本の自然の山野を清新な感覚で描こうとする意識がうかがえる」

 


 

232 重文 東山 法然院方丈障壁画「槇に海棠図」

 法然院は桃山御陵を移築したといわれます。
 槇の木の根元の感じが光信風です。


233 重文 雪松図屏風 

 下枝の描きぶりなどは筆が走った感じで、孝信に作風が似ています。

 

 妙法院 唐人物図襖

 図録解説によると、文禄4年(1595)に秀吉の先祖を供養する目的で大仏千僧会が営まれたが、その会場として整備されたのが妙法院。


234 日光東照宮 唐船図

  徳川家康遺愛の腰屏風。杉や檜の描き方に光信様が見受けられ、勧学院一之間の襖絵を連想される奥行き表現がとられている。


237 源氏物語図屏風

 
家康の五女、市姫の雛屏風


相国寺法堂天井画 蟠龍図

 
慶長十年(1605)の作。 


高台寺霊屋
(みたまや) 浜松図


都久布須麻神社本殿 桃図襖  天井花卉図

 
いわゆる竹生島神社のこと。『丹青若木集』では光信描く花に蝶がとまったと言われています。

 湖の風で顔料があせているのが残念です。


 狩野永徳が仕えていた頃の豊臣秀吉はこれから天下を取っていく英雄主義の時代でしたが、狩野光信が仕えていた頃の秀吉は、太閤となり公家とのつき合いが中心となっていました。
 書で例えると、永徳は禅宗における墨蹟のような力強さがあり、光信はかなの柔らかさがあった。そんな違いがあったと言えるでしょう。

  冒頭で言われた通り数多くのスライドが紹介された。

 しかも入れ替えのアクシデントで時間が足りなくなったこともあり、ますますスピードアップされたので、後で振り返ると、よく思い出せない。

 散漫なメモで申し訳ない。


  




 どうもお疲れ様でした。

 
  

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