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(No122) 奈良国立博物館 正倉院学術シンポジウム2008 「正倉院展60回 その歴史と未来」聴講記 その3

 平成20年11月3日(月・祝)に、正倉院学術シンポジウム2008という催しに応募して当たったので聴きに行った・・・・・・・・・・の続き。
 


第2部 座談会「正倉院展 60回の軌跡」


【戸田】
戸田聡:読売新聞大阪本社記者)
 それでは年の順ということで1回目の正倉院展もご覧になった青山さん、60回を振り返ってどうですか?

【青山】
青山茂:奈良学研究家。元 毎日新聞社記者)
 第1回目の正倉院展は、なけなしの金をはたいて、3回行きました。当時5円の目録も買いました。

 先ほど西山先生は「御物」を先輩から「ごぶつ」でなく「ごもつ」であると教えられたとおっしゃいましたが、私は「ぎょぶつ」と教えられました。

 御物を庶民が目にするなんてもってのほかと教育されました。
 私は兵隊1年、捕虜1年を経て、昭和21年7月7日に日本に帰りました。その年の秋に正倉院展があったのです。
 御物を見ることができるなんて、夢のようでした。戦後、「民主化」といわれましたが、初めてそれを実感しました。民主化の「実益」というものを感じました。

 私は皇国史観を叩き込まれ、日本に帰ってもなかなか頭の切り替えができませんでした。2年間の大陸生活を経たのですが、よく戦後「大陸ボケ」とか「軍隊ボケ」という言葉が使われましたが、まさに自分がそうでした。

 物価は一日一日上がります。昭和21年に5円だった目録が、22年の第2回では20円になっていました。

 そうした社会的混乱の中での正倉院展で、紅牙撥鏤尺(こうげばちるのしゃく)の赤い色が大げさでなく目につき刺さりました。
 また、白瑠璃の碗も、1200年前のカットグラスが照明できらめくさまを見ていると、この世のものではないものを目にしているようで、夢幻を感じました。


【戸田】
 守屋さんも第1回目の正倉院展をご覧になったそうですが、僧侶の立場で、一般人とは違う思いがあるかと思いますが、どうでしょうか?

【守屋】
守屋弘斎:東大寺長老)
 私の思いも青山さんとほぼ同じです。兵隊に行ってないのは違いますが。

 私は、腹を減らした寺の小僧でした。文化的なものは何もありませんでした。

 長野県というのは教育熱心なところで、長野県の学校の先生が正倉院展のことを知って「5人行くから泊めてくれ」という連絡が入りました。
 私は、案内できるような立場ではなかったのです。図録さえ買えませんでした。でも、子供たちを案内しました。お風呂に入れてあげたのが、せめてものもてなしでした。
 でもみんな熱心で、帰ってからも質問責めで、寝かせてもらえませんでした。

 私は東大寺の小僧だったので、私が住んでいた寺から正倉院まで直線距離で100mほどしか離れていませんでした。

 ある日、「校倉の所で何かしていた」と祖母が言っていたことがありました。
 校倉の下で焚き火をしていて「危ないなぁ」と思ったと言っていたのです。

 その後、校倉の近くに行かせてもらうことができた時、高床なので2mなにがしあるのですが、見上げると、その時のものかどうかはわかりませんが床下が焦げていたのを覚えています。

 私どもは正倉院展が無事終るよう法要をする側の人間なので、観る側の方とは違うと思います。
 これは、後日東大寺の日誌を読んでいて気がついたのですが、昭和21年9月6日に当時の奈良国立博物館の館長が東大寺に来て、住職に「今度、正倉院展をするから無事を祈る法事をしてくれ」と頼みに来られました。住職も一人で即決はできませんので、塔頭会議を開いて、お引き受けすることになったという記録が残っています。

 当時の新聞記事では、無障偈
(むしょうげ)法要が大仏殿で営まれたが、お供えが淋しかったと書かれています。新聞記者にも、あれだけの人が参列したのに、お供えが大根1本かと冷やかされたことを覚えています。

 10月21日が一般公開日でした。前夜から徹夜で行列している人がいました。

 私も朝から行きましたが、すぐ入れるのかと思いきや、何時間も待たされ、ようやく入れたのは昼頃でした。
 近鉄電車の木造改札口を借りてきて、それでスムーズに人が流れたと言われましたが、入った人が展示ケースにはりつき、動かないのです。

 宝物を眺めては、解説を読み、再び宝物を眺める・・・の繰り返しでした。美に飢えていたのでしょう。
 正面に下駄箱を設けていました。女性は下駄や草履だけでなく、足袋まで脱いで裸足でまわっていました。

 当時、正倉院展の総指揮をされていたのは石田氏でした。会期中に「来年からも毎年やろう」ということになったのですが、正直「来年も客が来るのか」と怖気づいたのを覚えています。
 みんなお腹も空いているのに、遠くからやって来ていました。
 すきっぱらで、宿も素泊まりなのに遠くから来て、食い入るように観ていた。その点は現在とは全く違います。


【戸田】
 阿部さんからは、正倉院にお勤めになって、科学的調査などに携われた経験から一言を。

【阿部】
阿部弘:元 宮内省正倉院事務所長)
 私、在職中に東大寺さんには25回ほど法要をしていただきました。無障偈法要と満願法要。その際には須弥壇の上まで上げていただきました。あらためまして有難うございました。
(と、守屋長老に礼) 

 恥ずかしながら私、第1回目は観ていないんです。父や叔父は行ったと思うんですが。

 中学4年の2学期に、日本史の授業が再開されました。戦後、中学生には日本史を教えるべきでないといわれ、中断していたのですね。
 で、日本史の授業で「校倉は、湿気によって膨らんだり、縮んだり・・・」といった記述があったのを覚えているのですが、その一節が妙に頭に残りました。
 その後の人生の歩み方を決めた一言といえるかもしれません。

 第2回目の正倉院展には行きました。灰が残っている火鉢に、「これが1200年前の・・・」と感銘したのを覚えています。

 昭和42年に正倉院に奉職しました。師に薦められたのですが、迷いました。周りに相談すると、誰も「行け!」とは言ってくれないんですね。皆、顔をしかめる。
 私の叔父は大阪の人間なんですが「えらいこっちゃなぁ」と。

 正倉院に関する知識は、ある程度あったんです。
 古墳学の先生と正倉院の調査を手伝ったこともありますし。正倉院の調査は、少しでも雨が降ったら中止になるんですね。扉を閉めてしまうんです。正倉院の扉は内開きですから、開けっ放しにしていると外の湿った空気が全部入ってしまうんです。

 私が正倉院を知ったきっかけは岩波の写真文庫でした。今でも古書店で数百円で手に入ると思います。

 昭和34年には正倉院を訪ねたこともありました。8月に博物館関係の会議があり、その後で和田所長を訪ねたのです。

   資料では、阿部氏は昭和32年に京都大学の大学院を卒業後、京都市美術館の学芸員となったとある。
 和田所長とは正倉院事務所長をつとめた和田軍一のことか。

 宝物というと、玉箒というのを自分で奈良博まで運んだことがあります。
 これは高野箒という植物の枝を束ねたもので、持ち手は鹿革で巻いてあります。枝の細い先で掃くのですが、梱包のしようがないんですね。それで、とりあえず木箱に入れ、私が車の後部座席に座って箱を膝の上に乗せて運びました。
 植物の高野箒や、正倉院宝物の玉箒(子日目利箒)については、こちらのHPが写真入で紹介されている。

 保存については、殺虫や空調に気を配りました。空調といっても現在のようなエアコンではなく、湿度調整が主です。送り込む空気をどうきれいにするかに神経を使いました。

 科学的な実験室をつくろうという話も出ました。科学的なこともできる職員を採用しなくては、とも考えました。

 


【戸田】 
 阪田さんには、展示上の苦労話をお聞きしたいのですが。

【阪田】
阪田宗彦:元 奈良国立博物館学芸課長)
 博物館の仕事を語る前に、私が正倉院を意識するようになったのは、中学2年の頃に岩波新書を読んだからです。
 写真では、調査する職員は白衣を着ていました。正倉院の中身を暴き出す本だと言えるでしょう。

 私は昭和48年に入館しました。それまで彫刻が専門だったのですが、奈良博では金工をやれと言われました。そうすると必然的に毎年5月から12月くらいまで正倉院展に関わるようになるのです。

 そこで、作品や宝物の扱いを叩き込まれました。

 奈良博の工芸室のフローリングで宝物を点検するのですが、正倉院側と奈良博側の職員とが交わすやり取りがハイレベルですごく勉強になるんですね。
 でも、その場でメモを取っていると、何してるんだと怒られる。ですから覚えておいて、後でまとめてメモするのですが、それが写真を入れる箱に三杯になりました。これが私の一番の財産です。

 宝物の力に酔わされた感じです。
 平成13年3月に退館したのですが、正倉院宝物と縁が切れてしまった寂しさを感じました。もう宝物を取り扱うことはできないんだ、と。
 10月、11月は今でも何だか落ち着きません。
 正倉院展の裏方の仕事がどれだけすごいものだったのか、後でわかりました。

 退館後、大学に奉職しました
(石野注 20年3月まで大谷女子大学の教授をされていたようである)が、右ろくろ、左ろくろ、といった実体験に基づく言葉がすっ!と口に出ます。

 先ほどの阿部さんの話にもありましたが、宝物を梱包せずに運ぶのはつらいです。
 私は一度香炉の台を運ぶことになって、どうやって運ぶか迷い、いくつか案を練って、退館したOBに相談したことがありました。いったんは、やはりこの方法で行こうということになったのですが、設営の当日、さあ家を出ようという時にその先輩から「手持ちで行け!」という電話が入ったんです。
 蓮弁が揺れてるんですよ。私が宝物を持って車に乗る。そして、私の身体を別の者が両側から押さえる。
 時速は30kmも出てなかったと思います。
正倉院から奈良博まで、あんなに長いと感じたことはありません。首がガチガチになりました。

 今でも「正倉院」という言葉には身体が反応します。
犬だったら、耳をピクピクさせるという感じ

 奈良博の展示物を扱うのに正倉院展は凄い力になりました。

 宝物の情報量をどれだけ集めるか、それが勝負なんです。
 出展リストが5月に出る。当時は、あまり公刊物はありませんでした。とにかく、ありったけの情報を手に入れるんです。
 実物を見ずして解説を書くなかれ。これが、我々(学芸員)の鉄則です。でも、正倉院展では、それは無理です。

 
辛かった、楽しかった、離れ難くなった。それが正倉院展です。

 

 

 


 少し長くなったので、座談会後半は、次の回へまわす。

 いつものことですが、メモ間違い、記憶間違いはご容赦ください。

 どうもお疲れ様でした。

 
  

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