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(No121) 奈良国立博物館 正倉院学術シンポジウム2008 「正倉院展60回 その歴史と未来」聴講記 その2
平成20年11月3日(月・祝)に、正倉院学術シンポジウム2008という催しに応募して当たったので聴きに行った・・・・・・・・・・の続き。
第1部 研究発表
3.「正倉院古裂の一般公開 〜明治・大正時代の古裂整理〜」
宮内庁正倉院事務所保存課調査室長 尾形 充彦
明治・大正の頃の古裂(こぎれ)の整理については、実態がよくわかっていません。
古裂断片は、
(1) 残欠(原形判別可能な断片)、
(2) 断爛(大きい裂地断片)、
(3) 塵芥(裂地小断片)、
(4) 塵粉(染織品の微細な粉)の四段階に分別されました。
天保4年(1833)に開封された時に、「古切御屏風」がつくられました。
(人物写真のスライド)
町田久成は文部大丞です。
蜷川式胤(にながわのりたね)は外務大録です。
田中芳男は博物館専務です。
内田正雄は文部省六等出仕です。
彼らが明治初期の博物館関係の大物たちです。
明治5年(1872)の壬申検査に関与していたのが町田、蜷川、内田の3人です。
田中は明治15年10月から2代目の博物局長を勤めています。
町田は、それまで初代の局長でした。
当時の内務卿、大久保利通は町田の同郷の先輩ですが、大久保は西郷をあんな形で追った人ですから、同郷だからといって優遇されたのか、どうかはわかりません。
帝国博物館の総長は九鬼隆一です。
美術部長は岡倉覚三です。
明治25年(1892)に宮内庁の股野琢(またのたく)の上申により、宮内省正倉院御物整理掛が新設されました。掛長は杉孫七郎です。
掛員の稲生真覆は、当時の刀剣鑑定のエキスパートでした。
帝室博物館総長は森林太郎です。
三宅米吉、大島義脩がスタッフです。
大島義脩は、最後の旧制高校である八高、今の名古屋大学の初代学長でした。彼は、大正12年まで女子学習院長をしていました。
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九鬼隆一は、明治22年(1889)に初代帝国博物館総長となった。『いきの構造』で有名な九鬼周造は、隆一の息子。
岡倉覚三とは、いわゆる岡倉天心の本名である。
稲生真覆は、「いのう まふり」か何かのように発音されていたと思うが確証はない。google検索しても、『坂の上の雲』の秋山真之の義父(真之の妻は稲生の三女)としか出てこない。
森林太郎とは、いわゆる森
鷗外である。大正6年(1917)に帝室博物館総長に就任したようである。 |
大正2年(1913)に軒が下がって雨漏りする正倉院は解体修理がなされました。その間、宝物は仮庫などに分納されました。
大正3年(1914)に、仮庫に納められた宝物は改修された正倉院に戻されましたが、正倉院の屋根裏にあった唐櫃60合(古裂類は約40合)は戻されずに11月から整理が始まりました。
大正5年(1916)には、正倉院御物修理場が竣工して修理担当の専門職員が置かれました。
この頃、大幡の修理が行われましたが、写真やスケッチは残っていません。
大正14年(1925)の4月15日から30日にかけて「正倉院宝物古裂類 臨時陳列」として一般公開されました。
これは、奈良帝室博物館における最初の正倉院宝物展観です。
この展覧会は一般の人々にも反響を呼び、2万5千人もの入場者を数えました。
大幡には埃除けにセルロイドをかぶせ、傾斜させて展示しました。この大幡はもと15m70cmくらいありましたが、現存するのは10mくらいです。
吊り下げて展示しようという案もありましたが、危険だということで取り止めとなりました。
ガラスの間に挟むのが玻璃装です。
古裂の多くは函装です。
展示するために拡げていたものを、再び50cmくらいの箱におさまるよう折って戻さねばならない。この辺が展示と保存管理のせめぎ合いです。
蝉羽羅が軸装されています。
龍村平蔵(初代)は大正末に、高田義男は昭和5年に正倉院裂の模造を委嘱されました。
川島織物の佐々木多次郎は、古裂展に刺激されて文羅の復元に着手しました。
昭和6年に久保田鼎が退任して、和田軍一が就任しました。
その頃のスタッフが松嶋順正、広岡徳松、西山定郎、藤田うの、坂本ちく、らです。
昭和22年には安藤重衛門がスタッフに加わりました。
昭和26年から29年にかけて、屏風装から箪笥装に変更されました。
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ちょっと尻切れトンボ的な終り方だが、お許しいただきたい。
失礼ながら、尾形氏の講演、よく聞き取れなかったのである。
係員が途中でマイクを直した。どうもそれまでマイクのスイッチが入っていなかったようなのである。
で、しばらくは声が大きくなって、ああ、これで聞き取れると安心したのも束の間、手に持ったマイクの位置が高すぎるのか、ちゃんと声を拾っておらず、また、口調自体もボソボソボソって感じで、何を言ってるのか、ほとんどメモできなかった。
ということで、本編は筆記録というより、テキスト所収の文章などから再構成したものと言ってよい。 |
4.質疑応答
司会進行:戸田聡(読売新聞大阪本社記者)
【戸田】
実は鈴木先生には会場からの質問がなかったので、私から質問させていただきます。
日本人は正倉院宝物の淵源に無関心であったのに、外国人が興味を持っていたとのことですが、なぜ、そうした差が出たのでしょうか?
【鈴木】
町田、内田、蜷川らは天保生まれです。学問は、国学に基礎を置いています。よって、正倉院宝物が元々日本のものなのか、西アジア起源のものではないかという思いがあったのかもしれません。
その点、後日の三宅米吉や九鬼隆一は60年代生まれで、フェロノサ(1958年生まれ)とほぼ同年代です。
三宅や九鬼ら、50〜60年代生まれの者は西洋人の学識や、正倉院宝物への尊敬を素直に日本人へフィードバックしようとしています。
【戸田】
日本人があまり認識していなかったというのは、指導者の考え方ではないかとのことですが、外国人はなぜ知っていたのでしょうか?植民地での経験なのでしょうか?
【鈴木】
例えばファーガソンというイギリス人の建築家がいます。彼は仏教にも造詣が深く、これが敦煌文書にも活きています。中国人は当初、敦煌文書にも関心はありませんでした。やはり植民地経験なども大きいと思います。
【戸田】
西山先生への質問が一番多かったです。
臨場感あふれるスケッチを紹介いただきましたが、こうしたスケッチは公開や出版の予定はあるのでしょうか?
【西山】
残念ですが、今のところそうした予定はありません。
ただ、近代の正倉院のことを東京国立博物館の研究員と3年くらいの計画で研究しています。これの報告書では、スケッチを全巻カラーで出せたらいいなと思っています。
今日は、このスケッチだけ紹介できたらいいな、と思ってました。
【戸田】
戦争中に、奈良帝室博物館以外にどこかに避難したのでしょうか?また、戦時中はどうやって運んだのでしょうか?
【西山】
これは杉山所長に訊いた方がいいと思いますが、旧の正倉院事務所の屋根がコンクリート製だったのですが、その上にさらにコンクリ製の屋根をこしらえて二重に改造しました。
この旧事務所と帝室博物館の2箇所に避難させました。
実は昭和20年に入って戦況が悪化したため、帝室博物館以外の場所に運ぶ作業を8月15日から始めることになっていました。
輸送については、先ほど東京博物館への梱包の様子をスケッチで紹介しましたが、同じレベルでしっかり運搬されていたそうです。
【戸田】
東京博物館の品も奈良博物館に移送されたと訊きましたが?
【西山】
そうです。
また、様々な社寺からも預かりました。
戦後、各々の社寺に手紙を出して、お返ししましょうか、それとも続けてお預かりしましょうかとお訊きしました。
返してくれと言われた所には、こちらで返しに行きました。
戦時下の文化財保護の苦労については、もっと顕彰すべきだと思います。
【戸田】
次は尾形先生への質問です。
「頒布裂」(はんぷぎれ)という言葉が出ていましたが、正倉院の古裂が一般に市販されたのですか?
【尾形】
明治9年(1876)12月27日付けの趣意書によると、古裂を手鑑に仕立て、内務省博物館に配備するとあります。
実際に各博物館に頒布されたかどうかについては記録に残っていないので、上申されただけで実施されなかったのかもしれませんが、奈良博以外にも、東博や京博に正倉院裂があるので、頒布があったのは事実でしょう。
ただ、それがさらに巷に流れたのかどうかはわかりません。
たまに宝物がオークションに出たりします。西陣の織屋さんから「正倉院裂が出てますが、正倉院が出したんですか」と尋ねられたことがあります。そうしたオークション品が明治9年の頒布裂の一部と言われることがあります。
町田久成の進言が大久保利通の殖産興業の方針に合致して用いられたといわれています。
【西山】
奈良博に正倉院裂があるので、どうしたのかな、と思ってました。
正確には借りていたのですね。もらったと思ってました。
【戸田】
それでは、公式に一般に販売されたことはないのですね?(はい)
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最後の「頒布裂」という質問は、実は私の質問である。
回答中に「古裂を手鑑に仕立てて・・・・」という一節がある。これは耳で聴くと「てかがみ」なので、私はてっきり「手鏡」だと思った。
それで、古裂を鏡面の背に貼るなんて、ずいぶんしゃれた物をつくったんだなぁと感心したが、文章を読むと手鑑なので、小型の図鑑形式にでも仕立てたものなのだろうか。 |
いつものことですが、メモ間違い、記憶間違いはご容赦ください。
どうもお疲れ様でした。
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