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(No123) 奈良国立博物館 正倉院学術シンポジウム2008 「正倉院展60回 その歴史と未来」聴講記 その4
平成20年11月3日(月・祝)に、正倉院学術シンポジウム2008という催しに応募して当たったので聴きに行った・・・・・・・・・・の続き。
第2部 座談会「正倉院展 60回の軌跡」(続き)
【戸田】(戸田聡:読売新聞大阪本社記者)
内藤さんは、阪田さんから引き継がれた立場から、一言。
【内藤】(内藤栄:奈良国立博物館工芸考古室長)
私は皆さんと違って、正倉院展と縁ができたのが平成から、それも平成8年からです。ですから、まだ13年ほどしか経っていません。
平成8年に奈良博に入り、阪田工芸室長の下で修行しました。
入館してからびっくりしたことをいくつか挙げてみたいと思います。
(1) 出展リストは正倉院が決める。
奈良博側に決定権がないとは知りませんでした。
(2) 学芸員が自分で梱包する。
通常は、美術品運搬の専門業者が梱包するので、学芸員が自分で梱包するとは思いませんでした。梱包の時は、皆白衣を着るのです。
西山部長が紹介されたイラストでは、担当者がかっぽう着を着ていましたが、そんな感じです。
(3) 法要がある。
展示会の前には無事故を祈る無障偈(むしょうげ)法要。会が無事終ればお礼の満願法要。展覧会の前後に法要があるとは知りませんでした。
(4) 衛士さんの正装
我々は衛士(えじ)さんというのですが、まあ、守衛さんですね。衛士さんが、正倉院展の季節になると「うす」という薄い紙を切って、そこに綿を入れて布団をつくるんです。(石野注 「布団」と言っても寝る布団ではなく、宝物を保護するクッションという意味ではないか)
衛士さんが正装をして、白い手袋をはめ、我々が運んできたものを受け取ってしずしずと階下に下りていったことが印象に残っています。
(5) 西宝庫の幕
西宝庫の床下のところに青と白の幕を張るんです。今は、そこで何も作業をしていないんです。でも、幕を張る伝統は残っている。
昔は、そこで梱包していたんですね。すべて第1回とか第2回からの伝統が残っている。
梱包は宝物に関する知識がないとできないんです。これまで60回。3回ほど東京でやりましたし、1回だけとんだけれど、連続性がある。
昭和21年からの伝統を受け継いでいるんです。
私、もうすぐ「伝統芸能」に指定されるんじゃないか、と思っています。(会場笑い)
なぜ自分で梱包しなくちゃならないのか、最初は疑問でした。でも今では、それが正しかったんだと思っています。
【戸田】
時間はオーバーしてますが、おもしろいんで、もう少しお話を続けさせてくださいね。
青山さん、校倉の中に入らせてもらった時の話を聞かせていただけませんか?
【青山】
私は昭和27年に和田所長に、校倉の材質調査などをしている時に、我々取材している記者も入れてくれとお願いしたんです。
800件余りの宝物が、三つ倉の中で残ってきた状態が知りたいと訴えたのです。私はその頃、地元の文化美術記者クラブの代表をしていました。和田所長は、けっこうすんなりと倉内に入る許可を与えてくださったのです。
その後、私は転勤となり、宝物も校倉の唐櫃から新宝庫に移されるようになって、この話は沙汰止みになったと聞いています。
私は、正倉院には「伝世品」というか、人智を尽くした保存への強い意志が感じられると思います。
しかも、ただ単に残すだけでなく、匠たちが破壊をとどめるため凄い努力をしている。これは一面、伊勢神宮の式年遷宮にも通じるものだと思っています。
それぞれの匠の研鑽努力たるや、凄いものです。
漆芸の北村たいつ(石野注 奈良博の記事によると、漆芸作家北村昭斎氏の父、大通氏のことを私が聞き間違えたのだと思う)、
表具の安藤重衛門(石野注 本日講演された尾形充彦氏の論文に、安藤氏は1947〜1979年に勤務と書いてある)、
和紙のあべ○○(石野注 下の名前はメモしきれなかった)、
撥鏤(ばちる)の吉田ふみゆきなどです。
彼らは修理も伝承しています。単に残すだけではなく、日本の文化というものを宝物を以て教えてくれています。
正倉院の状態というのは、北倉、中倉、南倉の空気を実際に吸ってこそ身をもってわかるのだと思います。それを考えると、和田所長は、本当にいい機会を与えてくださったと感謝しています。
【戸田】
戦前には身分の高い方には校倉の中で見せたそうですが、青山さんがご覧になったのは、展示の形になっているのをご覧になったのか、それとも保管しているそのままの状態をご覧になったのか、どちらなんでしょう?
【青山】
私が見せていただいた時は、宝庫内に展示ケースがありました。ですから、皇族がご覧になった時のような形です。
ただ、裂(きれ)類は、函の中にありました。
【戸田】
展示も(奈良博が)新館になってだいぶ印象が変わったと思うんですが、守屋さん、その辺はどうですか?
【守屋】
校倉の中の宝庫は素晴らしいものです。新宝庫になってからは、申し訳ないんだけど、味も素っ気もない。
【戸田】
あ、いや。正倉院の方じゃなくて、奈良国立博物館が新館になってから、という意味なんですが。
【守屋】
あ、すいません。
そうですね。第1回、第2回の頃は、来られた方に「”せいそういん”はどこですか?」と尋ねられたことが何度かありました。
「しょうそういん」という呼び方自体が広まっていなかったんですね。もちろん、今では、そんなことを聞かれることはほとんどありません。
【戸田】
阿部さん、新宝庫の構造について教えてください。
【阿部】
収蔵庫としては、近代科学の粋をこらしたというか、庫内浄化装置については他に例をみないものです。
校倉の中で展示・・・ということですが、これは宝物としては一番素晴らしい見られ方だと思います。
私どもも庫内参観というのを考えていない訳ではございません。
ただ、戦後、朝鮮戦争も勃発し、場合によっては日本がまた戦場にならないとも限らないと心配された時期、まず不燃性の宝庫をつくろうということになったのです。
将来的には展示もしたいと考えています。それが一番理想的な姿ですから。
梱包を床下でやっていました。当時、私には抵抗がありましたが、ずっとそれでやってきたわけですから。
作業の時、関係者は全員白い運動靴を履くんです。ちょっと異様な感じですよ。
「こより」を使うというのもあります。「ここが少し汚れていますね」などという時、絶対に指でささずに、「こより」を使って指し示すんです。これも伝統ですね。
【戸田】
阪田さん、先ほどの「こより」の話は、我々にとっては珍しい工夫で非常に興味深く聞いたのですが、他にもこういった工夫はありませんか?
【阪田】
あんまり怖いこと、梱包していないものを運ぶとか、そういうことはめったにありません。
先ほど伊勢神宮の20年ごとの遷宮についてお話がありましたが、私は、これは継承の美学だと思うんです。
正倉院展の場合は形式の継承でもある。
今伝わっている正倉院展の形式というのは、先輩方が叡智をしぼって生み出してきた形式なんで、これは大事に継承していきたい。
例えば、必ず白い布の上に宝物を置くんですね。
これは、戦後間もなくの時期は木綿が不足していた。それで、皇室に豊富にあったのは、木綿じゃなくて羽二重(はぶたえ)だったんです。
ですから、私たちはこれからも公開にあたっては、永遠に白い布の上に置いてゆく。
今の正倉院展の形式というのは、先人によって考えぬかれた結果ですからね。
普通の展示会は正倉院展と同じ方式ではやってませんよ。もっと時代を取り入れ、自由な発想で新しいこともやっていますが、正倉院展は、これまでのように続けていきたい。
【戸田】
内藤さん、そうした継承する立場としては?
【内藤】
宝庫の中で梱包する時、紐が長過ぎたりしたら、先を切って捨てますよね。
でも、その切った先は必ず全部袋に入れておいて、正倉院展が終るまで絶対に捨ててはいけないことになっています。とにかく、ごみも一切捨てないんです。
正倉院展が終り、宝物を返納して、点検を受けて、預かり証書が返ってきて完全に終ったと確認できて初めて捨てることになっています。
昭和20年代の学芸員のあり方は素晴らしいなと感じています。
終了予定時間をかなり越えての終了であった。宝物そのものより、保管し、展示する側のインサイドストーリーといった感じで、非常に興味深い内容が多かった。
いつものことですが、メモ間違い、記憶間違いはご容赦ください。
どうもお疲れ様でした。
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