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2011年8月のひとこと書評(掲示板に書いた文章の転載。評価は★5つが最高)

  8月のひとこと書評の再録です。掲示板そのままでは芸がないので、評点をつけます。★5つが最高。評価基準の詳細は、2001年11月書評のページをご参照ください。




(694) 『ガリヴァー旅行記』(著:スウィフト。訳:平井正穂。岩波文庫)

【第一篇 リリパット国渡航記】
P55 卵を小さな端の方で割ることに甘んじるよりも、むしろ死を選んだ者の数は、度重なる叛乱を通じて総計一万一千人の多きに達した。

P61 君主にいくら誠心誠意忠節を尽くしていても、その野望達成のために犬馬の労をとることを断ったら最後、今までの苦心も完全に無視されてしまうというのは本当だと思う。

P68 ここでは詐欺の方が盗みよりも大きな犯罪だとされている。そして、その罰として死刑を科することもまれではない。

P71
 忘恩行為は〜この国では死刑に値するとされている。〜
〜親たちにその生んだ子供の教育を託するのは全くもっての他だ、というのが彼らの到達した意見である。

【第二編 ブロブディンナグ国渡航記】
P167 〜人間はどんなに面目を保とうとしても、相手が自分とは比較にならないぐらいけたはずれの人間である場合には、そんなことはてんで問題にならないということを、私はしみじみ感じた。

P178 お前の国の連中は自分たちが選んだ代表者たちに政権を委ね、納得ずくで統治されているのではないのか、もしそうだとしたら、みんなは誰を恐れ、誰と戦おうとしているのか、わたしには想像もできない、と言われた。

P180 「立法者になるために最もふさわしい資格は、無知と怠惰と背徳だということをはっきり証明した。〜」

P184 すべての臣民に崇拝されている、君主が、ヨーロッパでは到底考えられない「つまらぬ不必要な配慮」から、人民の生命も自由も財産も完全に意のままにできる機会を、みすみすその手からのがしてしまったのだ。

P190 この国でも、長い年月の間には、全人類が免れえないあの病弊、つまり貴族の権力欲、人民の自由欲、王の絶対的支配欲、この三つによって悩まされてきたというのである。

【第三篇 ラピュータほか渡航記】
P226 紙の上で、定規と鉛筆とコンパスを用いてやる作業にかけては、実に巧みであるが、こと日常生活に関する作業や動作となると、これくらい不器用で下手くそで始末におえない連中を、私は未だかつて見たことがない。

P245 これらの研究機関では、教授たちは農業や建築技術の新しい法則と方法だとか〜の開発に夢中になった。〜
〜ただ惜しむらくは、このような企画が何一つまだ完成されていなかった。〜
 では、こんな状態だから意気沮喪しているかというと、事実はその逆で〜計画達成に猛進していた。

P259 政治に関する〜研究施設では〜私の見るところでは全く正気を失っているとしか思えなかった。

〜この不幸な連中が練っていた計画は、寵臣を選ぶに当たってその知恵、能力、品性を基準にして選ぶべきことを、いかにして国王に進言するか、というものであった。
 さらに、その基準としては、諸閣僚に一般大衆の福祉を重んずべきことを教えうること〜等々、未だかつて誰も考え及ばなかったような荒唐無稽も甚だしい妄想に類することをあげていた。

【第四篇 フウイヌム国渡航記】
P322 〜いやしくもなんらかの知覚をもっている生きもので、このヤフーほどあらゆる点で嫌らしいものを私は未だかつて見たこともなかった。

P335 この国では「疑う」とか「信じない」ということが殆ど無縁な事柄なので〜どうしたらよいのか分からないからである。

〜われわれが話し合うということの効用は、互に理解し合えるということであり、次に事実についての情報を得るということである。それなのに、もし先方が「ありもしないことを言った」としたら、今のべた目的は。両方とも駄目になってしまう。

P342 権力や政府や戦争や法律や処罰等々、といったものを表わす適当な言葉が、この国の言語にはなかったのだ。

P345 〜こういった戦争の中でも最も激烈で血腥く、また果てしなく続くものは、意見の相違から、それも特に、どうでもよいつまらない事に関する意見の相違から、生じる戦争なのだ。

P359 〜「首相」という連中がどんな人間かということを説明するとすれば〜富と権力と肩書に対する激しい欲望の他はいかなる情熱をも必要としない人間、といったらよかろう。

P399 〜理性的動物ともあろうものが、何かに「強制」されるということは、とうてい彼らには考えられないことであって〜ただ忠告乃至「勧告」だけが考えられる〜。

P414 〜家の者たちを見た時、私の心中に忽ち増悪と嫌悪と軽侮の念だけがこみ上げてきた〜。
〜自分がヤフー族の一匹の雌と交わってそいつに数匹の子を生ませたことを考え、私はただもう堪え難い恥辱と当惑と恐怖に襲われどおしであった。

P422 早速機会あり次第、艦船が派遣され、土着民たちは追い払われるか皆殺しにされる。〜大地は、原住民の流す血で一面に染まる。〜ひたすら虐殺に専念する言語道断な一隊、これこそ〜「現代の移住民」の偽らざる姿なのだ。
 しかし、今言ったことがけっしてイギリス国民のことをさしているものでないことは、ここで断っておきたい。



★★☆

 小人国(ガリバーが巨人)が絵面的にもおもしろいし、巻頭編であるためか、絵本などで紹介され有名。しかし、他の編、特に「馬の国」編がすごく深いんだ、ということを聞きかじりで知っていた。
 訳文のせいか、もって回った表現が多く、それほど感動はしなかった。しかし、馬の国から人間界に帰ってきた時の孤独感みたいなのは胸を衝かれた。

 



(695) 『ローマ人の物語 ローマは一日にして成らず(下)』(著:塩野七生。新潮文庫)

P13 抽選と日給を組み合わせたこの制度は、歴史上最初の、そして影響力を持つ国家として唯一の、完璧な直接民主政の例となった。

P15 ギリシア史では、彼の前にも後ろにも、三十年間つづけて民主政体下で権力をにぎりつづけた例はない。

P19 アテネでは、貧しいことは恥ではない。だが、貧しさから脱出しようと努めないことは、恥とされる。〜ここアテネでは、政治に無関心な市民は静かさを愛する者とは思われず、市民としての意味をもたない人間とされるのである。

P20 二千五百年を経て人類は進歩しているはずであるのに、このペリクレスのような、簡潔で明快で品位にあふれた演説ができる指導者を、二十世紀末に生きるわれわれは、はたしてもっているであろうか。

P21 〜ローマは、このアテネの模倣をしていない。また〜スパルタの模倣もしなかった。
〜絶頂期にある国を視察して、その国のまねをしないのは、常人の技ではない。

P25 〜ペリクレスの卓越した才能に接すれば接するほど、彼ほども非凡な人間には、人類はまれにしか恵まれないことも痛感したのではないか。そしてさらに、これを痛感すればするほど、ペリクレスほどの人物をもってしてはじめて充分に機能しうる民主政体に、システムとしての弱点を見たのではないかと想像する。

P26 〜『ペロポネソス戦役』〜のツキディデスは、ペリクレス時代のアテネを次のように評している。
「外観は民主政だが、内実はただ一人が支配する国」
 ツキディデスに認識できて、あのときのローマ人三人に認識できなかったということにはならない。見える人には、常に見えるのである。

P34 執政官の召集に、一人として彼らは応じなかった。〜ローマ史上最初のストライキである。

P36 紀元前494年〜平民階級の利益と権利を守ることを目的とした、専任の官職の設立が決まった〜日本語では「護民官」と訳され〜この官職に就くには、平民階級の出身者であることが絶対の条件であった。〜
〜これは実に巧妙な対処のしかたであった。
 まず第一に、執政官も元老院も、これ以後は二人の護民官と交渉すればよいのである。〜
 また、第二だが、護民官は拒否権をもつが、それには、戦時には行使できないという条件がついていた。ローマは〜ほとんど毎年どこかと戦争してきた国である。〜拒否権も、行使できる機会はめったにない〜。

P39 ローマの平民の泣きどころは、彼らの団結力の欠如ではなかった。彼らの名誉心の強さにあったのだ。
 敵が国境に迫っていると聞けば、不満も忘れて兵役に志願した。〜
 また、もしも貴族が自分たちの権利に安住し、自らも犠牲を払うのを回避したのであったら、平民たちの不満も大義名分をもてた〜が、当時のローマの貴族たちはノーブレス・オブリージュの標本のようであった〜。

P41 〜ローマの平民〜らの出した次の要求が、法の成文化であった〜
〜成文という〜客観性をもった形にすべき〜という、至極もっともな要求〜であるだけに、貴族側も無視できなかった。〜
〜それで、成文法では先進国であるギリシアに、視察団が派遣されたのである。〜
 紀元前449年〜「十二表法」が発表された。内容は〜協調派の貴族ですら唖然とするものだった。
 新しく加えられたものは一つもなかった。

P50 カエサルが最も信頼していた副将のラビエヌスは、ポンペイウスの側につくためにカエサルの許を去った。〜政治的信条によって〜選んだのではない。〜親代々の「クリエンテス」であったからだ。
 〜カエサルも〜彼の”裏切り”に、一言も非難がましい言葉を浴びせていない。

P56 ローマははっきりとエトルリアを敵にまわした。敵にまわせたということは〜下降線に入ったエトルリアの勢力と上昇するローマの力が、この時期に交叉したと考えてよい〜。

P83 紀元前367年、ローマ史上画期的な法律とされる「リキニウス法」が成立した。
〜今後とも、ローマは寡頭政体、つまり少数指導体制で行くことを明らかにした〜。
 次いで、共和国政府のすべての要職を、平民出身者にも開放することが決まった。
〜これまで平民たちが求めていたのは〜要職を貴族と平民で配分する方向〜差別を撤廃する目的でなされたことが、反対に差別を定着させる結果になる。〜
〜結果がどう出ようが、自由な競争の結果なのだから、両派とも文句のつけようがない。

P86 アテネでは〜寡頭政派と民主政派は、二大政党であった〜。〜
 一方、ローマでは、貴族と平民が交代で政権を担当する方式はとらなかった。既成勢力が新興勢力を抱き込むのが、ローマでの常套手段になっていくのである。〜
 それにつけても、現代のわれわれが疑いもせずに最善策と信じている二大政党主義は、信じているほど最善の策であろうか。現代では最も長命な組織であるカトリック教会は、典型的な抱きこみ方式を踏襲してきた組織である。

P101 危機管理システムである以上、ローマは独裁官を乱発していない。

P116 貴族派と平民派に二分裂していたからこそ、蛮族にすぎないケルト人にいいようにされた〜が〜紀元前367年の「リキニウス法」によって、解消することに成功した。〜
〜外政〜面での改革は、これより2300年後のイギリスの歴史家トインビーをして「政治建築の傑作」と言わせる〜他国との関係の見直しであった〜。

P120 〜元同盟諸国は、ローマを見限っただけでなく、この機にローマを征服しようという気持ちまで起こした〜。
 これにはローマもよほどこりたとみえ、紀元前338年、対外関係の抜本的な改革に着手した。
〜この時期になってようやくそれができるようになったのは、ローマの力が完全にもとにもどったからである。この種の提唱も、力のない者が言い出したのでは誰も耳を貸さない。

P123 前4世紀半ば以降のローマ人は、他国との同盟関係を、その国とローマの間にのみ限る形態に改めた。
〜加盟国間で問題が生じた場合でも、当時者同士では解決を許されず、ローマの仲介によって解決するとも決められた。
 この形態を強制できたのは、ローマは勝者で、それ以外の国々は敗者であったからで〜非平等的な同盟関係であることは確かだ。しかし、敗者には財産没収と奴隷化が常態であった時代、ローマ人の考えたこの方式は、異例に寛容であった〜。

P129 ローマは、敗者を隷属化するよりも〜「共同経営者」にするという、当時では他国に例をみない政略を選択したのである。

P132 ローマ人は〜”高速道路”を建設し〜この”高速道路網”は「ローマ連合」が有機的に機能するうえでの、重要きわまりない動脈になる〜。
アッピウスは〜人口が増大する一方の首都ローマを、道路と上下水道を整備することで、多くの人間が快適に住める都市に変えることを考えた人物である。

P137 〜間接税がもっぱらであった古代の税制では、直接税は軍役で払うのが普通だった。それゆえに軍務は、別名「血の税」と呼ばれた。

P142 ローマ人のほかにただ一人、新しい血の導入の有効性に着目し、それを積極的に推し進めようと考えた人物がいた。〜紀元前4世紀後半のローマ人にとって、神の恵みにも等しい幸運は、この人物の視線が、ローマのある西方ではなく、東に向いていたことである。

P156 ローマの戦士は、敗退には慣れていても、降伏には慣れていなかった。
〜前321年のこの「カウディウムの屈辱」も、絶対にくり返してはならない恥辱とされるようになる。

P158 敗北を喫した後のローマ人の態度は〜敗軍の将は罰せられない。〜解任したり罪に問う必要はないのだ。恥に苦悩するという罰を、充分に受けたからである。

P167 自国防衛の気概で押してくるケルトの騎兵の猛攻に〜重装歩兵までがパニック状態になる。
 それを見たデキウスは、ローマに勝利をもたらしてくれれば自分の命を捧げると、神々に向かって大声で叫んだ。敗走しはじめていたローマ兵も、これを聴いて自らを恥じ、先頭に立って敵陣に突っ込んでいく司令官の後につづいた。

P183 ギリシア人は、自分たち以外の民族はすべて、バルバロイ、蛮人と呼ぶ習慣があった〜。

P188 〜ローマは〜捕虜を身請けする身代金をもたせた特使を、ターラントのピュロスの許に派遣した。この特使にピュロスは言った。
「わたしは〜商売をしに来たのではない。〜決着は、戦いの場でつけるとしよう。ただし、捕虜になっているローマ兵は、講和が成立したときの前祝いとして〜連れ帰ってけっこうだ」
〜帰還したファブリチウスを迎えて、ローマの元老院は討議を再開し〜拒絶することで一致した。600人のローマ兵は〜ターラントにもどって行った。一人も欠けていなかった。
 それとちょうど同じ時期〜ピュロスの侍医からの秘密の使者ということで、ピュロスを毒殺する用意はあるが、その代償として何をしてくれるのかをローマに問うてきたのである。元老院は、ことの一部始終をピュロスに伝えた。感謝したピュロスは〜ローマ兵の捕虜600人を再び送り返し〜ローマ側も〜捕虜になっていたギリシア兵を送還した〜。

P196 〜前267年、ローマははじめて、自前の通貨をつくりはじめた。〜自国の通貨をもったということは、ローマが対外的な関係をもちはじめたということである。

P202 なぜ2000年も昔に生きた人間のローマ観のほうが、私にはしっくりくるのか。〜
 第一は、ローマの興隆の因を精神的なものに求めなかった、三人の態度である。〜
 第二は、彼ら三人はキリスト教の普及以前に生きたのだから当たり前にしても、私もまたキリスト教信者ではないということである。〜
 第三は〜フランス革命によって打ちあげられた自由・平等・博愛の理念に、この人々は少しも縛られていないという点である。
 第四〜は、問題意識の切実さにあった〜。
 彼らは三人とも〜あれほども高度な文化を築いたギリシアが衰退し、なぜローマは興隆をつづけるのか、と問いかけた〜。彼ら自身が衰退したギリシア民族に属していたから、この問題は切実な意味をもっていた〜。
〜私は常々、軍事力だけで一千年間も、あれほど多くの民族を押さえつづけていかれるはずはない、と考えてきた。〜
 ローマ興隆の要因について〜
ディオニッソスは、宗教についてのローマ人の考え方にあった、とする。人間を律するよりも人間を守護する型の宗教であったローマの宗教には、狂信的傾向がまったくなく、それゆえ他の民族とも、対立関係より内包関係に進みやすかった〜。
ボリビウスとなると、ローマ興隆の要因は、ローマ独自の政治システムの確立にあったと、と考える。〜王政の利点は執政官制度によって、貴族性の利点は元老院制度によって、民主政の良いところは市民集会によって活用するというローマ共和政独自の政治システム〜の確立によって、ローマは国内の対立関係を解消でき、挙国一致の体制を築くことができたからである。
 一方、プルタルコスとなると、ローマ興隆の要因を、敗者でさえも自分たちと同化する彼らの生き方をおいて他にない、と明言している。〜
〜ローマ興隆の要因を求めるならば、この三点全部である〜。
〜ディオニッソスのあげた宗教、ボリビウスの指摘した政治システム、プルタルコスの言う他民族同化の性向はいずれも、古代では異例であったというしかないローマ人の開放的な性向を反映していることでは共通するからである。


★★☆

 
 
「このペリクレスのような、簡潔で明快で品位にあふれた演説ができる指導者を、二十世紀末に生きるわれわれは、はたしてもっているであろうかとある。21世紀に生きる我々が国家のリーダーを決めようとする時、他の者のそれより良かったと賞讃されている演説が「どじょう」である。情けない話ではないか。




(696) 『十八史略の人物学』(著:伊藤肇。PHP文庫)

P16 〜先生は「学問のしかたには四つの段階がある」と言われ、『礼記』にででくる「蔵、修、息、遊」〜を解説された。
 「蔵」は一所懸命に記憶して、身体に取り入れること。〜
〜消化作業が「修」である。〜学問が呼吸と同じになるから「息」
(いきす)となる。
 そして、最後の「遊」の段階〜学問にゆったりと遊ぶ〜。

P22 「人を見る明」〜
 第一に、人相を見る。〜
 第二に、出処進退の退を見る。
 第三に応対辞令〜。
 第四に〜徳の人であるか〜。

P28 〜企業にも、必ず通らねばならぬ四つの麻疹がある。
 第一は、赤字。〜
 第二は、脱税摘発。〜
 第三は、労働争議。〜
 第四は、お家騒動。

P110 一つの問題に対して、いろいろ解答をする。これが知識である。
 だが、事に当たって〜判断するのは、人格、体験とそれから得た原理原則である。それが見識である。〜反対、妨害を断乎として排除し、実行するのが胆識である。

P125 〜われわれ凡人のおっちょこちょいは、つい〜安請合いして〜苦しみを味わう。

P130 〜曹参は大演説をぶちあげた。
「〜陛下は高祖皇帝にはるかに及ばず、私めは〜蕭何にはるかに及ばず、言うなれば、及ばざる者二人が力を合わせて国政をやるのですから〜余計なことは一切やらぬにこしたことはございません」
 恵帝は、すっかり兜を脱いでしまった。

P152 「〜一日、かの人に接すれば、一日の愛生ず。三日、かの人に接すれば、三日の愛生ず。しかれども予は接するの日を重ね、もはや去るべくもあらず。〜」

P165 司馬遼太郎『播磨灘物語』の一節〜
 武士の悲しみとは、合戦のつど〜常に旗幟をあきらかにせねばならぬところにある。

P202 孔子が実力者、少正卯〜の五悪を列挙した。
一 万事に細心で〜ポーカーフェイスで、極めて陰惨な怖ろしい手を打ってくる。
二 ひとつひとつ、やることが不公正〜ながら、表面だけは〜公正を装い、いかにもしっかりしている。
三 最初から最後まで嘘八百を並べ立てているの〜真実らしく聞える。
四 極悪非道〜くせに〜ものごとを克明に記憶していて〜博覧強記である。
五 あくどいことをやる反面、多くの人に恩恵を施し〜善人みたいに言われている。

P219 「吝」といえば、これを売りものにして得々としている阿呆な二代目がいる。
 もともと、人間的教養がないのだから、無理もないが、単行本まで出しているのは、よほど、頭の構造がおかしいのではないか。

P250 フランスの文学者モンテルランは「この生涯において、何度も読み返し得る一冊の本をもつ人はしあわせである。さらに数冊をもち得る人は至福の人である」と言っている〜。

P269 〜優秀な人間をいかに組織化するか、ということがトップの優劣を決める。

P284 〜「帝王学」には三つの柱がある。
一.原理原則を教えてもらう師をもつこと 〜
二.直言してくれる側近をもつこと 〜
三.よき幕賓をもつこと 〜

P287 文侯にこうまで言われては〜李克は、おもむろに口を開いた。
〜宰相の器〜を見る五つの物差しを明示した〜
 第一に「居テハソノ親シムトコロヲ視ル」〜
 第二に「富ミテハ其ノ与ウルトコロヲ視ル」〜
 第三に「達シテハ、其ノ挙グルトコロヲ視ル」〜
 第四に「窮シテハ其ノ為サザルトコロヲ視ル」〜
 第五は「貧シテハ其ノ取ラザルトコロヲ視ル」〜


★★

 巻末の小島直記の解説の「少し急ぎすぎているのではないか。著作の密度がうすくなってきた。くり返しが目立つようになったぞ」といわねばならぬ・・・とあるのに同感する。

 

 



(697) 『酒池肉林 中国の贅沢三昧』(著:井波律子。講談社現代新書)

P11 の贅沢は、基本的にまったくソフィスケイトされない、即物的なものであった。

P25 阿房宮〜が宇宙の支配者たらんとする始皇帝の意志をあらわすものだとすれば、驪山陵はまぎれもなくあの世、つまり冥界を支配しようとする始皇帝の願望をあらわすものにほかならない。

P34 〜文帝独孤皇后はいたって仲睦まじく、男女関係にきびしい皇后をはばかって、文帝は側室もおかず、当時にしてはめずらしく一夫一婦制を厳守し、五男五女すべて皇后の実子という模範的な夫ぶりだった。

P35 楊広は〜側近の者がレインコートをはおるようすすめると「〜私ひとりが着るわけにはいかない」などといって〜すっかり評判をあげたりした。

P37 秦の始皇帝、隋の煬帝(楊広)と、桁はずれの奢侈で聞える二人の人物が、いずれも「父親殺し」の容疑者〜蕩尽につぐ蕩尽によって〜原罪意識を忘れようとした〜。

P53 〜皇帝の贅沢は、いわば無人の荒野を一人行くという具合で〜貴族の贅沢の場合、その起動力となるのは、競争の原理にほかならない。

P56 〜西晋きっての味覚の鋭さをうたわれるのは、なんといっても荀勗という人物である。

P60 守銭奴貴族の代表選手に数えられるのは〜王戎である。

P134 性的不能者の宦官は、王朝が腐りはじめた時〜愚かな皇帝に寄生して陰湿に繁殖し、その腐敗を加速度的に進行させる。後漢のみならず、古来、宦官の滅びる時と王朝の滅びる時が奇妙に一致するのは、おそらくこのため〜。

P141 〜全身これ宦官的存在悪の化身ともいうべき人物が〜魏忠賢である。


★★☆

 律っちゃんの著作としては、ひねりが効いてないというか、若干物足りない。



(698) 『中国の隠者』(著:井波律子。文春新書)※「初めて」あり

P8 は〜箕山の隠者、許由に白羽の矢を立てた。しかし、許由は〜言下に拒否したばかりか、汚らわしいことを聞いたと、頴水の流れで耳を洗ったという。

P13 〜中国の隠者には〜一方の極には、許由巣父に象徴される、何者にも生活を楽しもうとする自由志向型の隠者が位置し、もう一方の極には、伯夷叔斉に象徴される、緊急避難的に隠遁の道を選び、わが身を律しつづけようとする〜。

P28 東方朔は歯に衣きせずズケズケものはいうけれど、人の心理を読む洞察力に長けており、武帝の逆鱗に触れる失言はけっしてしなかった。

P43 〜山濤は司馬政権の重臣となり、その立場をフルに活用して、かつての盟友嵆康とその遺児を庇護する役割をしっかり担ったことになる。これ以後、中国の王朝交替期には、転向者の汚名を着せられながら、権力の中枢に位置し、新王朝から危険人物視される友人を救う役割を、ひそかに担う人物を必ずといってよいほど出現する。山濤はそうした転向者の走りにほかならない。

 〜王戎は、傾きかけた西晋にあっさり見切りをつけ、なんと吝嗇家の俗物のポーズをふりかざして〜政務を放擲してしまう。

P54 王導はのらりくらりしながら、ツボをはずさぬ老練な大政治家だったが、王羲之は、そんな気骨の折れる生き方はてんから性に合わない。
〜東晋中期の風狂貴族、王羲之の権力忌避、世俗離脱志向は〜生きかたにおける美学だった〜。
 王羲之は悠々自適の隠遁生活を送ること十年〜五十九歳で死去した。

P82 魯迅は〜不退転の戦いをつづける刑天に共感する陶淵明自身、平然とした隠者のポーズの陰に、はげしいパトスを秘めた人物だったと述べている。

P124 〜米芾はいきなり「王略帳」を奪い取って懐に入れ、譲ってくれないなら死んだ方がましだというや、水に飛び込もうとする。〜
〜人から預かった作品を巧みに模写して贋作を作り、いざ返却する段になると贋作の方を渡し、本物は自分の物にしてしまうことも、しばしばだった。

P168 〜『本草綱目』を著した李時珍、〜『農政全書』を著した徐光啓、〜『天工開物』を著した宋応星、〜『徐霞客遊記』を著した〜徐霞客の四人は、そうした明末科学者の代表的存在にほかならない。

P172 〜王氏は、「天下四方をめざすのは、男として当然のことです」と、遠遊冠(旅行帽)を作ってやり、息子を送り出したという。
〜王氏は母を失った幼い孫の養育を一手に引き受けながら、旅に憑かれた徐霞客を気丈に送り出し、留守を守りつづけた。

P203 〜八大山人は〜貧乏な士大夫や町の庶民に酒をふるまわれると、ごく少量でいい気分になり、酔った勢いで一気呵成に〜描きあげ、惜しげもなくくれてやる〜。高級官僚や財産家〜がいくら金品を積んでも、八大山人はけっして引き受けようとはしなかった。

P217 袁枚は豪奢な随園、贅沢な食事、大勢の側室等々、贅沢な生活を維持する費用をどこから捻出したのだろうか。なんと彼はそれを筆一本で賄ったのである。〜文人袁枚のこうした生活形態はまさに前代未聞のものにほかならない。

★★★

 「転向者の汚名を着せられながら、権力の中枢に位置し、新王朝から危険人物視される友人を救う役割を、ひそかに担う」山濤、かっこいいぜ!

 米芾は、芸術的には素晴らしいが、人間的にはとんでもない奴だな。

 徐霞客という人物は知らなかったが、本人より母の偉さが印象的。

 


(699) 『中国文章家列伝』(著:井波律子)※「初めて」あり

P10 〜歴史編纂の執念は、司馬談から子の司馬遷へと移植されたのだった。ときに司馬遷三十六歳。

P14 〜武帝は烈火のごとく怒った。司馬遷が暗に〜李広利を誣告したと、受け取ったのである。〜李広利は〜最愛の寵姫、李夫人の兄であり、武帝は彼をやみくもにかばおうとする心理状態に陥っていたのだ。
〜司馬遷はなぜ武帝の逆鱗に触れる危険を冒し、あえて正面切って李陵を弁護したのだろうか。
 第一に考えられるのは、司馬遷の誤算である。

P19 〜公孫弘に対して〜歯に衣きせぬ非難を浴びせ、こんな薄汚い人物を重用した武帝を暗に手厳しく批判するのである。このように媒介項を通じた、司馬遷の武帝批判は、それこそ枚挙に暇がないほと見える。

P28 「第二次党錮の禁」のさい〜張倹という清流派知識人が〜孔融の兄の孔褒のもとに立ち寄った。〜
〜孔褒・孔融兄弟は政治犯をかくまったかどで、逮捕・投獄されてしまう。このとき、孔融は「かくまったのは私だ。私を処刑せよ」と言い張り、兄の孔褒は「〜私を頼って来たのだ。〜私が甘んじて罪に服そう」と主張した。〜母もまた「家のことは年長者の責任ですから、私を処刑してください」と言って聞かない。

P32 建安七子のうち孔融以外の六人も〜曹操は彼らの文学的能力を買ったのであり、買われた彼らの方も「文人」として〜期待される役割をこなそうと努めた。
 しかし、孔融だけはそうではなかった。彼は小なりといえども、かつては群雄の一人であり、その意味では曹操と同格であった。しかも、曹操が〜芳しからぬ家柄の出身であるのに対し〜孔子の子孫という、超名門の出身である。

P40 孔融の死後、その妻子もあいついで処刑された。〜妹は動揺する兄をたしなめ「死んだらお父さんやお母さんに会えるのよ。それこそ望むところじゃないの」と言って、平然と首斬り役人に首をさしのべ、顔色一つ変えなかったという。

P48 〜「清談」や〜「五石散」の服用も、何晏に始まるというのが定説である。

P55 道士の〜孫登はポツンと言った。「きみは才能はすぐれているが保身の術が欠けている」。

P59 もはや恐いものなしとなった司馬昭は、いっさいの在野批判勢力を封じ込めるべく、居丈高な姿勢を強めた。嵆康が危ない。そう考えた山濤は〜嵆康を後任〜として推薦した。山濤の厚意は重々承知しながら〜この推薦をきっぱり拒絶するとともに「山巨源(山濤)に与うる絶交書」を著して、山濤との長年の交友にピリオドを打った。

P67 おそらく山濤嵆康の死後〜ひそかに嵆康の家族を見守り保護しつづけて来たのであろう。そんな山濤の助言を聞き入れ、嵆紹は西晋王朝に仕える決心をする。
〜彼は侍中
(天子の顧問)として、泥沼化した内乱(八王の乱)の渦中で、一人踏みとどまって暗愚な恵帝を懸命に守り〜殺害された。〜事が一段落したあと、側近の者が血のついた衣服を洗おうとするとすると、恵帝は、「これは嵆侍中の血だ。洗ってはならぬ」と言ったという。〜嵆紹の捨て身の忠誠は、このあやめも分かぬ皇帝の心さえ揺さぶったのである。

P84 西魏軍の江陵侵入を前に〜元帝は〜顔之推らがせっせと整理を進めていた、十四万巻にのぼる蔵書に火を付け〜もろともに焼け死のうとした〜。

P90 二度にわたる捕虜体験、西魏からの脱走、北斉への亡命。何度も死地をくぐり抜いた顔之推にとって、頼れるのは自分だけ。国家であれパトロンであれ、自分以外のものにまるごと身を委ねる気は、さらさらなかったのだ。

P94 〜北斉における女性の立場の強さを、手放しで肯定していないことは明らかだ。しかし〜彼が嫌悪し糾弾するのは、うわべばかり飾って、妻子にひもじい思いをさせる南朝貴族の虚栄に満ちた生活態度の方なのだ。

P97 〜「予は一生にして三たび化し、荼苦(とく)を備(な)めて蓼辛(りょうしん)たり」と自ら述懐しているように〜流転に流転を重ねながら、彼は南北朝末期の大乱世を妻子まで引き連れて、とにもかくにも自力で生き抜いた。
 学問という芸をしっかり身に付けてさえいれば、どんな時代でもどこへ行っても、生きていくことはできる。

P114 流刑の身も何のその、黄州にはうまい魚もタケノコもあると、食いしん坊の蘇東坡は早くも大喜びである。

P134 興に乗った楊維禎は妓女の小さな纏足の鞋をぬがせ、これを「金蓮杯」と称し、同席者に酒を注いでまわった。

P149 食べるに事欠く極貧の主家に自腹を切って仕え、幼い鄭板橋を心から慈しんだ乳母の費氏。この文章には、そんな彼女に対するあいふれんばかりの愛と感謝の思いが脈打っている。

P163 〜寄生的な画家の生き方に、鄭板橋は敢然と異議を唱え、価格表を掲げて自立を宣言したのである。

P178 〜元稹は一度ならず二度までも、スタートから前のめりになって全力疾走し、あえなく躓いたというわけだ。
 東台に左遷された三ヵ月後〜愛妻の韋叢が〜病死〜元稹は「悼亡詩」を著し、心の底から彼女の死を悼んだ。
〜お嬢さん育ちにもかかわらず、韋叢は健気に貧乏暮らしに耐え、元稹のために懸命に尽くしてくれた。そんな彼女をいとおしむ思いが、ここには綿々、切々と歌い綴られている。

P225 呉敬梓葉氏は時に連れ立ってハイキングに出かけ、堂々と手をつないで山道を歩くこともあった。〜呉敬梓は〜杜少卿とその妻に仮託し、『儒林外史』にしっかり書き込んでいる。

★★★

 ちょっと「列伝」にまで入るのかな?と首をひねりたくなる人物も混じっている。他の著作とかぶってる部分も多い。しかし、やはり山濤、嵆康、そして嵆紹はかっこいい。

 また、乳母の費氏や韋叢に関する文章は哀切で感動する。

 

 


(700) 『中国文学講話』(著:倉石武四郎。岩波新書)※「初めて」あり

P4 天子は人民のために政治をする人ですから〜徳を失ったら、もうそれは天子じゃない。一匹夫にすぎない。それを討伐するのは決して天子に弓をひいたことにならない。これはおそろしくわりきった説明ですが『孟子』にかいてあります。ですから、むかし『孟子』という書物を日本にもってこようとすると、かならず暴風がおこって船がしずんだ。

P21 魏という国は〜土地もせまく、人民もまずしいところで、この魏風全体が貧乏くさい詩になっています。

P26 〜権力者の一族がだんだんふえてきますと〜政府機関にはいりきれない、いわば失業者がでてきます。〜元来が支配階級にそだった人たちですから、ある程度の知識と頭脳がある。今でいえばインテリ層が〜発生してきます。
 これといっしょに社会が繁栄していきますと、最初は労働階級であった人たちのなかに〜利ザヤをかせぐ〜わりあいゆたかな生活をする。〜こういった人たちが人民のなかからあがってきますと、例の支配階級からあぶれたインテリと合流して、一種の中間層ができて〜いろいろなことをかんがえるようになった。これが中国に思想がおこるための社会的基盤であったとおもいます。

P31 そのどれひとつをとっても「孝」という概念はでてきません。いや、こういったものを総合しても「孝」にはなりません。そのかわり、その当事者にとっては、これが応病与薬、いちばんよくきく処方です。としたら、これはまた場ばかりで論理のない本です。

P49 そうした人間一般のことがはじめて歌によまれたのは、屈原より三百年以上もたった後漢のころのことです。

P63 〜中国で怪談がはやったのは〜どうやら魏晋六朝がいちばんだったようです。

P90 〜おなじ長編のむすびながら、余韻の嫋々としたあたり、むしろ七言の半径が五言に数倍することがよみとれる〜。
 しかも、唐の詩人たちは、ものしずかな気分をうたいあげ、おくふかい心をかよわすときは、やはり五言をとりあげています。

P139 〜詞はこうした繊細な情緒をうつすにいちばん適した韻文であって、唐詩のような秀才型とははるかにちがっています。唐詩は人間がこうあらねばならぬ立場にたって〜のべていきますが、宋の詞は、すくなくとも、そうした人間の内部に誰しももっている心を、はずかしげにあけてみせます。

P171 〜たといたわむれにしても、儒の位置を娼の下、乞食の上においたことは、中国としては未曾有の社会変動を意味するものといわねばなりません。

P183 〜『平話三国志』〜でいちばん活躍した張飛がわき役におちて、儒将と称せられた関羽が正面におしだされています〜『三国志演義』の作者が儒教的なたちば、すくなくとも読書人のこのみで改作したことをものがたっています。


★★★

 碩学が気楽な感じで書き上げた感じだが、その軽味が心地よい。 

 

 


(701) 『中国美術史』(著:マイケル・サリバン。訳:新藤武弘。新潮選書)※「初めて」あり

【商王朝時代】
P34 青銅器のもつ洗練された技巧の素晴らしさ〜その背後にあった〜身の毛もよだつおそろしい祭祀に〜当惑をおぼえざるをえない。

P45 完成された鋳造技術と器形と装飾から来る限りない力量感という点で商時代の青銅器は原始文明の生み出した偉大な芸術的勝利といえよう。〜
〜数ある怪獣のなかで最も強烈で神秘的な”饕餮”〜この恐ろしい形相の怪獣面は〜青銅器文化の初期段階では装飾文様として圧倒的に多く使われていた。

【周王朝時代】
P69 西周時代の青銅器は〜商代末から周代初めの数十年間の青銅器に見られたあの力強さやデザインの統一性はもはや求めべくもない。

【戦国時代】
P80 紀元前7世紀には〜表面装飾はより厳格に制約され〜しばしば表面より低く入り込むようになり〜金や銀が象嵌されることもある。

P95 最古の絹本の絵画は長沙の墳墓より出土したものである。

【秦・漢時代】
P102 〜みずからを秦の始皇帝と称した。〜周代の栄光を偲ばせるようなものはすべて人々の心から抹殺された。

P106 漢文化には、シナ本来のものと外来のものと、儒教的なものと道教的なものと、宮廷的なものと大衆的なものと、種々多様の要素がいり混じり、それが漢代の美術に生気と様式・主題の限りない変化とを与える結果となっている。

P110 西暦185年に洛陽が焼かれた時に〜”雲台”〜に所蔵されていた厖大な数の絵画・書籍・記録・美術品類もすべてことごとく焼失した。

P112 中国史を通じて漢代ほどに墳墓とその副葬品に対して多大の関心が払われた時代はほかに例をみない。

P116 漢代の浮彫〜のほとんどすべてが〜極端な平彫りで〜通常”画像石”と総称されている。

P121 〜漢代におけるこの雰囲気による一種の遠近表現の発見によって、対象をそれぞれ適切な位置に置くだけで空間の無限の拡がりを見せることが可能となり〜西欧の〜遠近の科学的表現方法は〜無用のものとなってしまった。

P125 〜幡絵というものは敦煌〜が最古〜と考えられてきた。〜最近、長沙王前漢墓から〜考えていたより千年も早くから〜成立していたことが明らかになった。それは〜T字形の帛画〜。

P128 最も興味深いのは”TLV鏡(方格規矩鏡)で〜このデザインそのものは前2世紀〜にすでに現われるが、その代表的なものは前100年から紀元100年ごろまでの間に宮廷を中心とした洛陽地方で作られていた。

P132 玉工たちはもはや瑕のある石を拒まなくなり、変色部分を逆に利用するようにさえなった。

【南北朝時代】
P146 漢の滅亡から唐の勃興までのおよそ400年は、中国が〜現代のヨーロッパにも似た混乱を続けていた時代である。

P148 530年ごろに編集された詩文集『文選』の〜序文において明確にされている。蕭統はそれが道義的内容によらず美的価値のみによって選ばれたものであると述べている。

P153 『洛神賦図巻』では、物語の展開に応じて同じ人物が何度も登場するいわば同一画面に継続的に時間の推移を表現する方法をとっている。

P160 〜アショーカ王〜により、はじめて真の国家宗教となった。〜カニシュカ王(2世紀)によって〜史上初の仏法による一大国家が出現した。

P161 ヒンドゥー教のブラフマンがそうであるように〜神格化によって仏陀は並の人間が到達できない高さに上昇して行く。ヒンドゥー教では〜より近づき易い神が作り出されたが、それと同様に〜菩薩(ボディサットヴァ)が出現して来る。

P163 中国本土に残る最古の仏塔は、河南省北部の嵩山の嵩岳寺に520年に建てられた十二角の石塔である。

P164 386年、鮮卑族の拓跋部が〜国号を魏と称した。魏の統治者たちは熱心に仏教を庇護した。それはちょうどインドにおけるクシャーン朝の立場のように〜古来より固まっている社会的宗教体制がそれまでかれらを除外していたことへの反動といえる。〜曇曜〜により、460年に〜雲岡武州山の断崖に一連の石窟寺院と大仏の造営が始められた〜最も年代の古い石窟は〜いわゆる”曇曜五窟”〜。

P167 〜彫刻的塑型性よりむしろ絵画的な線表現に偏る〜傾向は〜494年に首都が南遷してからは明瞭に現われて来る。
〜竜門は、上質な灰色の石灰岩に恵まれており、雲岡における粗い砂岩に較べて彫刻家たちは細密に洗練された表現が可能となった。

P170 両魏時代の線表現を重んずる様式を示す最大の宝壇像は、奈良法隆寺の金堂にある堂々たる釈迦三尊像〜。

P171 6世紀中葉以降、中国の仏像彫刻の様式に〜画期的な変化が訪れる。体躯は再び幅が広くなり〜衣紋は〜内部の肉体を巻いてその量塊感を巧妙に強調しはじめる。〜菩薩の瓔珞が対照的な装飾効果を持つ〜。容貌は丸く量塊感を増し〜威圧するような厳しい相好になる。

【隋・唐時代】
P182 唐の文化の南北朝時代に対する関係は、漢の戦国時代に対する関係であり〜ローマの古代ギリシアに対する立場にも似ている。

P184 玄宗皇帝は〜754年には宮廷内に翰林院を設立するが〜ヨーロッパに存在するどのアカデミーよりも古く、およそ一千年は先んじていた〜。

P186 〜唐朝もまた国力の衰退に伴って寛容性を失い、外来宗教もおいおい受難の憂き目に遇う日がやってきた。道士たちは仏教徒たちが持つ政治的特権を羨み〜儒家では仏教徒の風習(ことに妻帯を禁じること)を非中国的なものと見做していた。朝廷は、寺院のために費やされる巨額の費用といまや数十万にのぼる非生産的な僧籍者の数に対して警戒の度を増していった。845年、あらゆる外国宗教は禁止され、仏教寺院はことごとく勅令によって没収された。

P190 唐代彫刻にみるすこぶる流麗なる線的表現は、鑿によるというよりむしろ画筆によるといった方がよいような場合すらしばしば見受けられる。

P195 〜奈良の法隆寺の金堂の内壁を飾る壁画〜は1949年の火災でほとんど灰燼に帰してしまった世界の芸術にとってのこの惨事は、たとえばシスティン礼拝堂のフレスコ画かアジャンター洞窟のそれが焼滅するに比せられよう。

P200 〜1960年〜発掘された永泰公主墓の壁画〜細そりとしたしなやかな体つきと、ひきしまった理知的な容貌とは、初唐期の美人の理想型であろう。

P201 盛唐期の最大の巨匠呉道子は、構想の雄大さと猛烈な創造力とによってまさにミケランジェロ的存在であった。〜かれの作品もまた何ひとつ現存していない。

P207 李思訓李昭道のいわゆる北宗画の伝統を示す素晴らしい例は〜『明皇幸蜀図』〜である。〜”青緑山水”と呼ばれる〜。

P212 中国陶磁史における唐代は、その力量感溢れる器形により、多彩な釉薬がはじめて使用されたことにより、また磁器が完成されたことにより、特に重要な時代とされる。

【五代・宋時代】
P222 この時代の中国は、それ以前もそれ以後も例を見ないほど、真の教養を身につけた代々の皇帝によって統治された。

P223 〜建築に関する最初の便覧である『営造方式』が、1100年、勅命によって書かれた。

P229 〜仏教は854年の廃仏令以後は完全には前に復することはなかった。〜ただ禅宗だけは立場を異にしていた。

P231 〜成都の”野獣派(フォーヴ)”の怪異な傾向に恐れをなし〜南唐の皇帝李後主Uが、唐玄宗時代の宮廷における豪華と洒脱を旨とした細密画のスタイルを復興した。

P236 科学的な透視遠近法は、定まった視点を設定してそのただ一点から見える状態だけを問題とする。〜中国人〜は反問するだろう。「〜存在していることが明らかな〜のに、なぜ一視点から見えるものだけしか描かないのか」と。

P238 中国の絵画の構図は、ヨーロッパの絵が額縁で囲まれているようには、表装によって四辺を断ち切られることはない。

P242 〜北宋時代の山水画家たちの業績を説明するため〜一点の作品を選ぶとすれば、范寛『谿山行旅図』に優るものはない。

P247 米芾の画法がかくも急進的なものであったために〜徽宗皇帝は、御府のコレクションに米芾の作品を入れようとせず、また宮廷内でこの画法を真似ることすら許さなかった。

P250 10世紀に〜王建の宮廷画家であった黄荃は〜新しい画法を発案した〜”鉤勒填彩”〜明確な輪郭線を引きその内側を濃彩で塗り重ねていく〜。〜徐熙は〜スケッチを水墨で簡単にかいてそこへいきなり淡彩でもって描き上げるいわば彩色による水墨画で、輪郭線がないところから”没骨画”と呼ばれる〜。

P251 1125年の王朝の崩壊ののち〜中国史上最初にして唯一の正式の画院が〜武林に設立された。

P257 3世紀の曹不興は竜を専ら描いて有名になった最初の画家〜13世紀に出た陳容〜1244年に描かれた〜『九竜図』は〜竜は筆で雲は帽子で描いた〜。

P258 〜宋代はそれ以前の活力とその後に来る洗練の中間にあって、両者の完全な調和を保ちながらフォームと釉薬の古典的な純粋さを具示している。

P261 〜徽宗皇帝にとって定窯は、おそらくその”涙痕”や金属製の口縁が気に召さなかったのであろう、御用達には〜宮廷直営の官窯を汝州と首府の市域内にそれぞれ設置した。〜汝窯は宋代磁器の中で最も珍重されており〜うっすらと紫味を帯びた青緑色の釉薬がかけられ、表面全体に雲母にみるような細かな網目の貫入がある。

P267 〜龍泉窯から産出したものは質・量ともに最高であり〜ことに色が澄んで明るい秀逸な青磁釉に対して〜日本人は”砧”の名で呼んでいる。

【元・明時代】
P279 趙孟頫の高い名声は書によるものだけではなく、馬を描くことに関してはほとんど伝説的といえる画筆の冴え〜。

P281 趙孟頫によってはじめられた動向は、半世紀のちに黄公望によって完遂される。〜こうした清潔高雅な表現は〜倪瓚によって〜さらに昂められた。〜
 倪瓚は「墨を惜しむこと金のごとし」といわれていた。

P286 モンゴルが統率力を失った〜が、それもやがて1368年には朱元璋によって収拾される〜。〜明朝のその後の歴史に起るトラブルは、すべてこの首都の地理的位置が〜華中および華南から遠隔にあったことに原因し、同時に〜長城をはさんで緊張が絶えなかったことによる。

P291 〜元代より引き続いてアマチュア画家の伝統が〜流行し〜山水画の一派を”呉派”と呼んでいる。〜沈周文徴明はその中で双璧をなしている。

P294 15世紀前半に活躍した画家で浙派・呉派のどちらにも属さない有名な画家が二人〜唐寅仇英

P296 文人層の発展にとって、董其昌ほどに重要な役割を果たした人はほかにいない。〜自立的な文人画の伝統を〜南宗画派と呼んだ。

P306 琺瑯器について知られている最も早い記述は、1387年に撰述された『格古要論』のなかにある〜記事である。〜琺瑯器〜年代のはっきりしている最も早い作例は宣徳(1426〜35)の年号のあるものである。

P308 青磁釉に鉄斑文のある”飛青磁”もまたおそらく元代の発明であろう。しかしながら、14世紀中葉ごろから龍泉窯の質に退化の兆候が現われはじめる。それは〜景徳鎮の窯が対抗として出現して来たことによるものと推察できる。
〜1322年以前に書かれた『浮梁県志』によると、そのころ景徳鎮には「印花
(型押し紋様)、劃花(絵付け紋様)、刻花(浮彫紋様)の技術者がいた」と記載されている。

P309 景徳鎮で14世紀の中葉ごろ起ったと思われるもうひとつの発明は、釉下に銅を含む赤い彩料で描く釉裏紅(辰砂)の技法である。

P311 あらゆる当時の歴史の中で、中国の青花(染付)ほどに多くの賞讃を集めているものはほかに例をみない。〜おそらく南シナで13世紀の終わりごろ始まったと思われるが〜記録に現われるのは『格古要論』が〜むしろ侮蔑的に「青花や五彩もあるがひどく俗っぽいものだ」と述べているのが最初である。

P314 〜ドレスデンの陶工ベットガーが本物の磁器の焼成にはじめて成功したのが1708年のことで、それは中国に完成して以来1000年も遅れたことになる。

P316 明代の意気旺盛なる趣向は、”法花”と呼ばれる明三彩により典型的に表現されている。

P317 明の当時を代表するもうひとつの重要なものに”五彩”(日本では”赤絵”と呼ばれる)がある。白い磁器に五色の彩料で絵付したもので〜だいたい宣徳年間(1426〜35)かそれより少し早い時期に完成された技法である。〜釉下に青花の意匠がある上に五彩の絵付けを加え模様全体に青味がかった”闘彩”と呼ばれるものもあるが〜むしろ同音の”豆彩”の名で親しまれている。

【清朝時代】
P322 清朝の文化的業績を最もよく特徴づけている点は、明朝のそれと同じく、純粋に創造的というよりはむしろそれまでの文化遺産を総合し分析しようとするところにあった。
〜1736年に即位した乾隆帝は、書画に対して非常に強い情熱を持ち〜しかし彼の趣味は必ずしもその情熱と比例しておらず〜。

P330 中国の美術史家たちは、”四王”に呉歴ツ寿平を加えて”四王呉ツ”とひとまとめにするのが普通である。

P345 景徳鎮の彩色磁器に現われる西洋趣味〜が最も顕著なのは”粉彩”のうちから厳選された小器で”古月軒”として知られる一群の彩絵磁においてである。

【20世紀】
P354 〜四川省に生まれた張大千は、厳密な仏画の模写から粗放な水墨にいたる種々の画風をこなす天才的な画家として知られる。

★★★

 突っ込んだ分析等は特にないと思うが概観をつかめる好著。 

 

 


(702) 『三国志演義』(著:井波律子。岩波新書)※「初めて」あり

P20 〜『三国志演義』において極端化される姦雄曹操像が、はっきり形成されはじめるのは〜孫盛『雑記』がその顕著な例であるように、時代的には東晋になってからである。〜『世説新語』に散見される、いかにも姦雄らしい曹操のイメージは、そうした時代性を示す〜。

P23 〜『世説新語』のこの梅林のエピソードは、『演義』に先立ち、三国志物語の古いかたちを伝える『三国志平話』のなかに、すでにあらわれている。

P29 〜東晋の習鑿歯から南宋の朱熹朱子にいたるまで、ずっと蜀正統論が優勢だったわけではない。〜北宋では〜『資治通鑑』を著した司馬光をはじめとして、明確に魏正統論の立場に立つ人々が多かった。

P35 〜李商隠は〜ヤンチャ息子が〜
 張飛みたいなヒゲをはやしていたとあざけったり
 ケ艾みたいに吃っていたと笑ったりする
と歌っている。これにより、晩唐のころすでに、『三国志』の登場人物のイメージが、子供にまで浸透していたことがわかる。

P36 蘇東坡が生きた11世紀の北宋時代、すでに判官びいきで劉備に人気が集まり、曹操は〜町のワルガキにまで憎まれていたのである。

P51 〜『演義』はここでも、かぼそい美女の貂蝉が国を憂える王允に共鳴して〜猛獣のような董卓呂布の間に割って入ったとしており、この設定にも濃厚な倫理的色彩があることは否めない。

P55 関羽に対する淡白さとはうらはらに、『平話』では、張飛の脱線ぶりの描写にいちだんと工夫がこらされ、読者(聴衆)の哄笑をさそう。

P59 長坂橋における張飛の壮絶な戦いぶりを、『平話』は〜叫び声で橋が落ちたという〜。
『演義』の表現方法の特徴のひとつ、くりかえしのなかで漸層的に強度を高めていくという語り口が顕著にみられる。

P65 〜矢集めの話は、『演義』では一転して〜諸葛亮が編み出した奇策だとされる。この転換には、プラスのイメージをあたうるかぎり、諸葛亮に転用しようとする『演義』の意図が、露骨に透けてみえる〜。

P81 〜『演義』とくらべた場合、『平話』の物語としての成熟度が格段に落ちる〜にもかかわらず、『平話』には破天荒のおもしろさがあり〜ひとえに〜張飛のダイナミズムに由来する。〜『平話』の張飛は、『水滸伝』でいえば〜李逵の役回りだと思われる。

P90 〜『演義』は〜曹操の複雑な性格や行動を多面的に描写し、その底知れない英雄性にも充分スポットを当てている。

P106 『演義』関羽はまさに血まみれ、血みどろだ。

P109 〜関羽の顔が〜赤いとされるようになったのは〜根源に奇怪な民間伝承があった〜泉で顔を洗ったところ、顔が真っ赤に変色〜

P117 〜「両耳は肩まで垂れ」という部分は、『演義』の独創である『平話』にもみられない)

P123 〜『演義』世界で、劉備が積極的に行動を起こすのは〜最後の呉出撃のときだけだ。〜総じて『演義』における劉備は〜「虚なる中心」の役割を果たしている〜こうした中心人物の設定の仕方は『西遊記』三蔵法師『水滸伝』宋江などとも共通〜中国古典長編小説に常套的にみられる手法だといえよう。

P137 〜劉備がことあるごとくに泣くのに対し、曹操は〜実によく笑う。

P180 〜趙雲は、みごと黄忠を救い出し、「常山の趙子龍、一身都(すべ)て是れ肝なり」と、その豪胆さを謳われるにいたる。このシーンは、『演義』に見える無数の戦闘場面のなかで、もっとも美しいものである。

P202 目から鼻にぬける聡明な孔融自身の子供時代のエピソードと、これに劣らぬ息子たちのエピソードを対応させ、『演義』は反抗的な知識人孔融の悲劇を描き切るのである。



★★★

 律っちゃんの功績の一つは『世説新語』をポピュラーなものにした、ということが挙げられるのでは?とおもうのだが、ここでは『三国志平話』を持ち上げようとしているのか?

 


 

(703) 『論語 上』(監修:吉川幸次郎。朝日新聞社)※「初めて」あり

P5 唐の杜甫「最能行」という歌〜は、8世紀なかごろの四川の市民の教養のひくさをなげいたものであるが、低い教養の中にも「論語」だけはふくまれている。

P7 〜古注。〜魏の何晏「論語集解」であり〜3世紀中ごろにできた。〜編者何晏は〜光源氏のような好男子の標本としても有名〜

P9 〜朱子〜近ごろ千年間に於ける中国の最も偉大な学者である〜

【学而第一】
P21 このような無造作な篇名のつけ方は、秦以前の古書のなかでも、めずらしく、他の書にはほとんどみられない。

P24 学問のよろこびということを〜孔子は、それを最初にはっきりと、指摘した人物の一人である。

【為政第二】
P61 後漢の思想家、王充「論衡」には〜古きを知りて今を知らざる、これを陸沈という〜今を知りて古きを知らざる、これを盲こという〜。

P62 〜君子は器ならず。
 紳士は技術的でない〜。

P74 義を見て為さざるは、勇無き也。

【八佾
(はちいつ)第三】
P76 階級の存在による秩序こそ〜が礼である。その秩序が破壊されるのは、悪である、というのが孔子の考えであった。

P97 中国の文学が、つねに極端な感情の表出をきらい、節度ある表現を、とうとんできたのは、孔子のこの言葉に少なからず影響されている〜。

【里仁第四】
P114 〜朝に道を聞かば、夕に死すとも可なり。

P118 〜吾が道は一以って之れを貫く。〜夫子の道は、忠恕のみ。
〜忠とは自己の良心に忠実なこと、恕とは他人の身の上を〜親身になって思いやる。

P124 〜徳は孤ならず、必ず鄰り有り。

【公冶長第五】
P138 宰予、昼寝ぬ。子曰く、朽ちたる木は雕(ほ)る可からざる也。

P145 後世でも、文という諡をもらうのは、高級の名誉であった。

P163 〜十室の邑にも、必ず忠信、丘の如き者有らん。丘の学を好むに如かざる也。
〜この条は、私の甚だしく好む条である。また甚だしく重要と考える条である。

【雍也第六】
P179 〜力足らざる者は、中道にて廃す。今汝は画(かぎ)れり。

P184 〜宋朝とは、宋の公子朝であって、これは大変ないろおとこであった。〜衛の霊公の夫人で、南子〜が、衛に嫁入るまえ、まだ宋のくにの姫君であったころ、最初の恋人として愛したのが、じつにこの宋朝であったことは、「春秋左氏伝」の定公14年の条に見える。

P189 〜之れを知る者は之れを好む者に如かず。之れを好む者は之れを楽しむ者に如かず。

【述而第七】
P213 〜憤せずんば啓せず。悱(ひ)せずんば発せず。
〜弟子が自分自身で、充分な蓄積をもちながら、しかも自分だけではどうにもならなくなったときに、はじめて産婆役をつとめてやる。それが私の教育の方法である。〜
 これは教育の方法として、大へんすぐれた方法である。それだけに、よほどすぐれた教育家でなければなし得ないであろうと感ずる。

【泰伯第八】
P258 〜鳥の将に死なんとするや、其の鳴くこと哀し。人の将に死なんとするや、其の言や善し。

P264 〜仁以って己が任と為す。亦た重たからず乎。死して而して後已む。亦た遠からず乎。
〜人道の実践と普及を、自己の任務とする。〜重大なものではないか。しかも、その任務は、いのちある限りは、解消されない。〜はなはだ、はるかではないか。

P266 〜民は之れに由らしむ可し。之れを知らしむ可からず。
〜儒家の政治思想の封建制を示すとされる条である。事実また漢の鄭玄の注などは、そのように解している。〜何晏〜によれば、人間の法則というものに〜人民に、それに従わせることは可能であるが〜理由を、はっきり自覚させることは、むつかしい。
朱子〜によれば、政府の施政方針は〜随順させることはできても、一一に説明することはむつかしい〜。

【子罕第九】
P307 子、川の上(ほとり)に在りて曰く、逝(ゆ)く者は斯くの如き夫(か)、昼夜を舎(す)てず。
〜人間の生命も、歴史も、この川の水のように、過ぎ去り、うつろってゆく。
〜宇宙の活動は、この川の水によってこそ、示される。それは無限の持続であり、無限の発展である。
〜推移する時間は〜けっきょく最大の不幸である死へとみちびく。〜後漢から六朝へかけての人間観の主流であって、「論語」のこの条を、悲観として解する〜。
 それに対し、宋の儒学は〜人間は、つねに進歩の方向にあるとするのに傾く。

P310 〜未だ一簣(いっき)を成さざるも、止むは吾が止む也。

P315 三軍も帥を奪う可き也。匹夫も志を奪う可からざる也。

【郷党第十】
P347 厩焚けたり。子、朝より退きて曰く、人を傷(そこ)ないたり乎と。馬を問わず。



★★★☆

 『十八史略の人物学』を酷評したくせに、愛読書はやはり「論語」・・・というような文章に影響を受けている。

 「厩焚けたり〜」の一節が、言うまでもなく落語「厩火事」の原典。昔の人の教養のベースに「論語」があったのだなぁと再認識した。

 


 

(704) 『楊令伝 三 盤紆の章』(著:北方謙三。集英社文庫)

P45 林冲史進〜は、かわそうと思えばかわせるものだった。呼延灼もそうだ。
 楊令はかわせない。

P78 「理屈など、男が思うさま生きた跡をなぞるように、後ろからついてくるものだ」
 不意に、呉用は心を衝かれた。

P118 〜方臘が大声で笑った。
「俺も、いろいろなことを考える。考えて考え尽くしたら、ただ笑うだけだ。〜」

P190 「志なんて言うけどよ、俺にゃ、どうでもいいな。〜考えてもみろ。志が俺を殴ったりするか。淋しい時に、そばにいてくれるか?」

P239 〜晁蓋がいて、宋江がいた。〜
 漠然とだが、しかし絶対に、あの二人を信じきっていたのだ。〜
 結局、呉用を完全に信じてはいなかった、ということだろう。

P248 いればこれほどうるさい男はいないが、いなければ不安になってしまうのが、呉用という男だった。

P279 「〜俺がきちんと生きているかぎり、親父は死んでいない。〜」
「きちんと生きるとは、どういうことでしょうか?」
「自分に、恥じないことだ。人を裏切らない。卑怯なことをしない。うまくおまえに説明できるほど、俺は多くの言葉を持っていないが」

P297 国家が老いはじめると、速い。

P311 「〜特に蕭珪材は、護国の剣を与えられている」〜
 遼王室に代々伝わる剣で〜数奇な運命で、楊家出身の男が遼の将軍となり、石幻果と名乗った。その息子の蕭英材も、その剣を佩いた。

P320 実戦の軍師としては、欠けているものがある。〜
 頭で戦を指揮する、とよく現場の隊長たちに言われた。

P327 宗教を利用していることを除けば、方臘の戦は、きわめてまっとうな権力に対する叛乱だった。そこに、梁山泊と通じるものは、間違いなくある。

P368 「この楊令が、梁山泊の頭領であることを、認めていただけるのですか?」
 声を出す者、頷く者それぞれだった。
「全員が、認めています。楊令殿」
 宣賛が言った。
「わかった。いまこの時より、私が梁山泊の頭領である」

P372 「楊令である」
 声は、広場の隅々まで、しっかりと届いているようだった。
「これより、梁山泊の頭領となる。すべての同志を、わが血肉としよう、わが心としよう、わが命としよう〜一度だけ、ここで頼む。ともに、戦ってくれ」〜
「〜闘いのすべてを、この旗が見守るだろう。この旗にむかって、恥じることなき自分であろう、と私は思う」

P378 「〜私の結論通りに動く、と言われるのですか、方臘様?」
「従おう」
 一瞬、呉用は方臘に気持ちが傾いているのを、強く感じた。

P383 「死にますぞ。それでもいいのか、許定殿?」
「武人として、行き続けたかった。そのつもりだったが、途中で曲がらざるを得なかった。しかしいま、私は武人としてここにある」


★★★☆

 楊令の頭領宣言は、「満を持した」という感じである。いよいよか、と思う。

 それと、方臘と呉用の関係。やはり、信頼される、任されるというのは大きいのだなと思う。「人の評価なんか」というタイプと思っていた呉用も同じなんだ。青蓮寺のスパイの筈の許定もすっかり方臘に取り込まれている感じ。

 


 

(705) 『中国名菜ものがたり』(著:槇浩史。鎌倉書房)※「初めて」あり

P10 できるだけ大勢の子孫にとりかこまれて生活がしたい。これが「福」という願望である。この「福」を得るためには〜うんと精力をつけ〜なければならない。〜中国人は、不老長生、精力増強を目的とした食べものを作らないと、上菜〜といえない〜。
〜美味しいのか、不味いのか、ということは二の次であってそれよりも、自分の体にとって栄養になるか、ならないか〜。

P13 一 嶺南派〜(広東料理)

 二 南方派〜
(淮揚料理)
 〜揚州料理のほか〜上海料理〜「四川料理」もこの系統に入る。

 三 北方派〜
(河南料理)
 〜山東料理〜北京料理〜。

P19 ふるさとの味を自慢するときに引き合いに出す言葉として「蓴鱸之思」〜西晋(265〜317)の頃〜張翰が〜秋風が吹きはじめる頃になると、故郷の江南名物である蓴菜の羹と鱸魚の膾の美味しさを思い出して〜高位高官の椅子をすてて〜帰ってしまった〜故事から生まれた〜。

P20 〜「食在広州」という言葉は、中国料理を語るときの決定的スローガンにまでなっていて〜広東料理を第一番目にとりあげなければならない〜。

P23 〜どこの茶館でも、壁には「禁止講茶」とか、「莫談国事」などの標語が〜張られている。

P26 中国人は、包子にしろ餃子にせよ、肉餡に汁気が少ないと見向きもしない。

P27 中国人〜南北を通じて〜毎朝ほとんどが粥を食べる習慣をもっている。
『事物起源』には黄帝が粥を発明したとなっている〜約3000年前の周時代には粥が一般的なものにまでなっていたことは事実である。

P31 広東名物「状元及第粥」

P34 〜広東では〜新婦が最初の里帰りをする時、婿の家では、必ず一頭の烤乳猪を〜送りとどけなければならない〜。
 もしも〜とどけられないと〜離縁状を意味することになる〜。

P37 広東では秋から冬にかけて〜一般の人々さえも狗と蛇を食する〜。
〜狗という字を使わずに三六または香肉と〜名をかえている。
〜最高が黄
(俗に赤犬のこと)、最低が白犬だそうである。

P41 龍虎というのは、蛇肉と猫肉を一緒に料理したもので〜鶏肉を加えて龍虎鳳という〜。

P50 乾隆帝の南巡には必ず、回教徒である香妃が同行しているのだから、当然豚と羊の混合料理は作らない筈〜。

P64 中国では蛙のことを田鶏と呼ぶほか〜「桜桃」というサクランボと混同しそうな名称まである〜。
『周礼』の〜官名の中に〜蛙捕り専門の役人までいて〜

P68 現在大部分の中国人は魚を生のまま食べることはほとんどないことで〜日本と朝鮮、そして潮州人だけのようである。

P79 「〜上海で、郷土風味豊かな食べものを味わってみたいと思うならば〜城隍廟と〜小吃店に限る」

P84 〜上海ほど〜蟹を多く食うところもないだろう。

P103 〜むかしは刺身を食べており、スシの先祖である膾は中国から日本に伝来している〜。
 蟹の刺身を〜食べていたことは、宋代に書かれた『蟹譜』という〜本に〜載っている。

P106 〜中国人ははさみを重視して食していた〜。
〜膏蟹
(はらご)は食補に重点をおいており、蟹螯(おすがに)は酒の肴として絶品〜

P121 西湖醋魚〜の特色は〜色、香、味、形が調和しているうえに、値段が非常に安い〜。

P123 〜一人の叫化子(チャオホアズ。乞食のこと)が〜鶏の全身を泥で包み、そのまま焚き火で焼いた。〜この料理法を〜乞食が考え出したところから教化鶏(チャオホワヂイ)と書き換えている。

P129 〜松江の鱸魚は膾に作ってこそ、始めて(石野註 ママ。初めての誤記か)その味を知る。

P136 〜寧波人のもう一つの特色は〜食事とは、ご飯を胃袋の中につめこんでしまえば、それでいいのだという考え方〜。

P138 寧波人は約1斤(600グラム)ぐらいの小さなスッポンを好んでいる。〜泥臭くないのが特徴である。〜スッポンの生血を非常に愛好している。

P144 〜棍棒で豚の背中を一撃すると、豚は打たれた背中に力を集中するので、すぐ殺して、打ったその背肉だけを一切れえぐり取り、50頭を屠って、はじめて一皿分の料理ができあがる。
〜人間の乳で育てた豚と、桑の実だけを食べさせて飼った豚は、よく肥えてうまいということになっている。
〜鵞鳥を肥らせておいて〜熱が加わるにつれ、醤油を飲んではバタバタする。〜全身の脂膏は殆どが両掌、つまり足のウラに集中し〜やわらかくてうまい〜。が、全身の肉は反対に臭くなるので全部捨ててしまい、このため一皿を作るのに数十羽の鵞鳥を必要とする残酷で、贅沢な料理である。

P145 皇帝の賜宴(えんかい)と富貴人(かねもち)の請客(えんかい)には、古来二つの特色がある。一つは珍品であり、もう一つは数量である。

P150 〜80歳以上の長寿を保った皇帝は、たったの4名しかいない。即ち、梁の武帝が86歳、宋の高祖(劉裕)が81歳、元の世祖が80歳、そして老饕で有名な〜清の乾隆帝が88歳という最長生記録を保持〜。
『御膳房档冊』に、乾隆帝が85歳の時に食したというおやつのメニュー〜ラードなどの油や砂糖をふんだんに使って作ったものばかりで、高齢の老人の食べるものではない。

P160 中国歴代皇帝のうち〜乾隆帝に劣らない老饕がその孫にあたる西太后である。

P165 〜植物油が食用に使われたのは、今から約800年ほど前の宋時代といわれている。
『夢渓筆談』〜が食用植物油についての最初の記録である。

P167 〜蔡京〜の家の厨房で働いていた料理人〜そこの地方のある金持ちが、この料理人を雇うことになった。〜主人がさっそく包子をつくるように命じた。〜「〜私は葱だけを専門にきざむのが役目でしたので、そのほかのことは知りません。〜」〜。

P167 〜宋時代〜容貌や頭のよくない女の子には〜一人前の調理人に仕上げてから、富豪の家〜に〜送り出していた。これが厨娘の始まりである。

P171 〜宋時代に著した『琿柱録』という本の中に〜「〜京師より調理の名人として名高い宋三娘という厨娘をまねき〜大宴会〜を一任した。〜彼女の指揮ぶりは、三軍を指揮する軍師のそれと同じく〜無事に千人宴を終了させた〜」

P175 〜馬祥興の美人肝を有名にしたのがほかでもない汪精衛(中華民国の政治家)であるのだから、現在の中国人にしてみれば皮肉な話である。

P180 大集成菜館では〜客の全テーブルの前には、錫製の徳利が1本置いてあって〜熱燗の銘酒が入っている。〜この店では、ボーイは料理の注文うかがいはするが、酒のことについては一言もいわない。
 その代わり客は、自分で目の前の徳利で酒を注ぐことによって、自分は酒を飲むぞ、という意志をしめすわけである。

P195 〜陳果夫がこの料理を紹介する時に書いた〜詩の題名をそのまま使って天下第一菜と命名した〜。

P205 〜成都平原の良質の豚肉は天下に名高い。〜上等な餌を与える。〜ぜったいに運動をさせない。〜どこの豚よりもやわらかく歯切れもよい。

P210 〜冬の北京名物料理の〜主役は羊肉である。〜豚を絶対にきらって、羊肉と牛肉しか食べない回教徒の数が北方に多い〜。

P214 〜烤肉宛は〜第一に烤肉だけ売っていて、ほかの料理はいっさい売っていない。〜
 第二は、立秋囲碁になって営業を開始し、翌年の立春には店を閉めてしまう。

P234 〜夏王朝の禹王の頃に儀狄が初めてドブロク酒を発明し、後の周時代に杜康が清酒を作ったといわれる〜。

P235 〜現在の中華人民共和国では、国が推薦している八大銘酒というのがあって〜
一、山西省産の「汾酒」
(フェヌヂュウ)
二、貴州省産の「茅台酒」
(マオタイヂュウ)
三、陝西省産の「西鳳酒」
(シイフォンヂュウ)
四、四川省産の「大麯酒」
(ダアヂユイヂュウ)
五、浙江省産の「紹興酒」
(シャオシンヂュウ)
六、山東省煙台産の「白蘭地」
(ブランディ)
七、同じく「美味酒」
(ベルモット)
八、同じく「紅玟瑰
(ホンメイグイ)葡萄酒」
 であるが〜一から四までが焼酒の白乾児で、五が老酒、あとは洋酒〜。

P254 〜餃子の起源については、『三国志』で有名な諸葛孔明の饅頭の発明と同じように〜清朝の皇帝である太祖(ヌルハチ)が〜不遇の旅を続けていた時〜凶悪な麻虎子(マフウズ。怪物)を退治して村人〜をたすけてやった。村人たちはその怪物の肉を切り刻み麺に包んで食べてしまった。

P258 〜1970年から、中華人民共和国の干支のニューフェイスとして〜辰年の竜だけが文化革命の嵐に吹きとばされて、除名追放となり、その代わりに、パンダ君、つまり熊が登場した〜。



★★★

 あまり期待していなかったが意外と面白い。いわゆる「ヘタウマ」的イラストが入っているが、「カット/槇隆史」とあるから親族の方なんだろう。
 すごい物知り親父が飄々と書いた感じのエッセイ。

 


 

 

 今月はけっこう書きましたが、それでも、まだまだ書評が大量に積み残し。



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