移動メニューにジャンプ

2011年7月のひとこと書評(掲示板に書いた文章の転載。評価は★5つが最高)


 7月のひとこと書評の再録です。掲示板そのままでは芸がないので、評点をつけます。★5つが最高。評価基準の詳細は、2001年11月書評のページをご参照ください。




(683) 『楊令伝(一)』(著:北方謙三。集英社文庫)

P54 「〜呉用とは、抜き差しならなくなるな、いずれ」

P103 呉用は、晁蓋宋江がいてこその、呉用だった。頂点に立つと、それはうとましい存在でしかなくなってくる。

P126 呉用の考えることは、すべてが理にかない、壮大なものでもあったが、現場の苦労についての配慮はなかった。

P187 すぐれた人間に、なにか大きく欠けているものがあることを、蔡福はしばしば経験してきた。盧俊義は〜人によって、堪えられる苦労はそれぞれだ、ということがどうしてもわからなかった。
 呉用には、人を見る眼がない。

P220 「人が命令を聞くのはなぜか、ということをあの人は考えてみた方がいいと思う」

P243 呉用が命令を出すようになってから、すべてが報告だった。

P255 呉用や宣賛が、梁山泊と同じものを作ろうとしているなら、それは無理というものだ。ただ、頭でばかり考える呉用は、あの梁山泊を思い描いているのかもしれない。

P265 「では、私に対しても、取り消せ」
 呉用は、執拗だった。

P278 頭領は、必要だった。それは、呉用ではつとまらない。

P309 呉用が描いているものがなんなのか、杜興にはよく読めない。〜
 呉用に、人の心に訴えかけるものは、なにもない。




★★★☆

 呉用の悪口大会。



(684) 『気で読む中国思想』(著:池上正治。講談社現代新書)※「初めて」あり

P15 黄帝が宿敵の蚩尤に勝ったのは、「気」のレーダー司南車の発明にあった。

P20 「気」を呼吸、気息として使ったのは『論語』が最初である。

P27 『壮子』にでてくる39回もの「気」は、人間をふくむ天地宇宙を包括するもので、「気一元論」ともいうべきものである。

P29 五行は陰陽とともに、古代中国の哲学の概念である。それは自然の四季や方向の四方にある基数の四に、一をプラスしたものである。〜このプラス一により、きわめて柔軟な数となった五は、哲学の対象となったのである。

P39 『黄帝内経』の最大の特徴は、「気」の医学を完成させたことである。

P52 王充の「気」は〜天地の間にあるエッセンス(精緻)のことで、それを「元気」と表現する。

P54 『太平経』はもっとも初期にできあがった道教の経典である。

P55 〜『太平経』の「気」の核心〜天気と地気が相和すことにより、「中和の気」となり、それらの三つの気がたがいに侵すことなく、安定している状態のことを「太平の気」と名づけている。

P69 〜『列子』の「気」の思想の核心部分〜「気」は積もり、やがて拡散するという認識である。

P71 『列子』でいう人生の「気」の四段階は、生から死、そしてまた生へと循環し、反復するものとして位置づけられている。

P111 〜「気」は王安石にとって、道と不可分の概念であり、彼の哲学のなかで最高のカテゴリーにあるものである。

P208 中国共産党の〜初代委員長の陳独秀は「(科学を知らない人たちの)空想で、もっとも珍奇なものは『気』である」と断言した。


★☆

 
 
結局、「気」って何?”気”になるわ。



(685) ローマ人の物語 ローマは一日にして成らず〔上〕』(著:塩野七生。新潮文庫)※「初めて」あり

P26 これまでの歴史作品がギリシアを中心とする東地中海世界を主としてあつかっていたのに比べ、ボリビウスの『歴史』は、ローマに眼を向けた、それも実証的な立場から焦点を当てた、最初の歴史作品になった。

P33 〜王女に、軍神マルスが一目惚れし〜王女と愛を交わす。王女が目覚めないうちにことが成ったというのだから、こういうのを神技と呼ぶのだろう。

P74 ローマ人にとっての宗教は、指導原理ではなく支えにすぎなかったから、宗教を信ずることで人間性までが金縛りになることもなかったのである。

P82 武力でなくても戦いは、注目されるほどの力をもたない者には起こらない。

P87 〜タルクィ二ウスは〜選挙運動をした最初のローマ人でもあったようだ。

P96 〜セルヴィウス・トゥリウスの成した業績のうちで最も重要なものは、軍制の改革で〜しかもこれは〜同時に税制の改革であり、そして同時に選挙制度の改革でもあった。

P112 私的なスキャンダルをたくみに利用し、王政打倒にまでもっていった最大の功労者はルキウス・ユニウス・ブルータスである。彼は、以後五百年もの間つづく、共和制ローマの創始者になった。

P163 クリステネスの実施した改革の最後は、追放したいと思う人物の名を陶片に記して投票することから陶片追放と呼ばれた、一種の自浄システムである。

P164 〜この時期、世界史上はじめて、一般市民が国政に直接に参加できる政体が誕生したのである。後世はこれを、「直接民主政」と呼ぶ。

P174 〜訓練でも競技会でも、裸体で行うと決められていた。秘すればこそ妙な気を起こすと、リュクルゴスは考えたのであろう。性生活も、スパルタでは〜戦士の育成を目的とする手段の一つにすぎなかったのである。

P178 なにしろ内ゲバの激しさに特色のあるギリシア史では珍しく、ペルシア戦役は、全ギリシアが一致団結して敵に当たった最初にして最後の例でもあった。


★★★

 

 



(686) 『三国志 きらめく群像』(著:高島俊男。ちくま文庫)※「初めて」あり

P78 〜夫人を宴会に出す、つまり自分の妻を他の男たちの目にさらすというのは、破天荒な暴挙なのである。

P95 曹操の覇業成就に荀ケが決定的な役割を果たしたことが三度あった。
 第一は〜陳宮呂布を引き入れ、兗州乗っ取りをはかった際である。〜
 第二は〜献帝を許に迎える決定である。〜
 第三は〜袁紹との官渡の戦いの際である。

P108 怒った曹操は〜徐州へ報復に行き、むちゃくちゃな殺戮をおこなった。この時ほどの大量殺戮虐殺は中国の歴史上でもあまり例がなかろう。

P134 〜たまたま用があって袁紹張邈のところに使者をつかわした。韓馥は「これはオレを殺す相談に来たのに相違ない」と便所に逃げこみ、そこで自殺してしまった。『三国志』の登場人物のなかでもこれほど弱気な人は珍しい。

P212 韓遂が死んだあと、成公英曹操にくだった。〜「韓文約にだけ忠節をつくして、俺にはダメかね」〜「正直に申し上げます。もしわたくしのもとの主人が生きておりましたら、わたくしは決してここへは参らなかったでしょう」

P249 『三国志』にあまた出てくる孝廉たちのうち〜「代々農夫」の闞沢はそのなかでも最も不利な条件で出発したらしい。

P252 『三国志』を読んでいると、この文臣にもふたいろあるようである。一つは、当面の戦争の戦術策定に参与するなど個別具体的問題の解決にあずかる人たち。もう一つは、治政方針とか将来計画とか、あるいは経済政策とかマクロな戦略とかの大局について、建策したり相談にあずかったりする人たち。

P268 裴松之の注は諸書の記事のうち信ずるに足るものを転録したのではない。玉も石も採って、判断は見る人に委ねたのである。

P318 名と字をくっつけることはない。つまり「操孟徳」〜などと言うことは絶対にない〜劉備のことを「劉備玄徳」と言う人があったとしたら、それは無知無学の人と断定してよい。

P344 わかくして大将になってしまったので孫権は、特にはじめのうちはずいぶんやりにくかったにちがいない。配下といってもみな自分より年も上、貫禄も上の男たちばかりである。
〜なかでも甘寧は札つきのナラズモノであった。

P360 名というのはたいへん重大なもので、めったに使うべきものではない。特に本人にむかってその名で呼びかけるなど、その人を悪罵する時でもないかぎり、あってはならぬことである。
 これは別に中国人特有のことではない。いまでも地球上には、人から面とむかって名を呼ばれたらたちどころに死ぬ種族があるそうである。

P363 〜「劉備は極貧の家に生まれたワラジ売りの少年だった」などと言う人があるが、それはない。

P381 〜劉備は〜呂布を名で呼んでいる。蔑視と嫌悪をこめた呼びかたである。

P385 〜日本のごとく〜親と子が同じ字をもちいることは決してない。
〜唐の太宗李世民という名だったから、唐代三百年をつうじて「世」は「代」と、「民」は「人」と言わねばならなかった。民心のことを人心と言うようになったりしたのはこの時からである。

P392 〜『三国志』には「中国」という語がよく出てくる。もちろん「世界の中心」「文明の中心」という、強い価値観を帯びた表現であり〜曹操のいるところが天下の中心なのであり、自分たちのいるところは辺境なのである。「中国に士大夫饒(おお)し」という諸葛亮のことばには、「そりゃおまえ、とてもダメだよ」という気分がよくあらわれている。

P396 現世では曹操に尻尾を振り、死後は漢の忠臣の美名をかちえようという二股膏薬め、と杜牧荀ケを罵倒した。

P399 〜劉備の目から見て諸葛亮は、もちろん抜群に有能な人物には相違ないが、戦争にはあまり向いていないと見えたのであろう。

P406 〜当時において呉や蜀のあったあたりはまったくの僻地であり辺境である。〜国力も隔絶している。

★★★

 曹操が成公英に「俺じゃダメなのか?」と訊いて「ダメ」と言われるとこは哀しい。関羽にもそう言われたし。



(687) 『「水滸伝」を読む』(著:伊原弘。講談社現代新書)

P48 宮崎市定氏が指摘するとおり、梁山泊は胥吏すなわち下等の役人と塩の密売人の世界を描きこんだ小説でもある。

P61 〜呉用は儒者で公孫勝は道士である。
〜呉用は智恵をめぐらすわりに失策が多い。しかも〜いわゆる小智恵が多い。〜官僚に対する庶民の信頼度を表現しているようだ。

P64 呉用は〜所詮は田舎の寺小屋の先生である。その故か、実践に疎い。

P69 当時の都市にはすでに組織犯罪が誕生していたばかりか、かれらの組織が形成されつつあったのである。

P84 〜中国人の移動は南下でもあり、西晋末期と北宋の滅亡がその最大のものとされる。

P89 だが、一言「ああ!哀れ宋江もここで」などと呟けば、たちまちかれらが平伏する。
 正直にいって、なぜに宋江がこんなに人気があるのかわからない。これは、『水滸伝』を研究するものが等しく悩むところである。

P94 〜宋元代の芸にはわれわれの理解しがたいものがいくつもある。とくに奇妙なのは虫芸である。蟻や蜻蛉などに芸をさせるのだ。

P103 〜当時の宿は今日の宿とは形式が違う。宿屋は宿泊者に文字どおり宿を提供するだけなのだ。宿泊者は食事をしたければ、自分で用意をするしかない。ちなみに、こうしたシーンは『西遊記』にも登場する。

P118 林冲の離婚話は、ときの権力者の横恋慕による悲劇である。だが、問題は、離婚状である。〜その文章のなかに再婚を許可している文があることには注意するべきである。

P135 果敢な武芸者たる一丈青に、突如として中国的な婦道が描き込まれて面白くないことこの上もない。宋江のいうがままに王矮虎と結婚するなど、考えられぬことである。こうした不釣り合いな結婚は『封神演義』にも見られるから、中国の小説では少なくないことかもしれない。

P151 中国の彫りものの変遷の歴史をデザイン的に確かめにくいのだが、我が国の彫りもののごとき華麗なものを連想していいのか疑問に思う。

P155 〜神行太保戴宗の韋駄天は、当時の飛脚制度を逆手にやゆしたものであることがわかる。お上が定め、特別なシステムで行う早飛脚。それを梁山泊のメンバーが歩くだけでらくらくと出し抜いてしまう。

P157 かつての石投げは神事・軍事と結びついていた。
『水滸伝』に出てくる石つぶての名手は〜ひとりは〜没羽箭の張清であり、いまひとりは、〜瓊英である。

P197 〜梁山泊のひとびとはだれに忠義を果たそうとしているのだろう。〜宋江は厚い忠義の心をもっている。この忠とは国家への忠である。〜宋江にとって、国家とは時の皇帝趙氏なのだ。
〜民衆の代表として人気のある〜李逵にとって忠と義を尽くす相手は宋江だけである。かれには、国家とは無意味なものにすぎない。皇帝が悪いから世の中も悪い。だから、兄貴が皇帝になればいいという理論である。

P200 「君、君たらずといえども、臣、臣たるべし」という思想は、中国には薄いのではないか。儒教ですら革命の権利を説いているのだから。
〜君臣のあいだに忠はなく、あくまでも義があるだけなのだ。

P201 宋江が「招安」を受けたがるのは、なんとか政府から追及されないまっとうな人間になりたい、社会を大手を振って歩きたい、といった願望の故である。


★★★

 やっぱ、呉用はケチョンケチョン。

 


(688) 『思考の整理学』(著:外山滋比古。ちくま文庫)

P23 夜考えることと、朝考えることとは、同じ人間でも、かなり違っているのではないか、ということに何年か前に気づいた。〜
 それに、どうも朝の頭の方が〜優秀であるらしい。

P25 〜朝のうちに、できることなら、朝飯前になるべくたくさんのことをしてしまいたい。それにはどうしたらいいのか。答は簡単である。
 朝食を抜けばいい。

P86 調べるときに、まず、何のために、調べるのかを明確にしてから情報蒐集にかかる。

P93 講演をきいてメモをとるのは賢明でない。

P98 何かを思いついたら、その場で、すぐ書き留めておく。〜寝させている間に太らないようなのは、つまり縁がなかったのである。

P113 朝目をさまして、気分爽快であるのは、夜の間に、頭の中がきれいに整理されて、広々としているからである。

P119 気分爽快になるのは、頭がきれいに掃除されている、忘却が行われている証拠である。

P126 裏から言うと、書く作業は、立体的な考えを線状のことばの上にのせることである。

P145 思考の整理の究極は、表題ということになる。

P148 〜とにかくここまでやってこられたのはだれのおかげかと考えてみると、たいていは、ほめてくれた人が頭に浮かぶのである。

P156 話してしまうと、頭の内圧がさがる。〜あえて黙って、表現へ向かっての内圧を高めなくてはならない。

P158 俗世を離れた知的会話とは、まず、身近な人の名、固有名詞を引っぱり出さないことである。〜
 つぎに、過去形の動詞でものを言わないことである。〜
 気心が知れていて、しかも、なるべく縁のうすいことをしている人が集まって、現実離れした話をすると、触媒作用による発見が期待できる。

P176 以上の三つ、無我夢中、散歩中、入浴中がいい考えの浮かぶいい状態であると考えられる。いずれも、「最中」である。

P186 〜相変わらず、同じことをくりかえす人があとからあとからあらわれる。めいめいの人にほかの人の経験が情報として整理されていないからである。〜ちゃんと、ことわざという高度の定理化が行われているのに、それを知らないでいるためである。

★★

 講演の時にメモをとるのは賢明ではない・・・というのは軽いショック。私は、サッカーや落語でもメモとるもんなぁ。でなきゃ、忘れるしなぁ。

 


(689) 『陶淵明〜虚構の詩人〜』(著:一海知義。岩波新書)※「初めて」あり

P2 淵明は酒の詩人といわれ、また超俗の詩人とも呼ばれてきた。

P6 詩人陶淵明の特色〜は〜虚構(フィクション)の世界に特別の興味と関心を抱いていた、という点である。

P37 この世界では、父子(おやこ)すなわち長幼の序はあるけれども、君臣の別、支配するものと支配されるものの差別はない。
 これが、王安石が見抜いたユートピア「桃源郷」のポイントである。階級のない社会だ、というのである。

P98 「五柳先生伝」が欠落させている〜ポイントはいくつかあるが〜その一つは、「死」に関する問題である。〜
〜いま一つの点は、「躬耕
(きゅうこう)」〜みずから田畑を耕して、百姓仕事をすること。

P180 〜淵明文学の特徴の別の一つは、時に何気なく示されるユーモアであろう。

P182 死者の霊にささげる追悼の文章「祭文」は〜古くからあった。しかし、「自ら祭る文」を作ったのは、たぶん陶淵明が最初だろう。

P204 陶淵明は「虚構」という手法によって、何を表現し、何を訴えようと企図したのか。
 その一つは、理想社会あるいは架空の状況の現出による、現実批判・現実諷刺であり、いま一つは、分裂した自己
(あるいは人間一般)の提示、または客観化による、統一への模索である。

★★★

 

 


(690) 『入門 史記の時代』(著:小倉芳彦。ちくま学芸文庫)

P15 范蠡・鴟夷子皮・陶朱公の三人の行跡に共通した要素を見出すのはたやすい。〜
 〜『史記』貨殖列伝は、この三人を同一人物とする説話を伝えているのである。
 こうした説話が伝承されるには〜伝承者にとって一定のリアリティをそなえていなければならない。〜それを成り立たせる〜最も重要な前提は、越ー陶ー斉をつなぐ交通路、とくに運河の存在であった。

P54 荀子は斉・魏・秦各国の兵卒の実態を比較し、それぞれについて評価を展開している。
 「斉では〜敵の首を取った者に対し〜褒美をやる。しかし〜身分上の特別扱いをしないから、弱敵には兵士が奮い立つが、強敵と見ると鳥のように逃げてしまう」。

P59 鄭国という技術者までが、韓の出身であるという理由だけで殺されかけた。この水利工事は秦の東方進撃を緩めるためのスパイ工作である、というバカバカしい理由をつけられて。

P70 〜将来にわたって郡県制で天下が安定するという確たる見通しが、当の上奏を行った李斯自身にすらあったかどうか。〜
〜李斯〜がここぞとばかりに始皇帝に建議した。その内容は〜国法の是非を博士が議論すること自体を非法とする〜さらに、そうした議論の根拠に使われる書籍や文書類まで焼き捨てよという途方もない処置を進言したのである。

P85 〜秦帝国の大臣たちにとっては、巡幸は〜天下を統一した「皇帝」の威信を、かつて敵国だった地域の隅々にまで誇示する効果が計算されていた。

P89 厳重に張りめぐらされた秦帝国の警察網をかいくぐって、大胆不敵にも「皇帝」の生命を狙うという計画に加担したのは、彼らのような士人社会から脱落したアウト・ローなればこそであった。〜
 そういう陽の当たらぬ賎業に従事する人々を、国家に代わってとりしきっていたのが遊侠の組織だったと思われる。各種の賎業の中で社会生活上もっとも不可欠なのは〜運搬業である。

P101 〜劉邦の軍は咸陽に入城した。〜蕭何だけは、目のつけどころがちがっていた。〜律令や図書の類を接収し、軍中に持ち帰った。これがやがて漢帝国の民政運営に絶大な貢献をすることになる。

P113 〜「王者の師」として劉邦を皇帝にまで押し上げてからの彼には、それまでのような執念が気迫になったように見える。〜そこにはどこか虚無の翳(かげ)がただよう。

P121 〜魯元公主の夫である趙王張敖に、劉邦暗殺の計画があったという密告が入った。〜
〜このことは劉邦に、呂后とその生んだ太子盈を疎ましく思わせる逆効果を生んだのではあるまいか。・・・このままで行くと、呂后とその兄の一族がどこまで発言力を伸ばすかわからない。とくに劉邦が死んだ後では。
 太子盈を廃して、代わりに戚姫の生んだ如意を立てたいと劉邦が考えはじめたのは、この頃からのように思われる。

P127 劉邦出征の留守中を敢て狙ったかの如くに、慌しく行われたこの韓信の処刑には、呂后を中心とする陰謀の匂いがする。

P141 張良に〜対して、太后は養生を勧めてこう言ったという。
------人間の一生なんて白馬に跨って戸の隙間を駆け過ぎるようなもの。

P154 −−−どうして平素から答え方を教えておいてくれなかったのか。
 こう率直にぶちあけるところが周勃の人のよさだろうが、陳平の答えは冷たい。
−−−宰相の地位にいたら役目くらいわあかりそうなものだ。〜
 陳平ははじめから周勃をくみしやすしと見ていた。だからこそ右丞相の地位を形式的に譲ったのである。

P159 −−−私は天下のために賊臣審食其を誅して、母の仇を報いたのです。
 この弟の言い分を文帝は認めざるを得ず、淮南王の殺人行為は不問に付されてしまった。

P170 張釈之の〜公正主義は、いささか瑣末事ばかりを追いかけた気味がある。彼に法の公正を貫き通す意思があったのなら〜淮南王劉長の審食其殺害事件をこそ、正面からとりあげるべきだったのではなかったろうか〜
〜袁盎のいわゆる「直諌」も、阿諛と紙一重だと言える。

P177 〜肉刑廃止も、実は美名倒れであった。〜実際には、数百回も笞打っている途中で罪人の息が絶えてしまうことが多く、刑を軽くするとは名のみで、内容は死と変わらなかったのである。

P187 〜袁盎は、かつて〜晁錯が庶人に落とした人物である。それが〜推挙されることを嫌った晁錯は〜逮捕することを計画した。〜袁盎は〜取次ぎを頼んだ。〜
〜景帝は膝を乗り出してたずねる。〜
〜袁盎は〜どうかお人払いをお願いします。
 景帝は左右の者を退席させたが、晁錯だけは残っていた。すると袁盎は景帝に、
−−−私の申し上げることは人臣の知ってはならぬことです。
と切り込んだ。〜晁錯の信奉するその法家理論の切り札を袁盎はこの場で逆用した。
〜晁錯はこの朝議の急変を全く知らずに〜途中で長安の東市に連れ出され斬られてしまった。

P193 この反乱事件以後〜王は〜列侯なみの水準に落ちて〜それにつれて治民の責任から解除された王たちが、ひたすら私生活において悦楽荒淫の度を高めて行く姿は痛ましい。
〜膠西王劉端は生来性的不能者で、婦人を一度近づけると数ヶ月間病むという特異体質で〜美少年を愛して側近に用いたが、彼らが後宮の婦人と懇ろになると、一族をみな殺しにした。〜劉丹も、自分の姉妹と通じたり、人殺しや追剥ぎをやったり〜劉終古は白昼裸で匍
(は)いまわって犬馬と交接し〜。

P202 竇太后〜自身にはそれだけの権勢があったが、兄弟〜は外戚として横暴にふるまうことがなかった。それが竇氏が呂氏の二の舞を踏まずに済んだ原因と言えよう。

P220 〜張湯や公孫弘に対する武帝の信任を苦々しく思う同僚も多かったであろうが、誰も敢て口に出さない。〜
 その中で一人だけ武帝に苦言を呈する人物が〜汲黯
(きゅうあん)である。〜
−−−陛下の人臣の使い方は薪を積むのと同じですな。後の者が上になる。
と皮肉った。

P226 (算緡制)〜(告緡令)〜を工夫しかつ実行したのは、張湯が登用した〜桑弘羊ら経済官僚であった。
〜塩や鉄の専売制といわれるものも、特定の業者を塩鉄官に任命して権利を保障し、それ以外の一般塩鉄業者を算緡・告緡などで没落に追い込むのが目的だったと思われる。〜
〜「均輸法」〜「平準法」なども〜実は官に結びつく特定の商工業者だけが懐を肥やすしくみになっていたようである。

P227 白鹿皮幣の令が出されたとき〜大農令顔異は〜客との間でこのことが話題になった際に、少し唇をゆがめて見せた。ところがそれが〜張湯に密告され、死刑を宣告された。〜
〜義縦の例で言えば〜根こそぎ弾圧し、郡中、「道、遺ちたるを拾わず」〜戦々兢々たる有様となった。

P249 〜司馬談は〜一般には何十年、何百年もかかってはじめて実現されることを、漢帝国の創始者はなんとわずか八年で達成してしまった。そのことに彼は天意を見た〜。

P268 〜一般的に言えることは〜この著作の中には、父の談が手をつけ、あるいはすでに完成させていた部分が思いの外に多く含まれているらしいことである。

P299 〜武帝の眼には〜「任侠」の義はもはや価値が認められなくなっていた〜
〜司馬遷がこの時点で李陵を弁護したのは、良識を踏み外した愚かな行為であった。

P302 思いがけぬ災厄によって汚辱の運命に見舞われながらも、その恥辱を忍ぶことによって、かえって名著を残した先聖・偉人はいなかったか。彼の博識からすれば、そのような例はいくらでも浮かんで来る。

P311 〜父子間の抗争がよい結果を生んだためしはない。〜それを考えると、田仁や任安のとった中立の態度は、状況判断として正しいと司馬遷は考えたに相違ない。それなのに二人は死刑の判決を受けた。〜
〜彼はまたもや獄中の任安に手紙を書いたのである。それがたしかに相手に届くか、受け取った相手が喜ぶか否かは問うところではない。「不羈の才」の奔出するままに、やむにやまれず書いたのである。

P319 高節を守った田横の自殺と、その五百余人の部下の激越な殉死とは、戦乱中の大量殺傷が日常化していた当時の人々にとっても、よっぽど衝撃的な事件であったに相違ない。


★★★☆

 

 


(691) 『血涙(上)』(著:北方謙三。PHP文庫)
P17 訓練は実戦のためにやるのだという当たり前のことを、しばしば忘れてしまう将校がいた。そういう将校の訓練指揮の方が、無意味に厳しかったりするのだ。

P34 曹彬は、部下に対する態度以上のものは見せなかった。六郎も、期待などはしていなかった。ただ、勅命に近いかたちで、楊家軍を再結成することは、伝えなければならない。

P36 「これは、殿が、精魂をこめて打たれたものです。〜吹毛剣といいます」

P209 耶律斜軫は、少し考える表情をしていた。
「おまえに、一度だけ訊きたい、耶律休哥。〜俺は、総帥として、ふさわしいと思うか?」
「ふさわしくない」
 耶律斜軫が、じっと見つめてきた。
「そういうことを訊く、おまえはだ」
「おい」
「男は、自分がどうあるか、自分で決めればいい」

P370 石幻果の頬の傷に指さきで触れ、耶律休哥は言った。傷は、血ではなく、涙で濡れていた。
「思い出したのか?」
 石幻果の眼から、また涙が溢れ出してきた。
「思い出したのだな、昔の自分を」
「すべて。すべて思い出しました」
 石幻果が膝を折り、叫びに近い泣き声をあげた。

★★★☆

 

 

 


(692) 『血涙(下)』(著:北方謙三。PHP文庫)
P97 「この遼には、父がいて、母がいる。私は、そう思った。父は耶律休哥、母は蕭太后。おかしいな。おまえにしか言えないことだ、赤竜」

P203 「朕は、思う。これまでのわが国の戦は、常に人によって滞った。それをなくすために、寇準と柴礼に、大きな権限を与えたのだ。〜」

P216 「呂成来、おまえは確かに優れた指揮官に成長したが、欠点がひとつある。喋りすぎだ」
〜自分の喋り方が、このところ耶律休哥に似てきたと、石幻果は思っていた。〜
 こわいというのは、優れた指揮官の証と言ってもいい。こわいから、すべてに眼を配る。

P253 耶律休哥は、まるで疲れを見せない。冷たい視線で兵たちを見回すと、兵も疲れを押し殺すのだ。心が疲れる方が、躰が疲れることよりはるかに多く、兵を潰す。

P256 楊延光が、すさまじい勢いで耶律休哥にむかった。〜次の瞬間、両者が交錯した。
 楊延光の首が、宙に舞っていた。

P259 剣がぶつかる寸前、石幻果は楊六郎の中に楊業の姿を見た、と思った。次の瞬間、耶律休哥の剣が折れた。
〜傷ひとつ、白き狼は受けていない。しかし、生きてはいなかった。

P312 石幻果を驚かせたのは、耶律屯自身で兵糧を奪って運ぶ、と言い出したことだった。この作戦の要諦がなにかを理解しているのは当然として、総帥としての面子もすべて捨て去っている。

P368 御前の軍議が終ると、六郎ひとりが柴礼の幕舎に呼ばれた。寇準が一緒にいて、六郎に腰を降ろすように言った。〜
「遼軍は、ここまで来たものの、撤退の機を掴めずにいる。〜
 宋という国が、深い傷を受けないことがひとつ。遼軍に撤退しようと思わせることがひとつ。陛下直々の御出陣を勝利で飾りたいことがひとつ」
 寇準の眼は、六郎を見続けている。
「明日の戦闘の火蓋を、楊家軍に切って貰いたい」
〜血を流すのは楊家軍のみで、ほかの宋軍は〜闘いすらしないかもしれない。そして遼軍との交渉に入る。

P379 兜を飛ばされた九妹が、髪を振り乱していた。〜その躰が二本の槍に貫かれるのを見て、石幻果は声をあげかかった。

P382 「七郎」
 声が聞えた。六郎ではなく、四郎だった。横。ぶつかってくる。
「いい戦ではないか。楽しくなるほど、いい戦だ」
〜なんという、速さだ。なんという、鋭さだ。〜下から、斬り上げられていた。右腕が飛ぶのを、七郎ははっきり見ていた。次の瞬間、胸から血が噴き出していた。

P384 石幻果は、六郎にむけた吸葉剣に、わずかだが力をこめた。
 勝った。そう思った。弟妹のすべてを、自分の手で殺した。その感触が、掌にあるはずだった。しかし、六郎に届くはずの剣は、届いていなかった。届く前に、折れた。いや、斬られたのか。
 斬り上げられ、斬り下げられるのを、石幻果は感じた。
 なにかが、心を満たしてきた。



★★★☆

 


 

(693) 『楊令伝(二) 辺烽の章』(著:北方謙三。集英社文庫)
P18 「俺が生き残ったのは、無様か、楊令?」
「俺も、生き残っていますよ。〜つまり、生きているということは、無様なのですよ」

P38 「ひとつだけ、訊きたい」
 張清が言った。
「楊令は、頭領たり得る男か、燕青?」
「人を魅
(ひ)きつける。畏れられながら、魅きつける。その力のようなものは、梁山泊軍の誰よりもある、と私は感じた。〜」

P42 梁山泊に加わっている者たちが、必ずしっかりした志を持っていなければならない、ということはないと史進は思っていた。〜
 ただ、頭領だけは違う。誰もが仰ぎ見る志を、持っている必要があるのだ。そして、人を魅きつける。呉用には志はあるのだろうが、嫌っている者が多い。公孫勝にも志はあるだろうが、とにかく暗い。〜
「宋江殿が、次の頭領だと認めた。それでいい、と俺は思う」
 張清が言った。

P47 方臘には、権力への野望があるだけで、思想がない。〜つまり、梁山泊の核とも言うべき、志が、どうしようもなく欠けているのだ。

P56 晁蓋が、死んだ。最後の戦では、宋江も死んだ。この二人が、呉用の夢だったと言っていい。〜
 宋江が死んだのは、梁山泊の潰滅とともにだった。〜躰は聚義庁の建物に駈けこんでいた。そこにいれば、死ねるのだと思った。

P64 ただ、宋江が死んだ。〜梁山泊軍はいま、中心の拠点を失ったと同時に、心の拠りどころも失ってる。
 それでも離散してしまわないのは、ひとりひとりの心に、まだ理想が残っているからだろう。
 聞煥章は、理想という、人の心に巣くう清らかで美しいものを、それでも認めようという気持ちにはなれなかった。

P81 自然に、躰が動いた。拳が、楊令の躰を砕いた。そう思った。
「死んだ」
 楊令が、剣を鞘に収めた。
「これで、行者武松は死んだ」
 武松は、自分の右の手首の先がなくなっていることに、はじめて気がついた。

P92 「水の上だ」
 項充は、泣きながら呟いた。
「俺はやっぱり、水の上だ」
 泣きながら、笑った。

P115 自分も人の親なのだ、と張清は改めて思った。〜
〜父と呼んだ張朔の声が、いつまでも張清の胸の中で響き続けた。

P120 「呉用殿の上に、頭領がいればいいさ。楊令が、最後の最後を決めてくれれば、独断でも俺は動ける。失敗も恐れない」
 呉用の下では、失敗など許されないのかもしれない。そして、たえず報告を求められる。

P130 〜戦に敗れても、その志が微塵も揺るがないように見えるのが、不思議だった。〜
 自分が兵力を増やそうと考えたのは、殺しても死なないものに、恐怖に似たものを感じたからだ、といまは思っている。
 宦官であることを拒み、軍人であろうと決心した時から、一切の弱さと訣別したつもりでいた。皮肉なことに、勝利が、自分の弱さを認識させる契機になったのだ。

P150 「なあ、杜興。覚悟ってのは、どこかでぽきりと折れちまったりする。納得ってのは、どんなに曲げられても、折れやしねえんだよ。折れたら、折れたところで納得する。うまく言えねえが、そんな感じさ」

P155 「そうやって思い出してくれる弟がいて、おまえの兄貴は幸せだ」
「違うな、項充。思い出してしまう人間を持った、俺たちが幸せなんだ」

P174 ただ、以前の楊令とは違う、ということもはっきりと感じる。堅く、鋭く、強い、という印象はなくなっていた。代わりに、なにか太いものがある。

P251 自分が思っていた以外の、方臘という男がいたことは、間違いないようだ。

P333 手を振り払おうとした。杜興の眼から、涙が流れ落ちているのを見て、孟康はひどく驚いた。こんな老いぼれでも、泣きながら頼むことがあるのか。〜
〜そばを通ると、杜興がにやりと笑った。
「男の約束であったのう、孟康」
 孟康は舌打ちをし、杜興から眼をそらした。

P347 戴宗が、また声をあげて笑った。
「そんなに、人の心を読んでばかりじゃ、疲れてたまらんと思うがな、俺は」
〜「俺はただ、あんたと離れていたいんだよ、呉用殿。もう、保たんと思う」
「ほかでも嫌われているのだろうな、私は。死に損いのくせに、聚義庁の名をかたって、勝手に頭領のようなことを言っている。嫌われて当然だと思う」
「困ったな」
「なにが?」
「嫌ってるわけじゃない。そばにいると、気が重くなる。それに耐えられなくなったってことさ。あんたが梁山泊のために、どれだけ働いているかは、俺が一番よく知っている」

P351 「なるほどね。あんたにゃ、いつも答がある。そばにいるのがいやになったのは、答ばかり聞きたくなかったからなのかもしれん」
「もういい、戴宗。寝ろよ」
「そうする。邪魔したな」


★★★☆

 


 

 今月も、まだまだ書評が大量に積み残し。



inserted by FC2 system