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2011年9月のひとこと書評(掲示板に書いた文章の転載。評価は★5つが最高)

  9月のひとこと書評の再録です。掲示板そのままでは芸がないので、評点をつけます。★5つが最高。評価基準の詳細は、2001年11月書評のページをご参照ください。




(706) 『橋下徹 改革者か壊し屋か』(著:吉富有治。中公新書ラクレ)

P6 橋本知事が提唱するこの大阪都構想については〜もしかすると大阪を、ひいては日本を、大きく変える起爆剤になる可能性を秘めている〜都構想の中身を詳しく検証してみると、そこにいくつかのメリットも見える反面、なにかしらの不安要因が潜んでいることも、また事実〜。

P10 〜橋下知事は大阪という都市を統一するために大阪府や大阪市を潰そうとしています。橋下知事は府と市という行政区分を解体して再編し、大阪にミニ国家を創造しようとしているのです。
〜もし橋下派が勝てば、その後には”橋下幕府”が完成するでしょう。じつは、この橋下幕府こそが、橋下知事がめざす「大阪都構想」なのです。

P23 〜大谷さんが本人から聞いたところによると〜『スーパーモーニング』(テレビ朝日)のワンコーナー「玉川総研」〜をスタジオで見た橋下弁護士は、役人らのあまりの無軌道ぶりに激怒。それまでは政治に興味がなかったにもかかわらず、番組を見て完全に考えが変わったそうです。
 大阪府庁で行われた出馬表明では、「5年前から政治に関心があった」〜と述べていました。

P24 〜「あれは独裁者だ」と橋下知事の政治手法〜に警鐘を鳴らす人物がいます。前・堺市長の木原敬介さんです。〜
 木原さんの主張を端的に言い表せば「
(橋下知事は)ウソのアジテーション(扇動)で市民を惑わし、マスコミを最大限に利用し〜大阪の独裁者になる野望を秘めている」〜。
〜橋下知事も、2008年11月〜次のような賛辞を送っています。
 木原市長は自治体トップの理想モデル〜だと僕は思っています。〜木原市長が堺の市長である限りは、皆さんは日本一幸せな市民であると思っています。〜
〜2009年9月に行われた堺市長選挙で〜木原市長の政策を批判し始めた。〜木原市長が3期も居座ることを是としない発言もありました。
〜「政敵とみなせば、相手をとことん口汚く罵る」「出来もしない政策をぶちあげる」「マスコミ向けのパフォーマンスだ」など、橋下批判の声はたびたび聞かれます。

P33 〜地方債(府債)を発行しなければ予算は組めない〜それを知事は白紙撤回しろと強く迫るのです。〜
 人件費の削減にも斬り込みました。〜基本給を都道府県では最低水準にまで引き下げただけでなく、全国で初となる退職金のカットまで実施しました。

P34 〜ある外郭団体の幹部は〜「〜あの人は1円の得にもならない文化より、金儲けがだいじなんでしょう」と吐き捨てるように語っていました。

〜大阪府は私立の小中学校や高校で助成金のカットを続ける一方で、2010年度から府内の私立高校に通う年収350万円未満の世帯には、授業料を無償化する施策を行っているのです。

P36 〜2008年4月〜当初予定していた府下自治体への補助金3357億円のうち、79億円をカットしたいと申し出た〜首長たちから〜罵詈雑言が1時間近くも浴びせられ〜橋下知事が、とうとう泣き出す場面がテレビの全国放送でも流れてしまいました。
〜首長たちは〜「抵抗勢力」のレッテルが貼られ〜知事には多くの同情が寄せられ、さらに人気が高まっていった〜。

〜2008年度の収支が〜収支不足から逆に余剰金が出ることが判明〜府民は驚き「さすが橋下知事。わずか就任1年で府の赤字を解消した」と大絶賛〜。
 『読売新聞』が〜行った府民アンケートによると、橋下知事の支持率は82パーセントにも達していました。

P38 〜本当に府の財政が好転したかについて〜財務上の数値を見ていると、それがどうも怪しい〜。
〜橋下知事ではなく太田前知事のままでも大阪府の「赤字脱却宣言」はなし得た〜。
 これは私の推測などでは決してありません。大阪府議会の有力議員も「実質収支がプラスに転じる時期に知事に就任したことが、橋下知事に幸運をもたらした」と語っていた〜。

P42 橋下知事は〜あらたな借金をしないものと府民は思っていました。ですが〜「原則ゼロ」を撤回〜臨時財政対策債と減収補填債という借金でお金を集め、なんとか歳入を確保した〜むしろ大阪府の台所事情は余計に苦しくなっている〜。
〜黒字にはもうひとつの「まやかし」がありました。

P44 〜府が出資する5法人から、年度末である3月31日に貸していたお金を一時的に返却させ〜府の歳入として計上〜1日後の年度初めの4月1日には、再び5法人に同額を貸し付けていた〜。
〜こうした会計操作がなければ〜2008年度決算では〜約853億円もの赤字になっていたと外部監査で指摘された〜。

P104 最近とくに大阪市職員の不祥事が目につくのは、役所内部で正常化の大手術が行われている証明ではないか〜。

P145 2010年10月19日付の『朝日新聞』〜橋下知事を支持し、大阪都構想に期待していても、なぜか「説明が不十分」と感じる府民が約7割もいる。

P151 〜いざ知事になってわかったことは、大阪府を根本的に改革しようと思うと大阪府の力だけでは限界がある。知事の権限も大阪市長ほどではない。

P158 「大阪都構想」とは、いったいどのようなもの〜か〜維新の会の〜ホームページから概要を見ることができます。
1 住民の生活基盤
(安心)に関わる事務は基礎自治体が〜産業基盤(競争・成長)に関わる事務は広域自治体がサービスの提供主体になるという役割分担により〜大阪府域を再編する。
2 新たな統治機構
(大阪府とグレーター大阪〔大阪市+隣接周辺市〕の一体化が中心)を構築する。
3 都
(仮称)制下に府内に適正な数の基礎自治体を構成する。
4 大阪の潜在可能性を顕在化させ成長戦略を策定する。
5 アジアの拠点都市に足る都市インフラ
(道路、空港、鉄道、港湾等)を整備する。

〜・ 東京23区相当の中心部で都区
(仮称)を構成する。
 ・ 都区は東京都の特別区よりも権限と財源を有する基礎自治体である。
 ・ 都区の首長は公選制とする。
 ・ 都区に議会を置き議員は公選制とする。〜

P161 大阪の広域行政を一本化し、広域行政にかかわる財源を一つにまとめて、大阪全体のグランドデザインのもとに財源を集中投資する。〜大阪市内のことだけでなく、衛星市を含めた大阪全体を成長させる切り札が、広域行政の一本化なのです。
 広域行政を一本化することで、本当にそんなにバラ色の大阪が待ち受けているのか〜このあたりの論証は大阪府自治制度研究会の中間とりまとめ等に詳細に論述されております。

P169 〜大阪府と大阪市が消えてなくなり、その後に大阪都が誕生したからといって〜住民サービスが良くも悪くもなるのは、区議会次第〜。

P171 社会インフラを整備するのは〜企業誘致のため〜大阪都に企業が集まれば雇用が生まれ、利益が上がれば法人税や固定資産税は大いに期待できる。それが回り回って、住民へのサービスにもつながるという理屈〜。

P189 公選制の区議会が登場することで区民の政治意識は高まるかもしれませんが〜330人の区議会議員が生まれることになります。〜
 大阪都が本気でボランティア議員を募るなら、まずは候補者に金銭的な負担を強いない選挙制度を作り上げること〜それができなければ、時間と金を持った者しか区議になれない〜。

P194 〜東京などに移転した企業を大阪に呼び戻し〜職のない人にでも仕事を斡旋する〜ことが、大阪都構想の究極の目的〜。

P196 〜企業にとって働きやすい環境〜とはなにか〜。
 〜まずは優遇税制〜そして交通アクセスと情報インフラに優れた場所の提供〜。

P198 〜リニア中央新幹線の開業は〜30年以上も先の話です。
〜残った手段は〜税制の優遇しか道はありません。
〜法改正や規制緩和があれば大阪都など作らなくても大阪経済の発展は十分できるということです。

P200 〜どんどん企業が大阪に集まったからといって、本当に大阪は潤うのでしょうか。〜
 小泉純一郎元首相の構造改革以降、大企業は〜終身雇用のように従業員に利益を還元することは、あまりなくなってしまいました。正社員の数を極力減らして、派遣社員かパートを雇って人件費を削る〜。

P203 〜大阪府自治制度研究会も〜2020年末に最終提言を行い、東京都をモデルにしたような大阪都構想は困難だと結論づけている〜。

P204 維新の会は同会のホームページで「大阪府自治制度研究会が発表しました〜中身を実現することも〜方針として決定しております」と記しています。ところが、その研究会の最終提案は実質的に「大阪都の実現は困難」とするものです。論理的に考えるならば、維新の会は大阪都構想の看板を下ろさねばならないはず〜。

P220 橋下知事の手腕によって実質収支が黒字になったといっても、それはあくまで見せかけのものです。大阪府が抱える借金は減るどころか、いまも増え続けています。

P231 せっかく大阪を改革するチャンスがめぐって来たというのに、どうして橋下知事が大阪市を敵視するのかがまったく理解できません。本当の敵は大阪市などではなく〜霞ヶ関の連中なのです。




★☆

 
 
『大阪破産』の吉富氏なら良しにつけ悪しきにつけ、もう少し毒のある白黒つけた表現をするか、と思ったのだが・・・。




(707) 『科挙』(著:宮崎市定。中公新書)※「初めて」あり

P2 〜万人の中から公平に人物を採用する試験制度〜科挙制度の成立したのが、今から1400年ほど前の587年

P6 〜1904年を最後の年として、以後は科挙を行わぬ〜。
 〜進士の名は〜大学卒業者、あるいは海外留学からの帰朝者に対し〜あたえる〜。〜日本の服部宇之吉博士が〜1909年〜進士の称号を贈られた〜。〜朝鮮には〜科挙を受けて進士となった者があるが、日本では唐代に阿倍仲麻呂がはたして進士になったか疑わしいのを除き、ただ服部博士だけが〜進士となった〜。

P30 〜「聖諭広訓」は天子の作ったものであるから〜もし間違って書くと〜落第させられるのは必定で、おまけに何回かの出場停止をくう〜。
 〜すべての試験を通じて〜現在の天子ばかりでなく、現王朝の祖先の名にある文字をも書いてはならない。〜
 こういうばかげた習慣は幸いにして日本へは伝わらなかったが〜勅語の原本には明治天皇の御名、睦仁と書き〜判が押してあったのを、写しをとる時にそれでは恐れ多いからというので、御名御璽と書きかえて〜。

P45 〜院試に合格するまでには相当の出費を覚悟〜貧乏人の入学は始めから無理〜社会上に貧富による階級の区分が自然に成立〜。

P51 〜地方学校の生員となった者も、〜太学の監生となった者も、等しく科挙のための勉強に専心して、せっかく存在している学校制度を無視してしまう結果となり、中央政府の方針も〜もっぱら科挙によって人才を選抜することに重きをおく〜。

P54 〜科挙の希望を放棄して、一生涯生員の資格で満足する者のことを「進取をあきらめた」という。

P90 正・副考官は〜新挙人を招いて祝賀の宴を開くが、これを「鹿鳴の宴」という。もしその地に60年前郷試に合格した老人があれば、一緒にこの宴に招かれ〜二度目の鹿鳴の宴と称し、学会の盛事とたたえられる。さらにこの老人の子孫が新挙人の中にいれば、錦上に花を添えると称していよいよめでたい。

P91 〜新挙人は一生涯、考官を師匠として尊敬し、堅い師弟の契りが結ばれる。〜一方学問を教えた先生は単に受業の師といって〜授業料を納めているから、すでに金銭で片がついているといった〜ドライな割りきり方〜。これに反し試験官〜に対しては特に知己の恩を感ずる〜。これは天子の側からは〜党派をつくる一因にもなったので、いく度か禁令が出されたが一向にききめがなかった。

P114 〜会試に合格すると〜殿試においては原則として落第者を出さない〜。

P120 〜宋の初代の天子、太祖は貢挙のあと〜みずから試験官となって〜恩を売ってその合格者をすべて自分の弟子とし〜た。これが殿試の起源★〜。

P140 古くから人生に忘れがたい最大の会心事が四つあるとされていた。
 長いひでりのあと、しめりの雨
 遠い異国で旧知にあったとき
 新婚の部屋で差し向かいになったとき
 進士にみごと及第したとき

P168 〜別に武科挙〜なるものが存在していた。もっとも政府でも世間でも、武科挙に対する関心はきわめて薄く、その合格者に対する礼遇も、合格後の待遇もほとんど問題にならぬくらいであった。

P181 今から1400年も前の隋代に最初に科挙を行った目的は、これによって前代の世襲的な貴族制度に打撃を与え、天子の独裁権力を確立するにあった。

P184 唐代の天子も始めのうちは、貴族政治の別枠として、官僚制度という大きな網をはりめぐらし、そこへ平民出の官僚をぽつりぽつりとはめてきたところ、同じ餌につられて今度は貴族自身がその網の中へ入ってきたのである。天子にとっては思うつぼ、辛抱強く待っていたかいがあったのだ。

P185 〜唐代の科挙には〜幾多の欠点がみられる。まず第一に、その採用数がはなはだ少ないこと〜。
〜官僚間に激烈な派閥争い、党争が展開されたのであるが、科挙そのものがその原因をなしている〜これが第二の欠点である。〜
 宋代以後になると〜改良された。第一に科挙及第者の数は宋に入って俄然多くなってきた。〜
 次に宋代の科挙が唐代に比して改良された点としては、殿試の成立をあげることができる。
〜全進士はみな天子の門生である。〜その他の試験官がもし親分となるならば、それは天子の特権を侵害するひが事である、と宣言した。

P189 〜科挙を盛んにして大いに進士を採用したが〜遂には進士の就職難が起こるようになり〜。
〜王安石は〜根本的な教育からやり直さねばならぬと考え、新たに学校の建設にのりだした。
〜この学校制度はほとんどそのまま南宋にうけつがれ、その卒業生は科挙出身者と同じ資格で官途につくことができた。

P190 〜学校制度が〜科挙制度を圧倒して完全にこれに代わることができなかったのは、何といっても経済的な事情からであろう。教育は、元来、金のかかるものなのである。〜政府はえてして教育のような、すぐ目前に効果の現われない仕事には金を出したがらないものである。

P192 第一に科挙はだれでも受けられる、開放的な制度である〜。
 次に科挙がもつ優れた利点としては、それがきわめて公平に行われる点である。

P193 〜ひどいのは絹地の肌着にいちめん、四書五経の本文を書きこんで入場する。まさにランニングシャツではなくカンニングシャツだと駄じゃれをいいたくなる代物である。もっとひどいのは替え玉である。〜優に商売として成り立つといわれた。

P200 〜才能があるうえに活動的で野心があり、不運なためにたびたび落第の憂き目にあったような者は失望から自暴自棄へ、自暴自棄から反抗へのコースを辿る場合が少なくない。〜一王朝滅亡の陰には、いつもこのような知識階級の不平文士の策動のあとがみられる。〜
 黄巣 〜唐王朝の基礎を揺るがした叛軍の首領。〜
 李振 黄巣の部下の朱全忠は〜唐に降り〜唐の朝廷の権力を掌握した。この朱全忠を助けて画策したのが〜李振〜。彼は〜唐の朝廷の要路者30人を殺して屍体を黄河に投げ込んだ。〜
 張元昊 〜西夏を助けて〜大いに宋を悩ませたのは〜張元昊という読書人であった。
 牛金星 〜李自成〜北京を攻め落として明の最後の天子、崇禎帝を自殺させた。〜李自成の軍師〜の一人が牛金星である。〜もう一人の挙人は李厳〜。
 洪秀全 清朝末期〜太平天国軍の首領、洪秀全は〜院試にしばしば失敗した男〜。

P201 落第生員の不平家が指導する太平天国においてさえ、何度か独特な科挙が実施されたという事実は、科挙が時の主権者にとってもっとも有利な制度であることを、何よりも雄弁に物語っている。

P203 科挙の特徴は、何よりもそれが教育を抜きにした官吏登用試験であるという点にある。

P210 軍部大臣の文官制こそ、宋以後中国歴代の政治に一貫した方針〜長い目で見れば最も進歩した制度であることは否定しがたい。

P211 軍部勢力によるクーデターのようなことも、中国では宋代以後の歴史にはほとんど見当たらない。〜これは人民の程度が非常に高いことを示すものにほかならない。〜ヨーロッパの歴史において、中国宋代以後の知識階級に匹敵するような階級がいつ頃から存在したであろうか。それは恐らくヨーロッパの先進国においてすら、15、6世紀のルネサンス時代以前にはさかのぼりえないであろう。
〜進士は、天子からその名誉ある地位を授けられたものにはちがいないが、同時に彼らは知識階級の輿論からその名誉を承認された者でもある。〜科挙は形をかえた一種の総選挙であるともいえる。


★★★☆

 名著。「カンニングシャツ」は不朽のギャグ。

 



(708) 『東洋的近世』(著:宮崎市定。中公文庫)※「初めて」あり

【東洋的近世】
P11 何千年も続けて漢字という、象形文字とも音符文字ともつかぬ文字を用いてきた地域は、世界の中で珍しい存在である。〜
 こういう未発達な文字が未発達なまま、長い間続いてきたのは、中国の位置が世界の中心から遠ざかっていたためである。中国の文化は何と言っても田舎文化である。世界の檜舞台にもち出して、そのまま立派に通る代物ではない。〜時に不幸な現象をも醸しだす。それは頑迷な保守主義であり、固陋な尚古主義である。
〜西洋史と東洋史との相違は、西洋の近世が僅かに数百年で終って最近世史に飛躍したのに反し、東洋の近世は千年近く停滞していた点にある。

P15 〜ローマ人がギリシャ人の成し得なかった事実を成就するについては、かかる物質文化の発達に並行して、ギリシャ人よりも遥かに進んだ精神的な長所をも持っていたのである。
〜ローマ市民権をよく征服地にも分配したことが、ローマ的支配の成功した原因である。

P19 東洋における古代史的発展は、春秋時代の都市国家割拠に始まり、戦国時代の小統一を経て、秦漢大帝国の全盛期に至る。

P20 分裂的割拠的な東洋中世にも、時には表面的な大統一の時代を現出した。隋唐王朝がこれである。併しながらこれは漢民族社会の必然的な推移発展の結果でなく、中原に侵入した北方民族の大同団結が齎(もたら)した接芽である。恰もシャーレマン帝の中世的統一が、実際はローマ帝国の後身でなく、北方から侵入したゲルマン民族大統一の帰結であったのと軌を一にする。

P21 〜宋王朝の天下統一と共に東洋的近世史が始まる。〜統一王朝として最初より、商業統制をもって人民に臨み、中央集権の地盤としたのは宋王朝から始まる。経済的の中央集権制が成就して、以後歴代王朝の基礎が確固不動のものとなった。中世時代に屡々繰り返された帝位の簒奪は再び起らなくなった。

P23 ヨーロッパ学芸復興の開始を仮に西暦1300年頃とすると、その後200余年にして宗教改革運動が起り〜益々近世的となりつつある。

P24 〜ヨーロッパには西紀1750年を中心として産業革命が起り、続いて1800年を中心としてフランスの政治革命が遂行された。〜東洋には学芸復興もあり宗教改革もあったが、二つの革命がなかった〜。

P25 歴史の動きの上に及ぼす交通の重要性は従来あまりに蔑視されすぎていた観がある。〜なぜ万里の長城は何故に不必要と思われるまでに西方に延びていたのか。〜交通の大幹線であるが故に〜西域諸国(新疆省)と接触を保っていた〜。

P26 宋代には〜西夏という独立国が現われた。〜小政権であるが〜重要な交通路線上に興起した邪魔者なので、宋は〜劇しい争闘を繰り返した。そのため小国西夏の名は中等教科書の中にも現われている。西蔵のような大国の存在が殆ど忘れられ〜大理国などは殆ど無視されている〜のは、交通の重要性を遺憾なく示すものである。

P27 ある地域の文化の度は、その交通量に正比例する〜徳川時代における日本の鎖国政策が、如何にわが国の文化を停滞せしめたか〜。

P28 〜交通の頻繁度がある点に達すると〜交通路線上の要点に大なる商業都市が発生する。〜最も便宜なる方法は、かかる商業都市をそのまま政治都市とすることである。五代宋以後〜交通に不便なる長安・洛陽を棄てて、交通都市・商業都市たる開封に移転したのは〜宋代社会の近世的性格を端的に表現している〜。

P33 商才に長じた胡人の〜活躍は目醒ましい〜大土地所有者となる途を選ばず〜動産財を蓄積した。唐の李義山は「不似合いなもの」として「窮波斯」を挙げている〜。

P40 宋初〜張詠が崇陽県令であったとき〜近郊の農夫が野菜を買って帰ってゆくのを見た。農家の食糧は須らく自給自足すべきものであるのに〜怠農に相違ないという理由で〜笞うっ〜たという話がある。〜このころ既に農村にも貨幣経済が行き渡っていた〜。

P46 人類の文化は火力の利用に始まり、火力の高度が文化の程度に正比例するとも言い得る。

P48 〜両税の法と相前後して、別に商品に対する消費税が新たに発生した〜。そして最初に取上げられた商品は〜食塩であり〜唐の粛宗の乾元元年(西紀758)、初めて塩の専売を行い〜その利益は国家収入の半ばを占めると称せられ、衰亡しかけた唐王朝が〜1世紀半の命脈を持ちつづけたのは塩利によって国家財政を支えたによる点が多い。

P49 〜両税と課利との国家収入はほぼ相伯仲していたというから、商人の集税能力は〜州県官と等しかった〜。〜宋以後の中国社会は、簡単に農業国とは片付けられない性質を持っている。

P58 天子の位を簒奪しようとするのは朝廷における最も有力な大臣であって、その最初の例は前漢末の王莽に見出される。

P60 そもそも禅譲的簒奪は〜大臣の野心より起ること勿論であるが〜貴族出身の官僚は自己の官位栄進を計らんがためには屡々革命が行わるるを得策と考えた。

P61 帝王の力はその官位を剥奪することは出来るかも知れぬが、貴族の歴史を抹殺する力は持たない。

P63 〜唐朝の時となっても〜官僚間の風尚は〜六朝以来の〜崔氏・盧氏等を尊崇した。〜唐王朝自身すらも、文宗はその女のために婚を崔氏に求めて謝絶にあい、「吾が家の天下は既に200年を経過せしも、なおこの門地は崔・盧に及ばざるか」との嘆を発せしめた。

P65 〜古代・中世においても独裁的権力を発揮した君主が屡々出現を見たとはいえ〜かかる独裁君主の死後には再び貴族群の手に政治権力が回収さるるを常としたが、宋以後は〜独裁君主政体が確立された〜。

P67 〜門下省で審議を行い、もし不適当なりと認むれば拒否権を行使するが、これを封駮(ふうばく)といい、給事中の職掌で〜門下は貴族勢力を代表する〜。

 〜唐の晩期から〜門下の封駮権は君主権の自由行使と相容れないので、門下省は天子の代弁機関たる中書省に吸収され〜。更に注意すべき現象は統帥権の独立である。

P69 更に注意すべきは政府と軍隊との分離である。軍隊は禁軍〜と称せられて〜天子の直接掌握下にある。

P70 〜北宋中期に王安石が出て兵農合一の唐代の制に復帰しようとしたが、遂に実現出来なかった。〜
 明代になって内閣制度が創設され〜大学士には立案の資格あるのみで、如何なる些事にも決定権がなく、もし天子の拒否に遇えば〜根底から崩壊する〜。
〜天子が〜親近の宦官に〜決裁の権を委ねると〜弊害を引き起こす〜。〜明代は歴代の中で宦官の弊害の甚だしかった時代に数えられるが、それは天子の独裁権を背景として官僚群を威圧したのであって、後漢や唐代のごとく、宦官の結束力が天子を制圧したことはない。

P74 科挙の制度は〜試験によって高等文官資格を与えるという思想は甚だ近世的である。

P75 〜知識階級なるものが自然に固定し、知識あれば官吏となり、官吏となれば財を積み、財を積めばその子弟を遊学せしむることも可能となり、かくして文化的には読書人、政治的には官僚、経済的には地主・資本家なる、三位一体的の新貴族階級の成立を見るに至った。普通にこれを士大夫と称しているようである。

P82 〜あまりに農村が疲弊すれば〜社会が混乱に陥る危険が起るので、心ある政治家は時に、負担の公平を目的とする新政策や、私有耕地の実態調査等を実施しかけたが〜輿論の反対を受けて進退に窮するに至った。宋代王安石の新法や、明代の張居正の土地丈量のごときはその適例である。

P85 東洋の場合、秦漢帝国の領土拡張はヨーロッパにおけるローマ帝国の制覇に比較すべきものであるが、ローマ帝国がアルプスとラインの線でゲルマン世界につき当たったごとく、秦漢帝国は万里長城の線で蒙古的遊牧民族の抵抗に遭遇し〜た。

P86 〜玄宗の開元時代に、外蒙古の突厥に闕特勤(キュル・テギン)なる英雄が現れた。〜久しく独自の文字を持たなかった漠北の遊牧民族は、この頃よりして自国の言語を写すべき文字を使用し始めた〜。

P88 突厥に代わって漠北を占領した回紇は〜唐を属国扱いにした。

P89 契丹民族は〜唐末の耶律阿保機なる英雄現れて部族を統一し〜五代の中国分裂に乗じて領土を万里の長城内に拡張〜燕雲十六州を領有し、更に内外蒙古を合したる大帝国を建設した。
〜遼王朝の国家的基礎は極めて強固で〜北宋と〜毫も屈するところがなかった。けだし東洋史上にかつて見ざる現象〜。

P91 〜遼の六代聖宗は〜宋領内に侵入〜宋三代の真宗も自ら兵を率いて出陣〜結局澶淵の盟約を結んで和睦した。以後〜北宋末まで百余年の間、変わるところがなかった。これは既に歴史上に未曾有の現象である。〜中国の思想で礼と言えばそれは万代不易の典を指すもので〜その礼において宋遼対等の国交を認め

たことは最も注意すべき〜。平等なる国家と国家との交際、ヨーロッパの国際関係に近いものが始めて東洋において実現を見た〜。

P98 〜太祖の子、永楽帝の時になると、万里長城を国境としたのみでは、漢人の居住地の平和が十分に保障されぬことが分り、出来得る限り国境を遠く前進させるという政策に変化した。〜
 いかに多く見積もっても、十五万の壮丁しか有せず、総人口5、60万に過ぎない満州民族を地盤とした清朝が、人民において数百倍の多数に上る中国内地に乗りこんで、そこに三百年の支配権を樹立したことは歴史上の奇跡である。

P101 〜ヨーロッパの国民主義は、その国境の画定において甚だ現実的、妥協的であったに対し、その国境内においては峻厳なる同化政策を推進するを常とし、就中、国語の統一が重視される。
〜元朝も清朝も、敢て支配下の漢民族に蒙古語、満州語を強制しようとはしなかった。

P106 中世における思想界は儒仏道三教によって代表されるが、最も広汎なる教勢を維持したのは何といっても仏教であった。

P107 法王を立てなかった仏教は貴族の檀越(だんおつ)と共に衰頽すると〜儒教が帝王を儒教化して進出した結果となり、ヨーロッパにおける宗教改革のごとき熱狂的な興奮は遂に中国において見られなかった。

P108 かく本文のあとに伝、注、疏と注釈を累積してゆくのが訓詁の学風である。

P110 〜中世の否定、古代への復帰というルネッサンス的思想が生ずる〜。〜礼となり易い五経を敬遠して、哲学となり易い四書の学に真価を見出したことを意味し〜宋学は原始儒教の理想に復帰した〜。

P119 朱子によって大成せられた宋学に対して、別に一旗幟を掲げたのは明代の王陽明である。

P128 従来の画家が山水を描くに多く鉤法を用いて、好んで切り立った岸壁を描くに反し、この派は山塊を土地の褶曲と見て皺法(しゅんぽう)を用いてその円味を描かんとする〜。

P130 例えば東洋画の山水には遠近法がないという非難は屡々聞くところであるが〜いわば一種の立体的遠近法によって描かれている〜。

P134 ルネッサンスは人類における最初の歴史的自覚★である故に〜歴史を計る尺度の一つの目盛りとなる。ルネッサンス以後を近世と見ることに、歴史家の意見が〜異論がない〜。
 ヨーロッパの近世の開始が大体西紀13、4世紀とするならば、東洋のそれは西紀10、11世紀の宋代としてよいであろう。

P138 機械を廻転させるのは動力だけでなく、原料となる綿花が必要であり、更にその製品を販売する市場が必要であった。〜東洋との交通なくしては産業革命は遂行されなかったであろう。〜
 フランス革命〜の原動力となったフランスのブルジョア階級もまた、東洋貿易によってオランダ方面から流入蓄積された資本の上に成立した。

P140 阿片戦争、アロー号事件二回の交戦により、ルネッサンス段階の東洋は到底レヴォリューション以後の西洋勢力の敵でないことが証明された〜。

【中国近世における生業資本の貸借について】
P143 中国社会の金利が異常に高率であることはこれまでも屡々指摘されて来た〜。

P146 金のある者は都に出ればらくに暮らせ、金のない者も何とか衣食にありつく機会を与えられる。

〜社会治安のために一種の安全弁〜既に東晋の謝安の言葉にも「不逞の輩を包容しておけぬ位ならば京師の存在する意味はない」とある〜。

P149 宋代の官吏は自身が商業に従事することを禁止されたため、かかる資本を貸しつけて利息を儲ける者が多かった。〜民間の貸借を官営で行ったのが、熙寧年間(1072)の王安石の市易法で〜利率は半年1割、1年2割であって、他の新法青苗銭の利息と等しく、これは当時にあっては稀な低金利であった。

〜民間金貸業者を圧迫したことは甚だしく〜

P151 〜人民に低利で生業資金を貸し出すという市易法は中国近世の社会の発達の一頂点〜。

P152 〜抵当のない貧民のために、ずっと後世になって印子局というものが出来た。〜平均して10箇月に8割の高利となる。〜
 宋代にあっては民間の利率は1年10割を普通とした。

P155 資本家の行銭に対するは、主人と部曲との関係のようで、資本家が行銭の家に行くと〜妻や娘が出て来て取りもちをする。(これは中国においてはよほど稀な場合である)

P156 第一は資本と経営との分離である。〜第二は生業資本の貸借は貸し主と借り手との間に兎角隷属関係を生じ易い〜。

P157 〜金利の高率なことは貸し主に一見有利なようにみえるが、同時にこれは甚だ回収率の危険なことを警告する。

P158 〜北宋後期〜の勅は、地主が佃戸を殴って死に至らしめた時〜一等を減じ、南宋の初め〜更に一等を減ずることを規定している。

【『宋詩概説』】
P245 「〜唐詩は酒である。容易に人を興奮させる。しかし二六時中のめない。宋詩は茶である。酒のごとき興奮ではない。〜」


★★★☆

 



(709) 『中国文明論』(1)(著:宮崎市定。編:砺波護。岩波文庫)※「初めて」あり

【中国における奢侈の変遷 羨不足論 】
P11 羨不足というのは〜凸凹景気〜のことで〜凸凹景気の結果はどうも奢侈を惹き起こしやすいというようなことを、二千年も前の『塩鉄論』の著者(石野註 桓寛)が言っている〜。

P13 〜中国歴史の最初に出て来る話は殷の紂王の奢侈〜。

P14 〜古代における奢侈の代表は紂王〜結局分量が多すぎるというだけ〜。

P15 〜何でも珍しい物を集めるという奢侈のやり方〜。
〜人に見せる、人に誇るための奢り〜。

P16 〜六朝頃になると〜自分のために奢侈をする。〜内面的な奢侈〜本当にうまい物を食べたいというので、頻りに骨を折っております。

P24 〜陶磁器は世界で最初に中国で、宋の時代に完成された。現今世界の陶磁器の祖先は宋の陶磁〜宋代に陶器が〜立派な工芸品としての価値を有するに至った〜。

〜当時の一般の美術工芸〜が非常に進歩しました。
 その要素〜一つは、当時、科学的知識が非常に進歩した。〜一つ一つの物に対して、どういう性質を持っているかを研究し〜その性質を生かして使う〜ことが宋の頃に行われた〜。
 もう一つは、社会における分業〜。

P25 〜一番頭の悪い者には料理を教える。料理の下女を厨娘と謂います。

P26 〜蔡京の包子厨におった厨娘が〜饅頭〜出来ないと断った。〜私は毎日葱を切っておりました〜。

P27 〜徽宗皇帝は、毎食お膳を百品取り寄せたそうであります。〜紂王と似ておりますが〜性質が大分違う。

P34 〜社会全体の進歩に伴って他人をも率いての生活程度の向上は〜むしろ必要だが〜他人を不足にして自己だけが羨であってはならぬ〜。

【宋代における石炭と鉄】
P49 〜世界文明の先頭に立っていた西アジアは〜西アジアの自然を収奪しすぎた結果〜10世紀頃になるとその文化・社会に一種の行き詰まり現象が現れて来た〜。
〜特に著しいのは森林資源の涸渇である。

P50 燃料の不足は生産活動〜殊(こと)に金属の生産を阻害すること甚だしい。

P51 〜唐末から宋にかけて石炭の利用が普及し〜物量を土台としたのが宋代の新文化〜。

P52 康駢(こうべん)の『劇談録』に、唐末乾符中(874〜879)のこととして〜煉炭と言う〜この炭は明らかに石炭であり、これを熱して煙気を去った煉炭は言うまでもなくコークスである。

P74 中国において既に9世紀からコークスが用いられ、10世紀から始まる宋代において、普遍的にコークス製鉄法が行われていた〜中国の製鉄法は宋初において、ヨーロッパよりもおよそ600年ほど進歩していた〜。

P75 何故にヨーロッパよりも数世紀も早く、ルネッサンス段階に到達して近世に入った中国が、そのまま停滞を続けて、産業革命段階の最近世に入ることができなかったか。

P79 〜銅を得るためにその2倍余の鉄を消費しなければならぬ〜。

P82 近世は中世の継続発展に相違ないが、しかし同時に中世の否定、古代の復活という一面がある〜宋代の文化が正しくこれに該当する〜。

P84 中国の文化はその開始の時期において、西アジアに比較してずっと遅れている。〜宋代に至って〜世界の最尖端に立った。〜ヨーロッパに産業革命が起こると〜中国はその半植民地と化したが〜ヨーロッパ文化に追いつきはじめた〜。

【乾隆帝から毛沢東へ 続羨不足論 】
P88 〜乾隆帝などはよくもこんなに、とほうもない贅沢ができたものだ〜。

P92 天子こそは最も高度な精神労働者であるから、その頭脳を休ませるために、適当な娯楽を許容しなければならぬ。一番いい休養は女と遊ぶことだ。
〜合わせて121人〜が周公という聖人が定めた周代の礼〜いかに多くともこの程度に止めておくべきだという最大限をきめた規定〜その後の歴史を見て行くと〜無制限に増加する傾向があった。

P98 人民の上に立つ指導者が、一切の特権を要求しないで、本当に人民と同水準の生活を守る社会が果たして出現できるかどうか。これは大きな実験である。もし中国がそれを完成できたなら、これは全世界を動かす原動力になりうる。

★★★

 

 


(710) 『中国文明論』その2(著:宮崎市定。編:砺波護。岩波文庫)※「初めて」あり

【東洋のルネッサンスと西洋のルネッサンス】
P103 アジアは〜パミール山脈の辺を境として、東アジアと西アジアとに分かたれなければならない。〜東アジア〜極東地方を東洋〜、西アジア〜近東地方を〜ペルシャ・イスラム世界と名づけたい〜。

P105 古代とは、人類が原始的な部族生活より脱して、都市国家を形作り、それが発達して数十個、数百個の都市国家を含む一領域を支配する大帝国の実現に至るまでの時代〜。

(ペルシャ・イスラム世界) 〜ダリウス大王を以て代表さるる、アーケメニド王朝のペルシャ帝国は、西紀前550年頃に成立し、
(前)500年頃極盛となり、330年〜アレキサンデル大王のために滅ぼされた。ペルシャ・イスラム世界の古代史はこの時を以て終末を告げる。

(東洋) 〜世紀前221年、秦の始皇帝が中国を統一し、前漢がこれを嗣
(つ)いで、世紀前100年頃、武帝の時代に極盛に達し、後漢の帝国が西紀220年に滅亡しているが、この頃を以て東洋古代史の終焉とすべき〜

(西洋)〜ローマ帝国の事実上に成立したるが、西暦紀元前後であり〜375年、ゲルマン民族の大移動が始まって、ローマ帝国は完全にその覇権を失墜した。この時を以て西洋古代史の終焉とすれば、そはペルシャ・イスラム世界に比して700年、東洋に比して150年を遅らせている〜

 大帝国の崩壊の後に来るものは、中世的地方分権〜西洋においては封建制度〜ペルシャ・イスラム世界においては封建的貴族政治〜東洋においては官僚的貴族性〜。
〜貴族の精神生活に喰い入ったものは宗教であり、西洋にはキリスト教、ペルシャ世界には拝火教、〜東洋には仏教が流行した。

 〜宗教改革の後に、学芸復興
(ルネッサンス)が到来した。
(ペルシャ・イスラム)〜アッバス朝教主の下に、ペルシャの文化、ギリシャの古典が復興された〜教主ハル・ナル・ランド及びアル・マムンの在位する、西紀8〜9世紀〜がその黄金時代〜。

(西洋)数世紀にわたる十字軍は〜西紀14・5世紀に至って〜イタリーに学芸復興の新運動を惹起せしめた。これを以て西洋近世史の開幕とするは何人も異議なく〜

(東洋) 〜学芸復興に類似の事実〜西紀11世紀を中心とする北宋時代に最も顕著〜。

P109 〜西洋の学芸復興と共通なる現象を東洋史上に求むれば〜
(1)哲学。学芸復興運動の中心思想は〜古典的黄金時代の回顧崇拝より来る復古思想〜
(西洋)〜始めローマに帰るを理想とし、更に後に至ってギリシャ古典文化の復興を目的とするに至った〜。目標を古代にとれば、これは必然的に教会宗教の排斥に立ち至らなければならぬ〜
(東洋)〜北宋の中期〜11世紀頃に儒学の復興が行われ〜宋学には二つの使命があり、一は中世の社会を風靡した仏教に対して、中国固有の儒教を発揚する〜一は漢唐以来の伝統的なる訓詁学に対して、直接古聖賢の思想の神髄に触れんとする試み〜。

(2)文体。
(西洋)イタリー〜においては〜ダンテは〜自身が実際に使用したるトスカナ方言を用いて『神曲』を著わし〜ペトラルカは、復古主義の立場より、純粋なる古代ラテン語を用いて〜。
(東洋) 北宋初期〜欧陽脩の古文復興の提唱〜。
 中国では北宋時代前後より〜口語体文学が次第に流行〜。
 中国における俗語使用の文学は〜既に唐末より始まっていたこと〜敦煌の遺書によって知らるる〜

(3)印刷術。
(西洋)イタリーにおける活版印刷は、西紀1465年に始まると考えらるる〜。
(東洋)〜木版印刷の起源は古く唐代にあり〜画期的なる大出版は、宋の太祖、太宗二代にわたる仏教大蔵経の出版〜。〜仁宗の朝に畢昇なる者が活字を発明したること、沈括
(1030〜1094)の『夢渓筆談』に見えており〜。

(4)科学の発達。
(西洋)西洋における火薬の使用は、大体13世紀に始まる〜。
〜西洋において磁針を航海に利用し始めたる年代が、14世紀の初頭〜
〜化石なるものの本質が〜レオナルド・ダ・ヴィンチ
(1452〜1519)によって真相が看破せられた〜
(東洋)〜爆発性の火薬の記載は〜北宋仁宗の慶暦年間
(1041〜1048)曾公亮等の編纂したる『武経総要』に見ゆるを以て最初とする。
 〜★羅針盤に関して〜既に〜沈括の『夢渓筆談』に出で、それが航海に利用せらるることは、12世紀初頭の『萍州可談』、『高麗図経』等の書に見ゆる〜。
(化石について)〜例の沈括が『夢渓筆談』の中で述べている〜

(5) 芸術の発達。
(西洋)〜学芸復興期における〜絵画と彫刻〜
(東洋)〜南画、北画共に大成されたのは北宋初期〜。


P123 東洋画はその初期〜六朝より唐にわたる中世時代の間において、先進のペルシャ世界より絶えず影響刺激を受けていた〜。
〜642年、アラビア人がササン朝を滅ぼしてペルシャ世界を征服し、これをイスラム世界化してより〜偶像崇拝を禁止するの余り、一切の生物を絵画もしくは彫塑として製作するを禁ずる〜。
〜中国においては、唐300年の間に絵画の技法は仏教の隆盛と共に異常の発達を遂げ〜。

P130 〜1262年の日付を有し〜『ビドパイ物語』が存在するが〜動物の描き方には著しい中国画の影響が看取される。

P137 〜宮廷画家が〜画筆を執る場合、始めの中は署名ということは考えない。〜自己の芸術的良心に対して責任を負うという段になって始めて署名が要求される。
★東洋画の落款はいつより始まるかは明らかでないが、仮に唐末より以後のこととするもなお、イスラム世界に先行すること5世紀余である。

P153 西洋の聖母像が、仏像の影響を影響を蒙ることの多いのは、復興期に入ってより、合掌せる聖母の急に多くなったことによっても推察される。

P164 産業革命こそは後進の西洋世界をして、他の先進二世界を蹴落として、全世界的覇権を確立せしむる契機をなした〜。

★★★☆

 

 


(711) 『中国文明論』その3(著:宮崎市定。編:砺波護。岩波文庫)※「初めて」あり

【毘沙門天信仰の東漸について】
P177 〜『水滸伝』〜は〜戦死した晁蓋を守護神として、宋江以下三十六人の豪傑が団結したことになっているが、最初の形は〜晁蓋は宋江の部下で、三十六人の頭領の中の一人にすぎなかった。最も古く宋江等の名前を記した史料は、南宋末の周密の『癸辛雑識続集』上、宋江三十六賛である〜

P185 〜★毘沙門天の独立は〜唐の玄宗時代前後になる〜。宋の『嘉定赤城志』巻三十一に〜天王堂あり、唐の天宝の初に建つ〜とある等が、余の見たる最も古い資料である。

P198 ★福という文字を以て、すべての好ましきことを代表させ〜追求するという風は〜唐頃から始まった〜。〜地名に福字を命ずることが、唐代に最も多く行われた〜。

P208 関羽は勇猛なる武将であったが、財宝にはかえって縁の薄かった不遇の将軍で〜それが〜財神となっ〜たのは、福神たる毘沙門天の地位をそのまま相続したものとして、始めて解釈出来る〜。

 『歴朝詔詞解』巻五によれば〜天平神護二年〜毘沙門像〜の舎利を法華寺に奉謂す〜とあり、この頃より毘沙門天が既に単独で霊験を表わしている。〜王圻
(おうき)『続通考』巻二四六に〜憲宗の元和十年〜毘沙門神像を開業寺に遷す〜とあり〜。
 我国の天平神護二年は〜憲宗の元和十年に先立つこと正に五十年である。

P212 元来天狗は星の名であって、別に怪異なる霊獣ではない。

P217 インドの仏教は〜イラン文明の洗礼を受けた後に極東に到達しえた。単身、中インドのマガダ国を出発したシャカは〜中国に到達した時は、曼荼羅を造って整理排列せねばならぬほどの多数の眷属を引き連れて来た〜。〜本尊のシャカ仏そのものまでがイラン化して、大日如来の如きものに変化した〜。〜余はシャカ随従のイラン的護法神の一例としてここに毘沙門天を取り上げて些か考察を試みた〜。


【中国火葬考】
P221 ★中国人の埋葬の起源を説明した最も古い記録は『孟子』滕文公章句上の〜親死すれば〜谷に棄つ。〜土をかけて掩(おお)いたるなり。 とあって、中国における土葬の起源を説明している。

P226 〜唐代では中国人に対して火葬は厳禁されていた〜。ただし仏教僧侶及び蕃客は例外として火葬〜が認められていた。

P227 劉仕驥『中国葬俗捜奇』四、火葬の条には、五代後晋の高祖(実は出帝)が〜火葬せしめたとあるのをもって、文字に記載ありて〜最も早き火葬の例だとしている〜。〜『新唐書』巻一八六に伝のある顧彦朗について、『太平広記』巻一五八に〜遺命して骸を焚き〜これは唐末の出来事である。

P230 〜共同墓地は宋代に各時各所に設けられ、これを漏沢園と言った。漏沢園の起源は、顧炎武の『日知録』には蔡京より起こると言っているが、宋・徐度の『却掃編』下によれば、神宗の元豊年間〜陳向きなる者の謂によって設けられたという。

P234 注意すべきは北方から起こった元の朝廷も焚屍の禁令を発している事実である。

P245 〜従来の朝廷の火葬禁止はとかく有名無実に流れる傾向があったが〜偉大なる独裁君主乾隆帝の下したこの禁令は〜威力をもって〜響いてきた〜。

P253 乾隆頃から〜土葬が普遍化し〜一旦習俗として成立してしまうと〜火葬を行うことは大なる非難を招く〜。〜嘉慶以後の不景気時代に入ると、土葬のための土地入手が極度に困難となった。そこに起こったのが、最も忌むべき停葬の風である。


【中国の歴史思想】
P260 一貫した歴史事実を伝えた資料魯の国の歴史『春秋』を始めとする。

P262 司馬遷の『史記』は、実に中国において最初に、かかる市民を歴史記述の対象として取り上げ、出色の文字とされる「列伝」を書き上げた〜。

P264 中国以外のどこの国に、二千余年の長きにわたって、主権者の在位年月、大臣や有力官僚の事蹟がこれほど明瞭に分る国があろうか。

P273 およそ社会の進歩を認めないところに、すぐれた歴史が現れようはずはない。〜宋の司馬光の『資治通鑑』〜は確かに有用な、すぐれた史書であるが〜史観のないのが彼の史観である。

P274 〜各代の史書がすべてで二十四史あり、正史と称せられるが、この中で歴史家的意識をもって書かれたのは『史記』と『漢書』だけ〜。

P279 〜不思議なことは、漢以後の中国の歴史が〜歴史の動きを個人に還元してしまう傾向のあること〜。これは〜漢代に成立した儒教が道徳というものをすべて個人と個人との関係に〜分解してしまった結果〜。そのために戦国時代までは確かに存在した〜社会連帯責任という考えが薄らいできた。

P281 欧陽脩の『新五代史』が取り扱った五代という時代は〜合せて八回の革命が行われている。君臣関係が乱れたというよりも、君臣関係などに構っていられない時代であった。それを彼は君臣の大義をもって律しようとしたからたまらない。

P296 〜中共政権下の歴史学は読んでもあまり面白くない。〜要するに政権から歴史学に対する注文が多すぎる〜。

【周漢文化の基盤】
P301 戦国時代の〜荊軻が〜歌ったり泣いたりしたのは燕国の市である。秦の呂不韋が〜『呂氏春秋』を展示〜したのは咸陽の市の門であり、後漢の王充が本屋で立ち読みしては勉強したのは洛陽の市である。〜斉の国が燕に亡ぼされかかった時、王孫賈なる忠臣が市に呼号して〜斉国復興の端緒をつくった。

P303 〜都市国家なるものは〜完全な市民権を有する自由民のもの〜中国ではこれを士と称する。王というのは士の特別なものにすぎず、王という字は士に一を添えたもの〜。〜ローマにおいて、皇帝の本質は〜市民の第一人者にすぎないのとよく似ている。

P305 周の制では、完全な自由民は姓と氏と名との三つをもたねばならぬ。姓は血統を示しローマのゲンスに相当し、氏は地位・官職を示す家格でローマのファミリアに相当し、名は個々の人に命ぜられるものでローマのペルソナに相当する。女子は姓のみを称し、男子は氏と名を称するという習慣までがローマと共通である。

P306 あの銅器の表面にほられた煩瑣なまでにいりくんだ細紋は、犠牲の血がすぐ流れおちない〜役目を果たすものではあるまいか。そう思えば雷紋や渦巻紋のようなものは、血のりの上に印せられた指紋を現しているのかもしれない。

【六朝隋唐の社会】
P309 〜前漢は古代史が上りつめた頂点であり、後漢から逆に下りはじめて中世に入り、それが下りつめたどん底が唐末の混乱である。

P317 〜貨幣は死蔵され〜不景気はいよいよ深刻になる。こういう退嬰的なやり方が〜六朝隋唐へ受けつがれた〜。

P318 〜前漢の時代には比較的人権が重んじられ〜王侯といえども、奴婢を勝手に殺すことはできなかった。〜晋の石崇は、客への酒のすすめ方が悪いという理由から、その場で女婢を殺してみせたが〜咎められた様子はない。

P319 〜魏の明帝の青龍三年(235)に行った、録奪士女〜兵戸の娘は、既に吏民の妻となった者をも離婚させて、改めて兵卒の妻とさせた〜。

〜前漢時代は〜抜擢が自由であった。〜六朝に入って貴族制度が成立すると〜庶民の立身する途が塞がれてしまった。

〜漢代には結婚について〜一般庶民には何らの制限がなかった。しかるに六朝に入ると〜貴族が庶民と結婚すると処罰をうける。

P321 後漢以来の〜深刻な不況は〜異民族が侵入する隙を与えた。この前後の事情は〜ローマ世界に対するゲルマン民族の侵入と共通〜。当時の中国に対する北方民族の侵入は〜三段階〜。第一段階は漢の軍隊に編入された異民族の暴動であり〜董卓によって代表される。〜
 第二段階は中国の領土内に移住していた異民族の蜂起であり〜西晋時代における匈奴の劉淵、石勒、及び東晋時代の苻堅によって代表される。第三段階は塞外からの新しい民族移動の波であり、その主力は鮮卑であって、拓跋氏の北魏王朝の出現〜。

P324 〜貴族の勢力は、人民の地位の低下に反比例して上昇して行く。

P326 北宋一代百七十年間、滅びる直前まで、天子が都から逃げ出したことなど一ぺんもない。


【宋代文化の一面】
P334 〜王安石が欧陽脩に向かって〜「暑い際には昼寝に限るね〜」「〜君という男は実に典型的ななまくら者だよ」と欧陽脩も冑をぬいだ。〜
 王安石は名神が大嫌いだった。


【龍の爪は何本か】
P342 〜人民は勝手に龍の紋様を用いてはならぬという禁令が初めて発布されたが、それは北宋末の哲宗皇帝の元符年間(1098〜1100)のことだという。


【玩物喪志】
P348 中国には昔から玩物喪志、物を愛玩しすぎると人間の本領をなくしてしまうという譬えがある。〜董其昌は〜美術品蒐集マニアに取りつかれた〜。〜彼は〜高利貸業を始め〜ひどい取立てをして利殖を計り〜書画骨董を貯えた〜があまりに悪辣をきわめたため〜六十二歳の時に、民衆の焼打ちにあった〜。


【中国商人気質】
P356 商品を売るには顧客が大切である。顧客の確保は何べんも店へ来てもらうことである。〜下宿のボーイに、毎日使うだけの少量の茶の葉の包みを買いにやった方が、一度にかためて買うより安い。


★★★☆

 宮崎碩学の広さ、自在さ、限りなし。

 

 


(712) 『拝啓大阪府知事橋下徹様』(著:倉田薫。情報センター出版局)

P3 〜府の職員はじめ議会、大阪市長にも〜喧嘩を売られます。〜途中からロジックもなくなり、子どもの喧嘩のようになってしまうこともしばしば〜。

P21 〜知事の目から、涙がこぼれた〜。
〜改革を呼びかけているところ、知事よりもはるかに年齢が上の市町村の首長たちが、寄ってたかっていじめている・・・・・そんなふうに映ったのは仕方ない〜。

P24 〜大阪府は、大阪市から提案された「コンセッション型指定管理者制度」を受け入れ、合意に向かっていました。〜
〜他の市町村は〜反対するのが当然です。〜「平松市長が悪い!」ということではなく、大阪市がより巨大化するのがよくない〜。

P34 〜市長と知事が教育をテーマに意見交換するなど、まったくもって前代未聞〜。

P65 〜大阪府は最初から市町村の意向を国に伝える気などなかった〜。

P68 橋下知事の大阪都構想、というよりも、大阪市を基礎自治体だとは思わないと語られることについて、私はその通りだと思っています。

P69 〜大阪市や堺市を分市していき、政令市をなくす。そうなれば確かにONE大阪になります。ただ、これだと他の政令市を持たない県とおなじ形になってしまうだけ〜。

P74 〜なぜ大阪市を解体して大阪都を目指されるのか。〜「自分が大阪の大統領でないと気づいた」からではございませんか?
 〜言うことを聞かない二六○万人の人口を有する基礎自治体が目の前に存在していたことを、事あるごとに実感された〜。

P81 〜平松市長はその喧嘩を避けられた〜。〜どこか弱腰に映ってしまう〜。

P82 〜橋下知事は「理想を実現させようとする政治家」で、平松市長は「現状を積み上げて行こうとする行政マン」ですから〜噛み合うことなど〜あり得ない〜。

P92 〜堺市を含め政令市をどんどんつくっていくことは、地域主権の妨げになっている〜。

P138 ◇橋下知事は、地方自治を超えた「地方国家」とイメージしている
◇平松市長は、忠実に「地方自治」を実行しようとしている
◇〜倉田は、「新党・大阪」で中央に対峙する大阪を描いている。

★★

 ・・・・・ちょっと口調がなぁ。 

 

 


(713) 『満州裏史』(著:太田尚樹。講談社文庫)

P101 相手は憲兵隊だったから、女の勘がピンと働いて、危険な匂いを感じ取った野枝は、宗一を一緒に連れて行くことにした。

P119 〜便所に落としたタワシを素手で拾うようになったが、その日の日記には、「この慣れが悲しい」と書き記す。

P121 〜不平不満を並べ立てているのが、甘粕日記の特徴である。〜中でも甘粕が「何でこんな目に遇わなければならないのか」と、これほどまで不満をぶっつけているのは、無実の罪をのろっているからに違いない。

P143 〜「日米タイムズ」の主幹ダン池添は〜「〜あの6歳のボーイは、アメリカ国籍だったのです。〜天皇の軍隊の上の方の命令でやったことが明白になれば、援助活動だってストップするはずだし、日米間の新たな火種になりかねない。〜これが、甘粕がひとりで事件を被ることになった、背景の一つではないですか」

P150 本当に大杉栄と伊藤野枝をやっているなら〜「悪いことをしてしまいました」、という答えが返っていてもよさそうなものである。

P159 女心の中身は不可解だが、そもそも、ミネが事件を信じてはいなかった。さもなければ、人間を、それも子供にいたるまで三人も殺めた同じ手に、抱かれることに耐えられるはずがない。

P243 〜満州事変当時、奉天領事を務めた森島守人は「土肥原は裏表のない人で〜陰謀などにはさっぱり向かない性格の人でしたね」〜。
「土肥原は酒が二、三杯入ると〜秘密を漏らしてしまうので、あまり信頼されていませんでした」と、元関東軍参謀田中隆吉が東京裁判で証言している〜。

P262 〜東京裁判で証人台に立った溥儀は〜日本攻撃に終始して〜髪を振り乱して醜態を演じる溥儀の姿に〜巣鴨刑務所にあった東条は〜「あれはやっぱり支那人だったなあ」と、吐きすてるように言った〜。

P322 〜岸の酒と女遊びの凄さは語り草になっている。〜巣鴨に収容されていたときの話だが、「よく夢精するので、洗濯に苦労したよ」と告白している。

P337 〜所謂ハル・ノートの核心部分である「中国からの全面撤退」を、満州を含めた中国と解釈した日本側は「とても呑めない相談」として、開戦に踏み切ったことはよく知られている。〜アメリカの本音は「満州は日本に任せ、共産勢力への防波堤にする」だったのに、日本はそれを詠み切れなかった。

P339 〜鮎川が重工業の次に目を付けたのは、満州の農園地帯だった。「〜機械を導入したアメリカ式の大農法を取り入れれば、大豆や穀物の収穫量が四倍になる。〜」〜。
〜石原が怒鳴り込んできて、「〜日本は向こう二十年間に百万戸〜の血を植え付けるんだ。そのために耕地は細分化されなくてはならん。〜」とまくしたてた。
〜敗戦時の混乱で大勢の中国残留孤児が出てしまったことを、鮎川は最後まで悔やんでいた〜。

P403 甘粕が集金力にものを言わせて金で支援すれば、閣僚として仕える岸は、東条の懐刀として、卓越した行政能力と金の、物心両面で支える存在である。

P417 彼に向けられた「この人殺しめが」と言いたげな石原の蔑んだ目付きは、腹に据えかねていた〜。〜甘粕自身は〜「石原は大佐までは努める男ですが、将にはなれない男です。参謀としてはすばらしいが、衆を率いる男ではありません」と言っている。

P421 同じ帰らせるにしても、手土産を渡すのも甘粕流である。〜見ず知らずの人間が訪ねてきても、冷たく追い払うようなことはしなかった〜。
〜部下には「〜時間厳守が大事です。それから服装をきちんとしなさい。〜」〜。

P423 〜森繁久弥が〜尋ねると「宴会の挨拶ほどくだらんものはないね。言わなくてもいいことを言うのは、いちばんつまらない」と答えた〜。

P425 「自分たちの祖国〜南京が日本軍に占領されて、喜ぶはずはありません。こんな悲しいときに無理やり引っ張り出して、しかもこの寒空に、万歳させるのは大きな間違いです」
 甘粕は嘆息しながらそう言った〜。

P435 処刑を直前に控えた松井は、「〜私だけでもこういう結果になることは、当時の軍人たちに一人でも多く、深い反省を与えるという意味でたいへんにうれしい。〜」という言葉を遺している。

P452 甘粕という男は権力者に向かってへつらうどころか、逆に闘志をむき出しにする癖があった。それでも法王のような権威の象徴に対しては、子供のように素直に敬意を表した。

P455 「ヒトラーという男は〜腕組みをしながら、脚の方がさかんに貧乏揺すりしていたのは、指導者として失格です」

P468 李香蘭の月給二百五十円と比べると〜下っ端〜は、その十分の一にも達しない有り様に、「〜高い給与を出せば、人は必ずよく働くものです」と言って、早速、底上げを図った。〜
「上司から見てよいと言われる人物は、当てになりません。下から見てよい人物は間違いないです。それから、職を転々とする人も必ず欠陥があります。〜」

「国のために入営、応召している者を、首にするとは何事ですか。〜遡って給与を〜本人を送り〜謝りなさい。〜」〜金を受け取りながら返事をよこさないことがわかった者に対しては、再び解雇通告を出した〜。

P470 日満要人の集まった宴会で、満映の女優たちがお酌をさせられたのを見て憤慨し、「女優は芸者ではありません。芸術家です」と言ってお酌を禁止〜。

P513 〜岸にはもう一つ別の思惑が働いていた。打倒東条は国難の打開、つまり国家のためという大義名分が成り立つ一方で〜連合軍から大きなポイントを稼ぐことができると読んでいたからである。

P525 〜岸の目に美しく映ったのは、ひとり文官として刑死することになる広田弘毅の姿であった。刑死直前になって夫人の自殺という不幸にもめげず、仏のような姿のままだったからである。

P538 甘粕正彦は、結局、大杉事件の真相を語ることもなく、あの世に行ってしまった。
「その方が、甘粕さんには似合っている」
 古海は、そう思うことに決めた。〜
〜集まった人々の中のだれかが「関東軍も山田乙三司令官もわれわれを見捨てたのに、甘粕さんはわれわれといっしょに満州に居残り、そして死んでくれたわけですね」と言うと、周りの者はみんな頷いた。



★★★

 満映時代の甘粕は、かっこいい。しかし、書き振りが三文小説っぽいので、もう少し淡々としたノンフィクションとして書き進めてほしかった。

 


 

(714) 『楊令伝 四 雷霆の章』(著:北方謙三。集英社文庫)

P19 宣賛が弱さと考えるのは、人としての醜さでもある。
 花飛麟にはそれがあったが、きれいに消えているという。

P30 信仰心を利用した叛乱が、これほど効果的なのなら、志というのはどういう意味を持つのだ。

P36 友と言われて、呉用の心がふるえた。友などではない、と言いたくもなるが、心のふるえだけはどうしようもなかった。

P97 弱さを恥とは思わないのが、方臘の強さと言ってもいい、と呉用は思った。

P141 「人は、自分がそうだと思っている以外の、自分というものがある。〜そんなものだろうが、変わりきれなかった、という気もどこかにある」
「変わりたかったのか?」
「わからん。私はあまりに長い間、こうだと決めた生きかたをしてきた。そして私は、もっと苦しむべきなのだ」
「よせよ。もう、お互いにいい歳だぜ」

P156 花飛麟は、最後に兵糧をとるようにしていた。ひとりでも、兵糧を口にしていない兵がいたら、指揮官は水だけで済ませる。父からの書簡には、そうあった。

P239 呉用は、方臘を好きになりつつある自分に、気づいた。〜つまり自分は、すでに方臘を好きになっているのだ。

★★★

 呉用の方臘萌えが続く。

 


 

 

 今月はけっこう書きましたが、それでも、まだまだ書評が大量に積み残し。



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