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2008年2月のひとこと書評(掲示板に書いた文章の転載。評価は★5つが最高)

 2月のひとこと書評の再録です。掲示板そのままでは芸がないので、評点をつけます。★5つが最高。評価基準の詳細は、2001年11月書評のページをご参照ください。




(623) 『水滸伝』第十六巻(著:北方謙三。集英社文庫)

P16「ものにこだわりすぎる、としばしば言われる。吝嗇だという謗りも受ける」。これは、兵站担当の柴進である。
P23「『私も、小旋風などと呼ばれ、戦に出たい方だったとは思うのですが盧俊義殿の塩の道を見ているうちに、兵站も戦と思い定めることができるようになりました』」

 で、ここでも呉用は嫌われており、盧俊義は、俺の所ばかりじゃなく、たまには呉用のところにも行けと柴進に勧めるが「わからないことを許していただけませんから」と断られている。

 郝思文は解珍に息子を将校にせよと言われる。
P133「『謝ろう。〜おまえは、よくやってきた。〜明日、おまえは将校に昇進する』
〜『父上は、私を見てくださっていたのですね。〜』
〜『すまぬ。これは、一度だけ言うことだ。おまえは、私の誇りだ』
〜まだ子供でもあるのだ、郝思文は思った。
『泣きたいだけ、泣くがいい。しかし、瑾、泣くのは一度だけだ』」


 王英は白寿と浮気中に扈三娘に踏み込まれる。これは、聞煥章に「王英に、ほえ面をかかせてやろうか?」と提案した呂牛の仕業。

 史進が童貫と対峙した。「これが童貫か」と史進は呻いた。
 呉用らは報告を求めた。
P309「『つまり、必要もないことを、史進に喋らせようとしている。いいか、呉用殿。
〜そんな話を聞いてどうなる。〜宣賛殿は、実戦部隊の軍師なら、まずそのことをわかられよ』
林冲が言い続ける。〜
『〜俺たちが戦場で頭に入れておかなきゃならんのは、童貫が、史進ほどの男を破る指揮官だということだけさ。〜』
〜宣賛に呼びかけられ、史進は視線をあげた。
『済まなかった。〜童貫の名が、私の中で大きすぎたのだろう。〜これで終わりにしよう〜』」

 また、呉用と宣賛との差が。

 今巻で夫を亡くした二人が自棄酒を呑んだ。居合わせた男にもからんだ。
「孫二娘が、卓を掌で叩いた。
『宋江だけじゃない。呉用も呼べ。あの二人を並べて座らせて、説教してやりたいと、あたしは前から思っていたんだ。〜』
〜『じゃ、宋江をどう思っているか、言ってみろ、阮小七』
『そんな、顧大嫂』
『あたしが言ってやる。顔が気に食わないね。なんで、あんなに情けない顔をしている。喋り方もなってない。〜』
『呉用は、この孫二娘が言ってやろう。呉用でとにかく駄目なのは、喋り方だ。人を見下したような喋り方をしすぎる。〜』」


 女二人の自棄酒ってのもいいな。
 それはそうと、北方『水滸伝』は、台詞に人名を入れすぎるとつくづく思う。誰の誰に対する台詞か特定したいからなんだろうか?
  

★★★☆


(624) 『空海の風景(下)』(著:司馬遼太郎。中公文庫)

 P17に「恵果の空海に対する厚遇は、異常というほかない」とある。
 五月に初めて会って、翌月に早くも胎蔵界の灌頂を受け、七月には金剛界の灌頂も受け、八月には阿闍梨の位も授けられた。
 恵果は十二月に亡くなり、翌年正月の彼の葬儀で門人数千の中で碑文を書したのは空海であった。

 空海の業績は空前絶後である。空海は密教を独習した。「恵果は空海を教えることがなかった。〜すべて空海が独学してきたものを追認しただけである」。そして「恵果の門人の筆頭になっただけでなく、その教法の王位を継いだ」。

 そして最澄との関係が緊張感を持ってくる。
「最澄は順暁から密教の付法をうけてしまっていた。〜しかも、最澄は〜早く帰国した。〜すくなくとも空海にすれば、日本に密教を将来する最初の人としての栄誉は去った〜空海の多分に戦闘的性格からみて、(これは法難といえるかもしれない)とさえ、思ったのではないか」。

 上巻では、空海は、自分と比べあまりに恵まれている最澄に対し根深い鬱懐があったと書かれていた。
 本巻では、空海は超人的な努力・才能・運・技巧で密教において世界有数のところまでのぼりつめてしまった。しかし、日本で先に認められたのは最澄なのである。鬱懐は激しい敵意になっていてもおかしくない。

 この二人の関係に、さらに最澄と奈良六宗との対立関係が絡み合ってくる。

P78「最澄の『将来目録』のなかに密教が入っていることを知った桓武天皇のよろこびようは、やや常軌を逸していた〜最澄のもたらした天台については触れず、密教にのみ昂奮し〜旧仏教の長老たちに灌頂を受けさせよ、と命じている〜」

P83「ゆらい、最澄は天台一宗がすぐれていて奈良六宗にほとんど価値を見出さないという態度をとってきたために、奈良六宗のひとびとから深刻な反感をもたれていた」

P118「新仏教を持ちかえったはずの空海が、旧仏教最大の拠点である東大寺の長官になるとは尋常ならざる人事というべきであり、さらに異常なことは、わずか三十七歳の空海がいきなり東大寺の別当になったこと〜この人事におけるただならなさは、そのまま奈良勢力のあせりと危機感の表現〜空海がいかにかれらから政治的に期待されていたかがわかる〜」

P207「ぜひ、東大寺別当になって奈良を救ってもらいたい。というのが、奈良側の交渉目的のすべてだった」

P209「『十従心論』にみられるように以下は空海の持論だが、華厳はなんとかなる。ということを、かれは奈良の長老たちに繰りかえし言ってはげましていたにちがいない」


 さらにさらに、空海と最澄の関係には、借経(筆授)の問題、おまけに泰範という弟子の存在までが深刻な陰をおとし、ついには決定的な破局を迎える。
 その破局に至る過程の描写については、息詰まるような緊迫感があった。

P154「最澄が〜得てきた密教が、そのじつ密教体系の一断片にすぎなかったことを、当の最澄自身も知らず〜勅命による灌頂の主宰までやってしまったことは最澄のいわば大恥であった」

P228「真言の秘教等、いまだこの土(くに)に伝ふるを得ず。然るに最澄、幸いにこの道を得、まことに国師たり と、桓武天皇をしていわしめた最澄の密教は、いまは話題にする者もない。空海の帰朝とともに、その粗漏さが露れた。この事態は最澄ぎらいの奈良勢力をよろこばせたが、ただ、この後始末をするうえでの最澄の態度は率直というほかない」

P237「最澄はさらに空海から灌頂をうけることも乞うた。〜最澄自身が国家から命ぜられて宮廷の大官や奈良の長老たちに灌頂をおこなったのは、わずか六年前ではないか。その最澄が、師である壇からおりて空海を師とし、灌頂を乞うているのである」

P244「最澄は、あれだけ準備にかけまわりつつ、いざ灌頂をうけたときは、こどもと一緒だったということである。
〜灌頂には、三つの区別がある。
 結縁(けちえん)灌頂、受明(じゅみょう)灌頂、そして伝法灌頂である。
 結縁灌頂とは文字どおり縁を結ぶだけの灌頂で、寺院が在家のひとびとにいわばサーヴィスとしておこなうものといっていい。〜相手はたれでもよかった。子供でもよく〜最澄があれだけ奔走してようやくおおぜいと一緒にうけたのは、どうやらこの結縁灌頂のようであった」


「真言のすべてを伝授されるのは〜伝法灌頂を受けるのは〜幾月かかるか、と最澄は問うた〜。
〜三年かかります、と空海はいうのである。
〜空海にいわせれば、最澄がそうらくらくと法をゆずられることを期待しているのはあつかましいというものだ、という気持ちがあったにちがいない。
〜空海は〜大日経その他の密教経典を独習し〜恵果もそれをみとめた。であればこそ、すぐさま恵果から一切のものを伝授された。〜あなたは私とはちがうのだ、ということを空海は露骨にいうべきだったかもしれないが、さすがにそれはいわず、三年ニ、功ヲ畢ラン、とのみいった。
 最澄には、意外だったらしい。
〜もともと一夏
(三ヶ月)ほどで終るのかと思っていました、と正直にいっている。
〜最澄が、しおれてしまっている姿がみえるようである。
 かれは本来、多忙であった。〜自分が元来思いもしてなかった密教などに三年も時間をとられているゆとりがなかった。
〜空海は、たしかに最澄に密教のすべてをゆずってもいいといった。〜最澄のいうように『本ヨリ一夏ヲ期ス』とあしらわれては、この一道にすべてを集中してきた空海としては立つ瀬がない」


P250「〜最澄は、やむなく便法を考えた。
 空海の手もとに、自分のもっとも聡明な弟子を残しておき、かれらに密教を残しておき、かれらに密教を学ばせることである。
〜ただしこのとき空海は以下のことをいっておくべきだったかもしれない。
『もし泰範らがものになれば、あなたの天台宗に帰らないかもしれませんよ』
〜(
最澄はただ、かれらの教団の〜試験官を養成するために、自分の手もとに弟子をあずけようとしている)〜最澄の認識はその程度だということを、空海はくりかえし腹立たしかったにちがいない。〜のちに、かれは〜それを読めば空海の人間に興醒めするような〜罵倒の文章を、最澄に対してたたきつけてしまう結果になる。
〜最澄は密教もまた当然ながら筆授でもって身につけ得るものと信じきっていたのである。
 このため、最澄はしきりに空海に手紙を出し、経典などの借用方を乞うた。これに対し、空海は密教において筆授はありえないという立場をとっている。
〜空海はそのつど経を貸した。〜おそらく貸すたびに最澄に対する鬱積がつのったであろう」


P255「泰範は〜最澄にとってよほど魅力のある人物だったかとおもえる。
〜僧門によくあるように、男女の愛に似た感情が双方にあったかもしれず
〜最澄は〜泰範を自分の後継者に擬することを、内外にあきらかにした〜ところが〜最澄に対していわば絶縁の希望をあきらかにしてきた」


P272「泰範あての手紙では〜棄てられた老人である同法の最澄、と最澄自身がいう。〜怒りというよりも拗ねているといったほうがあたっており、むしろ最澄の泰範への想いの濃さのあらわれといっていい。しかしながらひとたび気持ちの冷めてしまった泰範にすれば、最澄のこのような情の深さがやりきれなかったかもしれない」

P278「最澄は、かれ自身の成仏のためでなくかれの事業のために空海に接していた。
〜借経される側の空海にすれば、これを自分の教義の秘奥の経典としているだけに、最澄が不空訳の『理趣釈経』を名指しで借りだしにくることをひそかにおそれていたにちがいない」


P306「最澄は孤独な自分のあわれさを〜唐から持ちかえった法華一乗(天台宗)を物売りのように背負って、世間をうろつきまわっている、という。〜それでもよいが、あなたと別居していることのみが残念である、というのである。
〜最澄は、自分の天台体系
(法華一乗)と空海の真言体系とをくらべ、決して優劣はないぞ〜というのである。
〜『泰範よ、はっきりと絶縁し、その理由を言いきってしまうほうがよい。〜』〜あなたが返事が書きにくいなら、私が代筆してやる、といったはずであり、そういっただけでなく、空海はげんに代筆し、げんに泰範の名でもってこれを最澄に送りつけているのである」


P314「『〜法華も真言も優劣はないなどという御高説に対し、だまっていることはできませぬ。
〜私はその実の教えである真言密教の醍醐味を楽しんでおりますので、いまだ、便法
(権)の教えである天台宗の教薬を服用するいとまがないのでございます。
〜他者を救済する〜利他〜のことは、すべて最澄大師におゆずりいたします。』
〜最澄と泰範のつながりは、この一文で切れた。
 同時に、最澄はこれが空海その人の断交状と見たであろう。
〜日本の宗派が他宗派に対してそれぞれ門戸を鎖し、僧の流出をふせぐという制度をとるにいたるのは、この泰範の事件以後とされる」


 本書を読んだ後の私の感情としては、筆者が次のように書いているとおりである。 
P266「観客席のおおかたの感情は
最澄は善玉とし空海を悪玉とする気分からまぬがれることはできない」。

 空海と最澄の一生を概観すると、次のようになる。
P333「入唐までの前半生の最澄はまことに順風満帆といってよかったが、帰朝後の生涯は、旧仏教の攻撃の矢を一身にあび〜苦悩と艱難の連続であった。空海〜は前半生において無名のまま独学で密教をおさめるという苦しみを経た。しかしながら、入唐して大成し、帰朝後はそれを悠々と展開するだけでよかった。嵯峨のような保護者も得た。しかも空海においてはかれが嵯峨に阿諛するという姿勢はまったくなく、逆に嵯峨がそのようにした」
 人間の一生は、やはり後半部というか晩年で決まるって気がしないだろうか。子供の頃は優秀だったが、結局不幸なまま死んでしまったという人と、幼い頃は苦労したが、幸せな最後を迎えたという人では、どちらが「勝ち組」と思われがちか。それと、いわゆる「判官びいき」が加わって、最澄善玉視が優勢になるのではないだろうか。

 下記のようなとこも、けっこう最澄の好感度アップに寄与している気もする。
P269「空海は〜各種の灌頂においてつねに大日如来の上に落ちた。〜むかし不空の投花も大日如来の上に落ちたという。〜最澄の投花は〜金剛界灌頂では金剛因菩薩のうえへ落ち〜胎蔵界灌頂のときは宝幢如来(ほうどうにょらい)のうえに落ちた。最澄はなにか、へまな感じのするひとであった」

 また、下記のような天皇に関する描写も興味深かった。

P146「桓武という、独裁性がつよく、仕事ずきなこの人物は、官僚を自分の裁量で自由にえらんだめずらしい天皇であった」

P177「嵯峨は政治家としてすぐれた〜といっても父の桓武のようにみずから指揮するのではなく、政治を官僚にまかせることの上手な〜人物であった」

P182「嵯峨は〜奈良に遷都せよ。という命令に対しても表面これに順(したが)い、自分自身の人事命令でもって三人の造営使を任命している。
〜嵯峨が、坂上田村麻呂を平城にとられることなくいちはやくおさえてそれを奈良に派遣したのは、なみな政略手腕とはいえない〜『日本後記』では、平城の遷都命令で人心が騒動したとあるが、嵯峨はそれを理由にして、東国から畿内に入る関所に兵を置き、鎮めを厳重にしている〜」

 全体を通してみると、上巻くらいまでの空海は、まだ応援したくなる部分もあったが、下巻の空海はかなりキツい。好感を持つのは相当難しい。本書だけで決めてはいけないが。
 それと、下巻後半部で何かばたばたと終ってしまった感じがした。

★★★☆


(625) 『古寺巡礼』(著:和辻哲郎。岩波文庫)

 筆者の仏像、仏画などに対する主なコメントを並べてみたい。

P31「広隆寺の〜弥勒は我が国の仏像のうちで最も著しくガンダーラの様式を現している。
〜我が国の仏像で西洋彫刻に最も近いものは恐らくこれである。しかもそのギリシア的な様式にもかかわらず、この仏の与える印象は完全に仏教的である」


P40(新薬師寺本尊薬師)「木彫でこれほど堂々とした作は、ちょっと外にはないと思う」

P47「戒壇院〜ガランとした陰鬱な空間の感じについで、ひどいほこりだという嘆声をつい洩らしたくなる。
〜埃にまみれて四天王が立っている
〜広目天の眉をひそめた顔のごとき、きわめて微細な点まで注意の届いた写実で、しかも白熱した意力の緊張を最も純粋化した形に現したものである」


P54(東大寺三月堂の)「梵天・帝釈の小さい塑像(日光、月光ともいわれる)が傑作であることには、恐らく誰も反対しまい」

P74(興福寺の諸作の)「巧妙な写実の手腕は、不幸にも深さを伴っていなかった。従ってその作品はうまいけれど小さい」

P114(法華寺十一面観音)「観心寺の如意輪観音に密教風の神秘性が遺憾なく現れているとすれば、あの観音に似た感じのあるこの像も密教芸術の優秀なものに数えていい
〜この十一面観音の面相は〜豊かではあるが、洗練せられた感じがない。情熱的ではあるが、柔らかみがなく、あらっぽい」


P157(薬師寺)「〜本尊薬師如来の、『とろけるような美しさ』を持った横顔が、また電光の素早さでわれわれの目を奪ってしまう」
P171(薬師寺東院堂聖観音)「恐らく世界に比類のない偉大な観音
〜この像の前にあるときには、聖林寺の観音何するものぞという気がする。
〜もし近代の傑作が一個の人を写して人間そのものを示現しているといえるならば、この種の古典的傑作は人間そのものを写しているといえる〜」


P198(薬師寺吉祥天女)「〜精神の美を現すよりは肉体の美を現しているというべき〜少し感性的にすぎる。〜要するにこれは地上の女であって神ではない」

P205(信貴山縁起)「線画の伝統の一つの頂上である。簡単な線でこれほど確かに人物や運動をかきこなしていることは、やはり一つの驚異といってよい」

P240(法隆寺金堂壁画右脇侍)「『これほど人間らしくて同時に人間離れのしている姿をみたことがない』」

P249(法隆寺金堂)「四天王は簡素な刻み方で、清楚な趣があって、非常にいいものである」

P258(法隆寺夢殿観音)「フェロノサの〜(夢殿観音の)微笑をモナリザの微笑に比するのは正当ではない。〜モナリザの微笑には、人類のあらゆる光明とともに人類のあらゆる暗黒が宿っている。この観音の微笑は瞑想の奥で得られた自由の境地の純一な表現である」

P261(中宮寺観音)「彼女は神々しいほど優しい『たましいのほほえみ』を浮かべていた。それはもう『彫刻』でも『推古仏』でもなかった。ただわれわれの心からな跪拝(きはい)に価する〜一つの生きた、貴い、力強い、慈愛そのものの姿であった」
P265「およそ愛の表現としてこの像は世界の芸術の内に比類のない独特のものではないかと思われる。
〜この純粋な愛と悲しみとの象徴は、その曇りのない純一性のゆえに、その徹底した柔らかさのゆえに、おそらく唯一のものといってよいのではなかろうか」


 さて、本作は擬音がけっこうおもしろいなと感じた。
P35「茶畑にはすっかり覆いがしてあって、あのムクムクとした色を楽しむことはできなかったが〜柿の木はもう若葉につつまれて、ギクギクしたあの骨組みを見せてはいなかった〜」
P225(法隆寺)「中門の内側に歩み入って、金堂と塔と歩廊とを一目にながめた瞬間に、サアァッというような、非常に透明な一種の音響のようなものを感じます」

 あと、感じたことは昔は、奈良国立博物館に広隆寺弥勒菩薩、聖林寺十一面観音、法隆寺百済観音などすごい作品が展示されていたのだなということ。戒壇院が埃だらけで荒廃していたと書かれているし、寺院では保存・展示(寺院では本来「展示」でなく安置なのだが)の余裕がなかったのだろうか。

 
★★★




 今月も、まだまだ書評が大量に積み残し。



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