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2008年1月のひとこと書評(掲示板に書いた文章の転載。評価は★5つが最高)

 1月のひとこと書評の再録です。掲示板そのままでは芸がないので、評点をつけます。★5つが最高。評価基準の詳細は、2001年11月書評のページをご参照ください。




(613) 『六枚のとんかつ』(著:蘇部健一。講談社文庫)

 一応は推理小説というか、ミステリー小説で、巻末解説で「発表されるや否やミステリファンの間でかなりの話題を呼んだ連作短編集」とのことである。
 トリックを書くわけにはいかないので内容は書かないが、<ミステリマガジン>98年5月号での「たんなるゴミである」、<このミステリーがすごい!98年版>の「作者はバカミスを逃げ口上にしているだけ」という感想に賛成する。

★☆


(614) 『友がみな我よりえらく見える日は』(著:上原隆。幻冬舎アウトロー文庫)

 酔ってアパートの5階から落ちて失明した男。
 容貌に自信がなく46年間、男性とつきあったことのない0L。
 労働組合の役員をやっていたが義憤から上司を殴り失職し、アルコール依存症になって家族を失い、48歳でホームレスとなり駅で雑誌をあさっている男。
 中学2年の頃から登校拒否になった定時制高校の2年生。
 夫のテレクラ通いで精神を病み離婚したが、著者に彼をどう思っているか訊かれ「たぶん、死ぬまで好きです」と答える女性。
 日雇いで働き、金が貯まると仕事を休み、小説を書き「オキナワの少年」で第66回芥川賞を受賞したが、家族を失い、収入の途もなく、コンビニのごみ箱でサンドイッチなどをあさり、著者と話すまで3ヶ月も他人と言葉を交わさない生活をおくっている57歳の男。
 高卒以来ネガフィルム編集という仕事を続けてきたが映画がフィルムからビデオに変わり、仕事がなくなった53歳の女性・・・・・・。
 単純に言えば「友がみな我よりえらく見える」人の話が書かれている。このノンフィクションにはどんな意味があるんだろう。私はなぜこの本を手に取ったのだろう。私自身「友がみな我よりえらく見え」て、自尊心を取り戻すためにこれを読んで優越感にひたろうとしたのだろうか。


★★


(615) 『高丘親王航海記』(著:澁澤龍彦。文春文庫)

 西山厚先生の真如親王に関する講演会で紹介されていたので買ってみた。講演の時、真如親王の年譜で天竺に同行したのが「安展・円覚・秋丸」とあったのだが、前二者はいかにも僧侶っぽいが、「秋丸」というのが何か違和感というか、誰なんだろうと感じた。
 本書では、航海間際に、追っ手から逃れてきた奴隷の「少年」をかくまい、秋丸と名付けて同行させるという設定である。
 薬子が大きな存在になっている。藤原薬子は父(平城天皇)の寵姫である。「語りつつ、薬子は生絹の襟をくつろげ、片方の乳房をあらわにして、これを親王の手になぶらせる。〜じらすような微笑を浮かべると、その手をゆっくり親王の股間にのばして、子どもの小さな二つの玉を掌につつみこみ、掌のなかで鈴のようにころころと動かしたりする。〜どんなにきわどい行為におよんでも、薬子のやることなすことが媚びや不潔さをみじんも感じさせない」という一節や、「卵」を「そうれ、天竺まで飛んでゆけ」とほうり投げるのが全編を通じての重要なモチーフになっている。

 「異名といえば、これほど異名のあるひともめずらしく〜うずくまり太子などという異様な呼び名さえある。うずくまりとは、一見、いかにもひっこみ思案で優柔不断な性格を暗示しているようで、おもしろい」

 「ここでおどろくべきは、五月に長安に入城したばかりの親王が休むひまなく、その年の夏か秋に、ただちに円載をして渡天の手続きを執らしめていることであろう。どうやら最初から親王の真の目標は天竺にあり、諸国行脚も入唐も、洛陽も長安も、そこに到達するための単なる布石にすぎなかったのではないかという気がしてくる」

「『〜しからば問うが、なにしに天竺へ行くのじゃ』
 ここで親王がぐっと返答につまったのは、自分でも思いがけないことだった。目的はただ一つ、仏法を求めるためにきまっているではないか。
 〜そんな大それた気持はもともと自分にはなくて、ただ子どものころから養い育ててきた、未知の国への好奇心のためだけに、渡天をくわだてたのだと考えたほうが分相応のような気がしないでもなかった」
・・・・・なんてとこは、以前の西山厚先生の講演の謎解きにも役立つ感じ。

 こう書くと小難しいだけの小説のように思われるかもしれないが、澁澤作品らしい幻想的な雰囲気にも溢れてる。

 

 
★★★☆

 


(616) 『奈良の寺』(編:奈良文化財研究所。岩波新書)

 奈良の世界遺産を紹介するものだが、世界遺産でない西大寺などもあわせて紹介されている。
 第一章は「平城京跡」。私も奈良へ行く時、一度あの広々とした平城京跡の広場を歩いてみたいとは常々思うのだが、いまだ果たせずにいる。あの朱雀門が復元されているが、資料がないので法隆寺中門や東大寺転害門などの様式をミックスして設計されていると初めて知った。
 第五章は春日大社。「伝承では、768(神護景雲2)年に鹿島神宮の神が白鹿に乗って御蓋山に降臨し、春日大社が創始されたと説かれています。しかし、それ以前から春日社が存在していたようにも思える節があるのです。奈良時代の絵図である「東大寺山堺四至図」の記載です」とある。
 春日若宮おん祭りのことも書かれていた。松の黒木の柱に松の青葉で屋根を葺く仮宮を見ることはできなかったが。
 また、奈良国立博物館の向かいの氷室神社についても書かれていた。私は小学校時代、大阪府枚方市の菅原小学校というところに通っていた。近所の山手のところに「氷室」(ひむろ)という地名があった。春日山と同じように、あの辺の山も製氷・保氷地帯だったのだろう。
 第八章は東大寺。大仏を金メッキする際の水銀中毒についても書かれている。記録は残っていないようだが、きっと多くの人が苦しんだのだろうなあ。
 南大門の大仏様(だいぶつよう。重源が東大寺再建のおりにとりいれた建築様式)の「木鼻に装飾の繰形(くりかた)を施すことは、この建築が初めです。〜構造のかたまりともいうべきこの建築の細部に、この小さな、しかし目に付く曲線がちりばめられていることで、全体としてどれほど効果をあげているかを味わってください」という一節を、今度南大門に行った時、あらためてかみしめてみようと思う。
 

★★★

 

 


(617) 『烈闘生』(語り:武藤敬司・蝶野正洋・橋本真也。幻冬舎アウトロー文庫)

 武藤ら3人は1984年に新日本プロレスに入門。同時期に長州力ら多くの主要レスラーが全日本に移籍したこともあって、早い時期から闘魂三銃士と名付け、セットで強力に売り出された。本書は、彼らにロングインタビューしたのをまとめたもの。96年に単行本として出されたが、文庫化するにあたり99年に再インタビューして構成したとのこと。
 おもしろかった部分の抜書き。
武藤「〜カール・ゴッチに関しては”プロレスの神様”っていうより、そういう『面倒臭いオヤジだなぁ』っていう印象の方が強い〜」
「UWFスタイルの話になって、俺『そんなのプロレスじゃねえ』って、本人を目の前にして言ったことあるんですよ。そしたら前田さん怒り出して、いきなりパパーン!って殴られた」
(グレートムタのペインティングで)「漢字を書くアイディアはあとで思いついたんだけど、鏡を見ながら自分で書いてたから、文字が逆になっていても、全然気づかなかった」
「蝶野っていうのは、ああいう短期間の星の潰し合いみたいのには長けているレスラーだなって」
99年武藤「全日本って〜あいつらタイツの色なんかにしても、ビジュアル的に凄ぇカッコ悪い」

蝶野「その頃の俺って、三つの顔があったんですよ。一つにはまず学校に出て〜放課後サッカーやるっていう、わりとまともな部分。
〜もう一つは、不良としての顔。三鷹の暴走族の頭をやらなきゃいけなくなったから〜。
 それから、家に帰るとマサヒロちゃん」
 この辺、蝶野のしたたかなクレバーさが出ていると思う。
 また、他の者も書いてるのでよほど印象強かったのだろうが、新弟子同士で「つらいなあ。やめようか」ということになり、武藤が「じゃあ練習が終ったら神社で待ち合わせて一緒にやめよう」と言い出したのに当の武藤は忘れたのか、最初からそんな気がなかったのか、練習の後、先輩とチャンコ囲んでビールなんか飲んでる。でも誘われた奴はそのまま辞めちゃったというエピソード。
 猪木の付き人をやっていて、ブロディが控え室に暴れこんできて肘を怪我した。すると、記者も誰もいない控え室の奥で「ベストな状態で戦いたいのに」と猪木が号泣したという話。
 外国で修行中、橋本が猪木から預かったアメックスのゴールドカードを平気で使いまくったという話で、これも橋本のトンパチぶりが出ている。
 橋本と蝶野がニューヨークで合流して、武藤のいるプエルトリコを訪ねたが、居留守使ったり、部屋の中に入れようともしなかったとかいう話もおもしろかった。

 橋本は、高校を卒業して新日本プロレスに入団しようとテストを受けに行った日、ついてきてくれた柔道の先輩が緊張をほぐすために気を遣ってくれたのかポルノ映画館に連れていかれ、「『ここで勃ったら駄目だ!』と思いながらも、やっぱり勃つわけ」。橋本は、その手の話が多いみたいで、先輩のドン荒川に風俗店に連れていかれたが、ちょうど大量離脱者が出た時期だったのでえらい騒ぎになったらしい。

★★☆

 

 


(618) 『空海の風景(上)』(著:司馬遼太郎。中公文庫)

 印象的なとこを抜書きする。

P11「空海の伝説といえば、最近、私の知人でどういう場合でも理性をうしないそうにない人文科学者が、話題が空海のことになると、自分は、つまり自分のような讃岐そだちの者にはとても空海を人として論ずることはできない〜と言った」

P42「少年の日の空海のまわりの者が、かれを保護し撫育することが、ひいなを羽ぐくむようにしていかに手厚かったか」

P45「桓武はエネルギーと発意にみちあふれた専制者で、おそらく意識的に日本ふうのみかどであるよりも中国的専制皇帝であろうとしたふしさえみられる」

P56「『三教指帰』が戯曲的構成で書かれた日本最初の思想小説であるともいえる」

P69「五筆和尚」

P108「インドにおこった密教グループは〜釈迦の仏教とはちがい、ともすれば精神が死にむかって衰弱しがちな解脱の道をえらばなかった。〜現世を肯定した」

P141「おそらく人類がもった虚構のなかで、大日如来ほど思想的に完璧なものは他にないであろう。〜宇宙の原理を苛酷な悪魔的なものとしてとらえず、絶対の智慧と絶対の慈悲でとらえたところに、純粋密教を成立せしめた思索者の思想的性格の温みがわかるであろう」

P167「密教は半ばは教理で構成されているが、他の半ばはぼうだいな方法の集積であるためにこればかりは手をとって伝授されることが必要であった。
 空海はこれがために入唐を決意した。
〜遣隋・遣唐使の制度がはじまって以来、これほど鋭利で鮮明な目的をもって海を渡ろうとした人物はいない」


P178「『わが国の諸宗は論を主としている』
というのは、最澄の奈良六宗に対する痛烈な不満であった」


P194「最澄が〜『天台三大部』というものの講演をやるという〜催しは和気広世の招請でやる形式をとった。
〜桓武が勅諚をもってこの講演の成果を嘉賞している〜さらに政治的であるのは、この講演を、奈良六宗の代表的な学匠十余人に聴聞させたことであった。
〜最澄の後半生はかれら奈良六宗の復讐的な反撃のために暗いものになってゆくのだが、その因のひとつは、この最澄にとって幸福すぎる事態がつくった」


P196「自分とおなじこの新人のめぐまれ方に対し、ひとには洩らしがたいほどのなにごとかをこのとき鬱懐したかと思われる。〜空海は後年、最澄に対してつねに”とげ”を用意した。〜それらの尋常ならざることどもは、このときの鬱懐が最初の発条(ばね)になったにちがいない」

P226「空海はすでに独学でもって密教の体系化を完成させつつあり、唐土へゆくことは、そのうちのほんの一分か二分を知りたいためであった。〜うまくゆけば一日で済むかもしれない」

P237「当時の日本の遠洋航海術は幼稚という以上に、無知であった。〜ほとんど迷信のように真夏をえらび、しばしば遭難した」

P264「空海〜が、幕を跳ねあげるようにして歴史的空間という舞台に出てくる」

P353「この種の進退の奇妙さは空海の生涯につきまとうものだが、ともかくかれは長安に入ってから五ヵ月ちかく〜恵果とは没交渉に自分を置く」

P366「恵果は空海が自分を訪ねてくる以前に、すでに空海について豊富な知識をもつに至ったかと思える。であればあるほど、恵果において空海の来訪を待ち望む気分が昂じて行ったに相違なく、一方、空海においては、恵果の気持がそのように昂じてゆくのを待っていたのではないか」

P368「空海という人物のしたたかさは、下界のそういう人情の機微の操作にあったといえる。

〜『御請来目録』において、自分は恵果に偶然遇ったのだ、としている。〜しかし、『密一乗』を求めて入唐した者が、密一乗の最高権威である恵果にたまたま遇ったということは、あまり正直であるとはいえない。この文章の不正直さのなかに、むしろ逆に、右のような、空海のけれんじみた操作が匂い立っているといえる」


P370「恵果があわれなほどによろこぶさまが目に見えるようである。〜初対面の空海に対し〜すぐさまあなたにすべてを伝えてしまおうと、言い放ってしまっているのである。
 事実、そのとおりになった」


 下巻を読んでないのだが、だんだん空海がいやになり、最澄に惹かれていきそうである。

 

★★★

 

 

 


(619) 『仏教信仰の原点』(著:山折哲雄。講談社学術文庫)

 筆者の何回かの講演をまとめたとかで、内容は多岐だが、やや散漫。
 第一章「仏教信仰の原点」では、奈良時代の遊離魂信仰、平安時代の鎮魂儀礼、鎌倉時代の成仏・往生思想の三段階で整理する。
 まず奈良時代の遊離魂信仰だが、人が死ぬと魂が遊離し、再びもとの体に戻ることがあるという概念があり、それを確認する期間として「もがり」が存在した。
 平安時代の怨霊信仰と鎮魂儀礼だが、奈良時代の「タタリ」はただ超自然的なものが憑依するだけで危害を加えることとは必ずしも結びつかなかったけれど、平安時代には「崇り」に変化した。代表的な例としては初期の桓武天皇に対する早良親王、中期の藤原氏に対する菅原道真、後期は承和年間の「物の怪」現象の頻発が挙げられる。
 鎌倉時代の成仏・往生思想については、親鸞や道元は民間の霊魂信仰を克服しようとしたが、成功したとはいえなかった・・・・というような感じなのだが、どうもここの展開が不十分。講演でいうと、時間切れで終ってしまった感じ。

 第二章の「密教儀礼と空海」では、空海と道鏡の類似性が述べられている。玄眆は聖武天皇の母藤原宮子のノイローゼを治癒し、道鏡は称徳女帝に寵愛され権力をつかんだ。空海も、その取った方法は、いわば「看病僧」の制度をより洗練したものにすぎなかったのでは、といっているようである。

 第六章では親鸞と道元を比較している。
 第一点は、容貌。鼻の穴が大きく鼻があぐらをかいている。頬骨が張っている。口が大きく唇が厚い。猪首で眼光が鋭いという数々の共通点があるとしている。
 第二点は、比叡山における修業体験で、親鸞が二十年に対し、道元はわずかに二年。
 第三点は、師に対する態度で、親鸞は法然ただ一人に絶対随順している。道元は栄西、明全という師を超越して最終的に中国で如浄に絶対随順した。
 第四点は、弟子に対する態度で、親鸞は『歎異抄』で「弟子一人ももたず候」と宣言した。逆に道元は弟子の養成と言うことに非常に力を注いだ。
 第五点は、思想の本質について。親鸞は、主著の『教行信証』を書き上げるのは五十代で、それまではほとんど著書がなく、前掲書も九割ほどは他の経典等の引用文でできている。
 道元は、詩人的才能、哲学者としての資質に恵まれ『正法眼蔵』は日本文学史上の一大事件といってよいほどである。しかし、その執筆活動は四十歳前後でピークを迎えたとみられる。
 親鸞は「救い」を重視し、道元は「悟り」を重視した。
 両者とも弟子が師の言行をまとめたが、親鸞を唯円がまとめた『歎異抄』は悪人正機説や父母の孝養のためには念仏しないなど反倫理的要素がある。しかし、道元を懐奘がまとめた『正法眼蔵随聞記』は非常に儒教的で倫理性が強い。

 結論としては、冒頭で述べたように内容が多岐にわたっているため、いろいろヒントはもらえるのだが、結論がよく見えてこない。もちろん私の読解力のせいもあるのだが。

 

 


(620) 『水滸伝 十五』(著:北方謙三。集英社文庫)

 呉用は盧俊義にこう言われる。
「『一度、言おうと思っていた。おまえには、どこか弱さがある。〜おまえは冷たくなりきれないから、逆にみんなに冷たいと言われるのだ』」

「兄が、憎い」
「憎いが、いとおしい。兄と血が繋がっていることが、おぞましく、また誇りでもある」
 輜重隊が襲われ、宋清が死ぬ。

「楽和の声が、さらに澄み渡る。それから、徐々に小さくなり、消えた」
 宋清を護衛しようとした楽和も死んだ。

「六度、七度と攻撃を受けながら、穆弘は趙安に、かすかな友情のようなものさえ感じはじめていた。これほどまでに、自分の首にこだわる人間が、かつていただろうか」。

「いまから、という言い方が、張順は気に入った。明日からと言ったら、竹で打ちのめしてやろうと、思っていたのだ」

「『〜みんな別れて貰いたい、と心の底のどこかで思っている。なにしろ、相手は女好きの矮脚虎だぞ。俺も、なんとなく理不尽なことが起きている、と思えてならん』」

 この巻でも多くの人が死ぬ。それと重要な観念が出てくる。講和だ。原作では、実は梁山泊側にかなり権力志向というか出世志向がある。特に宋江なんかは、最初から、ええ加減なとこで講和して重要な官職をもらうことが目標だったでは、と感じられるとこがあるが、それを北方水滸伝はどう処理するのか気になっていた。
 本巻で、人的損害を回復する時間をかせぐための戦術として呉用が講和を考え、講和派の役割を受け持ったのが宋江(主戦派代表は盧俊義)という設定が出た。今後、どう展開するのだろう。

 

 


(621) 『梅原猛の授業 仏教』(著:梅原猛。朝日文庫)

 筆者が京都の洛南中学で行った特別授業の講義録である。

P14「人はただ生きているだけでなく、人の道というものがあるんです。してはいけないことはあるんだよ。すべきことはあるんだよ。そういうことが、ちゃんと教えられていないのが、いまの日本の教育の大きな欠陥です」。

P27「人類の文明で、宗教のない文明はありません。〜だから、神がなかったら文明というものはありません、というイワンの言葉は間違いないのです。
〜宗教がなかったら、道徳もなくなる。道徳がなくなったら、なにをしてもいいんだ、というのがイワンの恐るべき結論です」。
 先日、有名な古典文学のあらすじをドラマ仕立てで紹介するバラエティ番組があり、最近新訳が出てベストセラーになったという『カラマーゾフの兄弟』が話題になっていた。私も気になっている。

P52「仏教にしても儒教にしても、人間中心主義ではない。〜人間が世界を支配するという考え方はない。世界には生きとし生けるものが共生している」。

P231「もうこの世のことはあきらめて、あの世に期待をかけなさい、と。そういう無常観が浄土教にあります。
 日蓮さんには〜あの世ではなくて、この世で自分は仏になるんだと、この世を力強く生きる気持ちが強い」。

 筆者は「大学でしたいかなる講義以上に、洛南中学校の授業に緊張した」と書いているが、このような授業を受けることができた生徒たちは幸せだったと思う。

 

 



(622) 『親鸞の告白』(著:梅原猛。小学館文庫)

 本書の各章は、発表時期や場所も違うので、文体も異なり、テーマも微妙に重複していたりする。

 親鸞といえば、次の逸話が有名である。
P14「親鸞はいったん法然の弟子になったものの〜自らの愛欲の煩悩が抑えがたく、心を念仏に集中することができなかった〜このような悩みを抱いて六角堂にこもった親鸞に、ある日、救世観音があらわれて『もし、おまえが前世からの報いによって、どうしても女体への欲望から逃れられないというのならば、私が女体となって犯され、おまえの人生を荘厳(しょうごん)してやろう』という偈(げ)、すなわち仏教の詩を与えられたという」。
 この一節は各章に繰り返し出てくる。(P47、P58、P189)筆者は非常に重要視しているようだ。

P16「極楽浄土および阿弥陀仏を観想する方法を説くのは『観無量寿経』で〜このような浄土教が平安時代の浄土教であった〜。
 しかし法然は、そのような観想の行はとても凡夫にできることではないと思っていたが、ある日、善導(中国浄土教の高僧)の『観経疏』(かんぎょうしょ)を読んで〜口称の念仏を往生の行としていることを発見〜。

 そもそも親鸞が師、慈円のもとを去って、法然のもとに帰したのは叡山の仏教に対する強い批判のゆえ〜彼には叡山仏教はしょせん立身出世のための仏教〜に思われた〜」。
 ここは、まあイントロ部分か。

 承元元年(1207)、法然の弟子、安楽と住連が仏事を行った際、後鳥羽上皇の女官がそれに参加し、密通事件をおこした、ため上皇の怒りをかい、両名は死罪、法然は土佐に流罪となったが、当時35歳の親鸞も越後に流罪となった。
 筆者は、それほど主だった弟子でもない親鸞が流罪にまで処せられたのは、公然と肉食妻帯を宣言したことが旧仏教人に憎まれた、とりわけ、上皇の寵僧であった慈円が天台座主である自分を捨てて法然に走り、かつ、自分の姪にあたる九条兼実公の娘を妻とした親鸞を憎んだからではないかとしている。そして、親鸞は『教行信証』や『歎異抄』でこの事件の「主上と臣下」を非難しているが、それは上皇と慈円だろうとしている。
 この流罪云々も筆者は、既に高齢であった法然は運命と甘受したが、親鸞には生涯大きな影響を与えた・・・としている。それと、原因となった事件も、章によって安楽というプレイボーイの僧が女官と姦通したという感じで書いてあったり(P51)、単に仏事に参加しただけのように書いてあったり(P18)、ちょっと統一的なイメージがつかみにくい。『歎異抄』の付録には無実の罪としてあるし。


 筆者は師法然と親鸞も比較対照している。
1.生まれ 法然は「辺国の土民」出身。親鸞は中流貴族、日野有範の子。
2.女犯 法然自身は固く戒を守る聖僧。親鸞は堂々と妻帯を宣言。
3.弟子 法然は後白河法皇、九条兼実、北条政子など貴顕の崇拝者が多く、一方で笠置(かさぎ)の貞慶(じょうけい)、栂尾(とがのお)の明恵(みょうえ)、日蓮など法敵も多かった。また、信空はじめ天台の学問を十分学んだ弟子が多かった。親鸞は、唯円を除いては学問のある弟子は少なく、存命当時はほとんど無名であった。
4.主著 法然は『選択集』で、二者択一の分析論理を重ねて口称念仏の正統性を論証する。デカルト的論理。親鸞は『教行信証』で様々な資料を集め、ヘーゲルのような思弁過程を経て一つの思想体系をつくりあげる。

 また、筆者は従来の「親鸞」観は「悪人正機説」に偏重しすぎだと主張する。これは斬新。で、二種廻向をもっと重視すべきとするのだが、ここはちょっと難しい。

 第二章では、親鸞は「日本人の悲しみと喜びの故郷のような宗教家」だとし、また、最澄は「最も澄んだ人間」だが、空海は「ちょっと汚いものが入ってもけっして穢れない空や海のような人間」としている。だじゃれっぽいが、わかりやすい。
 また、空海と親鸞を比較し、空海は「明るくて温かい海のイメージ」で「心がプラスの状態〜万事が順調で、人間関係もうまくいっているようなときは空海にひじょうな親しみを感じ」、親鸞は「彼が流罪された越後の扶養の海に象徴されるような暗くて寒い海というイメージが強」く「心がマイナスの状態〜仕事が行き詰ったり、強い孤独感に襲われたときは、親鸞に惹かれる」としている。

P52「浄土真宗に帰すれども 真実の心はありがたし 虚仮不実のわが身にて 清浄の心もさらになし
 悪性さらにやめがたし こころは蛇蝎のごとくなり 修善も雑毒なるゆえに 虚仮の行とぞ名づけたる

 これほど重い文章は、日本ではちょっとほかに例がないでしょう。
〜あれほど誠実な人間は、日本史上ほかにいないのではないでしょうか」。

P59「浄土信仰を広めたのは『往生要集』で有名な源信ですが〜彼が説いたのは明らかに極楽往生・死後往生でした。それが法然において、死後往生は二の次となり、現世で救済される喜びが前面に出てくる。親鸞はさらにそれを徹底し〜現世において阿弥陀仏に救済されたことの喜びを、ひたすら説いている。

〜親鸞において、浄土教は死の教えから生の教えに移り〜そこに親鸞の近代性があった〜浄土教ものちになると、ふたたび死後往生の色彩が強くなってしまう。だから、浄土教が近代的な宗教だったのは、親鸞の時代だけだった〜」。

 本書に、『歎異抄』は、明治24年頃に清沢満之が注目するまでは、ほとんど知られていなかったとあるが、これは意外だった。

 「『歎異抄』と本願寺教団」という章では『歎異抄』の作者が唯円でいいのか、とか、親鸞の死後、本願寺教団を強力に組織化した覚如の「生臭さ」などが描かれているが、私はこの辺はあまり興味がない。
 イエスとペテロ、ブッダとダイバダッタ・・・・・・なんてことを連想した。ダイバダッタと比較するならむしろユダか?う〜ん、これは違うな。ブッダと迦葉?
 親鸞自身は弟子すらもいらないと言っていたのだから、組織化や教団経営には興味はなかろう。北方『水滸伝』でいけば晁蓋と呉用みたいなものかな。違うか。
 私は興味ないといったが、筆者は覚如は『親鸞伝絵』をつくった、いわば広報的にビジュアル展開をしたという点がすごいと評価している。有能なのは間違いなかろう。人間性はともかくとして。
 覚如は「宿善」論を構築した。これは親鸞の教学にはなかったものだが、「僧」の立場を強化するので教団を組織する上には有効な思想だったと評価している。かつ、覚如は、この「宿善」論争でライバル唯善を蹴落としている。

 親鸞は祖先の供養を否定している。そうした過激な思想が「宿善」論で薄められていったようだが、そういった点も大衆化していく上では有効だったようだ。

 筆者は蓮如に一章を割いている。また、覚如と違い、蓮如はかなり高く評価している。
 筆者は蓮如にパウロをみている。ということで、私が覚如にペテロをみたのは記憶違い。ペテロってあまり教団組織には関係してなかった。よく知りもしないのに、ええ加減なこと書くもんじゃない。
 筆者は、パウロの「手紙」より蓮如の「御文」を高く評価している。
 筆者は、蓮如は「純粋な親鸞の教えは二種廻向(にしゅえこう)と真仏土往生・化身土往生にある。それなのに、いまの浄土真宗を名のっている人たちは、絵図によって往生を保証させたり、坊さんが往生を保証できるという。〜蓮如は浄土真宗を純粋の親鸞の教えにもどすべく、孤軍奮闘、獅子奮迅の努力をした」とし、蓮如が低く評価されがちな傾向に異論を表明している。特に蓮如が「同行同朋」(どうぎょうどうぼう)の思想を持ち出したのは、仏教において重要な二大思想である「悟り」と「平等」という原点に照らしても評価できるとしている。

 筆者は最澄の仏教の特徴として仏性(ぶっしょう)論と戒律の問題をあげている。
 前者について、奈良仏教は人間の中には仏性を持つ者と持たない者がおり、仏になりうるのは少数の人間に限られるとするのに対し、最澄は「すべての人間は仏性をもっており、善行を積めば何度か生まれ変わったのちに必ず仏になれる、と説く」。
 また、「奈良の東大寺で行われている戒律は〜小乗の戒であ」り「ほんとうの意味の大乗の戒律〜を叡山につくるべき」と主張した。かつ、「戒律を軽減化することによって、戒律を内面化しよう」とした。
 戒律を軽減化するということは、いかにも「生臭坊主」の肯定のように思える。しかし、親鸞は、一生不犯の清僧などめったにいないのに「裏はどんなに汚くても、表はやはり清僧の顔をしていなくてはならない。しかし親鸞は、この偽善に耐えられなかったのだ。それゆえ彼はあえて妻帯を公言し、かつそれを実行に移した」としている。

 後半は『歎異抄』の解説に紙幅が割かれている。巻末には原文と梅原氏による訳文も載っている。
 序言は唯円の著作動機である。「歎異」とは、親鸞の信仰と「異」なった教えがはびこっていることを「嘆」くという意で、正しい親鸞の教えを伝えたいという思いで書いたとしている。
 で、最初の十条は親鸞の言葉。後の八条は親鸞の死後はびこった異端邪説に対する唯円の反論となっている。

 第二条では、皆さん方は遠い関東から、京に侘び住まいする私(親鸞)を訪ねてこられたが、念仏以外の秘密の極楽往生の方法を聞きたいのなら興福寺や延暦寺を訪ねればよい。私は法然上人の言葉を一心に信じているだけで、もしそれがでたらめで、地獄に落ちてもちっとも後悔はしない。みなさんが念仏を信じるも信じないも勝手であるとしている。
 この文章から察するに、この親鸞の言葉は、信仰に揺らぎ、疑義が生じた(そして、その原因は、親鸞の子善鸞の言動に起因するようである)信徒らに与えた言葉らしい。

 第三条が、いわゆる悪人正機説。「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。」、「自分の中に何らの善も見いださない、ひたすら他力をおたのみするわれらのごとき悪人のほうが、かえってこの救済にあずかるのに、もっともふさわしい人間なのであります」としている。

 第五条では「親鸞は、父母の孝養のためとて、いっぺんにても念仏まふしたることいまださふらはず」とある。

 第六条では「親鸞は弟子一人ももたずさふらう」とある。ここだけ取り出して以前目にした時は冷たい言葉のように思ったが、前後を読むと、あいつは俺の弟子だなどと取り合いでいさかいを起こすこともあるようだが、もともと阿弥陀さまのおかげで念仏をしているのだから、それを自分の弟子だというのはおこがましいと言ってるわけで、実に謙虚な内容なのであった。

 第九条は、唯円がおそるおそる「私は念仏をしても喜びの心が湧いてこないのです」と打ち明けたところ、親鸞が「実は私もそうだ。しかし、そうした煩悩に悩む凡夫ゆえに極楽往生できるのだ」と答える場面。

 第十二条は、最近宗教論争が多いが、たとえ他から批判されても、けんかせず、あなたのおっしゃる優れた教えも私には力が及びませんので・・・といえば敵意も抱かれないでしょう。悪口を言われるのはよくある話と釈尊もおっしゃっている。学問をして人の悪口をやめさせようとするのは良くない。「こんな卑しい身ではとても往生はできまいと疑っている人びとにも、仏の本願は、善なる人も悪なる人も〜すべてお救いになることにあるということを説いて聞かせるならば、学者の値打ちがある」が、無心に念仏している人を、学問しなければ本当の信仰ではないとおどすのは「仏法を妨げる悪魔」であるとしている。

 第十三条は、ある日親鸞が唯円に、お前は私の言うことを信じ、何でも従うかと念を押した上で「千人殺せ」と命じられた。「一人も殺すことはできません」と答えると「お前が一人すら殺せないのは、殺すべき因縁がないからだ。心が良くて殺さないのではない。また、殺すまいと思っても、百人も千人も殺すことさえあるだろう」とおっしゃった。
 「〜野や山に獣を追い、鳥を殺して命をつなぐ人びとも〜みんな同じ人間であります。ふと何か暗い運命に左右されるとき、どんな悪業も平気でするのが人間ではないかと、親鸞聖人もおっしゃいましたのに、現在では〜道徳的に善良である者ばかりが念仏をすべきであるかのように、あるいは道場に張り紙をして、これこれのことをした者は道場へ入ってはならないなどということは、まったく偽善のわざ〜」とあるが、挙げている例がやたら具体的だ。こういう連中が「異」なのだろう。

 第十四条は、「念仏を称えるごとに、これだけの念仏をしたらこれだけの罪がなくなるなどと信ずるのは、自分の力で罪を消して極楽浄土へ往生しようと一生懸命に励むもの、けっして他力の業ではありません。
〜死の前にあって、念仏をして罪を消して極楽へいこうとするのは〜まったく自力往生の人、他力の信心のない人」としている。もちろん、藤原道長なんかは自力の人なんだな。

 第十五条は、肉体をもった身のままに仏になるのは空海が伝えた真言秘密の教えの根本。すべての感覚や精神がすっかり清浄になるのは最澄が伝えた法華一乗の教えの根本であるが、このようなことは難しい行ができる賢い人しかできない。
 極楽浄土に生まれ変わり、そこではじめて悟りを開くことができるというのがわが他力浄土教の宗旨で、どんな愚かな人でもつとめることができ、善人も悪人も分け隔てなく救われる法だとしている。

 第十七条は、辺地往生、すなわち信心が不十分で念仏した者は、浄土も辺鄙なところにしか行けず、結局地獄に落ちるという考え方を批判している。そうではなく、辺鄙な浄土に行くが、そこで疑いの罪を清算したのちに真の極楽浄土に生まれ変わるのであって、結局地獄に落ちるということでは、念仏すれば救われるとおっしゃったお釈迦様に嘘の冤罪を着せることになるとする。

 第十八条は、寄付の額の大小で悟りに違いが出るなどということは「仏法にかこつけて物欲を満たそうとするもの、信者を恐喝するもの」としている。この批判には耳の痛い者が多いのではないだろうか。

 後序では、法然存命中の弟子間の論争が書かれている。親鸞が、私の信心と師の信心は同じだと言ったところ、勢観房や念仏房といった高弟が「お前のような愚かな男の信心が、法然聖人の信仰と同じわけはない」となじった。親鸞は「法然聖人は智慧や才能に優れているから、それと同じといえば無茶な思い上がりだが、極楽往生の信心に関しては一つのものだ」と返したが高弟らは納得せず、直接法然聖人に決裁を仰いだ。
 と、法然聖人は「この源空の信心も、善信房(親鸞)の信心も同じ阿弥陀さまから賜った信心で、変わりはない。別の信心をもっている人は、私がいくであろう浄土へはけっしていかれないであろう」とこたえられた。
 いま、念仏をとなえている人びとの中にも、親鸞の信心と同じ信心をもっていない人もいる。私も、いくばくもないであろう余命のあるうちは親鸞聖人が直接語られた教えを伝えるが、死後に、さまざまな異端邪説がはびこることを心配して、これを書き記した。「どういう信心で念仏をするかという信心の様子を互いに問答して、人を説得するとき、人の口をふさぎ、もうそれ以上論争させないために、親鸞聖人の仰せられなかったことを親鸞聖人の仰せと申しますのは、まったく情けないことと嘆き悲しむべきことであります。
 〜異なった信心をもたれる方がないように、泣く泣く筆をとってこれを書いたのです。名付けて『歎異抄』といいましょう。けっして他人に見せてはいけません」とある。

 あと、付録には法然、親鸞流罪の際のことが記され、奥書には「この聖なる教えの書は、わが念仏一門のたいせつな聖書だが、前世からの善根のない者には、むやみに見せてはいけない」との蓮如の言葉と花押がある。

 『歎異抄』って名前はよく聞くが、この機会に通して読むことができてよかったと思う。




 今月は外へ出歩けなかったので、いつもより書評が書けました。

 それでも、まだまだ書評が大量に積み残し。



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