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2007年12月のひとこと書評(掲示板に書いた文章の転載。評価は★5つが最高)

 12月のひとこと書評の再録です。掲示板そのままでは芸がないので、評点をつけます。★5つが最高。評価基準の詳細は、2001年11月書評のページをご参照ください。




(610) 『東京奇譚集』(著:村上春樹。新潮文庫)

 ストーリーを書いちゃうと未読の人に悪いので、それぞれ印象的なフレーズを抜書きする。
「偶然の旅人」
P35「『かたちのあるものと、かたちのないものと、どちらかを選ばなくちゃならないとしたら、かたちのないものを選べ。それが僕のルールです。〜』」

P38「十年ぶりに再会して、姉と弟はそれぞれに、相手が十年ぶんの年齢を身につけていることを認めないわけにはいかなかった。年月はその取り分をきちんととっていくのだ。そして相手の姿は、自分自身の変化を映し出す鏡でもあった」

P39「『音楽の世界というのは、神童の墓場なんだよ』」

「ハナレイ・ベイ」
P92「『女の子とうまくやる方法は三つしかない。ひとつ、相手の話を黙って聞いてやること。ふたつ、着ている洋服をほめること。三つ、できるだけおいしいものを食べさせること。〜』」

「どこであれそれが見つかりそうな場所で」
P104「アルフレッド・ヒッチコックの映画なら、画面がぐらりと揺れてここから回想シーンが始まるところだ」

P125「『いわば健康のために喫煙を続けられているわけですね』」

「日々移動する腎臓のかたちをした石」
P141「『男が一生に出会う中で、本当に意味を持つ女は三人しかいない。〜』」

「品川猿」
P241「身体ぜんたいがほどけていくような気がした。皮膚も内臓も骨も、いろんなものがばらけてしまいそうだった」。 



★★★☆


(611) 『脳が冴える15の習慣』(著:築山節。生活人新書)

 本書「はじめに」は次の文章で始まる。「最近、何となく脳が冴えないと感じることがないでしょうか?」。
まさに、そう感じて本書を手に取ったのである。
 少し前、DSとかで「脳トレ」とかが流行ったが、脳にとって良い習慣を身につけることがより重要だと説く。なるほど、じゃあ、その良い習慣とは?

P23「人間はどこかで、会社なり学校なり、自分以外の誰かに動かされている環境を持っていなければいけません」

P26「少し早めに起きて、次のうちどれか二つを実行して(みたら)〜午前中、脳の働きやすさがまるで違って感じられるはずです。
・ 散歩などの軽い運動
・ 料理
・ ガーデニング
・ 挨拶+一言
・ 音読
(できれば10分以上)

P35「脳の基本回転数を上げるには、時間の制約が必要です」

P50「夜の勉強は中途半端にやっておいて、睡眠時間を十分に取り、起きてから整理する方が合理的だ〜最低でも6時間、できれば7時間半は寝るように心がけましょう」

P65「毎日自分を小さく律することが、大きな困難にも負けない耐性を育てる」

P74「忙しい〜人たちに必要なのは、些末な選択・判断を効率化させるルールを持つことです。
〜日頃の経験から『こうすればいいんじゃないかな』と何となく思っていることがあると思います。それを書き出して、実際にやってみて、有効性を確かめて下さい」


P77「その日にやるべきことを当日の朝か前日の夜に書いて並べてみる。
〜そのときに『ここまでは何時までに終らせる』という時間的要素も書き加えておくと、もっといいでしょう。
〜その予定通りに実行できたかをチェックする習慣を持つとさらにいいです」


P78「まずは問題解決のゴールを設定し、そこに至るまでのプロセスを大筋で考えてみる。それを書きながら考えると、主要な手順やその前後に発生してくる作業、選択・判断の場面などが見えやすくなります」

P93「クリアファイルや整理箱などを用意して、書類を分類するという作業から始めるといい」

P106「1時間に1回は、目をよく動かすこと」

P115「情報を後で誰かに伝えようと思っていれば、要点を意識的に捉えて、脳に入れようとするでしょう。
〜話が上手い人、話題の引き出しが多い人は〜そういう意識を常に持って、文章を読んだり、人の話に接したりしている人だと思います」


P119「会議が終った後は、内容を自分なりにまとめ、メモ程度にでも書いておくといいでしょう。〜それを上司に報告したり、同僚と確認し合ったりする機会を持つともっといいです」

P139「自分の話が本当に相手に理解されているかということを常に気にかける姿勢を持って下さい。
〜相手のせいで伝わらないと考えるのではなく〜なぜ伝わらないのか。それを考えながら話す〜理解してもらえるように話し直すという習慣を持つことが大切です」


P142「〜有効な習慣は、たとえ話を混ぜようとすることです」

P151「適度な運動と腹八分目」

P162「脳の問題を自覚するもっともよい方法は、自分がした失敗を分析すること
〜小さな失敗は、ほとんど忘れているのが普通〜その失敗の中にこそ、大きな失敗を未然に防ぐ警告が含まれているのです」


P166「人から受けた注意を書く」

P172「『どんな人たちを喜ばせるためのアイデアなのか』ということを思い浮かべながら考える習慣を持ってみて下さい」

P176「クリエイティブな能力を高めるために大切なのは『興味を持って何でもやってみること』『人生を積極的に楽しもうとすること』と言ってもいい」

P187「現実の相手を見るのではなく、自分だったらこう思うという基準で考えてしまいやすい〜しかも、その基準が厳しいので余計に落ち込みやすい。
〜そういうときでも、上手くできていることはたくさんあるはずですが〜その小さな乗り越えに自分で気づけない」

P188「人を好意的に評価する、また、時にはダメな自分を見せる
〜相手が何か行動したときに、その結果の良い面を認めてあげるということです。〜積極的に人を誉めようとしていると、周囲の状況をよく見るようになってきます」


P194「人との出会いを大切にして下さい。そして、一度つくった人間関係を簡単には壊さないようにして下さい。それをする努力の中で、脳は自然と鍛えられていきます」


 本書は親しみやすい文章で書かれているが、特に「〜しましょう。〜するともっといいです」てな調子で書かれているので、一度やってみようかなという気になれる。(実際は、本来仕上げておくべき仕事をええかげんにしておいて「とりあえず寝よう!」というとこしか応用していないのだが) 

★★★


(612) 『藤原氏千年』(著:朧谷寿。講談社現代新書)

 「日本史初めて」があふれている。それといろんな権力争いが。「初めて」に「初」、権力争いで勝った方を「○」、負けた方を「×」で表記する。


P14 ×→蘇我入鹿殺害される ※「乙巳(いっし)の変 645年6月12日」 ○→中大兄皇子が立太子 
P20 ○→天智天皇即位 ※ 668年
P21 初→鎌足が「藤原」氏に。 ※ 669年
P24 初→春日社創始 ※ 『大鏡』 鎌足は鹿島社を氏神としており、8世紀はじめ、元明天皇平城遷都のおり、大和国三笠山ふもとに勧請して春日明神と称した。
P25 初→藤原氏が天皇と姻戚に。 ※ 鎌足の娘が天武天皇の夫人に。
P26 初→藤原四家 ※ 藤原不比等蘇我倉山田石川麻呂の姪、娼子を妻とし、武智麻呂(むちまろ。南家)・房前(ふささき。北家)・宇合(うまかい。式家)が生まれる。麻呂の京家を加えたのが四家。
P26 
×→大津皇子自殺(686年) ○→草壁皇子
P27 初→生前譲位 ※ 大津皇子を死に追いやってまで即位させようとした草壁皇子が28歳で他界したので持統天皇が即位し、草壁の子、軽皇子が15歳になった時に文武天皇として即位させた。
P28 初→藤原氏の血が入った天皇 ※ 724年 (おびと)皇子が即位し、聖武天皇となる。不比等の娘光明子の子であるから、実の孫にあたる。
P28 初→中国都城にならったみやこ ※ 藤原京 694年に始まり、持統・文武が用いる。
P30 初→一氏族で複数公卿 ※ 不比等の子房前に続き、武智麻呂も参議となる。
P31 ×→長屋王の変 ○→天智系(藤原) ※ 攻めたのは不比等の三男宇合(式家)。長屋王は光明子の立后に反対していた。長屋王協調派の房前と、排斥派の武智麻呂との主導権争いの側面あり?
P32 ○→聖武 ※ 727年 聖武・光明子間のの幼児を立太子←長屋王台頭への焦り?
P33 初→藤原四家体制 ※ 宇合と麻呂も参議に。
P35 ○→橘諸兄 ×→藤原四家 ※ 737年に藤原四兄弟が天然痘で死去
P35 初→女性立太子 ※ 738年。聖武の娘、阿倍内親王。後の孝謙天皇
P36 ×→藤原広嗣の乱(式家)※ 740年 玄眆吉備真備の排斥を求める。○→反藤原派 ※ 孝謙天皇、橘諸兄、玄眆、吉備真備 
P37 ×→安積親王暗殺? ○
藤原仲麻呂(南家)? ※ 聖武天皇は広嗣の乱後、都を転々とし、唯一生存していた安積親王も17歳で病死。
P38 ×→橘奈良麻呂の乱 ※ 757年。叔母の光明皇后を後ろ盾に仲麻呂は勢力を伸ばし、いとこ(孝謙天皇)即位の日に、大納言に昇る。道祖王(ふなどおう)を降ろして大炊王(おおいおう。後の淳仁)を立太子し、一代限りの紫微内相になるなどの横暴に諸兄の子が反発 ○→藤原仲麻呂 
P38 ×→兄 豊成の左遷 ○→藤原仲麻呂 ※ 奈良麻呂の乱の鎮圧に乗じ、上席の右大臣にいた兄を左遷。孝謙から譲位された淳仁天皇から恵美押勝の名を賜る。
P40 ×→恵美押勝の乱 ※ 764年 道鏡の重用や自らの失政で窮地に立った押勝は兵を集めたが、孝謙側(軍の指揮は押勝に冷遇されていた吉備真備)により戦死 ○→孝謙太上天皇(道鏡) ※ 孝謙は淳仁を降ろし、重祚して称徳に。道鏡をますます寵愛するが、称徳死後は失脚
P44 ×→伊予親王自殺 藤原南家 ○→式家? ※ 807年、父、桓武天皇に寵愛されていた伊予親王は、父の死の翌年、謀反の疑いで川原寺に幽閉され、母吉子(南家出身)とともに服毒自殺させられる。この事件で吉子の兄雄友(かつとも。南家)と乙叡(たかとし。南家)が失脚。代わって北家の葛野麻呂(かどのまろ)が中納言に。
P46 ○→藤原仲成(式家) 伊予親王事件の黒幕は平城天皇を後援する仲成で、皇太弟の神野親王(後の嵯峨天皇)の力を抑えようとした?
P47 ○→式家 藤原百川 光仁天皇 ×→天武系
 反道鏡で一本化していた藤原氏も称徳死後、皇太子がいなかったため、天武系から選ぶべきと主張する吉備真備らに同調するグループと、百川(式家)中心のグループに分裂。百川は右大臣永手(北家)や、兄良継らと計って光仁擁立、道鏡排斥に成功
P48 ×→他戸親王を廃太子 天武系 ○→百川 桓武系 ※ 井上皇后が夫の光仁天皇を呪詛したとして廃后され、子の他戸親王も廃太子された。百川は山部親王(後の桓武)立太子に動く。桓武は百川の娘旅子を后とし、百川の子緒嗣を重用。
P50 ×→氷上川継(ひかみのかわつぐ)事件 ※ 天武系、大伴家持
P51 ×→藤原種継暗殺 早良親王 ○→桓武天皇
 式家のホープ種継は長岡京造営の責任者となったが、暗殺される。桓武は既に死去していた家持の官位を剥奪。皇太子である弟の早良(さわら)親王を廃太子。子の安殿親王(後の平城天皇)が皇太子に。
P56 ○→平城天皇 内麻呂 北家  ※ 桓武天皇の死後、平城天皇が即位。北家の内麻呂が右大臣に進む。
P57 ×→薬子の変(式家) ○→嵯峨天皇
 種継の娘薬子は、長女が平城天皇の后となり、自らも寵愛を受ける。兄仲成とともに権勢を握る。平城は弟嵯峨天皇に譲位したが、旧都平城京へ遷都の意向を示すが嵯峨天皇に鎮圧される。仲成は戦死、平城上皇は出家、上皇の子高岳親王は廃太子、薬子は自殺。
P60 ×→橘逸勢承和の変) ○→良房
 842年、橘逸勢(たちばなのはやなり)、伴健岑(とものこわみね)らが謀反の疑いで流罪。健岑が東宮坊の帯刀(皇太子警護役)だったため恒貞親王の廃太子に発展。さらに娘を皇太子に嫁がせていた良房の叔父愛発(ちかなり。当時大納言)も失脚。
 良房は叔父に代わって大納言に。また、恒貞親王に代わり、娘の明子(あきらけいこ)が嫁いだ道康親王が立太子。
P61 ○→北家の台頭 ※ 乳児の立太子 850年、道康親王が即位し、文徳天皇に。良房はわずか八ヶ月の惟仁親王(明子の子なので良房の孫。後の清和天皇)を立太子させる。
P62 初→人臣の太政大臣 ※ 良房(北家) 平安時代になって初の従一位。失脚した仲麻呂と道鏡を除けば初の人臣太政大臣。
P62 ○→良房 ※ 清和天皇がわずか9歳で即位。幼帝は必然的に補佐役を必要とする。
P63 ×→伴氏 ※ 応天門の変 866年 ○→良房 ※ 摂政に。
P63 初→北家の摂関独占
P68 ○基経 ×→陽成天皇
 17歳の陽成(ようぜい)天皇を素行不良で廃位。なお、陽成の母藤原高子は僧善祐との密通が露見し55歳で皇太后を廃されている。
P70 初→臣籍降下後の即位 ※ いったん臣籍降下した源定省(みなもとのさだみ)が父光孝天皇の死で復籍・立太子・即位し、宇多天皇になる。
P70 ×→橘広相 ※ 宇多天皇阿衡事件) 宇多天皇が基経に関白を命じ、橘広相に作成させた文書に「阿衡」とあったことに基経側の学者藤原佐世(すけよ。式家)がクレーム。
 初→関白 ※「〜皆太政大臣に関(あずか)り白(もう)して〜」
P77 
×→菅原道真失脚 ※ 901年、醍醐天皇を廃そうとしたとして失脚。なお、本書には「しょせん寒門は権門の真似はできないことを暗示したようなもの」と書いているのが意外。
 その後、道真の怨霊は時平一族や醍醐天皇らに祟ったとされている。
P80 ○→忠平 ×→時平 ※ 忠平は、亡兄時平に道真の怨霊を負わせることで免罪符を得、妻源順子は道真の妹を母とする光孝天皇の皇女で、異母兄の宇多天皇の養女になるなど、妻を介し宇多及び道真と縁続きになっていた。宇多の信任も厚かった。彼がつくった「小倉山峰のもみぢ葉心あらば 今ひとたびのみゆき待たなむ」は、嵯峨に紅葉狩りに出かけた宇多上皇が息子の醍醐天皇にも見せてやりたいともらしたので、天皇の行幸まで待っていてくれと詠んだもの。
P80 初→元服を境として摂政と関白を使い分ける ※ 忠平は朱雀天皇が元服すると関白になった 
P81 初→摂関家を支えた最初の女性 ※ 忠平の妹、穏子は朱雀、村上両天皇の生母で、「藤原摂関家の発展を陰で支えたのは女の力で〜穏子は、それが顕著にあらわれた最初の女性」
P90 ○→村上天皇 ×→藤原氏 ※ 忠平の死去を契機に村上天皇は摂関を置かず、17年間親政した。
P92 ×→元方(南家) ※ 藤原元方は娘祐姫(すけひめ)が広平親王を生んだので望みを託していたが、その後憲平親王が立太子したので怨みをのんで死んだ。怨霊となって祟ったので冷泉天皇憲平親王)が発狂したともいわれる。
P94 ×→源高明安和の変) ○→藤原師尹ら 
 源高明醍醐天皇の子で、村上天皇の異母兄。忠平の子である師輔の娘を妻とし、自分の娘を為平親王の後宮に入れていた。高明が左遷されたのは藤原氏による他氏排斥の集大成。
P98 ○→兼通 ×→兼家 
 師輔の嫡男伊尹の死後、弟兼家の方が兼通より上位にいた。しかし、妹の安子皇后が、円融天皇に遺言として「関白は兄弟の順で」と遺言を残したため、円融は母の遺言に従った。
P100 ×→兼家の失脚 ※ 兼通は重病になったが、弟兼家が、てっきり兄は死んだと思い込み後継者工作に走ったため意趣返しで兼家を左遷してから死んだ。
P101 ○→兼家の復帰 ※ 兼通の譲りで円融天皇の関白になった頼忠は兼家に同情して復位させた。
P104 ×→花山天皇出家 ○→兼家 ※ 摂政に
 兼家は素行不良の花山天皇を出家させ、7歳の懐仁(かねひと)親王即位に際し待望の摂政となった。
P104 初→摂政の専任化 ※ 兼家は摂政となった後、右大臣を辞めた。これは太政大臣藤原頼忠や左大臣源雅信より上位に立って自由に権力を行使できるよう、従来のかたちを破ったものと考えられる。
P111 類似→道長と項羽 ※ 道長は父兼家が藤原公任(きんとう。関白頼忠の子)を褒め、「我が子で、その影すら踏む者がいないのは残念だ」と嘆いた時、「影どころか面を踏んでやる」とうそぶいた。 ←始皇帝に「取って代わってやる」とうそぶいた項羽に類似
P113 類似→道長と劉邦 ※ 道長は22歳で源倫子と結婚。父源雅信(当時左大臣)は反対したが、妻の藤原穆子(ぼくし)が道長の将来性を見込んで推した。 ←貧乏だったが、将来性を見込んだ呂公が娘を嫁がせた。 
P114 ×→伊周・隆家の失脚 ○→道長 ※ ライバルだった伊周・隆家兄弟が女をめぐるいざこざで花山法皇を威嚇のため射ったことを咎め流罪に処した。
P115 初→二后並立 ※ 999年、道長は、一条天皇の中宮であった定子(兄道隆の娘)を皇后とし、自分の12歳の娘彰子を
中宮とする。当時皇后と中宮は同義だったから、「一帝に二后並立」という異常事態だった。
P122 ×→三条天皇 ○→道長 ※ 娍子を皇后にして娘の妍子を三条天皇に押し込む。再び二后状態。外孫の一日も早い即位を望む道長の圧力で三条天皇は針のむしろの日々だった。 ※P7 道長「この世をば我が世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば」「心にもあらでうき世にながらへば 恋しかるべき夜半の月かな」「同じ月を眺めながら、これほどまでに心境の隔たりの大きい歌もあるまい」
P126 ×→顕光 ※ 悪霊の左府
 「この顕光という男〜道長から『至愚の至愚なり』と罵られ、実資には『大臣になるまでは万人に嘲笑され続けだ』と指摘されている。〜彼は、人から何を言われてもすべてを呑み込んで、へらへらと笑っておられる質(たち)であったようだ」
 しかし、内心では屈辱の怨念をたぎらせていたのか、死後道長の娘らに怨霊として取り付き「悪霊の左府」と恐れられたのは、ぞっとする感じ。
P160 ×→外戚関係のない摂関家 ○→後三条天皇 ※「外戚関係のない摂関家など何とも思わぬ」と豪語した。
P164 初→院政 ※ 白河天皇が34歳の働き盛りで上皇となり、8歳の堀河天皇に関白師実をあらためて摂政につけ、みずから幼帝を後見した=院政の開始であり摂関政治の終焉を意味する。 
P165 ○→上皇 ※ 任免権 ×→藤原家 ※ 忠実は娘の泰子を鳥羽天皇に入内させることを渋ったため白河上皇の怒りを買い、罷免された。
P172 ○→後白河上皇 ×→基通 ※ 基通は後白河上皇の男色の相手だった。藤原兼実は日記『玉葉』で基通が後鳥羽天皇の摂政となったのは上皇の御愛物だったから、としている。
P173 ○→将軍 ×→基通 ※ 源頼朝後白河上皇による頼朝追討の院宣に賛同した基通を罷免し、1186年に兼実を後鳥羽天皇の摂政に起用した。
P174 ×→公家  ○→武家 ※ 承久の乱(1221年)は、幕府内部の混乱に乗じ、公家勢力の復権を狙い後鳥羽上皇らが起こした討幕計画であったが、失敗に終った。
P175 初→五摂家の成立 ※ 九条家から一条・二条両家が、近衛家から鷹司家が分家し、五摂家が成立。
P176 摂関制度は創始の良房から数えると藤原氏による独占(例外は秀吉と甥の秀次)が一千年に及ぶ。
   


 
★★★

 


 

 まだまだ書評が大量に積み残し。



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