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2007年8月のひとこと書評(掲示板に書いた文章の転載。評価は★5つが最高)

 8月のひとこと書評の再録です。掲示板そのままでは芸がないので、評点をつけます。★5つが最高。評価基準の詳細は、2001年11月書評のページをご参照ください。




(594) 『九品官人法の研究』(著:宮崎市定。中公文庫)その1

 書名は九品「官人」法の研究なのだが、九品「中正」法の方がなじみがある。しかし、「中正」じゃなく、「官人」だってのが、まずはキモなのである。筆者は、九品「中正」という呼び方がよく使われており、「名称などはどちらでもよいことである」(P108)としながら、「九品官人法とは読んで字の如く、九品によって人物を官に登用する方法であるのに、これを九品中正と呼んだために、従来の研究は、とかく中心が中正の方へ偏りすぎ」ていたとしている。

 では、「九品官人法」はなぜ生まれたか。その理由は、漢魏革命である。
 漢朝は途中で王莽の新に乗っ取られたとはいえ、後漢も通算すれば堂々400年の伝統を誇る。これを乗っ取るのはなかなか大変なことである。
 まず、旧後漢王朝の官僚をどう処するかが大きな課題となる。旧官僚は全部首を切って、曹操崔琰毛玠に人事制度を所掌させて育て上げた有能な官僚群にすげ替えるというのも一つの方法ではあるが、あまりに抵抗が大きすぎる。逆に、旧官僚をすべて地位もそのまま温存するというのでは、過剰人員となるし、魏国時代の官僚群の不平も抑えられない。また、後漢旧官僚には二つの問題点があった。一つ目には、特に後漢末期、官吏登用が甚だ混濁し、質の悪い者が多く混ざっていた点。二つ目は、漢王朝への忠義の心が厚く、魏転覆を図る者もいると予想された点。
 つまり、魏王朝の官吏にするためには、そうした汚濁分子、反魏分子を排除するチェック機能を持たせる必要があった。しかし、それを魏王朝自らが行うのは露骨すぎる。そこで、中国が古来官吏登用の理想としてきた「郷挙里選」(本籍地の輿論、郷評によって登用する)というスキームを借り、各郡に置く「中正」という役職の者に資格審査を委任した。
 すなわち、魏王朝においては官職を九段階に大別する(官品)。そして、官吏を、中正が、その才徳に応じて九段階にランク付けする(郷品)。本書には特に書かれていないが、中正が下す「才徳に応じた」ランク付けが汚濁分子排除、反魏分子排除という重要なチェック機能を持たされていたのだから、漢魏移行時の中正には魏朝側の意向が十分言い含められていたことと思う。
 そして、官吏任命の際には、その郷品によってしかるべき官品に任命する、というのがそもそも、魏国の尚書陳群が献策した九品官人法である。

 こうした周到な措置が功を奏し、漢魏革命はさしたる混乱もなく完結し、九品官人法は当初の目的を達成したが、その後も官吏登用のシステムとして継続した。

 中正が個人の能力を正確に判定してランク付けしたのなら、「才徳に応じ」という当初の建前に適うといえる。しかし、この制度はたちまち貴族的変質を遂げた。つまり、高官の子弟は本人の能力に関わらず高いランク付け(郷品)を得、高い官職(官品)についた。筆者は「勢力者の子弟が特別待遇を受けるということが貴族主義の始まりであり、そういう事実が堆積した所に貴族制が成立する」(P145)としているが、まさにその通りである。
 また、漢代以来の秀才・孝廉制度はどうなったかと言えば、九品官人法に包含された。すなわち試験成績が郷品に換算されたのだが、折角困難な試験に合格しても四品という低いランクの郷品しか与えられず、結局、家柄では高い郷品が得られない下層の士人が低い官職に何とかありつくための制度になってしまった。

 九品官人制は、その後官の清濁、「清官」、「濁官」という概念を生んだ。いわゆる「清流」、「濁流」という概念は漢代からあった。家柄のよい者がたどる堂々たる表向きの出世コースが清流であり、ポストをそうした名士にふさがれてしまった者が富力に物を言わせ賄賂や運動で中央政界に進出しようとする裏口コースが濁流である。
 清官、濁官を筆者は「優秀者のつく官を清官と言い、劣等者のつく官を寒官(濁官)と言う」(P141)としている。同じ官品で六品官とランクされる役職であっても、「秘書郎」には最も優秀な郷品を得た者(二品)が就任し、その後もとんとん拍子で出世していく。一方、「侍御史」という役職には六品の郷品しか得られなかった者が定年間際に任命されるということが固定化すれば、官品の上下のほか、清濁というランク付けが生まれるのである。
 そうすると、段々焦点は、いかに中正から高い郷品を得るかということから、(どの郷品を得られるかは家柄、門閥で固定化しているが、)その郷品でつくことのできる官品の中でいかに出世コースといわれる清官でスタートできるか、吏部尚書に評価してもらえるかという点に移ってくる。
 筆者は「中正は貴族制度の成立には重大な役割を果たしたが、いざ貴族制度が確立してみると、同時に不要な存在と化してしまった」(P211)としているが、何とも皮肉なものである。



★★★☆


(595) 『九品官人法の研究』(著:宮崎市定。中公文庫)その2

 先ほど九品中正制は漢魏革命の際に生まれたとしたが、その後、魏晋革命、東晋建国、劉宋、南斉、梁、陳と変遷する中で貴族的変質はするものの概ね制度としては継続した。これは伝統ある漢朝と違い、その後の王朝はいずれも大した蓄積もなく、革命に際し新たなシステムを構築しなければならない必要性が感じられなかったのであろう。乗っ取る側に周到な準備をするほどの余裕がなかったという側面もあると思う。

 では北朝ではどうだったろうか。「食うか食われるかの五胡争覇戦において、最後に勝ち残ったのが生蕃とも言うべき鮮卑拓跋氏の北魏王朝だった」(P385)。
 北魏は太祖道武帝の頃まで氏族制度を保持していたようだ。そして、氏族制解体後のパターンとして筆者は、官僚制、封建制、貴族制の三つを挙げている。
 いつの世も天子が望むのは、天子の意に沿い実務をこなしていく官僚制だ。
 また、建国に功があった有力氏族は、天子がその地位を世襲させるなら、自分たちも封建諸侯として子孫に受け継がせることができて当然と考え、封建制を望んだ。
 そして征服された漢人は、貴族制を望んだ。封建制は過去のものと考えていたし、実際、自ら割拠できる実力もない。貴族として任官や免役などの特権が認められれば満足する。
 この中で、北朝においても概ね南朝にならったような官制がとられた。自前で官僚が養成できるほど成熟はしていない。しかし、封建制までは逆行しない。また、道武帝は後燕の鮮卑部隊など同属には容赦がなかったが、漢人は懐柔利用する方策をとった。
 その後、北族の漢化、貴族化が進展する。南朝から亡命してきた漢人貴族がもたらす進んだ(?)官制を知ることもそれに拍車をかけた。しかし、こうした傾向が同じ鮮卑族の中で洛陽に遷り貴族的な栄華を貪る層と、北辺に置き去られ悲惨な逆境に沈んだ層との断絶、深刻な対立を生み、それがやがて東方の鄴を都とする高歓の西魏、そしてそれを引き継ぐ北斉と、西方長安を根拠とする宇文泰の西魏、それを引き継ぐ北周の対立につながった。
 ごく大雑把に分類すれば、西魏及び北斉が貴族派、東魏及び北周が素朴派である。人口、資源では北斉は北周に数段上回っていたが、最終的には貴族化が遅れた分、プリミティブな戦闘力を温存し得た北周が勝利した。
 言うまでもなく中国全土を統一した隋は北周ラインである。本書を読んでいると隋の文帝ってすごいなあ、実力もなく「棚ぼた」で天下を得たんじゃないんだなあと思った。
 文帝は皇帝の意思、中央の命令がそのまま地方の末端まで直通する体制をつくるべく、様々な制度を改革した。地方制度では郡を廃止し、州が直接県を管轄することとした。こうなると郡の中正は存在しようがない。
 また、概ね一府一州の二重制度となっていたのを、郡廃止に併せ府も廃止してしまい、さらに州県僚属の上層部はすべて中央からの派遣に改めてしまった。これにより、土着の貴族は州官として地方で権勢を振るう術を失ってしまった。また、文帝が徹底しているのは、かくして土着貴族が州官となる道を断ったが、これで既存勢力を打破しても中央から派遣した地方長官やその僚属が任地に長く住みつき新たな土着勢力となっては元の木阿弥なので、地方官及びその下僚まで任期を限ってしまった点である。
 地方から役職を供給する道を断ったのだから、当然中央から随時官僚予備軍を補給するルートを確保しなければならない。隋代以降に科挙の制が完備充実していったのは、そういう必然性があったのである。

 634ページの大冊であるが、市定節に乗せられて、興味深く読み進めることができた。
 北周及び隋と、秦の比較もおもしろかった。
 「北周の領土なる関中の地は〜言わば文化の著しく立ち遅れた土地であったので、さればこそ蘇綽(そしゃく)〜等の案出に係る時代離れのした周官の制度も曲りなりに施行できた」(P504)とある。
 この周官の制度というのは、いわば苦肉の策である。北周の宇文氏は北魏の、つまりは魏晋南朝の貴族制を否定し、北魏立国の精神に戻ろうとした。漢人社会を否定し全面的鮮卑化を図ろうとするのだが、それでは「漢人として立つ瀬がない」(P497)ので宇文泰の謀臣蘇綽らが、「更に古く夷夏の分離せざる周代の制に復帰しよう」と提案したのである。北魏創成期に漢人崔浩が北魏の天子に仕えながらも何とか漢人社会化しようとしたのに似た苦労が忍ばれる。
 さて文帝は「州県の僚吏は凡て中央から天降り人事で他郷人を差遣し、困難な警察の仕事に当たらせようとした」(P522)。それでは「土地の事情に通じ連絡の広い本地人を長と」し、「州の貴族や豪族も陰に陽に之を支援する〜チームワーク」(P521)とは匹敵しようもなく、「煬帝の高麗征伐の失敗から、地方が疲弊して叛乱が起こりはじめると〜従来ならば容易に捕らえらるべき盗賊も〜その跳梁に任せ、叛乱は慢性的に広まって〜隋は〜この混乱の中に自ら亡び去った」(P522)。
 また、文帝は「士」を尊重しなかった。『礼記 曲礼』に「礼は庶人に下さず、刑は大夫に上さず」とある。漢代の頃、大夫はともかく、「士」レベルであれば杖刑を受けた。『晋書』に「尚書郎以下に対しては吾仮借する所なし」(六品以下なら士でも杖刑を以て臨む)と武帝が発言したとあるので、晋代も同様だったようだ。その後、劉宋や梁のあたりから士、貴族には杖刑が免除されるようになり、さらに「品官は凡て士人であり、礼の適用を受け、面子を保つべきもであるとの原則が定まり、士人を鞭うつことは異例の悪虐行為とされるようになった。士の社会的位置が、ここにおいて決定された」(P553)。

 ところが野性派北周、隋では蛮風が盛んになり、文帝は長官が属官を鞭打つことを認める詔を出した。「これは隋の文帝の思想の、最も貴族制度と相容れない点で、従って隋が天下の貴族の心を失ったのも亦この点〜真正面から貴族と対立した隋は、これだけでも滅亡する危険が十分にあった〜士を待つに礼を以てしなかった一事で代表される隋の政治の後進性と、その急激な改革が隋滅亡の真の原因と見做すべき」(P555)としている。
 そして、「隋が置かれた歴史上の立場は、それより八百年程前の秦の立場と甚だ共通した点が多い。その本拠は何れも関中の地であり、文化の立ち遅れたる地帯であった。文化が遅れているだけにその人民は素朴であり、厳酷な法制を施行して統制を行うことが出来た。この利点が幸いして、秦も隋も天下の統一を行うことができた。然るに天下を一統した後、遅れた社会の法制を以て、進歩したる被征服地の人民を統御しようとした所に秦と隋に共通した失敗の素因があった。関中の地では普通に通用した法律も山東や江南へ適用すると苛法、暴政と非難された」(P80)と分析されており、なるほどなと感じた。

 あと、『世説新語』などに六朝時代の贅沢がよく紹介されているのは何故なんだろうとかねてより思っていたのだが、猟官運動としての奢侈、また、南朝では北方の脅威にさらされ戒厳令下といっても良かったが、そうした中ではかえって一部の特権階級が私欲を欲しいままにする傾向があると指摘されており、これまた、なるほどと感じたのであった。

 あと、最後に一つだけ。上の魏、秦の比較の引用がP555からP80へ戻っているように、本書はやたら著述が重複している。読んでいて頭が混乱してくる。よく言えば、読みながら何度も復習できるとも言えるのだが。
 巻末の名女房役礪波護氏の解説で目からウロコ。「本書の読み方としては<キセル読み>を推奨したい。学術書としての本書の真価が、重厚な第二編の『本論』にあることは論をまたないが、その前後に配された第一編の『緒論 漢より唐へ』と第三編の『余論 再び漢より唐へ』に本論の精粋が見事に取り込まれているから緒論と余論さえ通読すれば、宮崎の最高傑作である本書の醍醐味を満喫できるであろう」とあった。最初にここを読んどけばよかったあ!


★★★☆


(596) 『カモちゃんの今日も煮え煮え』(文:鴨志田穣。絵:西原理恵子。講談社文庫)

 カモちゃんは2007年3月20日に腎臓ガンで永眠した。あとがきで土肥寿郎氏が「本書の親本は、2003年5月に〜上梓した。その頃の前後数年が、まさに鴨志田穣の最も悪い状態の時だった。〜完全なアルコール依存症だった。〜それからしばらくして鴨志田は西原氏と正式に離婚し、酒を飲んでは吐血して入退院を繰り返す。
〜この本の講談社文庫化が決まったのは、鴨志田穣がアルコール依存症の治療中に見つかったがんのために西原氏と復縁して自宅療養中のことだった」とある。

 こう読んでると、このドイちゃんてすごいしっかりしてる人のようなんだが、本書の口絵でいきなりサイバラが「この本は鴨っちの大親友の土肥さんとゆう人が作りました。
 土肥さんは成績優秀な高校三年生の時、実家がとーさん。
 進学をあきらめ上京。たよった兄が春先、分裂。
 それを知ったお母さんがうつ。
 心に傷のある嫁をもらい、たんねんに治してあげ、治ったら捨てられて、
 そこから念の入った、鴨に負けない酒乱になりました。
 現在、北海道で出版社をやっています。
 今にも今にもつぶれそうです。
 このあいだ、お母さんがガンで亡くなって、彼は最後までめんどうみました。
 家に帰るとひきこもったお父さんの世話をする毎日です。
 負けるな、土肥さん。今日も酒乱だ。
 先週、博報堂北海道支局長を酔って道路にバックドロップした事なんか忘れちゃえ」と思いっきり暴露している。

 どいつもこいつも、あまりに哀しすぎる。

★★★☆

 


(597) 『噺家カミサン繁盛記』(著:郡山和世。講談社文庫)

 柳家小三治の奥さんのエッセイ。もっぱら内弟子の批判が続く。巻末の長谷川きよし氏の解説に「懲りずに同じ過ちを繰り返す弟子たち。そこまでやるか、ここまで書くか、というストレートさは実に小気味いい。しかし時にして、読む者の心をひるませてしまうほど、その調子は激しくなる」とある。

 例えば「女弟子騒動」という一節。
「『古典落語そのものが『男芸』として栄えてきたのだから、当然噺の仕組みも男が演じてこそ効果があるようにできている。だから女は無理。あきらめなさい』

『私は女の立場から落語を解釈し、表現してみたいんです。そして八っつぁんや熊さん、御隠居さんとおんなじ長屋に住んでいたんです〜』
〜小三治は初めての女弟子の志願者を前にして、少々とまどいながらも、興味を覚えはじめたようだ。
 何せ、この女の子の口からは小三治のロマン志向をくすぐるセリフがトントンとでてくるのだから。
 いよいよ入門が許可されそうになり、私は焦った。
 年は二十一。背がスラリと高く清潔なかわいらしい顔立ち。
〜『あなたねェ、女の盛りは短いのよ。〜第一、弟子入りしたら〜収入源はまるで無くなっちゃうのよ。アパート代や食費、どうするつもり?』
 矢継ぎ早やにたたみこみ、何とか封じ込めようと必死であった。
 ところが、そんなことで引き下がる相手じゃない。
『お腹がすいて、にんじん一本でも欲しいと思ったら、八百屋の前に土下座して〜代金の代わりに働かせて下さいと頼み込んででも手に入れてみせます!』
 顔を紅潮させて言ったもんだ。
 小三治の鼻がピクピクとうごいた。
 イヤな予感がした。
 長年付き合っているからわかるけど、こんな時の小三治は、とても満足しているのだ。

〜廃業の理由はよくわからなかったが、彼女に好きな人ができたらしい。
 それならその方が彼女のために良いに決まっている。
 でも、もう女弟子はたくさん。
 なんだか、空虚さだけが残ってしまった」

 そこには、妻としての嫉妬が混じっているように思える。 

★★

 


(598) 『毎日かあさん 出戻り編』(作:西原理恵子。毎日新聞社)

 サイバラは海外の取材でカモと出会った。その後、勝手にうちの家に上りこんで出て行けと言っても出て行かないと書いていた。
 で、子供が二人できたけど正式に離婚したのだが、アルコール依存症の治療中、ガンが発見され、復縁した。サイバラは再びカモを家に入れたのだ。

 「家庭」というタイトルの作品。
(1) アルコール依存症はガンと同じ大変な病気で その治療のためには家族の強い協力と専門の医師の力がいるのに
(2) 彼は私をはじめ まわりのすべての人に なまけ者と言われ続け たった一人で10年近く この病気と闘わなければいけませんでした。
(3) 今度こそ家に帰るんだ 今度こそ家に帰るんだ 歯をくいしばる彼に なまけ者のうそつきだと 私は言いつづけました。
(4)でも彼は たった一人で この病気と戦い続け 立派に帰って来ました。
(5) ただいま
(6) おかえり
(7) でもガンも やって来ていました。

「さいごに」
(1) 私達は毎日ふざけた話と
(2) 仕事の話しかしなかった。
(3) どうしていいか わからなかったから。
(4) ちゃんとしゃべったら のどにつまった小石が ぜんぶ出てきそうだったから。
(5) だから病室で さいごの日に 「ありがとう」
(6) 「君にあえて しあわせな人生だった。 もう悔いはないよ。」
(7) 彼は背中をむけて 私に言った。 私は背中をむけて 何にも返事をしなかった。
(8) でも その日は けっこうはやく やって来て
(9) 20年間 ウソ話ばかり作ってきたのに 私は この日のために 自分の子供にするウソを用意していない。
(10) 動かなくなった彼の前で いつまでたっても泣きやまない私に
(11) 子供達が最初にしてくれたことは 「おかあさん おかあさん」
(12) 私を笑わすことだった。
(13) 神さま 私に子供をありがとう。

(12)では、サイバラの子供が泣きながら「あかんべえ」の変な顔をしている。

 最後のコマで、カモの最後の言葉を書いている。

 さいごに 「子供を傷つけずにすんだ。 人として死ねる事がうれしい。」 と言ってた。

 うっかり買って帰った電車の中で読んじまって、人前で涙流して恥ずかしかった。
 今でも読み返すたびに涙が出てしまう。絵がないと伝えるのは難しいけど。何冊かサイバラとカモの本を読んでる人にはたまらんと思う。

★★★★☆

 


(599) 『水滸伝』10巻(著:北方謙三。集英社文庫)

 李逵(りき)と武松(ぶしょう)が彭玘(ほうき)と韓滔(かんとう)のもとを訪ねた。彭玘・韓滔は代州で民兵を養っていた。そして呼延灼(こえんしゃく)将軍と気脈を通じていた。

 ある日、官軍童貫元帥が呼延灼を呼び梁山泊軍を攻めよと命じた。呼延灼は代州軍だけで、一度だけなら必ず勝てると言い切った。

 晁蓋と呼延灼が対峙した。二人がすぐに戦端を開かなかったのは、覚えずして両者とも民の麦の刈入れを待っていたためだった。呼延灼は連環馬という戦術を用い、梁山泊軍は撃破された。武松、李逵、燕青、そして林冲扈三娘の騎馬軍により、晁蓋は辛くも命を拾った。多くの者が命を落とした。

 朱貴も死んだ。宋江は、助けられなかった張青を責めた。

「〜『もうちょっと、ほんのちょっとだけだけ早く着いていれば、朱貴は死なずに済んだ』
 俺が悪いような言われ方ではないか、と張青は思った。〜
『〜おまえの心のありようひとつで、朱貴は死なずに済んだかもしれないのだ』
 あんたは、なにをしている。張青は、そう言いそうになった。梁山泊から出て戦をすることもなく、死んだ人間を抱きしめ、生きている者には、ただ過酷な要求をする。それが、梁山泊の頂点にいる人間の言いようなのか。魯達が敬愛している人間だから、一応、話だけは聞いているのだ」

 この張青の思いは、けっこう後々の影響が大きくなりそうな気がする。

 呼延灼、彭玘、韓滔は梁山泊に帰順した。大砲マニアの凌振も。韓滔は「〜のう」としゃべる。しゃべり方で個人差をつけようとしているのか。年齢も高めの設定なので、まあ「〜のう」というしゃべり方でもいいんだが、どうしても、いま『シグルイ』の「〜喃(のう)」を連想してしまう。

★★★☆

 


(600) 『水滸伝』11巻(著:北方謙三。集英社文庫)

「『晁蓋殿は、女はいかにもって感じだ。宋江殿は、ちょっと遠慮深いかな』
 阮小七が決めつけるように言った。
俺は、宋江殿の方が好色だ、と思っている。晁蓋殿は、済ませればいいという方だろう』
 李俊も、その話題に乗りかけていた」
 李俊。あんた、人を見る目がある。

 杜興は李家荘の執事だった。李応に仕えていたが、梁山泊では李応は解宝を副官に迎え、杜興は史進の副官に配置された。

 杜興は、ある日、座り込んでいる兵に声を掛けた。その兵の友は、呼延灼との戦いで命を落としていた。それ以降、その兵は調練のたびに吐いていた。

「『泣いてやらないからだ』
 杜興は、兵の肩に掌を置いた。
『死んでも泣いてくれる者がひとりもいない。そんなふうに、自分が死ぬのが、おまえはこわいのだ。だから、その男のために泣いてやれ。自分が死んだ時も、誰かが泣いてくれると信じろ』」

 兵は、嗚咽し、およそ半刻(15分)泣き続けた。そして、杜興は兵を部屋に招き、豚肉と饅頭を食わせた。

「『わかるか。これが生きているということだ。〜お前にできるのは、死んだ友のために泣き、そしてその男を忘れない、ということだけだ』
『わかるような気がします』
『もうわかっている。おまえはもう、調練に出て吐くこともなければ、ひとりで思い悩むこともない。戦場の死に心を乱してはならぬが、忘れてもならぬ。特に、一緒にそばで闘った人間の死はな』」

 なんて凄腕のカウンセラーだろう。しかし、杜興自身も悩んでいるのだ。

「『李応殿の副官は、猟師の解宝なのですな』
 猟師という言い方に、妙な響きがあった。この男は、いつまでも自分の執事でいたいのだ、と李応は思った。〜

『大きくなられました、李応殿。梁山泊に加わって、また大きくなられた。
よくわかります、私をもう必要とされていないことが』〜

『私とおまえの間柄が、それで変わるということではないのだ。おまえはいつまでも、私の兄だ』
〜杜興の表情が、ちょっと笑ったように動いた。笑ったのかどうか、李応にはよくわからなかった。〜

『遠くから、私は李応殿を見ています』
『そういう言い方は、しないでくれ、杜興。私はいつも、おまえがそばにいる、と思うことにする』
 言いながら、口から出る言葉がすぐに色褪せていく、と李応は感じた。梁山泊に入ってから、杜興のことを真剣に考えたことが一度でもあったか。杜興は、習性のように、自分のことを考えていたのだろうと、李応は思った

 この辺の会話、完全に、糟糠の妻をうとましく思い始めた男の心境のように思えるのだが。

 晁蓋は平原の街を陥落させた。そこには、青蓮寺の刺客、史文恭が潜んでいた。

 晁蓋は滾る血が抑えられない。戦野でも先陣を駆ける。野営の地で、林冲、史進と火を囲んだ。
「自分も、こういう隊長でいたかった、という思いが晁蓋にはあった。戦友とともに語り、野営では火を囲む。戦については、自分で策を立てるが、なぜ闘わなければならないかなどは、上から言ってくる。
 心の底に志を抱いて、ただ闘えばいいのだ。そうできたら、どれほど楽だろうか。
 宋江と言い争いをしなければならないのも、頭領であるからだ」

 史文恭は少しずつ晁蓋に近づいていった。
「どうしても、嫌いになれなかった。
 いや、はじめから好きだった、と言っていいかもしれない。これほどの好悪の感情に包まれたことが、史文恭にはなかった。〜

 いろいろな人間を見てきた。さまざまな人間になりきって、仕事もしてきた。
 しかし、晁蓋になりきることはできない。〜どうにもならない光を、身体の底から発している。それが照らし出すのは、希望という、史文恭の人生には縁のなかった、不思議な暖かさだった」

 史文恭は、徐々に信用を得、晁蓋の従者のひとりとなった。
「この矢に、史文恭と名を書き入れていた。行動を起こす直前までだ。晁蓋を殺した男の名を残したかった。いままでにないことだが、はじめて史文恭は、そう思った。
 しかし、それもやめた。
 晁蓋は、名もなき者が放った矢に当たり、死ぬべきである。あの希望の暖かさも、笑顔も、発する光も、名もなき者に汚されることで、ほんとうにこの世から消える」

 毒矢は、晁蓋の肩に突き立った。

★★★☆

 


(601) 『鳥葬の国』(著:川喜多二郎。講談社学術文庫)

 この本は、チベット関係の本を集中して読んでいた時、出版社では品切れになっていて手に入らなかった。(もちろんネット検索すれば有っただろうが、きりがないのでよっぽど緊急に必要な本以外、ネットでは買わないようにしている)
 それが、こないだ古本屋でひょいとのぞくと棚で「やあ!」と手を挙げてたんで、こっちも「やあ!」と声をかけて買った。これだから、古本屋通いはやめられない。

 本書の学術的調査結果は別に報告書で詳述されているのだろう。本書は「まえがき」で「いかにして気持ちよく隊員が協力し、いかにして異国の人々とすら気持ちよくつき合うか」にアクセントが置かれ「ずいぶんと思い切って、探検隊の内幕が描かれている」。

 最初の方で、高山という隊員のことが「あまりにも潔癖症で、こまかいことに神経質だ。しょっちゅうブツブツ不平を言ってる」と批判されている。しかし、やがて、シェルパの料理に不平を言うが、一方で日本流の米の炊き方や、ありあわせの材料で工夫して朝晩の献立を考えることをシェルパたちに教え出したとある。
 そして中盤あたりからは「事務局長高山の腕は、ツァルカに着くころから、メキメキとその頭角を現してきた。
〜ルーズな他の隊員たちが、乏しい金や物資を使いすぎて抜きさしならぬことにならないように、いつもひそかに物資の一部を隠匿したりして、いざというときのためにサバを読んでいた。もうなかったはずのお菓子や食糧を、意外なときに特別配給してくれたりした。
 彼に匹敵する事務局長は、ただ西岡アムジーがあるのみだった。〜出発準備を整えていたある日の午後のこと、この二人は雑然たる準備の荷物の中で、こんな会話をやりとりした。
やっぱり、こんな仕事は、大阪の息のかかったやつでないとあかんなあ
『ほんまにそうや』」

 ずいぶん成長したもんである。なお、アムジーとは「医師」という現地語。

 本書は単に、純朴な現地人との善意あふれる感動の交流・・・・といったきれいごとの記録ではない。
 食糧を少しでも高く売りつけようとするし、シェルパは手間賃を途中で上げようとストをする。最初は平気で写真を撮らせていたが、示し合わせて撮影代を要求しようとする。
 しかし、隊員も負けてはいない。逆に、したたかな駆け引きで値切りにかかるし、巧みに村人たちの結束のほころびを見つけ、個別撃破したりもする。
 調査方法も机上の調査などではなく、現地の人の、階級ごとの対抗意識なども利用して本音の実態をつかんだり、注意深い観察で一応、建前として確立されているルールと、実生活上で運用されている「融通」の部分などを見極めたりもしている。
 実に人間くさい探検記録であった。



(602) 『謎の正倉院』(著:邦光史郎。祥伝社文庫)

「日本最古の文献である『古事記』『日本書紀』が、天武王朝を正統づけるために刊行されたものであるということは、いまやほぼ定説となりつつある」。
「二十五歳になる草壁皇子を皇位につけようとしなかった彼女の行動をみると、よほど草壁皇子は病弱か無能力者だったのであろうか」。
「真綿にくるんだ薄手のガラス器を丁重に扱うようにして育てられた人と、自然気ままに野太く育った人との違いというか、似た者夫婦でないところが、かえって光明子聖武帝を慈しむ心を芽生えさせたのかもしれない」。
「飢饉や疫病の発生で、世の中が落ち着かないため〜気分が鬱屈して〜政治的状況も藤原氏に押さえられてなかなか思いどおりに事が運ばない。〜
 気分転換の意味もあって、転々と難波、紫香楽、伊勢へと居所を変えたのであろう」。
「この紫微中台というのは〜光明皇太后が、即位したわが子孝謙女帝を補佐して国政を行う役所、というほうが分かりがよい」。
「〜正倉院には、大刀 一百口(ふり) 弓 一百張 〜といった、すぐ使用できる武器が納められていた。〜
 むろんこれは聖武天皇遺愛の品とはいえない。〜中衛大将仲麻呂が、兵力を行使する必要が生じたなら、すぐさま取り出せるように、正倉院に納入させたのではあるまいか」。
「玄眆もそうした看病禅師のひとりとして宮子に近づいたわけで、二人のあいだには善珠という子供があったと、これは『日本霊異記』が伝える異聞である。
 玄眆は光明皇后との間も噂されており、のちの道鏡と孝謙天皇との関係も、やはり看病禅師として道鏡が女帝の側近くに仕える存在だったからである」。
「『日本霊異記』〜に、道鏡と阿倍内親王(孝謙女帝のこと)と、『同じ枕に交通し、天の下の政(まつり)を相摂りて』としている。その記載が、どうも、両者の肉体関係を明らかにした、最古の文献ということになりそうだ」。
「天平宝宇8年(746)〜正倉院に収蔵されていた大刀十八口〜など百具が、法師安寛の命によって、宮廷へ運ばれた。
 仲麻呂が知謀をめぐらせ、いざという時、自派で使おうと思っていた正倉院内の兵器が、こうして孝謙上皇の側に役立てられた」。
「明治18年〜伊藤博文は、正倉院の宝物を拝観したばかりか〜宝剣をことごとく東京へ持ち帰った。
 彼は、その宝剣のうち、六、七本を私蔵して返却しなかったと噂されている。
 さらに〜正倉院から流出して、民間のコレクターの手に渡った物も少なくない」。

・・・・・・と、抜書きした部分でわかるように、新奇な説はない。しかし、最近見聞きしている話の総まとめという感じで気楽に読み進めていくことができた。

★★★☆

 


 

 まだまだ書評が大量に積み残し。



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